「光る君へ」総集編 [テレビ批評(光る君へ)]
12月29日(日)
「光る君へ」総集編を観る。。
まひろの思い出語りで進行する形式。
「籠から逃げる(自由を求める)鳥」のモチーフ。
全編を貫く主題。
そして、『源氏物語』若紫の巻に投影。
学問好きの嘘つき(妄想癖)の風変わりな女の子と、調子を合わせる学問が好きでない貴族の息子の川辺(賀茂川)の出会い。
道長、晩年の「川辺(宇治川)の誓い」に通じる。
直秀がセッティングしてくれた六条の廃院での出会い。
ここが運命的な場になり、『源氏物語』夕顔巻に投影される。
史実をベースにした、まひろと道長の恋物語(フィクション)に、フィクションである『源氏物語』を投影させるという複雑な、そしてとてもよく考えられた脚本だったが、オリジナルキャラクターの直秀を、あそこで殺してしまったことだけは、もったいなかったと思う。
直秀の無残な死が、まひろと道長の生涯の絆になるとはいえ。
そして、大河ドラマ史上、最も美しいラブシーンと言われた六条廃院での月光降り注ぐ逢瀬。
月を見上げることが全編を通じての重要な場面になる。
道長が源倫子と結婚した後、土御門殿の渡殿(橋みたいになっている)で、まひろと道長が偶然に出会うシーン、晩年(まひろが大宰府から帰ってきた後)にまた繰り返される。
(越前篇はすっ飛ばし)越前から帰京後、石山寺での逢瀬。
ドラマ上、まひろと道長は2度しかSexしていない。
2度目で、娘・賢子を懐妊したというストーリー。
一条天皇の心を捉える『枕草子』への対抗策から、まひろに物語の執筆を依頼する道長。
道長が『源氏物語』が宮中で流布するスポンサーであることは『紫式部日記』の記述から推定されるが、後宮政策として『源氏物語』の執筆が開始されたというのは新説?
色とりどりの紙が、天からまひろに降ってくるシーン、まさに「天啓」そのものの名シーン。
少ない供で、お忍びでまひろの家を訪れ、『源氏物語』の執筆を見守る編集者・道長、きっと幸せな時間だったと思う。
しかし、史実としては、政務繁多な執政の左大臣が、何時間も所在不明になることはあり得ない。
総集編の終盤は、シーンの順番を入れ替えて、急テンポ。
まひろの大宰府行きも、道長の臨終シーンも省略。
ちょっともったいない。
まひろのラストの語り。
「あの人が書かせてくれた『源氏物語』はこの先、どれほど読み継がれていくのだろう。」
1000年、そして、もっとずっと永く・・・。
「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月かな」(紫式部)
日本が世界に誇る偉大な、しかし史実不明な、女性作家・紫式部を現代に蘇らせた作品。。
脚本も演出も時代考証も、そして演じた俳優さんたちも見事だった(拍手)
「光る君へ」総集編を観る。。
まひろの思い出語りで進行する形式。
「籠から逃げる(自由を求める)鳥」のモチーフ。
全編を貫く主題。
そして、『源氏物語』若紫の巻に投影。
学問好きの嘘つき(妄想癖)の風変わりな女の子と、調子を合わせる学問が好きでない貴族の息子の川辺(賀茂川)の出会い。
道長、晩年の「川辺(宇治川)の誓い」に通じる。
直秀がセッティングしてくれた六条の廃院での出会い。
ここが運命的な場になり、『源氏物語』夕顔巻に投影される。
史実をベースにした、まひろと道長の恋物語(フィクション)に、フィクションである『源氏物語』を投影させるという複雑な、そしてとてもよく考えられた脚本だったが、オリジナルキャラクターの直秀を、あそこで殺してしまったことだけは、もったいなかったと思う。
直秀の無残な死が、まひろと道長の生涯の絆になるとはいえ。
そして、大河ドラマ史上、最も美しいラブシーンと言われた六条廃院での月光降り注ぐ逢瀬。
月を見上げることが全編を通じての重要な場面になる。
道長が源倫子と結婚した後、土御門殿の渡殿(橋みたいになっている)で、まひろと道長が偶然に出会うシーン、晩年(まひろが大宰府から帰ってきた後)にまた繰り返される。
(越前篇はすっ飛ばし)越前から帰京後、石山寺での逢瀬。
ドラマ上、まひろと道長は2度しかSexしていない。
2度目で、娘・賢子を懐妊したというストーリー。
一条天皇の心を捉える『枕草子』への対抗策から、まひろに物語の執筆を依頼する道長。
道長が『源氏物語』が宮中で流布するスポンサーであることは『紫式部日記』の記述から推定されるが、後宮政策として『源氏物語』の執筆が開始されたというのは新説?
色とりどりの紙が、天からまひろに降ってくるシーン、まさに「天啓」そのものの名シーン。
少ない供で、お忍びでまひろの家を訪れ、『源氏物語』の執筆を見守る編集者・道長、きっと幸せな時間だったと思う。
しかし、史実としては、政務繁多な執政の左大臣が、何時間も所在不明になることはあり得ない。
総集編の終盤は、シーンの順番を入れ替えて、急テンポ。
まひろの大宰府行きも、道長の臨終シーンも省略。
ちょっともったいない。
まひろのラストの語り。
「あの人が書かせてくれた『源氏物語』はこの先、どれほど読み継がれていくのだろう。」
1000年、そして、もっとずっと永く・・・。
「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月かな」(紫式部)
日本が世界に誇る偉大な、しかし史実不明な、女性作家・紫式部を現代に蘇らせた作品。。
脚本も演出も時代考証も、そして演じた俳優さんたちも見事だった(拍手)
「光る君へ」生活種族、再現性の高さ [テレビ批評(光る君へ)]
12月16日’(月)
生活習俗という点で、ドラマ「光る君へ」の演出で良かった点は住環境の再現。
開放的(過ぎる)な寝殿造の構造的特性がセットで見事に再現されていた。
夏は風が通って涼しそうだが、冬はさぞ寒かったと思う。
もう1点、道長の執務場所が、廂(ひさし)の間の、しかも縁に近い場所にしつらえられていたのは、
採光のため。
照明がない時代の住居は、採光がとても重要だった。
その点、藤式部の執筆場所は、暗すぎると思った。
女房たちの局(居室)が殿舎と殿舎を結ぶ渡殿(わたどの)の片側を御簾や几帳で仕切って設けられて
いるのも史実通り(もう片側は通路)。
セットにお金をケチらなかったのは、さすがNHK。
生活習俗という点で、ドラマ「光る君へ」の演出で良かった点は住環境の再現。
開放的(過ぎる)な寝殿造の構造的特性がセットで見事に再現されていた。
夏は風が通って涼しそうだが、冬はさぞ寒かったと思う。
もう1点、道長の執務場所が、廂(ひさし)の間の、しかも縁に近い場所にしつらえられていたのは、
採光のため。
照明がない時代の住居は、採光がとても重要だった。
その点、藤式部の執筆場所は、暗すぎると思った。
女房たちの局(居室)が殿舎と殿舎を結ぶ渡殿(わたどの)の片側を御簾や几帳で仕切って設けられて
いるのも史実通り(もう片側は通路)。
セットにお金をケチらなかったのは、さすがNHK。
「光る君へ」生活種族、演出と史実の違い [テレビ批評(光る君へ)]
12月16日’(月)
生活習俗という点で、ドラマ「光る君へ」の演出と、史実としての平安時代の違い。
思いつくままに3点。
① 平安時代の貴族が最も怖れた「死穢」の扱いがきわめて軽い。
三郎とまひろが、葬送の地である鳥辺野で、友人の直秀の遺骸を素手で生めるシーンがあったが、まずありえない。
② やはり平安貴族が重視して、『源氏物語』にも頻出する方角の禁忌「方忌み」「方違え」がほとんど出てこない。
日時の吉凶を陰陽師が占うシーンはあったのに。
③ 従者や侍女の数が少なすぎる。
経済的困窮で雇えないまひろの家(蕗藁為時邸)はともかく、倫子様の土御門殿や内裏の藤壺に人が少なすぎる。
女房たちの多くは上流貴族の姫君たちで、自分で身の回りのことをする訓練は受けていない。
それをしてくれる侍女は不可欠のはず。
早いかさばるかさばる女房装束で、おしっこをするのは無理で、子序の介添えが必要。
まひろの外出もそうで、従者の乙丸だけでなく、次女が必ず伴ったはず。
いずれも、演出上の都合が優先されたのだと思う。
生活習俗という点で、ドラマ「光る君へ」の演出と、史実としての平安時代の違い。
思いつくままに3点。
① 平安時代の貴族が最も怖れた「死穢」の扱いがきわめて軽い。
三郎とまひろが、葬送の地である鳥辺野で、友人の直秀の遺骸を素手で生めるシーンがあったが、まずありえない。
② やはり平安貴族が重視して、『源氏物語』にも頻出する方角の禁忌「方忌み」「方違え」がほとんど出てこない。
日時の吉凶を陰陽師が占うシーンはあったのに。
③ 従者や侍女の数が少なすぎる。
経済的困窮で雇えないまひろの家(蕗藁為時邸)はともかく、倫子様の土御門殿や内裏の藤壺に人が少なすぎる。
女房たちの多くは上流貴族の姫君たちで、自分で身の回りのことをする訓練は受けていない。
それをしてくれる侍女は不可欠のはず。
早いかさばるかさばる女房装束で、おしっこをするのは無理で、子序の介添えが必要。
まひろの外出もそうで、従者の乙丸だけでなく、次女が必ず伴ったはず。
いずれも、演出上の都合が優先されたのだと思う。
「光る君へ」第48回(最終) [テレビ批評(光る君へ)]
12月15日’(日)
「光る君へ」第48回(最終)
あ~ぁ、終わっちゃった。
長年待ち望んだ平安王朝・大河ドラマ。
1年間、1回も欠かさず、堪能させていただきました。
40年前、『御堂関白記』の購読会で机を並べた、時代考証の倉本一宏さん、ほんとうにお疲れさまでした。
「光る君へ」第48回(最終)
あ~ぁ、終わっちゃった。
長年待ち望んだ平安王朝・大河ドラマ。
1年間、1回も欠かさず、堪能させていただきました。
40年前、『御堂関白記』の購読会で机を並べた、時代考証の倉本一宏さん、ほんとうにお疲れさまでした。
藤式部、大宰府へ [テレビ批評(光る君へ)]
11月24日(日)
「光る君へ」
藤式部が旅に出る。行く先は大宰府。
道長は「(朝廷の)使船に乗っていけ」と言う。
藤式部の身分は、太皇太后(彰子)付きの女房で、おそらく位階・がある公的な女官ではない。
さらに、旅は公用ではなく私用である。
朝廷の使船に便乗することが、特別待遇だ。
難波津から瀬戸内海を西へ、大宰府に向かう船は、途中、何度も港に寄っていく。
室津、鞆の津・・・。
国府に付属する津、「国府津」だ。
(このドラマの)道長のことだから、各国府にいる受領に「藤式部という女房が通るから、よしなに」
という書状を持たせたはず。
太政大臣殿下の書状を見た国司は、当然のことまがら、丁重に扱うはず。
中には、特別な関係を察する国司もいたかも。
「光る君へ」
藤式部が旅に出る。行く先は大宰府。
道長は「(朝廷の)使船に乗っていけ」と言う。
藤式部の身分は、太皇太后(彰子)付きの女房で、おそらく位階・がある公的な女官ではない。
さらに、旅は公用ではなく私用である。
朝廷の使船に便乗することが、特別待遇だ。
難波津から瀬戸内海を西へ、大宰府に向かう船は、途中、何度も港に寄っていく。
室津、鞆の津・・・。
国府に付属する津、「国府津」だ。
(このドラマの)道長のことだから、各国府にいる受領に「藤式部という女房が通るから、よしなに」
という書状を持たせたはず。
太政大臣殿下の書状を見た国司は、当然のことまがら、丁重に扱うはず。
中には、特別な関係を察する国司もいたかも。
望月の歌 [テレビ批評(光る君へ)]
11月17日(日)
「光る君へ」第44回
この世をば わが世とぞおもう 望月の
かけたることも なしと思えば
孫2人が天皇と東宮、3人の娘が「三后」として並び、長男は摂政、我が身は太政大臣という栄華の絶頂で詠まれたとされる藤原道長の歌。
その彼が心の中で眺めていたのは、最愛の女性(藤式部)と結ばれた六条の廃院の破れた屋根から眺めた望月だった。
この歌は道長自身の日記『御堂関白記』には記されく、藤原実資の『小右記』にのみ記されている。
道長から返歌を求められた実資が、返歌せずに、ただ唱和したのも『小右記』の記載そのまま。
若い頃に学んだ平安貴族日記の世界がドラマとして再現され、感激。
「光る君へ」第44回
この世をば わが世とぞおもう 望月の
かけたることも なしと思えば
孫2人が天皇と東宮、3人の娘が「三后」として並び、長男は摂政、我が身は太政大臣という栄華の絶頂で詠まれたとされる藤原道長の歌。
その彼が心の中で眺めていたのは、最愛の女性(藤式部)と結ばれた六条の廃院の破れた屋根から眺めた望月だった。
この歌は道長自身の日記『御堂関白記』には記されく、藤原実資の『小右記』にのみ記されている。
道長から返歌を求められた実資が、返歌せずに、ただ唱和したのも『小右記』の記載そのまま。
若い頃に学んだ平安貴族日記の世界がドラマとして再現され、感激。
藤原惟規の死 [テレビ批評(光る君へ)]
10月15日(火)
「光る君へ」第39回「とだえぬ絆」
藤式部の弟、藤原惟規の死については、寛弘8年(1011)、父・為時の任地である越後に同行して、その地で亡くなったこと以外、史料はない。
正確な没年も年齢も不詳で、おそらく30代半ばと思われる。
当時の急死のパターンとしては、「脚気傷心」、ビタミンB1不足に由来する心臓疾患(急性心不全)が考えられる。
次いで、脳血管系の病気(脳出血)。
急死ではないが、壮年期の死因としては、糖尿病。
藤原伊周は、父・道隆から受け継いだ遺伝性の糖尿病だった可能性が高い。
女性の場合、それに妊娠・出産にともなう死が加わる。
ともかく、致死性の病気に対して、有効な治療法がない時代。
頼れるのは、自らの体力・免疫力だけ。
だから神仏の加護を祈るしかない。
「光る君へ」第39回「とだえぬ絆」
藤式部の弟、藤原惟規の死については、寛弘8年(1011)、父・為時の任地である越後に同行して、その地で亡くなったこと以外、史料はない。
正確な没年も年齢も不詳で、おそらく30代半ばと思われる。
当時の急死のパターンとしては、「脚気傷心」、ビタミンB1不足に由来する心臓疾患(急性心不全)が考えられる。
次いで、脳血管系の病気(脳出血)。
急死ではないが、壮年期の死因としては、糖尿病。
藤原伊周は、父・道隆から受け継いだ遺伝性の糖尿病だった可能性が高い。
女性の場合、それに妊娠・出産にともなう死が加わる。
ともかく、致死性の病気に対して、有効な治療法がない時代。
頼れるのは、自らの体力・免疫力だけ。
だから神仏の加護を祈るしかない。
台車式部 [テレビ批評(光る君へ)]
紫式部の遠い子孫、源在子という女性 [テレビ批評(光る君へ)]
9月25日(水)
鎌倉時代初期に源在子(あるこ:1171~1257)という女性がいた。
その母、藤原範子は後鳥羽天皇の乳母で、後白河院政の実力者・源通親(村上源氏)の妻になった。
在子の実父は、平清盛の正室(継室)平時子の異父弟の法勝寺執行・能円(姓は藤原)だったが、母の縁で在子は、通親の猶子として後鳥羽天皇の後宮に入り、第一皇子・為仁親王を産み、親王が即位すると、承明門院の院号を与えられた。
この在子、実は紫式部の遠い子孫なのだ。
式部の娘・藤原賢子(大弐三位)は、大宰大弐。高階成章と結婚し、高階為家を産む。
為家の息子・為賢の娘が藤原能兼(藤原南家貞嗣流)との間に藤原範兼を産み、その範兼が範子の父になる。
つまり、
紫式部ー藤原賢子ー高階為家ー高階為賢ー女子ー藤原範兼ー藤原範子ー源在子ー土御門天皇
という系譜になる。
このあたり、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽の4代の院政を支えた中・下級貴族の間で通婚が行われている状況が見える。
在子は紫式部の7代の子孫、128分の1の血を受け継いでいることになる。
そして、在子を通じて紫式部の遺伝子は皇室に入り、土御門天皇は今上天皇の直系のご先祖なので、現在まで受け継がれることになる。
すご~~~~く、薄まっているが・・・。
鎌倉時代初期に源在子(あるこ:1171~1257)という女性がいた。
その母、藤原範子は後鳥羽天皇の乳母で、後白河院政の実力者・源通親(村上源氏)の妻になった。
在子の実父は、平清盛の正室(継室)平時子の異父弟の法勝寺執行・能円(姓は藤原)だったが、母の縁で在子は、通親の猶子として後鳥羽天皇の後宮に入り、第一皇子・為仁親王を産み、親王が即位すると、承明門院の院号を与えられた。
この在子、実は紫式部の遠い子孫なのだ。
式部の娘・藤原賢子(大弐三位)は、大宰大弐。高階成章と結婚し、高階為家を産む。
為家の息子・為賢の娘が藤原能兼(藤原南家貞嗣流)との間に藤原範兼を産み、その範兼が範子の父になる。
つまり、
紫式部ー藤原賢子ー高階為家ー高階為賢ー女子ー藤原範兼ー藤原範子ー源在子ー土御門天皇
という系譜になる。
このあたり、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽の4代の院政を支えた中・下級貴族の間で通婚が行われている状況が見える。
在子は紫式部の7代の子孫、128分の1の血を受け継いでいることになる。
そして、在子を通じて紫式部の遺伝子は皇室に入り、土御門天皇は今上天皇の直系のご先祖なので、現在まで受け継がれることになる。
すご~~~~く、薄まっているが・・・。