台車式部 [テレビ批評(光る君へ)]
10月6日(日)
台車で運ばれる藤式部さま。
まるで大きなお雛様を運んでいるみたい。
装束を脱いで移動するか? 装束のママ台車で運ばれるか?の選択で、後者を選んだとのこと。
女房装束(俗に「十二単」)は、それだけ脱ぎ着が大変ということ。
実際には、脱ぐより着付けが大変。
脱ぐのは、帯がないので意外とスポンと脱げる(経験者)。
台車で運ばれる藤式部さま。
まるで大きなお雛様を運んでいるみたい。
装束を脱いで移動するか? 装束のママ台車で運ばれるか?の選択で、後者を選んだとのこと。
女房装束(俗に「十二単」)は、それだけ脱ぎ着が大変ということ。
実際には、脱ぐより着付けが大変。
脱ぐのは、帯がないので意外とスポンと脱げる(経験者)。
紫式部の遠い子孫、源在子という女性 [テレビ批評(光る君へ)]
9月25日(水)
鎌倉時代初期に源在子(あるこ:1171~1257)という女性がいた。
その母、藤原範子は後鳥羽天皇の乳母で、後白河院政の実力者・源通親(村上源氏)の妻になった。
在子の実父は、平清盛の正室(継室)平時子の異父弟の法勝寺執行・能円(姓は藤原)だったが、母の縁で在子は、通親の猶子として後鳥羽天皇の後宮に入り、第一皇子・為仁親王を産み、親王が即位すると、承明門院の院号を与えられた。
この在子、実は紫式部の遠い子孫なのだ。
式部の娘・藤原賢子(大弐三位)は、大宰大弐。高階成章と結婚し、高階為家を産む。
為家の息子・為賢の娘が藤原能兼(藤原南家貞嗣流)との間に藤原範兼を産み、その範兼が範子の父になる。
つまり、
紫式部ー藤原賢子ー高階為家ー高階為賢ー女子ー藤原範兼ー藤原範子ー源在子ー土御門天皇
という系譜になる。
このあたり、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽の4代の院政を支えた中・下級貴族の間で通婚が行われている状況が見える。
在子は紫式部の7代の子孫、128分の1の血を受け継いでいることになる。
そして、在子を通じて紫式部の遺伝子は皇室に入り、土御門天皇は今上天皇の直系のご先祖なので、現在まで受け継がれることになる。
すご~~~~く、薄まっているが・・・。
鎌倉時代初期に源在子(あるこ:1171~1257)という女性がいた。
その母、藤原範子は後鳥羽天皇の乳母で、後白河院政の実力者・源通親(村上源氏)の妻になった。
在子の実父は、平清盛の正室(継室)平時子の異父弟の法勝寺執行・能円(姓は藤原)だったが、母の縁で在子は、通親の猶子として後鳥羽天皇の後宮に入り、第一皇子・為仁親王を産み、親王が即位すると、承明門院の院号を与えられた。
この在子、実は紫式部の遠い子孫なのだ。
式部の娘・藤原賢子(大弐三位)は、大宰大弐。高階成章と結婚し、高階為家を産む。
為家の息子・為賢の娘が藤原能兼(藤原南家貞嗣流)との間に藤原範兼を産み、その範兼が範子の父になる。
つまり、
紫式部ー藤原賢子ー高階為家ー高階為賢ー女子ー藤原範兼ー藤原範子ー源在子ー土御門天皇
という系譜になる。
このあたり、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽の4代の院政を支えた中・下級貴族の間で通婚が行われている状況が見える。
在子は紫式部の7代の子孫、128分の1の血を受け継いでいることになる。
そして、在子を通じて紫式部の遺伝子は皇室に入り、土御門天皇は今上天皇の直系のご先祖なので、現在まで受け継がれることになる。
すご~~~~く、薄まっているが・・・。
ドラマに出てきた歌 [テレビ批評(光る君へ)]
9月22日(日)
「光る君へ」第36回『待ち望まれた日』
今回、出てきた歌。
出典はいずれも『紫式部日記』。
めづらしき 光さしそふ さかづきは
もちながらこそ 千代(ちよ)もめぐらめ(紫式部)
【訳】(皇子誕生という)素晴らしい(希望の)光が加わった(宴の)盃は、(人々が順番に捧げ)持ち続け、満月のように欠けずに、千年もめぐるだろう。
「さかづき」は「盃」と「栄月」の、「もち」は「持ち」と「望(月)」の掛詞。
かなり技巧的な賀歌。
いかにいかが 数(かぞ)へやるべき 八千歳(やちとせ)の
あまり久しき 君が御代(みよ)をば(紫式部)
【訳】若宮誕生から五十日のお祝いに、どのように遙かまで数えるのが良いのでしょう。何千年もあまりに長く続くはずの若宮のご治世を。
第1句、字余りの破調だが、どのようにの意味の「いかが」と「五十(いか)賀」を掛けている。
あしたづの 齢(よはひ)しあらば 君が代の
千歳(ちとせ)の数も かぞへとりてむ(藤原道長)
【訳】(私に)鶴のような(千年の)寿命があるならば、若宮の御世の千年の数も、数えられるだろう。
道長の返歌は、とても素直(技巧なし)。
「光る君へ」第36回『待ち望まれた日』
今回、出てきた歌。
出典はいずれも『紫式部日記』。
めづらしき 光さしそふ さかづきは
もちながらこそ 千代(ちよ)もめぐらめ(紫式部)
【訳】(皇子誕生という)素晴らしい(希望の)光が加わった(宴の)盃は、(人々が順番に捧げ)持ち続け、満月のように欠けずに、千年もめぐるだろう。
「さかづき」は「盃」と「栄月」の、「もち」は「持ち」と「望(月)」の掛詞。
かなり技巧的な賀歌。
いかにいかが 数(かぞ)へやるべき 八千歳(やちとせ)の
あまり久しき 君が御代(みよ)をば(紫式部)
【訳】若宮誕生から五十日のお祝いに、どのように遙かまで数えるのが良いのでしょう。何千年もあまりに長く続くはずの若宮のご治世を。
第1句、字余りの破調だが、どのようにの意味の「いかが」と「五十(いか)賀」を掛けている。
あしたづの 齢(よはひ)しあらば 君が代の
千歳(ちとせ)の数も かぞへとりてむ(藤原道長)
【訳】(私に)鶴のような(千年の)寿命があるならば、若宮の御世の千年の数も、数えられるだろう。
道長の返歌は、とても素直(技巧なし)。
『紫式部日記』の実写化 [テレビ批評(光る君へ)]
とうとうバレた~ぁ! [テレビ批評(光る君へ)]
和泉式部という歌人 [テレビ批評(光る君へ)]
9月15日(日)
捨て果てんと 思ふさへこそ かなしけれ
君に馴れにし 我が身と思へば (和泉式部)
(世を捨てて尼になってしまおうと思うことまでが悲しい。亡き君に馴れ親しんだ我が身と思うので)
恋人の敦道親王と死別した頃、尼になろと思って詠んだ歌。
この歌を詠む場面が、「光る君へ」に出てきた。
和泉式部は、感情がそのまま口から歌として溢れ出すような天性の歌人。
技巧的な同時代の歌人たち(藤原公任や紫式部など)とはかなり異質。
私は、万葉時代の額田王、近代の与謝野晶子と並ぶ、天才女性歌人だと思っている。
捨て果てんと 思ふさへこそ かなしけれ
君に馴れにし 我が身と思へば (和泉式部)
(世を捨てて尼になってしまおうと思うことまでが悲しい。亡き君に馴れ親しんだ我が身と思うので)
恋人の敦道親王と死別した頃、尼になろと思って詠んだ歌。
この歌を詠む場面が、「光る君へ」に出てきた。
和泉式部は、感情がそのまま口から歌として溢れ出すような天性の歌人。
技巧的な同時代の歌人たち(藤原公任や紫式部など)とはかなり異質。
私は、万葉時代の額田王、近代の与謝野晶子と並ぶ、天才女性歌人だと思っている。
「和泉式部日記」誕生 [テレビ批評(光る君へ)]
思い出の扇 [テレビ批評(光る君へ)]
バレる? [テレビ批評(光る君へ)]
『源氏物語』誕生 [テレビ批評(光る君へ)]
8月18日(日)
「光る君へ」第31回「月の下で」
ドラマもいつしか寛弘元年(1004)。
自宅の庭を歩きながら、道長から依頼された「物語」の構想を練るまひろ。
空から色とりどりの紙が降ってくるイメージ。
まさに天啓。
そして、「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に・・・」、ついに『源氏物語』誕生。
やはり左大臣・藤原道長がスポンサー兼編集者的役割。
最初の読者は一条天皇。
「光る君へ」第31回「月の下で」
ドラマもいつしか寛弘元年(1004)。
自宅の庭を歩きながら、道長から依頼された「物語」の構想を練るまひろ。
空から色とりどりの紙が降ってくるイメージ。
まさに天啓。
そして、「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に・・・」、ついに『源氏物語』誕生。
やはり左大臣・藤原道長がスポンサー兼編集者的役割。
最初の読者は一条天皇。