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12月13日(水)30年間続けた産経学園の講師を退職 [お仕事(春日権現験記絵)]

12月13日(水)  晴れ  東京  10.4度  湿度24%(15時)

7時45分、起床。
朝食はアマンドショコラとコーヒー。
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シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて、頭頂部で結んで、シュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒と白のジラフ柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショート・ブーツ、ワインレッドのトートバッグ。
黒のカシミアのポンチョ。

9時50分、家を出る。
駅前のコンビニで資料をコピー。

10時半、東急東横線自由が丘駅へ。
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北口改札を出てすぐ左側の「自由が丘東急ビル」の「産経学園」へ。
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今日で「産経学園・自由が丘」の講座「絵巻を読む」を終了。
同時に1988年以来30年間(32歳から62歳まで)続けた「産経学園」の講師を退職。
21年間は男性で、あとの9年間は女性で。

「絵巻を読む」も20年以上、続けたと思う。
『年中行事絵巻(田中本・他の写本)』
『信貴山縁起絵巻』
『扇面古写経(四天王寺)』
『粉河寺縁起絵巻』
『石山寺縁起絵巻』
『春日権現験記絵(巻13まで)』

もともと生徒さんは多くなく、採算はとれていなかったが、自分の勉強だと思って続けた。
自分で言うのはなんだが、「絵を読み込む力」はずいぶんついたと思う。
その成果は拙著『女装と日本人』にも生かすことができた。

最盛期は10人ぐらいいた生徒さんもご高齢の方が徐々にいなくなって最後はお2人に。
吉岡さん、小林さん、長い間、ありがとうございました。




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9月11日(水)『春日権現験記絵』を読む(1巻の第3段:普請場の様子)  [お仕事(春日権現験記絵)]

9月11日(水)
絵巻に描かれた(鎌倉時代の)普請場の様子
鎌倉時代後期の延慶2年(1309)頃に描かれた絵巻物『春日権現験記絵』(絵師:高階隆兼)には、竹林殿を建てるための普請場の様子が詳細に描かれている。
また、同じ絵師によるという説が濃厚な『石山寺縁起絵巻』にも、石山寺を建立するための普請場が描かれている。
近江石山寺の創建は奈良時代中期の天平19年(747)とされるが、描かれている様子は鎌倉時代後期のものと考えてよいだろう。
以下、作業の場面ごとに、拡大図を掲載し、合わせて『春日権現験記絵』と『石山寺縁起絵巻』の画風を比較してみたい。

(1) 水準を出す・水糸を張る
水準を出す(春日権現験記絵).jpg
↑ 『春日権現験記絵』
長くて浅い水槽は水準器。長さ3尺ほどか。
水面から長さ1尺ほどの竹ひご?を立てて、水糸を張っている。
水糸は2段に張っているようだ(右端)。
子供が曲物から柄杓で水を注いで手伝いをしている。

(2) 礎石を据える
礎石を据える(春日権現験記絵).jpg
↑ 『春日権現験記絵』
3人係りで礎石を据えて、丸太で突き固めている。
突き棒の先がささくれてめくれているのがリアル。
鋤は先端だけが鉄製、こうしたはめ込め式の鋤は弥生時代からある。
(3) 材に当たりをつける・墨縄を打つ 
材の割り付け・墨縄(春日権現験記絵).jpg
↑ 『春日権現験記絵』
下の2人はL字形の定規を使って丸太材の小口に竹筆で印をつけている。
右側の男は片目をつぶって、慎重に印をつける位置を決めている。
上では、墨壺から引き出した墨糸を持ち上げて、板材に打とうとしている。
こうした直線の引き方は、昭和40年代くらいまで、大工さんがやっていた。
少なくとも鎌倉時代後期から650年以上同じ技術が使われていたことになる。
ここでも、子供が墨糸の端を押さえて、手伝いをしている。

(4) 材を割る
材を割る(石山寺絵巻).jpg
↑ 『石山寺縁起絵巻』
材を割る(春日権現験記絵).jpg
↑ 『春日権現験記絵』
この時代、丸太を(木の繊維に沿って)縦挽きして製材する鋸はまだ存在しないので、材を縦に分けるには、木槌で鑿(のみ)を線状に連続的に打ち込み割るしかなかった(石の割り方と基本的に同じ)。
その場合、鑿を頭を向うに刃先を手前に傾けて打ち込み、後ずさりしながら作業したようだ。
その方が、木槌の打撃の方向からして合理的だったと思われる。
 『石山寺縁起絵巻』の2人と『春日権現験記絵』の左側の男は、後ずさり方式だが、『春日権現験記絵』の右側の男だけが前に進む方式で作業しているのは何故だろう。
ちなみに、下の絵のような縦引き鋸が出現するのは、室町時代になってから思われる。
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↑ 葛飾北斎『富嶽三十六景。遠江山中』

(5) 手斧(ちょうな)で削る
ちょうなで削る(石山寺絵巻)1.jpg
↑ 『石山寺縁起絵巻』
ちょうなで削る(石山寺絵巻)2.jpg
↑ 『石山寺縁起絵巻』
ちょうなで削る(春日権現験記).jpg
↑ 『春日権現験記絵』
割った材は凹凸がかなりあったが、この時代、まだ樫の台木に斜めに刃を差した台鉋は出現していないので、J字形の柄の先に横に刃を付けた手斧(ちょうな)で削って平にしていった。
作業法として、板を立てて削ったようである。
ちなみに、台鉋が出現するのは、室町時代である。
『石山寺縁起絵巻』で手斧作業の工人の近くに立っている藍色の衣の子供が左手に持っているドーナツ状の物に留意。

(6) 槍鉋ではつる
槍鉋ではつる(石山寺絵巻)1.jpg
↑ 『石山寺縁起絵巻』
槍鉋ではつる(石山寺絵巻)2.jpg
↑ 『石山寺縁起絵巻』
槍鉋ではつる(春日権現験記).jpg
↑ 『春日権現験記絵』
手斧だけでは十分にきれいな板材にならないので、さらに槍鉋ではつって調整していく。
槍鉋は、棒の先に少し角度をつけて槍状両刃をつけたもので、中国にはなく日本特有の工具らしい。
刃の長い部分を使って横に削ぐようにしたり、刃の先端を使って突くように削ったことが見て取れる。
こんな道具で平らになるのかと思うが、熟練した工人が丁寧な仕事をすると、かなりきれいな平面が得られるとのこと。
また、「(7)材を切断する」の『春日権現験記絵』(2つ下の図)では、切断した柱の小口を槍鉋で整えている。

(7) 材を切断する
材の切断(石山寺絵巻) (1).jpg
↑ 『石山寺縁起絵巻』
材の切断と小口の整形(春日権現験記).jpg
↑ 『春日権現験記絵』
材を(木の繊維にを断つように)横挽きする鋸は鎌倉時代後期にはすでに存在した。
上の『石山寺縁起絵巻』では、かなり大きな板材を切っている。
子供が材を押さえて手伝っている。
『春日権現験記絵』では整形された小さな材をさらに2つに切っている。
『石山寺縁起絵巻』で分かるように材の端には、材を筏に組んで運漕する際に便利なように穴が開けられていた。
この部分を木鼻(=木端=きばな)といい、不要なので切断する。

(8) 削りくずを片付ける
削りくずを片づける(石山寺絵巻) (2).jpg
↑ 『石山寺縁起絵巻』
削りくずを片付ける(春日権現験記).jpg
↑ 『春日権現験記絵』
この作業場には、7人の子供がいる(大人は32人ほど)。
ちゃんと手伝っている子もいれば、遊んでいる子もいる。
遊び→手伝い→見習い労働という子供の労働参加の形態は、古代・中世社会では一般的なものだった。
(江戸時代になると、「奉公」という形での契約労働が増加する)
『石山寺縁起絵巻』の左側では、槍鉋の作業で出た削りくずを子供が集めている。
右側の子供はもっと大きな削りくずをたくさん集めている。
左側の子が「えっ、そんなに集めたの!」と驚いているように見える。
『春日権現験記絵』では、3人の子供たちが集めた木鼻や削りくずをまとめて紐で縛って運んでいる。
これは、単に作業場の片付けの手伝いをしているのではなく、こうした木鼻や削りくずが、おそらくは労賃が支払われないお手伝い子供たちの取り分になっていたのではないかと思われる。
廃材や削りくずは良い燃料になるので、市のようなところに運べば売れて、子供たちの小遣いにはなったはずだ。
そうした推測を助けるのが、(9)道具箱の図だ。
道具箱の脇で2人の子供が戯れているが、左側の子供の脇には削りくずや木鼻がある。
ここは作業の現場ではないから、子供たちが集めてきて確保(仮置き)しているのだろう。
道具箱の右側にあるドーナツ状の物は、(5)の『石山寺縁起絵巻』の絵でで手斧作業の藍色の衣の子供が左手に持っている物と同じではないだろうか。
その用途は確定できないが、おそらく頭上運搬の際に頭と物品の間に置く補助具ではないだろうか?

(9) 道具箱
道具箱と子供.jpg
↑ 『春日権現験記絵』
工人が工具を入れて運ぶ木製の道具箱である。
蓋の裏に3つの桟があり、中央の桟には鋸が挟めて固定できるようになっている。
蓋は紐で縛って固定したようだ。
こうした道具箱は、昭和40年代まで大工さんが使っていた。

(10) 飲食
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↑ 『春日権現験記絵』
作業場の一角で飲食が行われれいる。
現実の普請場では、大勢の人が働いているのに、一部の人だけが飲食しているのは考えられない。
他の作業についても言えることだが、『春日権現験記絵』のこの場面は、ある時の作業場の状況を描いたのではなく、作業場におけるいろいろな作業をサンプル的に一画面に並べたもののように思う。
この部分、『続・日本の絵巻』(中央公論社)は、頁の喉に当たっていて画像が悪いので、『絵巻物による常民生活絵引』(平凡社)の参考図も掲げる。
飲食2.jpg飲食3.jpg
2枚の長い板の上に1列3人合計6人の男たちが並んで飲食し、1人の女が給仕をしている。
男たちの前には四角い盆状の板(折敷)が置かれ、飯椀、汁椀、小皿が置かれている。
前列中央の男は、汁椀を捧げて、立っている人物(剥落で性別不詳)がもつ銚子から酒?を注いでもらっている。
次の順番の前列右端の男は、飲み残した汁を捨てて、酒?を注いでもらうのに備えている。
ただ、鼻を摘まんでいるのはなぜだろう。
後列左端の男は、汁椀を給仕係の女に差し出している。
給仕係の女は、そこに湯気を立てている曲げ物から柄杓で注いでいる。
注がれているのが汁なのか、単なる湯なのかわからない。
給仕係の女は、布を鉢巻状にして髪が下がらないようにし、褶(しゅう)と呼ばれる短い前掛けをして横座りいしてる。
女の背後には、長方形の大きな櫃が2つあり、飲食物はこれに入れて運ばれてきたと思われる。
また、縄で作った台座の上に大きな甕が据えられ、口に巻いた縄で柱に縛り付けられ、しっかり固定されている。
中身は酒か水かわからない。常設されているのだとしたら水瓶だと思われる。
小屋の外、左手からは、鉢をもった乞食(こつじき)の坊主が施しを求めて近づいて来ている。



7月10日(水)『春日権現験記絵』を読む(1巻の第3段:「竹林殿」の縁起) [お仕事(春日権現験記絵)]

7月10日(水)  晴れ  東京  35.度  湿度55%(15時)
8時、起床。
朝食は、グレープフルーツデニッシュとコーヒー。
髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒地に水色とピンク色の小花模様のチュニック(2分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。
9時50分、家を出る。
今日も暑い(4日続きの猛暑日)。
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↑ 夏空にサルスベリの白い花。
駅前のコンビニで講義資料のコピー。
東急東横線で自由が丘駅に移動。

10時半、自由が丘の産経学園で講義。
4月から始めた『春日権現験記絵(かずがごんげんげんきえ)』(藤原氏の氏神である大和国春日神社の神徳による数々の霊験奇瑞譚を描いた鎌倉時代後期の絵巻物)の解読。
巻1の第3段を読む。
「竹林殿」の縁起譚。
大和国広瀬郡に藤原光弘という人が住んでいた。
彼は右馬允という官職をもつ下級官人である。
ある時、大和川の北(平群郡夜摩郷)に夜な夜な光る場所がある。
不思議に思ってその場を訪ねると、高貴な女性が座っていて「ここは子孫の繁盛する場所である」と告げた。
光弘が「あなたはどなたかですか」と問うと、
「我が宿は 都の南 鹿ぞ住む 御笠の山の 浮雲の宮」と和歌を詠んで消えた。
つまり、この貴女は春日神社第四殿の「比咩神」だったのだ。
第3段の最初の絵は、藤原光弘が「比咩神」に出会う場面。
上方右側の黒灰色の部分は、大和川の水面を表す。
その岸辺に河原があり、竹林がある場所は河原より一段高くなっている。
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竹林に、いわゆる十二単姿の女性がいて、それに光弘が対座している。
貴女がこんな場所で敷物も何もない地面に座っているのはすこぶる怪しい。
あるいは微妙に宙に浮いているのかもしれない。
顔料の剥落がひどいのが残念だ。
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この絵に続いて2つ目の詞書がある。
どうも光弘が貴女に会ったのは現実のことではなく、夢の中のことだったらしい。
彼はこの夢想にしたがって、天暦2年(948)2月25日、村上天皇に奏聞した上で、この地で「土木」(建築工事)を始める。そして、6月16日にこの地に移り住んだ。
それから44年たった一条天皇の正暦三年(992)、この地に住む藤原吉兼の夢に春日明神と名乗る貴女が現れて託宣する。
光弘と吉兼の関係は明記されていないが、文脈からして光弘の子孫(孫?)が吉兼なのだろう。
吉兼はこの地に春日明神を祀る社を建てる。
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2つ目の詞書の後に普請現場の絵が長く続く。
この普請場は、光弘が「竹林殿」を建てる様子なのか、それとも吉兼が「社」を建てる様子なのか?
説が分かれる。
この点の検討は次回に回す。
普請場の情景に続いて(険しい山で隔てられているが)、吉兼が夢中に春日大明神のお告げを得る場面が描かれる。
吉兼の住い(竹林殿)はそれほど大きくない「小屋」である。
家の南側には険しい山があり、そこから谷川が敷地の南と東を画している。
画面左下隅には谷川を渡って家に入るための簡素な板橋が見える。
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西南の竹林の上に貴女が飛来している。
貴女は「我は汝の氏(神)春日大明神なり」と名乗る。
春日神社第四殿の「比咩神」の出現である。
そして、神は竹が多く繁るここが自分の気に入りの場所であること、「竹繁く盛りならば、汝が子孫、繁昌すべし」と告げる。
吉兼はこの場所に社を建てて神を祀り、竹を切ることを禁じた。
大和国平群郡夜摩郷の地は、後に「目安荘」という興福寺の荘園になる。
現在の奈良県生駒郡斑鳩町目安という場所で、今でも大和川の堤に続く丘の上に春日神社が鎮座している。
川の南は広瀬郡で『春日権現験記絵』の説話そのものの地理的状況である。
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「比咩神」は、薄紫の「十二単」の高貴で艶やかな姿で描かれている。
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藤原吉兼夫婦の寝室。
高麗縁の畳敷で、夫婦が同衾している。
吉兼は烏帽子をとっていて、髷が露わになっている。
額に続く前頭部を剃り上げる「月代(さかやき)」をしている点も注目。
平安時代の男性貴族は眠るときも烏帽子を被ったままだった。
鎌倉末期になると、烏帽子を被らない寝姿が現れる。
吉兼は箱枕をして顔を横に向けて寝ている。
夫婦ともに仰向けではなく、うつ伏せに近い寝方をしていることにも注目。
この時代、掛布団というものはなく、夜具をひき被るだけ。
もちろん、敷布団もない、
枕元には刀(枕刀)が立てかけられている。
手前の部屋では侍女が眠っている。
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本来なら不寝番の警護するはずの武装した従者も縁側で眠り込んでいる。
当然、神の出現にはまったく気づいていない。
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黒犬も床下で熟睡。
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12時、終了。
(続く)
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