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新宿・旭町ドヤ街の写真 [性社会史研究(一般)]

7月12日(金)
「新宿『千鳥街』を探して」(http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2013-05-05-1)で決め手になった写真を掲載していた池田信『1960年代の東京―路面電車が走る水の都―』(毎日新聞社 2008年3月)に、こんな写真が載っている。
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キャプションには「木賃宿が並ぶ旧旭町旅館街」とあり、撮影は1962年7月。
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(拡大)
路地の右側に中央に「旅館福助(ふくすけ)」の看板が見える。
その手前の「ベッドハウス」の看板には小さい文字だが「大和田旅館支店」と読める。
さらに「旅館福助」の先には「第一相模屋」「第五相模屋」「よしふく」の看板が見える。
路地の右側には「ケンシ バーバーチェーン アサヒ」という理髪店があり、その数軒先には繁った木立が路地にはみ出している。

Face Bookで「友達」になっている作家の館淳一さんのブログ「狷介老人独言独歩録—残日編」の「新宿駅南口旅館街(2)」で、この場所がどこか?ということが話題になっていた。
http://kenkai-oldman.txt-nifty.com/the_quiet_days/2009/11/post-e07b.html

そこで、早速、ほぼ同時代の住宅地図を調べてみた。
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↑ 『新宿区 1963年度版』 (住宅協会地図 1963年11月)
「福助旅館」は、すぐに見つかった。
現在の地図と対照すると、その敷地は「雷電稲荷」の参道脇の駐車場になっている部分に相当する。
P1030898 (2).JPG
↑ 2013年7月22日撮影
その北側には「大和田旅館支店」も確認できる。
現在は拡張された道路の路面になってしまった。
路地の奥(南)には「第一相模屋」「第五相模屋」「よしふく」も確認できる。
また路地の右側(西側)には「バーバー アサヒ?」(店名は不鮮明)」という注記も読み取れる。
また繁った木立は天龍寺さんの墓地の木のようだ。
つまり、写真は、天龍寺の東側の路地を北から南に撮ったものであることがわかる。
撮影地点は路地の入口で中には入っていない。
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ということで、簡単に解決してしまったが、ついでに旧・旭町ドヤ街について簡単に解説しておこう。

JR新宿駅の東南口(ルミネ口)を出てエスカレーターで広場に降りて甲州街道の陸橋を潜ると、そこが新宿4丁目、つまり旧・旭町、さらに以前は南町と呼ばれていた街だ。
ここは江戸時代には、徳川二代将軍秀忠の生母(西郷局)の菩提寺である護本山天龍寺の門前町(寺社地)で、甲州街道とほぼ並行する玉川上水が流れる街だった。
現在、甲州街道の陸橋の南側に沿うJRAの馬券売場前の道は、玉川上水に蓋をした道路で、「堀端通り」と呼ばれている。

天龍寺の門前町だった新宿南町は、明治20年(1887)の「宿屋営業取締規則」で木賃宿営業許可地域に指定される。
これは、東京中心部に近い所にあった「目障りな」細民街(芝新網町、上野万年町、下谷山伏町、四谷鮫ヶ橋など)を、より都市縁辺部に追い立てようとした明治政府の政策で、これがきっかけになり、南町は急速に貧民窟(スラム)化していく。

木賃宿(きちんやど)とは、自炊、宿泊客が米などの食材を持ち込み、薪代相当の金銭(木賃)を払って料理してもらうのが原則の最下層の旅籠だったが、明治以後は、単に安価で粗末な安宿を意味するようになる。
近代化の中で東京や大阪などの大都市に流入したものの、定まった家を持てない貧困層の人々は、日々の泊り賃を払って木賃宿の狭い一室に長期滞在することになる。
こうして木賃宿を核に、低賃金工場労働者、日雇い労働者・廃品回収業者(古物商・屑拾い)、遊芸人、失業者、無職困窮者(病者・身体障害者)、密淫売の街娼や女装の男娼、そして彼らの家族などが集積するという形で、スラム街が形成されていった。

池田信さんの写真キャプションでも触れているように、林芙美子の『新版 放浪記』(昭和21年=1946)には、大正12年(1923)頃、同棲相手に捨てられた20歳の芙美子が旭町の木賃宿に泊ったことが記されている。
「夜。新宿の旭町(あさひまち)の木賃宿へ泊った。石崖(いしがけ)の下の雪どけで、道が餡(あん)このようにこねこねしている通りの旅人宿に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。」

「まるで明治時代にだってありはしないような部屋」の宿代は一泊30銭でだった。
当時の物価は、山手線の初乗りが5銭、ざるそばが8銭、うな重が50銭だったから、30銭は1500円見当だろうか。相当な安宿だ。

その晩、芙美子は、「臨検」(警察による臨時の抜き打ち検査)に出会う。
「夜中になっても人が何時までもそうぞうしく出はいりをしている。『済みませんが……』そういって、ガタガタの障子をあけて、不意に銀杏返(いちょうがえ)しに結った女が、乱暴に私の薄い蒲団にもぐり込んで来た。すぐそのあとから、大きい足音がすると、帽子もかぶらない薄汚れた男が、細めに障子をあけて声をかけた。『オイ! お前、おきろ!』やがて、女が一言二言何かつぶやきながら、廊下へ出て行くと、パチンと頬を殴る音が続けざまに聞えていたが、やがてまた外は無気味な、汚水のような寞々(ばくばく)とした静かさになった。女の乱して行った部屋の空気が、仲々しずまらない。『今まで何をしていたのだ! 原籍は、どこへ行く、年は、両親は……』薄汚れた男が、また私の部屋へ這入って来て、鉛筆を嘗(な)めながら、私の枕元に立っているのだ。『お前はあの女と知合いか?』『いいえ、不意にはいって来たんですよ。』」

密淫売の取締りのため宿に立ち入ってきた刑事に危うく娼婦と間違われそうになるのだが、ようするに、そういう場所だったということ。
そして、昭和5年(1930)、「明治通り」(環状5号線)の開通によって、街は真っ二つに引き裂かれる。

戦後の混乱期には、旭町を寝ぐらとする街娼たちが、新宿御苑沿いの道にズラリと立ち並んでいた。
昭和22年(1947 )には、旭町から新宿4丁目へ町名変更が行われた。
高度経済成長期になっても、旭町は、山谷と並ぶ東京のドヤ街(ドヤは宿の転倒語)として知られていた。
私が新宿の街を歩き始めた1990年代初め頃でも、冬の夜には労務者のオジさんがドラム缶たき火をしていたり、甲州街道のガード下にはあやしいお姐さんが立っていたり、とても「女の子」が入り込める状況ではなかった。

1991年の「東京区分地図」(昭文社)を見ると、天竜寺の墓地の東側から南側の路地には、「芙蓉」「新宿ビジネスホテル」「新宿荘」「第五相模屋」「ま志ふく」「さがみ」「やまと」「花嶋館」「中田家」「すえひろ」「イマイ」「銀水」「光村」など小さな旅館が軒を並べている。
この内「第五相模屋」は昭和10年頃に作成された地図にも屋号が見え、木賃宿に起源を持っている。

現在の新宿4丁目は、西半分が新宿駅新南口の再開発で見違えるようにきれいになり、ドヤ街だった面影はほとんどない。
しかし、東半分には、かってのドヤが姿を変えたビジネスホテルやウィークリー・マンションがいくつか残っている。
先に名前を挙げた「旅館」の内、「新宿ビジネスホテル」「さがみ」「中田家」「すえひろ」はなお健在だ。

旧旭町ドヤ街1(2009年7月) (2).jpg
↑ 池田信の1962年の写真と同じ路地(2009年7月撮影)。
方向は同じだが、かなり奥に入った地点から撮影。
右側が旧ドヤ街、左側が天龍寺の墓地。
遠景には代々木のドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)がそびえ、ちょっと、シュールな取り合わせ。
47年の歳月が街を激変させたことがよくわかる。
旧旭町ドヤ街2(2009年7月) (2).jpg
↑ わずかに残るドヤ街の名残り「中田家」。
1階は普通の高さだが、2階に相当する部分の窓を見ると、2層になっているのがわかる。
玄関の料金表は「1泊 1800円 個室2200円」。
旧旭町ドヤ街3(2010年4月).JPG
↑ 天龍寺の南側の路地にある、いかにも木賃宿っぽい名前の「相模屋」はユースホテルになった。
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↑ 1963年の地図には「旅館相模屋支店」と記されている。

現在、この路地はほとんど人通りがない。
寂れているというより、忘れられているに近い。
それに比べると、1962年の写真のドヤ街時代は、貧しくてもそれなりに人の動きが感じられる。
果たして、どちらが街らしいのだろう?と考えてしまった。

【追記(2013年7月22日)】
池田信氏の1962年7月撮影の写真とできるだけ同じ視点で旅館街の路地を撮影してみた。
SCN_0035 (3).jpgP1030896 (3).JPG
池田氏の撮影地点は1991年に開通した国道20号線新宿御苑トンネルに接続するため道路が拡張された際に、路地の入口2軒分ほどが削られているので、現在は路面になっている。
そこで、道路に中央分離帯に立って撮影してみた。
もう少し右側から撮るべきだったかな。
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rika

過日の投稿に失礼致します。
この「バーバーアサヒ」は私の生家です。道路拡張で立退きを余儀無くされた1987年まで、私自身もこの家で育ちました。現在は道路になってしまいましたが(Forever21前の横断歩道の真ん中あたりですね)、この場所は懐かしくて今もよく訪れています。取り上げてくださって有難う御座いました。
by rika (2016-01-11 01:25) 

三橋順子

rika さん、いらっしゃいま~せ。

驚きました。うれしいです。
立ち退きの時期がはっきりしました。
それと、道路拡幅がずいぶん大きかったこともわかりました。
こちらこそ、ありがとうございました。
by 三橋順子 (2016-01-15 00:33) 

rika

お返事が遅くなりました。
大きな道路拡張で、本当にざっくりと削られてしまったんです。
このお写真は本当に貴重で、残してくださった方にお礼申し上げたい気持ちです。
旭町(現•新宿4丁目)は、今や典型的な都市型過疎地となり、残った年寄りばかりがひっそり暮らす町です。でも再開発はして欲しくないですね。
またブログも読ませて頂きます。
ありがとうございました。
by rika (2016-01-28 00:16) 

ノスタル爺

大学時代にレコード代を稼ぐのに1970年末期頃この辺りに宿泊し
高田馬場公園から日雇いに行った思い出が有ります。
社会人になっても2000年頃に新宿ビジネスに泊まって宿泊代をうかせてました。
コインを入れるTVに細工し
無料で見てたなー
先週、懐かしくてJRAに行ったついでうろついてしまいました。
by ノスタル爺 (2017-11-27 21:07) 

三橋順子

ノスタル爺さん、いらっしゃいま~せ。

思い出の縁(よすが)にしていただけたら、うれしいです。

コインテレビ、今からすると簡易(稚拙)な仕組みでしたね。
by 三橋順子 (2017-12-02 13:22) 

金順愛

ありがとうございます。1955年前後、父が、旭町の和田組に出入りしていた頃の日記を整理しています。本日、現地を訪ね、旅館の人にも会ってみましたが、当時の話は聞けませんでした。
by 金順愛 (2022-05-29 14:12) 

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