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20世紀末(1980~90年代)の商業女装クラブ(その6) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月16日(木)

1992年8月16日、商業女装クラブ「エリザベス会館」(江東区亀戸)のサマー・パーティー&全日本女装写真コンテスト表彰式に向かう途中。
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背景の交通量が多い道路は国道14号線。

前年(1991年)の秋、「エリザベス会館」は神田岩本町から、江東区亀戸に移転した。
この年のサマー・パーティは徒歩10分足らずのキャバレーを借りて行われた。

私が着ているのは、お金持ちの先輩の「お下がり」の、インポート物のレザードレス。

今にしてみると、真っ昼間の往来をこんな露出度の高いドレスでよく歩けたものだと思うが、周囲にもっと露出度の高い人や、ウェディングドレスの人が何人もいるので、さほど目立たない。

地元の人たちは、ど派手な仮装行列を眺めるような感じで、意外と好意的に見ている。







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20世紀末(1980~90年代)の商業女装クラブ(その5) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月16日(木)

1980~1990年代、アマチュア女装交際誌『くいーん』の主催で「全日本女装写真コンテスト」が行われていた。

1992年8月の「第9回全日本女装写真コンテスト」の表彰式の写真。
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大賞(グランプリ)は村田髙美さん。
左から2人目は、私と同期(花の90年組)の岡野香菜さん。

私は最多得票特別賞と撮影技術賞。
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私を「エリザベス会館」に誘った村田高美さんとの同時受賞で、うれしかった。
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20世紀末(1980~90年代)の商業女装クラブ(その4) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月16日(木)

1980~1990年代、アマチュア女装交際誌『くいーん』の主催で「全日本女装写真コンテスト」が行われていた。

1984(昭和59)年が第1回で、唯一の全国規模の女装者のミスコンとして大きな支持を得て、最盛期には200人以上の参加者が集まり、毎年、熱く華麗な「女の闘い」を誌上でくりひろげた。

6月発行の号にエントリー写真が掲載され、購入者1誌1票で投票が行われる。
それが集計され、8月中旬に行われる商業女装クラブ「エリザベス会館」のサマー・パーティーで表彰式が行われた。

1991年8月の「第8回全日本女装写真コンテスト」の表彰式。
会場は、神田岩本町時代の「エリザベス会館」。
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大賞(グランプリ)は河合江里さん。
写真で分かるように小柄(女の子サイズ)のかわいい「娘」だった。

私は準大賞。
私に受賞インタビューをしているのは、コンテスト主催誌『くいーん』の石川みどり編集長(女性)。

初来館からわずか1年⒉ヵ月での準グランプリ。
10年通っても賞に縁がない先輩たちに疎まれるのも、今にしてみると、無理もない。

でも、当時の私は、世間知らずで、そのあたりの嫉妬の感情に気づかなかった。


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平賀源内の恋人(二世)瀬川菊之丞 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月15日(木)

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で、男色家・平賀源内の恋人として紹介された(二世)瀬川菊之丞(1741~73年、中央)。
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絶大な人気を誇った歌舞伎女形で、明和(1764~72年)の江戸三美人。
左は柳屋お藤、右は笠森お仙。

この「江戸三美人図」の作者・鈴木春信は、肉筆画は比較的少ないが、瀬川菊之丞は肉筆で描いている。
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(太田美術館所蔵)
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20世紀末(1980~90年代)の商業女装クラブ(その3) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月14日(火)

また、思い出したので記録。
東京の商業女装クラブ「エリザベス会館」では、冬にコンテストがある。
11月にヤング、ヤングアダルト、アダルトの3部門に分けて候補写真が貼り出される。
投票は、女装会員と、下のショップにくる客で、1人1票。

12月中旬に集計して、各部門2名、計6名が大賞候補に飲みね0とされる。
で、12月20日前後のクリスマスパーティで、大賞と準大賞が決まる。
これは、社長以下スタッフの意向が大きい。

たしか1992年だったと思う。
長年在籍している大ベテランの方が、アダルト部門にノミネートされた。
ご本人は「今年こそ大賞を!」という意気込みだったのだろう。
ところが、結果は準大賞。

その方、授賞式の舞台を下りるなり、「こんなに貢献してるのに!」と叫びながら、準大賞の賞状を破り捨てた。
すぐ近くにいた私(ノミネート賞)は、その執念に驚くというか、ドン引きだった。

「エリザベス会館」に10年通って、たくさんお金を使っていても、1度もノミネートされず、毎年「クリスマスイブ賞」か「クリスマス賞」(努力賞・参加賞に相当、どちらがどっちか忘れた)に終わる人もいる。

コンテストというものは、華やかだけど、けっこう残酷なものだということを、知ることができた。
この方、一昨年、亡くなられた(ので書ける)。
このエピソートのように、気性に激しいところはあったが、私にはやさしい先輩だった。
あらためて、ご冥福を祈る(合掌)



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20世紀末(1980~90年代)の商業女装クラブ(その2) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月14日(火)

いろいろ思い出したので、記録しておく。

1990年代前半の東京の商業女装クラブ「エリザベス会館」の入場料は、1回5000円だった。
回数券だと5回20000円で少し安くなる。

それが基本料金で、一般的な女装衣装とウィッグのレンタル料、専属メイキャパーによる化粧料、「談話室」の使用料が含まれる。
下着とストッキングは別途購入(市場価格より高い)。

ドレスや着物を着たい人は別料金で、ウェディングドレスが15000円、振袖は着付け料込みで2万円前後だったと思う。

イベントに参加すると、その都度、追加料金が必要。
たとえば、春のお花見(上野公園)だと+6000円。
夏・冬の大きなパーティーだと+8000~10000円。
ともかく、お金が掛かる。

来館カードがあって、来館回数を競わせる。
トップクラスは、年間120回くらい。
回数券を使って48万円。
来館トップになると、賞品は回数券1冊(2万円)だったと思う。

上客の常連さんだと、来館料に特別衣装のレンタルやイベント参加で、年間100万円は使っていたと思う。
まさに「女装道楽」。

そういう世界で、貧しい研究者(私)が評価を得るには、年間2回あるコンテストで賞をとるしかなかった。

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20世紀末(1980~90年代)の商業女装クラブ(その1) [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

1月14日(火)

20世紀末(1980~90年代)の商業女装クラブで、優遇されたのは、

① お金をたくさん使ってくれる人。
② 店の広報・宣伝に使える美人。
③ 撮影、電気機器の配線など技術がある人。

①は、営利施設だから当然。

②は、ただで使える「看板娘」。
メディアの取材があるとかり出される。
「ルッキズム」なんて言葉はない時代だから、美人優遇は露骨だった。
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↑ 1992~93年頃の「エリザベス会館」の「看板娘」。
  右は村田高美さん。

③も同様で、外部の業者に頼むとお金がかかるので。

加えて、大阪の某女装クラブの場合、全国規模の女装コンテストで、東京の「エリザベス会館」に対抗する(勝つ)という目標があったので、より②が意識されたと思う。

新宿の会員制女装スナックの場合、会員さんは準スタッフ的な要素があるので、やはり一定の容姿水準が求められた。

女装会員希望者に、ママが「あなたは、きれいになれないから(女装するのは)止めておいた方がいいわよ。男性で通った方が楽しいでしょ」と諭すのを脇で聞いていて、「惨いな」と思った記憶がある。

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私のドラァグクイーン認識 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

9月22日(日)

私は最初に会ったドラァグクイーン(DQ)がマーガレットさん(1996年)で、以後もいろいろ教えてもらってきたので、DQについての認識はマー様の影響が強いのは自覚しているが、その上で。

DQの本領は、風刺(caricature)に富んだファッションと毒のある言葉だと思っている。

だから、あたり触りのない容姿で、毒が抜けたことしかしゃべらないDQは、私的にはDQではなく、普通に女装のタレントさんだと思っている。

昼間の公の場で、より広いお客さんに接するには、毒を抜かなければならない営業的な事情は解るが、それはDQの本筋ではないということ。

逆に言えば、毒が本領のDQは、表舞台に出る存在ではない。
それを表舞台に引っ張り出せば、現代のポリコレ的にトラブルになる(なった)。

DQのプライドは、金の王冠ではなく、紙の王冠である、というマー様の言葉、あらためて噛みしめたい。
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歴史を叙述するということ [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

9月21日(土)

今日の代官山「アマランスラウンジ」のイベントの感想。

歴史を叙述するには責任がともなう。
また、当事者性に留意することも大切だ。

当事者でない人があるカテゴリーの歴史を叙述する場合、当事者への丁寧な取材が必要で、それは当事者への敬意につながる。

そのあたりのこと、マー様が冒頭でガツンと言ったのがとても良かった。
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日本のドラァグクイーンの歴史を叙述するなら、まず同時代の生き証人(マー様たち)に丁寧にインタビュー調査をすることから始めるべきで、それをベースに文献や映像資料で裏打ちしていくのが、文献が乏しい分野の研究の常道。

自分の思い込みで「歴史」を作って、それを当事者であるマー様にぶつける(「ちゃちゃを」入れさせる≒検証させる)のは、手順がまったく逆だし、当事者に対する敬意と礼を失することだと思う。

大学(文学部の歴史学専攻)の卒論ゼミだったら、こういう批評になるが、昨日の演者は歴史研究の基礎訓練を受けていない人なので、言ってもしょうがないから、言わなかった。
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1950年代の「転性手術」 [性社会史研究(性別越境・同性愛)]

8月23日(金)

1950年代の日本で「性転換手術」が行われていたことを疑う人たちがいる。

まず、手術の難易度を検討してみよう。

睾丸摘出手術は、局所麻酔でもできる比較的簡単な手術。

陰茎切除(実際は陰茎解体)&造膣手術は、全身麻酔のそれなりの大きな手術だが、独自の技術ではない。

女性でも、母親の胎内での性分化のトラブルで、膣がない人や極端に狭い人がいる。
そうした女性のための膣形成手術は戦前から行われていた。
男性から女性への「転性手術」の際の「造膣」は、その技術転用にすぎない。

つまり、技術的には十分に可能。

「転性手術」第1号の永井明→明子さんの造膣手術の執刀が産婦人科の医師(石川正臣日本医科大学教授)だったのは、そういう(膣欠損の女性の修復手術の技術転用)事情。

ちなみに、永井さんが受けた術式は、執刀医による詳細な解説があり、人工膣の内張は陰嚢の皮膚を利用した。

1950年代の日本の「転性手術」の技術レベルは高く、1951年2月の永井さんの手術は、1951年5月のイギリス空軍中尉Robert Marshall Cowell(女性名:Roberta Elizabeth Marshall Cowell)の手術より早く、戦後世界で最も早かったと思われる。

永井明子(左)とロベルタ・コーウェル
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