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「キヌブログ!」に館山市「中村屋」のことが [日常(思い出)]

11月20日(水)

新宿5丁目のバー「LE QUINE GUINE」の店主シンスケさんのブログ「キヌブログ!」に、千葉県館山市の「中村屋」のことが詳しく記されている。
http://lequineguine.jugem.jp/?eid=1263

私は、北関東の山間盆地(埼玉県秩父市)に生まれ育ったが、幼稚園(年長)から小学5年生まで6~11歳の6年間(1961~66年、昭和36~41年)、毎夏3週間くらい、親戚の別荘を借りて千葉県館山市に滞在した。

「中村屋」は昭和30年代の館山で唯一の都会的な店で、夏の間、母や祖母に連れられて、よく訪れた思い出の場所。

(参照)「続々・たそがれ日記」2017年8月30日(水)
館山・センチメンタルジャーニー(その1:南房総・館山へ)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31
館山・センチメンタルジャーニー(その2:遠い夏の思い出を探して)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31-1
館山・センチメンタルジャーニー(その3:海と「中村屋」)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31-2

館山の「中村屋」が新宿の「中村屋」直系(夏季分店)だったとは、知らなかった。
(だって、子供のだったから)
シンスケさん、思い出を蘇らせてくれて、ありがとう!
「千鳥街」といい「中村屋」といい、どうして波長が合うのだろう?
前世、兄弟でした?

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「元AV『女優』」という肩書 [日常(思い出)]

10月24日(木)

今から20年前の話。
当時、お手伝いホステスをしていた新宿歌舞伎町「ジュネ」の客に、フェチ系(足首とか鎖骨とか)のアダルトビデオを制作・販売して景気が良い社長さんがいた。

で、私をモデルに「着物熟女ニューハーフ」ビデオを撮りたい、「ギャラの希望は?」と言ってきた。
「ギャラはなしでいいから、撮影場所は椿山荘でお願いします」と返事した。

翌週、また社長が来て「順子さん、勘弁して。調べたら(椿山荘の部屋とお庭の撮影レンタル料が)予定のギャラの2倍だった」ということで、お流れに。

あの時、わがまま言わなかったら、私も今頃「元AV『女優』」という肩書を名乗れたんだなぁ。
ちょっと後悔・・・。

最近、Twitterで「元AV女優」という肩書を見かけるので、そんなことがあったことを思い出した。

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↑ 1997年5月「椿山荘」で。

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ラグビーと私 [日常(思い出)]

9月28日(土)

私が高校に通った、埼玉県熊谷市は、ラグビーが盛んな街。
今回のW杯でも熊谷ラグビー場で試合が行われる。

その基を築いたのは、熊谷高校の5年先輩・宿沢広朗(しゅくざわ ひろあき、1950~ 2006年)さん。
160cmの小柄ながら、早稲田大学の黄金期(日本選手権2連覇達成)の、そして日本の代表のスクラムハーフとして活躍した名選手。

1989年には日本代表監督となり、5月28日、秩父宮ラグビー場でIRB所属のスコットランドに、28-24で勝利した。
第2回W杯(イギリス)ではジンバブエに52-8で勝ち、日本のW杯での最初の勝利となった。

2006年6月17日、登山中に心筋梗塞を発症、55歳の若さで急逝。

宿沢さんが生きていたら、今日のアイルランド戦をどう解説してくれただろう?

ということで、熊谷高校では冬場の体育ではラグビーをやった。
ちゃんと、校庭にラグビーゴールがあった。
クラス対抗試合もあり、私のポジションはバックスだった。
走るのは速いとはいえなかったが、足腰が強かったので、タックルされても倒れず、2人くらい引きずって、前に進み、味方にパスをすることができた。
あと、もともとサッカーをやっていたので、パントキックは得意だった。

だから、にわかラグビー・ファンじゃないのだよ。

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「夏休みの一研究」 [日常(思い出)]

9月2日(月)

時節柄、Twitterで「夏休みの自由研究」について批判的見解を述べている人がいた。
https://twitter.com/kaneda_junko/status/1168152413196341248

私は、山間盆地(埼玉県秩父市)に生まれ育ったが、幼稚園(年長)から小学5年生までの6年間、毎夏3週間くらい、親戚の別荘(母方の会津藩士の相役で、明治以後、経済界で成功した一族)を借りて千葉県館山市に滞在した。

海辺育ちの両親(とくに母親)が、避暑と海を知らない子ども(私と妹)に海を見せて泳ぎを教えるためだったと思う。
夏休みに3週間も、家を離れていたわけで、当然「夏休みの一研究」は滞在先の海辺の家ですることになる。

覚い出すままに記すと、
1年生 浜で拾った海藻の標本  ★
2年生 埼玉県と千葉県の地形の違い
3年生 魚屋さんの研究  ★
4年生 海浜植物の標本 ★
5年生 海風と陸風の観測
6年生 秩父盆地の地質と不整合 ★

星印は秩父郡市の「夏休み一研究」で金賞(優秀賞)

私にとって「夏休みの一研究」(←1960年代はそう言った)は、
世の中のいろいろな現象に気づくこと
  ↓
「なぜだろう」と不思議に思うこと
  ↓
それを調べてみること
  ↓
考えてまとめること
を教えてもらったという点で、今の「研究者」としての原点になったと思っている。

山育ちの少年が海辺の町で、見たり気づいたりした「不思議」を「夏休みの一研究」という形に誘導してくれた母親(6年生の時は、海に行かなくなったので父親)がいたからこそのなのだが。

「課題になってる(読書)感想文と自由研究は、やりたい人だけやる、でいいと思う」には基本的に賛成だが、やった(提出した)子はちゃんと評価すべきだと思う。

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歌上手が揃った店で [日常(思い出)]

4月3日(水)

今、思い出すと、あの頃(1990年代半ば~後半)の「ジュネ」(新宿歌舞伎町の女装スナック)は歌上手が揃っていた。

「歌姫」中山麻衣子さん(金曜日チーフ)だけでなく、チーママの麻生未央さん、火曜日担当だった莉佳子さん、月曜日担当のニーナさん、後に「MISTY」(歌舞伎町のニューハーフ・パブ)のオーナー&ママになるエルさん、みんなセミプロ並みに上手だった。

薫ママの聖飢魔Ⅱ「蠟人形の館」は大迫力で、ほんとうに怖いくらいだった。

スタッフが歌上手だと、お客さんも歌好き・歌上手の人が集まる。
そんな中で、歌うのはたいへんだったけど、周囲のレベルが高かったからこそ、本気で頑張れたのだと思う。

歌好きのお客さんに続けてつくと、「あれ唄え」「これ唄ってくれ」で、一晩に20~25曲くらい歌うことになる。
同じ夜に同じ歌は唄わないので、必然的にレパートリーを広げないと、やっていけない。
だから、レパートリーは100曲以上(9割は女性歌手の歌)あった。

中でも、麻衣子さんと私のデュエット、ザ・ピーナツ「恋のバカンス」は、なかなかのものだったと思う(自賛)。

あと、閉店時(明け方4~5時)に唄うラストソング、越路吹雪「ラストダンスは私に」は、私の十八番(おはこ)になった。

「ジュネ」が閉店(2003年)して、唄わなくなって、もう16年。
歌唱力は大幅に落ちた。
とくに高音が出ない。
カラオケに行って歌い込めば、ある程度は戻るだろうけど、喉を使いすぎると仕事(講義・講演)に差しさわりがあるので控えている。
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暑い思い出 [日常(思い出)]

7月18日(水)

今から、45年前のこと、埼玉県熊谷市では、気温が36度以上になると、市の広報車が巡回してきて、
「気温が体温を超えました。屋外で運動している人は、今すぐ運動を止めて、屋内に入ってください」
と通知する。

すると、グラウンドで運動していた男子高校生は、「だってよ」と言いながら、頭から水を被り、塩を嘗めて、水を口に含み、
「はい、トラック(1周300m)3周」
と運動を続けていた。

どうして平気だったのだろう?
身体の造りが、原始的だったのだろうか?

身体が火だるまみたいになって、練習を終えると、プールに飛び込んでクールダウン。
で、麦茶をがぶがぶ飲んで、帰りの電車(冷房はない)の窓を開けて、風に吹かれながら、昼寝する。

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『AERA』初取材の思い出(1997年12月) [日常(思い出)]

6月5日(月)

『AERA』(朝日新聞社)の取材を最初に受けたのは、1997年12月22日号の「ズボンを捨て街へ出よう -女装で広がる『もう一人の私』の世界-」だった。

まず、昼間、冬枯れの代々木公園で和装で撮影。
971206 (2).jpg
その後、洋装(シースルーのワンピース)に着替えて夜の新宿で寒さに耐えながら撮影。
971206-3.jpg
(1997年12月7日撮影)

なのに、どちらの写真も「没」だった。
「もう一人の私」という題名も、私のコピーのそのままパクリ。

ほんと、ひどい扱いだった。
朝日新聞社のエリート記者からしたら、新宿の女装者なんて「下賤の者」で、まともな気遣いをする必要もなかったのだと思う。

今だったら「これだけ協力してその扱いはないだろう!」と激怒すると思うが、当時はこちらも「まあ、無料で写真撮ってもらったからいいか」という感じで、あまり腹も立てなかった。

それからもう20年の歳月が流れたのか・・・。
つくづく、世の中、変わるものだと思う。

よく生き残ったものだなぁ、私。



2月10日(水)Sさんのお墓を探しに行く [日常(思い出)]

2月10日(水)

午後、ちょっと時間がとれたので、思い立って、昔、歌舞伎町ホステス時代に、お世話になったSさんのお墓を探しに行く。

渋谷のお寺の墓地はイメージしていたより広かった。
これは端から探していくしかないと思ったら、「おい、塀の方だ」という声が聞こえたような気がした。
そちらを向くと、塀沿いの正面にその方の名字が刻まれたお墓があった。

墓石の側面のお名前を確認。
「廣修院紹山潔誠居士 平成二十四年一月十四日 七十才」
70歳か・・・、Sさん、早く逝きすぎですよ。

墓前で合掌。

「おお、順子か、よく来たな」
「遅くなって、ごめんなさい」
「元気そうじゃないか」
「お蔭さまで、なんとかやっています」
「すっかり女っぽくなったな」
「おばさんになっただけです」
「いくつになった?」
「今年で61です。どんどんSさんに近づいていきます」
「それは仕方がないな。俺はもう年はとらんからな」
「今日はお墓を探しに来ただけなので、お花もお線香もなくて、ごめんなさい」
「そうか、じゃあ、また来てくれ」
「はい」

帰り道、河津桜が咲いていた。
IMG_5402.JPG

Sさんは、1980~2000年代前半の新宿女装コミュニティの大立者。
「女装者愛好男性」(ご自分は女装しないで女装者を愛好する男性)の典型的な方。
ホステス時代には、いつも席に呼んでくださって、ずいぶんかわいがっていただいた。

その後、「戦後日本〈トランスジェンダー〉社会史研究会」(代表:矢島正見中央大学教授)で、ベテランの女装関係者の方にロング・インタビューをしてライフヒストリーにまとめる際、特にお願いして「女装者愛好男性A氏」として調査に協力していただいた。

その成果は、
「女装者愛好男性A氏のライフヒストリー」(三橋順子、杉浦郁子、石田仁)
「Aさんと私―ホステス順子の手記―」(三橋順子)
「女装者愛好男性という存在」(三橋順子)
「異性装の社会学的分析に向けてー「アマチュア女装」の観点からひとつの仮説へー」(杉浦郁子)
として、矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』(中央大学出版部 2006年3月)に収録されている。

私が「女装者愛好男性」という概念を提起する上で、いちばんお世話になった方。
数年前に「亡くなられた」と聞いて以来、ずっと心に掛かっていた。

なぜ、私がお墓のあるお寺を知っているかというと・・・。
ある夜、お店に来られたSさんが、こう話し始めた。
「今日は、渋谷に行ってきたんだ」
「お仕事ですか?」
「いや、娘の墓参りだ」
「えっ! お嬢さんのですか?」
「高校生になったばかりの夏休みにな、クラブ活動の最中にばったり倒れてそれっきりだ」
「え・・・・・、心臓、お悪かったのですか」
「どうだったんだろうな、ともかく突然死ってやつだ」
「それは、お辛かったでしょう」
「まあな」
「お墓は渋谷のどちらですか?」
「〇〇寺だ」
「ああ、〇〇〇大学の隣ですね」
「よく知ってるな、ついでがあったら寄ってみてくれ」
「はい」

それから、16~17年も経ってしまった。
今日、15歳で亡くなったお嬢さんの名前を墓石で確認して「ごめんなさい」と謝った。

シャブの思い出 [日常(思い出)]

2月3日(水)

18年ほど前の夏の夜、ネオンきらめく新宿歌舞伎町での話。
もう時効だから、書いてもいいだろう。

さっき外廊下に出ていったママが、地味な中年の男性客といっしょに戻ってきた。
「順ちゃん、ちょっと」と呼ばれて、二人でまた店の外へ。
「今、入ってもらった人ね、警察関係の人なのよ」
「何かあったのですか?」
「シャブ(覚醒剤)の売人を尾行中なんだって。『ウチでは、そういう取引はないです』って言ったんだけどね。悪いけど、普通のお客みたいに相手してくれる?」
「はい」

内心「なんで私に振るんだよ~ぉ」と思いながら、店内に戻って、ボックス席の端に座っている陰気な感じの地味なスーツの男性の席につく。

「いらっしゃいませ。順子です。お作りしますか?」
ウィスキーのボトルを取り上げながら、一応、尋ねる。
「いや」
「お仕事中ですよね。じゃあ、こちらで」
ウーロン茶を氷を入れたグラスに注いで、コースターに置く。
「あ、ありがとう」
額に汗をにじませている男はグラスを手にして冷たいウーロン茶を飲む。
でも、その間も右奥のカウンター席に視線を向けている。

さっきまで、カウンターで接客していたから、私は目を向けるまでもない。
手前に今はカラオケを歌っている、私の馴染のお客さん。
奥の隅の席で、やはり常連のお客さんが居眠りをしている。
ということは、今、チーママとしゃべっている、ちょっと派手な感じの中年の客がターゲットなのだろう。
少なくとも、私は知らない人だ。

「ママが言ってたと思いますけど、真ん中の人は常連さんではないですよ」
「ああ」
「もう少しおしゃべりしないと、かえって変ですよ。お仕事、お忙しいですか?」
「うん、まあね」
「暑い時期に外回りのお仕事は大変ですね」
「仕事だからね」
「普通、外回りのお仕事って、2人組じゃないんですか?」
返事はなく、ドアの方に顎をしゃくる。
なるほど、相棒は外で待機なのか。

そんな感じで、中身のない話を続ける。

「トイレは奥?」
「はい、カウンター席の奥、突き当りです」
ターゲットの男の背中を通ることになるが、戻る時にチラと視線を向けたくらいで、さりげない。

席に戻っても状況は変わらず。

結局、1時間ほど経って、ターゲットの男が席を立った。
チーママがお会計している間に、ママがこちらに来て「あら、もうお帰りですか」と、捜査員の男を先に店外に連れ出す。
さすがに料金は取れない。
私もドアの所まで見送り、「ありがとうございました~ぁ」と声をかける。

すぐに、ターゲットの男がチーママに送られて、ドアを出ていく。
また「ありがとうございました~ぁ」と声をかける。
このビルは外廊下の両端に出口があるから、捜査員とその相棒が二手に分かれて待伏せれば、ターゲットを見失うことはないだろう。

ママが戻ってきたので「なんで私に振るんですか~ぁ?」と尋ねたら、
「順ちゃん、度胸が据わっているから。それにあなた、警察に後ろめたいことないでしょう」と言われたので、
「じゃあ、ママは後ろめたいことあるのですか?」ときいたら、
「そりゃあ、あるわよ」
「この店、シャブは関係ないけど、違う種類の薬(ヤク)の取引してますからね」
ママがニヤリと笑った。

その時はそれだけのことだったけど、今になってみると、その後、どうなったのだろう?と思う。




「目が怖い」おじさんの思い出 [日常(思い出)]

8月27日(木)

「山口組、分裂か?」のニュースを見て思い出したこと。

シノギに余裕があった頃のヤクザは、行動様式的にそれなりに「面白い」人たちだったと思う。
もちろん、直に付き合わずに、一定の距離を置いて見ていた場合だが。

10年ほど前、地元(目黒)の行きつけの居酒屋のカウンター関西弁のおじさんが話しかけてきた
「神戸から東京支店の開設準備のために単身赴任してきた金融業者」という自己紹介だったが、外見や話の内容から「菱の代紋系の街金が東京進出する先兵」なのは明らかだった。

出会う度に適当におしゃべりしたり、「街金」の仕組みを尋ねたりしていたが、3回目か4回目の時に「新宿のニューハーフがいる店に連れてってくれ」と頼まれた。
聴けば、関西時代にはキタやミナミのその系統の店でよく遊んでいたらしい。
「なんだ、 私に声をかけてきたのも、そういうことか」と納得した。
仕方がないので懇意な店に電話して、ママに「これこれで、どう見てもやーさんなんだけど、連れてっていい?」と確認すると、「いいわよ、ウチの店、そういうお客さん、何人も来るから」という返事。

で、案内することになった。
豪勢なことに目黒から新宿までタクシーに乗り、新宿区役所通りの入口で降りて、連れだって店に向かった。
当時の歌舞伎町区役所通りには客引きがたくさんいたのだが、私たちには誰も怖がって声をかけてこない。

そしたら、そのおじさん「新宿の客引きはなんで声をかけて来んのや? 姐さん、あんた相当に有名なんやな」と言った。
「あんたの目が怖いからやろ!」と、関西漫才風に思いっきりツッコミを入れたかったが、やっぱり怖いので止めた。

ほぼ1年後、私の携帯に「仕事のかたがついたので神戸に帰ります。良い店、紹介してくれたおかげで、寂しい東京生活の気が紛れた。ありがとさん」とメールが入っていた。

今、どうしているかな。
あの頃、50年配だったから、もう足洗って、引退しているかな。


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