世の中って不思議なものだなぁ [お仕事(講義・講演)]
11月10日(水)
大きな講演会とか、表立った場所からは、もう身を引いて、残り少ない余生は執筆に専念しようと思っていたら、今まででいちばん大きな所から講演依頼が来た。
世の中って不思議なものだなぁ。
大きな講演会とか、表立った場所からは、もう身を引いて、残り少ない余生は執筆に専念しようと思っていたら、今まででいちばん大きな所から講演依頼が来た。
世の中って不思議なものだなぁ。
青森県東方沖の海溝型大地震 [地震・火山・地質]
11月10日(水)
青森県東方沖の海溝型大地震。
周期は86~112年(平均97年)。
前回が1968年で、まだ53年しか経っていないので、大丈夫だとは思うが・・・。
(1)1677年「延宝八戸沖地震」推定M 8.0。
八戸・盛岡で家屋破損、津波、宮古で波高3~5m。
(2)1763年 「宝暦八戸沖地震」推定M 7.4。
八戸で大橋が落下、種市で堤防や橋が破損。
八戸・久慈で津波4~5m。
(3)1856年「安政八戸沖地震」推定M 7.5。
八戸・三戸・五戸・七戸・野辺地・田名部・青森で家屋倒壊。
北海道から三陸海岸に津波、最大波高5~6m。
(4)1968年「十勝沖地震 」M7.9。
最大震度5、死者52人 負傷者330。
津波、三陸沿岸の一部で3 ~5m、襟裳岬で3m。
https://www.jishin.go.jp/regional_seismicity/rs_kaiko/rs_aomorioki_iwateoki/?fbclid=IwAR3ReVHcbEGrBbCtVSqzJAzVviItcUTD1uPXHTiX7E3LhtcRmcN2QNXialw
青森県東方沖の海溝型大地震。
周期は86~112年(平均97年)。
前回が1968年で、まだ53年しか経っていないので、大丈夫だとは思うが・・・。
(1)1677年「延宝八戸沖地震」推定M 8.0。
八戸・盛岡で家屋破損、津波、宮古で波高3~5m。
(2)1763年 「宝暦八戸沖地震」推定M 7.4。
八戸で大橋が落下、種市で堤防や橋が破損。
八戸・久慈で津波4~5m。
(3)1856年「安政八戸沖地震」推定M 7.5。
八戸・三戸・五戸・七戸・野辺地・田名部・青森で家屋倒壊。
北海道から三陸海岸に津波、最大波高5~6m。
(4)1968年「十勝沖地震 」M7.9。
最大震度5、死者52人 負傷者330。
津波、三陸沿岸の一部で3 ~5m、襟裳岬で3m。
https://www.jishin.go.jp/regional_seismicity/rs_kaiko/rs_aomorioki_iwateoki/?fbclid=IwAR3ReVHcbEGrBbCtVSqzJAzVviItcUTD1uPXHTiX7E3LhtcRmcN2QNXialw
『夜よむ(みる)新聞』の謎 [性社会史研究(性風俗雑誌)]
11月10日(水)
1954~55年頃刊行された『夜よむ新聞』という雑誌がある。
B5版62頁の薄手で、内容は性風俗が中心。
問題はこの雑誌の刊行形態。
最初(1冊入手して)、「5月15日号」のように日まで表記しているので月刊ではないことはわかったが、週刊か、旬刊(10日に1度)か、隔週刊か、わからなかった。
その後、収集が進んで、5の日(5日、15日、25日)の刊行が多いことが分かり、旬刊の可能性が高くなった。
ところが、さらに収集が進むと、10の日(10日、20日、30日)の刊行のものが現れた(1点ではなく3点)
こうなると、「五・十日(ごとうび)」(5と10の付く日)、つまり10日に2回の(5日に1度)刊行であった可能性が強くなった。
同時期の類似の事例としては、週2回刊行の『日本観光新聞』がある。
「新聞」と「雑誌」は定期刊行物という点は同じだが、「新聞」は1枚刷り、もしくは折り畳みで綴じていない掲載、「雑誌」は綴じてある冊子体という区別があった。
加えて、「新聞」は刊行間隔が狭く、「雑誌」はそれより刊行間隔が広いという認識もあったと思う。
ここで『夜よむ新聞』が冊子体であるにもかかわらず「新聞」を名乗った意味が見えてきたように思った。
しかし、まだ物資が十分でないこの時代、62頁の雑誌を5日間隔で編集・刊行するなんてことが可能だったろうか?という疑問が生じてくる。
話は変わるが、この『夜よむ新聞』、1955年4月頃、突然、誌名が『夜みる新聞』に変わる。
「みる」は少なくとも2点あるので、誤植ではない。
この誌名変更の事情も不明で、『夜よむ新聞』の謎はまだ解けない。
1954~55年頃刊行された『夜よむ新聞』という雑誌がある。
B5版62頁の薄手で、内容は性風俗が中心。
問題はこの雑誌の刊行形態。
最初(1冊入手して)、「5月15日号」のように日まで表記しているので月刊ではないことはわかったが、週刊か、旬刊(10日に1度)か、隔週刊か、わからなかった。
その後、収集が進んで、5の日(5日、15日、25日)の刊行が多いことが分かり、旬刊の可能性が高くなった。
ところが、さらに収集が進むと、10の日(10日、20日、30日)の刊行のものが現れた(1点ではなく3点)
こうなると、「五・十日(ごとうび)」(5と10の付く日)、つまり10日に2回の(5日に1度)刊行であった可能性が強くなった。
同時期の類似の事例としては、週2回刊行の『日本観光新聞』がある。
「新聞」と「雑誌」は定期刊行物という点は同じだが、「新聞」は1枚刷り、もしくは折り畳みで綴じていない掲載、「雑誌」は綴じてある冊子体という区別があった。
加えて、「新聞」は刊行間隔が狭く、「雑誌」はそれより刊行間隔が広いという認識もあったと思う。
ここで『夜よむ新聞』が冊子体であるにもかかわらず「新聞」を名乗った意味が見えてきたように思った。
しかし、まだ物資が十分でないこの時代、62頁の雑誌を5日間隔で編集・刊行するなんてことが可能だったろうか?という疑問が生じてくる。
話は変わるが、この『夜よむ新聞』、1955年4月頃、突然、誌名が『夜みる新聞』に変わる。
「みる」は少なくとも2点あるので、誤植ではない。
この誌名変更の事情も不明で、『夜よむ新聞』の謎はまだ解けない。
自分の方法で [お仕事(執筆)]
11月10日(水)
20年ちょっと前、40代後半で社会学を勉強し始めて、気づいたことがある。
日本の社会学者(の多くは)、分析した事象に欧米の理論を当てはているだけなのではないか?
事象の分析から理論を構築する気がそもそもないのではないか?
それって学問なのか?
そういう点(欧米の理論を借りてくる)は、私が若い頃に学んだ歴史学(とりわけマルクス史学)にもあったが、社会学のそれは、もっと様式的だった。
で、これは深入りする価値がある学問ではないと思った。
結局、自分が専門的に身につけた資料分析をベースにした実証史学と、若い頃にいろいろ読み学んだ文化人類学と、子どもの頃からの地図好きがこうじた歴史地理学を、適当に混ぜた奇妙な方法論ができあがった(笑)
「そんなのは学問ではない」と言われれば反論しない。
たしかに既存の学問領域にはそんなものはないから。
でも、どんな奇妙な方法論でも、真実に近づければ、それでいいと思っている。
私の時代、トランスジェンダーには「学界」の席はなかった(現在は違う)。
だから、学界におけるポストは、最初からあきらめるしかなかった。
その結果、ポストを得ることを気にすることなく、自由に研究できたことは、(当時は辛いことが多々あったが)、今では良かったと思っている。
まあ、それ(自由な研究)ができたのは、収入が乏しい私の生活を経済的に支えてくれた人(家猫さん)がいたからなのだけど。
20年ちょっと前、40代後半で社会学を勉強し始めて、気づいたことがある。
日本の社会学者(の多くは)、分析した事象に欧米の理論を当てはているだけなのではないか?
事象の分析から理論を構築する気がそもそもないのではないか?
それって学問なのか?
そういう点(欧米の理論を借りてくる)は、私が若い頃に学んだ歴史学(とりわけマルクス史学)にもあったが、社会学のそれは、もっと様式的だった。
で、これは深入りする価値がある学問ではないと思った。
結局、自分が専門的に身につけた資料分析をベースにした実証史学と、若い頃にいろいろ読み学んだ文化人類学と、子どもの頃からの地図好きがこうじた歴史地理学を、適当に混ぜた奇妙な方法論ができあがった(笑)
「そんなのは学問ではない」と言われれば反論しない。
たしかに既存の学問領域にはそんなものはないから。
でも、どんな奇妙な方法論でも、真実に近づければ、それでいいと思っている。
私の時代、トランスジェンダーには「学界」の席はなかった(現在は違う)。
だから、学界におけるポストは、最初からあきらめるしかなかった。
その結果、ポストを得ることを気にすることなく、自由に研究できたことは、(当時は辛いことが多々あったが)、今では良かったと思っている。
まあ、それ(自由な研究)ができたのは、収入が乏しい私の生活を経済的に支えてくれた人(家猫さん)がいたからなのだけど。