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これも遺伝なのか? [日常(思い出)]

7月16日(土)

突然、思い出したので、書き留めておく(さして意味はない、単なる思い出)

1994~95年、六本木で遊んでいた頃、大きなゲームセンターの中に、射撃ゲームがあった。
コインを入れて、ライフルのスコープを覗くと、10点満点の同心円の的があり、それに照準を合わせて、引き金を引く仕組み。
実際に弾が飛ぶわけではないが、的に当たると、そこに●が着く。
5発(5回)で50点満点。

30代くらいのビジネスマンが熱心にやっていたので、脇で見ていた。
だいたい45~47点くらいで、下手ではなかった。
彼、ちょっと疲れたのか、一息入れて、私が見ているのに気づいくと、
「お姐ちゃん、やってみる?」
と勧めてくれた。

お言葉に甘えて、やらせてもらった。
照準を合わせるのがけっこう微妙で(揺れる)、しかも制限時間があり、想像していたより難しかった。
結果は、照準の揺れの周期を合わせ損ねて1つ外してしまい、49点。

彼が「えっ、すげ~ぇ!」と言ったので、思わず「ごめんなさい」と謝って立ち去った。

その数年後、仲良しの男性が銃器マニアで、仲間と新しい(模擬)拳銃の試し撃ちをしていた。
見ていたら「姐さんも、やってみるかい」と言われたので、やってみた。

的は3mほど先のビール缶(短い方)。
両手グリップではなく、直角に曲げた左手を台にして右手を載せる片手撃ち。
皆が上方に外すのを見ていたので、缶の下部に照準を合わす。

初弾で「カ~ン」と良い音。

そこにいた5~6人が静まり返ってしまった。
友人が「さすがは歌舞伎町で名が知られた姐さんだ。構えからして素人じゃない」と褒めてくれた。
「いやだなぁ、まっさらの素人だよ」

で、思い出したのは、父親が、お祭などの射的場で、業者に「旦那さん、もう勘弁してください」と言わせるくらい上手だったこと。
まあ、世代的に実弾を撃っているのだが。
その場面を思い出した。

でも、父に手を取って教えてもらったことはない。
たぶん集中力の問題なのだろうと思う。
もしかすると、遺伝なのかも。
でも、視力が弱いので、遠い的は駄目。


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キャバレーの思い出 [日常(思い出)]

4月13日(火)

なぜか、FB友達とキャバレーの話が盛り上がった。
1994年6月、東京・小岩のキャバレー「ハリウッド」に行った。
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女装クラブのイベントで客として行ったのに、「研修」だと思われ、No1ホステスさんに「あなたとあの子は合格」と言われた。
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ちなみに、その予言通り、2か月後「あなたとあの子」は夜の新宿にデビューする。
さらに3年後、「あの子」は小店のママになり、「あなた」は大店のNo2になる。
「小岩ハリウッド」のNo1ホステスさん、さすがに慧眼だった。

呼び込みのお兄ちゃんにも「いつから入るの?」と言われた。
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ところで、私を接客してくれたNo1とNo2のホステスさんは、どちらも30代半ばのシングルマザーだった。
後に「ハリウッド」の福富太郎会長のお話しをうかがったときにも、「若い子はすぐに辞めてしまう。訳有りの子の方が長続きするし頑張る」とおっしゃっていたのを思い出す。

以下、キャバレー・ホステス経験(2000年頃)がある友人とのやりとりのメモ。
キャバレーのホステスのファッションは、1990年代はボディ・コンシャスなスーツが基本だった。
00年代の初めでも、まだそうだったと思う。

たぶん2001~02年頃だったと思うが、歌舞伎町のビルに入っている「キャバクラ」からロングドレスのホステスがぞろぞろ出てきて驚いた記憶がある
そこらへんが、一つの転機だったようだ。
90年代のホステスもドレスは着たが、ミニ・ドレスが主流で、あんなお姫様ドレスは着なかった。

ホステスの基本ファッションが、着物→ボディコン・スーツ→お姫さまロングドレスと変わっていったのは、そのまま。顧客である男性のセクシュアル・ファンタジー(性幻想)の変遷でもある。

もうひとつ、90年代のキャバレーでは、踊れるホステスが、まだ人気だった。
踊りは社交ダンス。ジルバとかルンバとか。
踊りたがる男性客(おじさん、おじいさん)がまだたくさんいた時代で、踊れるホステスの需要があった。





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地下鉄サリン事件から16年 [日常(思い出)]

3月20日(土)

26年前の1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起こった時、私は、妹分の岡野香菜ちゃんと新宿のホテルにいた。

前日、香菜ちゃんの『ニューハーフ倶楽部』(三和出版、その年夏の創刊)のカラーグラビア撮影が奥多摩の古い旅館であり、斡旋した責任上、同行・立ち合いをした。

帰路、香菜ちゃんは慣れない撮影(5時間)で疲労困憊、「これ以上、運転したくにゃい」と言い出して、もっともだし、危ないので、ホテルに投宿。

翌日、警察・消防の車両がけたたましく行きかう様子に驚いて、テレビをつけると大事件。
香菜ちゃんが「毒ガスかもしれにゃい」と言ったのを覚えている。

ちなみに、香菜は、陸上自衛隊で対ソ最前線の精鋭戦車部隊の出身。

念のため都心を回避して、目黒の家まで送ってもらい帰宅。

オウム真理教関連の事件でも最大の都市テロ。
日本でもこういうこと(致死性毒ガスの無差別散布)が起こるのだという点で、おおいに教訓になった思い出。

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日本文化デザイン会議・秋田(1998年) [日常(思い出)]

2月17日(水)

ちょっと必要があって、「第20回日本文化デザイン会議’98秋田」の資料を、ファイルから引っ張り出す。
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写真は、昼の日程が終わってから夜に行われた「小こまち夜楽(やがく)」の「松岡塾」の記念写真。
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この頃は、まだバブルの名残で、こうしたお金がかかる文化イベントが全国巡回形式で毎年行われていた(仕切りは博報堂)。
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↑ サインが下手で恥ずかしかった(今でも下手だけど)。

私が初めて参加した大規模な文化フォーラムで、ここで知り合って、その後、いろいろご縁があった方も多い。
塾長の松岡正剛先生、「顔学会」の原島博先生、緊縛師の明智伝鬼さん、そして、今週金曜のZoom講演に呼んでくださった佐伯順子さん(同志社大学教授)。

私は、作家の松本侑子さんに連れて行ってもらったのだけど、出演が決まったとき、「秋田には(鉄道の)どのルートで行きましょうか?」と尋ねたら「順子ちゃん、何言ってるの、飛行機に決まってるでしょ!」と言われた思い出がある。
実はその時、松本さんと乗った羽田ー秋田が国内線初フライトだった(飛行機嫌いで鉄道で行ける国内では乗らなかった)。

もう23年前、私も含めて、みんな若いなぁ。
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松本さんはもちろん、松岡先生(今年喜寿)がお元気なのが何より。
右の方に写ってる麿赤兒(77歳)さんも。

でも、懇親パーティーで緊縛ショーを見せてくださった明智伝鬼さ(2005年、64歳で逝去)ん、集合写真で松岡先生の隣にいる金子國義さん(2015年、78歳で逝去)、あと、この写真にはいないが、控室の同じテーブルでお弁当を食べていた川島なお美さん(2015年、54歳で逝去)は逝ってしまった。
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シャブの思い出(その2) [日常(思い出)]

2月13日(木)

23年ほど前、シャブ(覚醒剤)の売人なんていくらもいる新宿歌舞伎町の雑踏の中で、酔っぱらった女装の先輩(M衣子姐さん)が「順ちゃん、シャブ行こう!シャブ行こう!」と叫んで、とても困ったことがある。


で、しゃぶしゃぶ専門店の「モーモーパラダイス」に行った。

(参照)「シャブの思い出(その1)」
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2016-02-04-2
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「キヌブログ!」に館山市「中村屋」のことが [日常(思い出)]

11月20日(水)

新宿5丁目のバー「LE QUINE GUINE」の店主シンスケさんのブログ「キヌブログ!」に、千葉県館山市の「中村屋」のことが詳しく記されている。
http://lequineguine.jugem.jp/?eid=1263

私は、北関東の山間盆地(埼玉県秩父市)に生まれ育ったが、幼稚園(年長)から小学5年生まで6~11歳の6年間(1961~66年、昭和36~41年)、毎夏3週間くらい、親戚の別荘を借りて千葉県館山市に滞在した。

「中村屋」は昭和30年代の館山で唯一の都会的な店で、夏の間、母や祖母に連れられて、よく訪れた思い出の場所。

(参照)「続々・たそがれ日記」2017年8月30日(水)
館山・センチメンタルジャーニー(その1:南房総・館山へ)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31
館山・センチメンタルジャーニー(その2:遠い夏の思い出を探して)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31-1
館山・センチメンタルジャーニー(その3:海と「中村屋」)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31-2

館山の「中村屋」が新宿の「中村屋」直系(夏季分店)だったとは、知らなかった。
(だって、子供のだったから)
シンスケさん、思い出を蘇らせてくれて、ありがとう!
「千鳥街」といい「中村屋」といい、どうして波長が合うのだろう?
前世、兄弟でした?

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「元AV『女優』」という肩書 [日常(思い出)]

10月24日(木)

今から20年前の話。
当時、お手伝いホステスをしていた新宿歌舞伎町「ジュネ」の客に、フェチ系(足首とか鎖骨とか)のアダルトビデオを制作・販売して景気が良い社長さんがいた。

で、私をモデルに「着物熟女ニューハーフ」ビデオを撮りたい、「ギャラの希望は?」と言ってきた。
「ギャラはなしでいいから、撮影場所は椿山荘でお願いします」と返事した。

翌週、また社長が来て「順子さん、勘弁して。調べたら(椿山荘の部屋とお庭の撮影レンタル料が)予定のギャラの2倍だった」ということで、お流れに。

あの時、わがまま言わなかったら、私も今頃「元AV『女優』」という肩書を名乗れたんだなぁ。
ちょっと後悔・・・。

最近、Twitterで「元AV女優」という肩書を見かけるので、そんなことがあったことを思い出した。

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↑ 1997年5月「椿山荘」で。

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ラグビーと私 [日常(思い出)]

9月28日(土)

私が高校に通った、埼玉県熊谷市は、ラグビーが盛んな街。
今回のW杯でも熊谷ラグビー場で試合が行われる。

その基を築いたのは、熊谷高校の5年先輩・宿沢広朗(しゅくざわ ひろあき、1950~ 2006年)さん。
160cmの小柄ながら、早稲田大学の黄金期(日本選手権2連覇達成)の、そして日本の代表のスクラムハーフとして活躍した名選手。

1989年には日本代表監督となり、5月28日、秩父宮ラグビー場でIRB所属のスコットランドに、28-24で勝利した。
第2回W杯(イギリス)ではジンバブエに52-8で勝ち、日本のW杯での最初の勝利となった。

2006年6月17日、登山中に心筋梗塞を発症、55歳の若さで急逝。

宿沢さんが生きていたら、今日のアイルランド戦をどう解説してくれただろう?

ということで、熊谷高校では冬場の体育ではラグビーをやった。
ちゃんと、校庭にラグビーゴールがあった。
クラス対抗試合もあり、私のポジションはバックスだった。
走るのは速いとはいえなかったが、足腰が強かったので、タックルされても倒れず、2人くらい引きずって、前に進み、味方にパスをすることができた。
あと、もともとサッカーをやっていたので、パントキックは得意だった。

だから、にわかラグビー・ファンじゃないのだよ。

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「夏休みの一研究」 [日常(思い出)]

9月2日(月)

時節柄、Twitterで「夏休みの自由研究」について批判的見解を述べている人がいた。
https://twitter.com/kaneda_junko/status/1168152413196341248

私は、山間盆地(埼玉県秩父市)に生まれ育ったが、幼稚園(年長)から小学5年生までの6年間、毎夏3週間くらい、親戚の別荘(母方の会津藩士の相役で、明治以後、経済界で成功した一族)を借りて千葉県館山市に滞在した。

海辺育ちの両親(とくに母親)が、避暑と海を知らない子ども(私と妹)に海を見せて泳ぎを教えるためだったと思う。
夏休みに3週間も、家を離れていたわけで、当然「夏休みの一研究」は滞在先の海辺の家ですることになる。

覚い出すままに記すと、
1年生 浜で拾った海藻の標本  ★
2年生 埼玉県と千葉県の地形の違い
3年生 魚屋さんの研究  ★
4年生 海浜植物の標本 ★
5年生 海風と陸風の観測
6年生 秩父盆地の地質と不整合 ★

星印は秩父郡市の「夏休み一研究」で金賞(優秀賞)

私にとって「夏休みの一研究」(←1960年代はそう言った)は、
世の中のいろいろな現象に気づくこと
  ↓
「なぜだろう」と不思議に思うこと
  ↓
それを調べてみること
  ↓
考えてまとめること
を教えてもらったという点で、今の「研究者」としての原点になったと思っている。

山育ちの少年が海辺の町で、見たり気づいたりした「不思議」を「夏休みの一研究」という形に誘導してくれた母親(6年生の時は、海に行かなくなったので父親)がいたからこそのなのだが。

「課題になってる(読書)感想文と自由研究は、やりたい人だけやる、でいいと思う」には基本的に賛成だが、やった(提出した)子はちゃんと評価すべきだと思う。

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歌上手が揃った店で [日常(思い出)]

4月3日(水)

今、思い出すと、あの頃(1990年代半ば~後半)の「ジュネ」(新宿歌舞伎町の女装スナック)は歌上手が揃っていた。

「歌姫」中山麻衣子さん(金曜日チーフ)だけでなく、チーママの麻生未央さん、火曜日担当だった莉佳子さん、月曜日担当のニーナさん、後に「MISTY」(歌舞伎町のニューハーフ・パブ)のオーナー&ママになるエルさん、みんなセミプロ並みに上手だった。

薫ママの聖飢魔Ⅱ「蠟人形の館」は大迫力で、ほんとうに怖いくらいだった。

スタッフが歌上手だと、お客さんも歌好き・歌上手の人が集まる。
そんな中で、歌うのはたいへんだったけど、周囲のレベルが高かったからこそ、本気で頑張れたのだと思う。

歌好きのお客さんに続けてつくと、「あれ唄え」「これ唄ってくれ」で、一晩に20~25曲くらい歌うことになる。
同じ夜に同じ歌は唄わないので、必然的にレパートリーを広げないと、やっていけない。
だから、レパートリーは100曲以上(9割は女性歌手の歌)あった。

中でも、麻衣子さんと私のデュエット、ザ・ピーナツ「恋のバカンス」は、なかなかのものだったと思う(自賛)。

あと、閉店時(明け方4~5時)に唄うラストソング、越路吹雪「ラストダンスは私に」は、私の十八番(おはこ)になった。

「ジュネ」が閉店(2003年)して、唄わなくなって、もう16年。
歌唱力は大幅に落ちた。
とくに高音が出ない。
カラオケに行って歌い込めば、ある程度は戻るだろうけど、喉を使いすぎると仕事(講義・講演)に差しさわりがあるので控えている。
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