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1月22日(月)ライフヒストリー・インタビュー(5回目) [日常(思い出)]

1月22日(月)

13時15分、秋葉原のスタジオへ。

ライフヒストリー・インタビュー(5回目)。
今回のテーマは、私が1990年代に出会った人々。
最後にようやく、おゆうちゃんが出てきた(最初に出会ったのは1999年)。
年齢的には、まだ40代半ば。

次回は4月末。


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11月13日(月)ライフヒストリー・インタビュー(4回目) [日常(思い出)]

11月13日(月)

13時15分、秋葉原のスタジオへ。
私のライフヒストリーの収録、4回目。

今回は、「新宿時代」(1995~2003年)を中心にお話しするつもりだったが、その後の研究者としての再スタートや、家族へのカミングアウトなど、話が広がってしまった。
逆に大事なこと(ロールモデルになった女性)で、飛んでしまった話もあり、そのあたりは、次回拾ってもらおう。

いつものことながら、話しやすい雰囲気を作ってくださり、感謝。
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8月28日(月)ライフヒストリー・インタビュー(3回目) [日常(思い出)]

8月28日(月)

13時15分、秋葉原のスタジオへ。
私のライフヒストリーの収録、3回目。
前回は、チロ(小学生の頃、飼っていた猫)の話で終始してしまったので、今回は、約3時間で、大学生~院生時代から、「エリザベス時代」まで。

だいたい20~30代。
ほぼ、人生の半分くらいまで。

とても丁寧に聞いてくださるし、話しやすい雰囲気なので、私もつい語りすぎてしまう。
自分の人生を振り返って語る最初で最後の機会(5番目の「終活」)だから、時間が掛かるのは仕方がない。
最後まで語れるよう、体調を維持しなければと思う。
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6月10日(土)ライフヒストリー・インタビュー(2回目) [日常(思い出)]

6月10日(土)

秋葉原のスタジオで、私のライフヒストリーの聞き取り調査(2回目)。

私としては、前回(子ども時代~思春期)、話し忘れた飼い猫(チロ)の話をして、それが猫好きになったきっかけで、その後、大学に入学して、とても猫っぽい美少女に出会って一目惚れする(今、隣に座っている猫ちゃん)、という話に続けて、青年期の話に展開しようと思っていた。

ところが・・・、インタビュアーの先生はチロのことばかり聞いてくる。
結局、3時間、9割方、チロの話で終始(笑)。
(この先生、もしかして猫好き?)
ライフヒストリーとしては、ほとんど一歩も進まなかった。

でも、チロのことをたくさん思い出して、目頭が熱くなった。
チロは,東京・亀戸の生まれだったとか。
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私のライフヒストリーの収録(1回目) [日常(思い出)]

3月13日(月)

秋葉原のスタジオで、私のライフヒストリーの収録(1回目)。

セクシュアル・マイノリティをテーマにしている研究者は、私のライフヒストリーなどには、誰も関心をもってくれなかったので、まったく違う分野の研究者にお願いした。

13時30分~17時、正味3時間20分話して、大学入学までしか行かなかった。

今まで、幼少~少年~青年前期については、ほとんど語ることなく「普通の男の子でした。」で胡麻化していた。

今回は、もう年齢的に最後の機会なので、針間先生のカウンセリングの時(2008年)より、さらに細かくいろいろ語った。

何回かかるかわからない(最低3回、たぶん4回?)けど、途中で死なないよう、頑張る。

【追記】
話忘れたこと。
孤独癖がある私を心配して、母親が(自分は好きでないのに)猫(チロ、雄)を飼ってくれたこと(動物療法的)。
たしか、小学1年。
今に至る「猫好き」の原点。


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仏法僧という鳥 [日常(思い出)]

1月29日(日)

秩父神社のご神苑の「母巣(ははそ)の森」に「仏法僧という鳥がいて「ブッポウソウ」と鳴くのだよ」と、子どものころ、祖母に教わった。

でも、「ブッポウソウ」みたいに鳴くのは、ブッポウソウではなく、まったく形態が違うコノハズクという鳥であることを知ったのは中学生のころ。
ブッポウソウ.jpgコノハズク.jpg
当時は、森の中に道があって、そこが床屋さんへの近道で、祖母に手を引かれて通っていた。
60数年前の思い出。
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寒い朝 [日常(思い出)]

1月25日(水)

電車通学していた高校時代、朝6時43分の電車に乗るため、6時半に家を出ていた。
秩父は真冬だと、氷点下6~7度は当たり前で、時には-10度になる。

駅に着いて、友人に「おはよう」と挨拶すると、彼の前髪が白く凍っている。

で、自分の髪に触れると針のような氷が。
整髪料がなく水で髪をとかして、すぐに家を出るので、凍ってしまうのだ。

そんな50年前のことことを思い出した寒い朝。
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斎藤誠会長のお墓詣り [日常(思い出)]

1月19日(木)

渋谷の丘の上にある吸江寺へ。

久しぶりに、歌舞伎町「ホステス」時代にお世話になった斎藤誠会長のお墓詣り。

「斎藤さん、ご無沙汰しています。順子です。昨年の7月にこんな本を岩波書店から出しました」
「おおっ、順子か、元気にしてるか、岩波から本を出したのか!それはすごいな。さすがは俺の女だ」
「ありがとうございます(最後はちょっと違うけど)」

「ホステス」時代にいろいろ教えていただいただけでなく、駆け出しの研究者の頃、長時間のライフヒストリー・インタビューに応じてくださり、私が「女装者愛好男性」という概念を確立するうえで、大きな貢献をしてくださった。

亡くなったのが2012年1月、いつの間にか11年がたった。
亡くなった方は歳をとらない。
斎藤さんが亡くなった年齢(70歳)まで、私はあと数歳だ。
あと、何回、お詣りに来られるかな?

(前回)2019年8月3日
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2019-08-04
(前々回)2017年8月25日
https://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2017-08-25-1
(最初・事情いろいろ)2016年2月10日
https://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2016-02-10-2
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これも遺伝なのか? [日常(思い出)]

7月16日(土)

突然、思い出したので、書き留めておく(さして意味はない、単なる思い出)

1994~95年、六本木で遊んでいた頃、大きなゲームセンターの中に、射撃ゲームがあった。
コインを入れて、ライフルのスコープを覗くと、10点満点の同心円の的があり、それに照準を合わせて、引き金を引く仕組み。
実際に弾が飛ぶわけではないが、的に当たると、そこに●が着く。
5発(5回)で50点満点。

30代くらいのビジネスマンが熱心にやっていたので、脇で見ていた。
だいたい45~47点くらいで、下手ではなかった。
彼、ちょっと疲れたのか、一息入れて、私が見ているのに気づいくと、
「お姐ちゃん、やってみる?」
と勧めてくれた。

お言葉に甘えて、やらせてもらった。
照準を合わせるのがけっこう微妙で(揺れる)、しかも制限時間があり、想像していたより難しかった。
結果は、照準の揺れの周期を合わせ損ねて1つ外してしまい、49点。

彼が「えっ、すげ~ぇ!」と言ったので、思わず「ごめんなさい」と謝って立ち去った。

その数年後、仲良しの男性が銃器マニアで、仲間と新しい(模擬)拳銃の試し撃ちをしていた。
見ていたら「姐さんも、やってみるかい」と言われたので、やってみた。

的は3mほど先のビール缶(短い方)。
両手グリップではなく、直角に曲げた左手を台にして右手を載せる片手撃ち。
皆が上方に外すのを見ていたので、缶の下部に照準を合わす。

初弾で「カ~ン」と良い音。

そこにいた5~6人が静まり返ってしまった。
友人が「さすがは歌舞伎町で名が知られた姐さんだ。構えからして素人じゃない」と褒めてくれた。
「いやだなぁ、まっさらの素人だよ」

で、思い出したのは、父親が、お祭などの射的場で、業者に「旦那さん、もう勘弁してください」と言わせるくらい上手だったこと。
まあ、世代的に実弾を撃っているのだが。
その場面を思い出した。

でも、父に手を取って教えてもらったことはない。
たぶん集中力の問題なのだろうと思う。
もしかすると、遺伝なのかも。
でも、視力が弱いので、遠い的は駄目。


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キャバレーの思い出 [日常(思い出)]

4月13日(火)

なぜか、FB友達とキャバレーの話が盛り上がった。
1994年6月、東京・小岩のキャバレー「ハリウッド」に行った。
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女装クラブのイベントで客として行ったのに、「研修」だと思われ、No1ホステスさんに「あなたとあの子は合格」と言われた。
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ちなみに、その予言通り、2か月後「あなたとあの子」は夜の新宿にデビューする。
さらに3年後、「あの子」は小店のママになり、「あなた」は大店のNo2になる。
「小岩ハリウッド」のNo1ホステスさん、さすがに慧眼だった。

呼び込みのお兄ちゃんにも「いつから入るの?」と言われた。
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ところで、私を接客してくれたNo1とNo2のホステスさんは、どちらも30代半ばのシングルマザーだった。
後に「ハリウッド」の福富太郎会長のお話しをうかがったときにも、「若い子はすぐに辞めてしまう。訳有りの子の方が長続きするし頑張る」とおっしゃっていたのを思い出す。

以下、キャバレー・ホステス経験(2000年頃)がある友人とのやりとりのメモ。
キャバレーのホステスのファッションは、1990年代はボディ・コンシャスなスーツが基本だった。
00年代の初めでも、まだそうだったと思う。

たぶん2001~02年頃だったと思うが、歌舞伎町のビルに入っている「キャバクラ」からロングドレスのホステスがぞろぞろ出てきて驚いた記憶がある
そこらへんが、一つの転機だったようだ。
90年代のホステスもドレスは着たが、ミニ・ドレスが主流で、あんなお姫様ドレスは着なかった。

ホステスの基本ファッションが、着物→ボディコン・スーツ→お姫さまロングドレスと変わっていったのは、そのまま。顧客である男性のセクシュアル・ファンタジー(性幻想)の変遷でもある。

もうひとつ、90年代のキャバレーでは、踊れるホステスが、まだ人気だった。
踊りは社交ダンス。ジルバとかルンバとか。
踊りたがる男性客(おじさん、おじいさん)がまだたくさんいた時代で、踊れるホステスの需要があった。





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