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【再録】「杉村久子日記」に見る大阪船場の「節分の巻寿司」習俗 [生活文化・食文化・ファッション文化論]

2012年02月03日
「杉村久子日記」に見る大阪船場の「節分の巻寿司」習俗
2月3日(金)
ついこの間、歳が明けたと思ったら、もう今日は節分である。

節分の「恵方巻」については、3年前に調べて書いたことがある。
(参照)2009年02月03日 節分の「恵方巻」のからくり

要約するとこんな感じになる。

(1) 昭和初期の大阪・船場の商人の間では、節分の縁起もの(厄落とし習俗)として「丸かぶりずし」を食べることが行われていたことが、広告などから確認できる。

(2)その発祥地は、大阪のほか、和歌山(紀州)、滋賀(近江)など候補があり確定はできない。

(3)そうした習俗も、戦後になるとまったく廃れた。

(4)1973年、大阪海苔問屋協同組合が、海苔を使用する巻き寿司販促キャンペーンとして、ポスターを寿司屋などの店頭に貼り出し、翌1974年には、大阪市で海苔店経営者が、海苔の需要拡大を目的に、節分のイベントとして「海苔巻きの早食い競争」を始める。
1977年には、大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行った海苔の販売促進行事が、現地のマスコミに紹介され、節分に巻き寿司を食べる習俗が、関西の一部で復活した

(5)コンビニエンス・ストアチェーン(ファミリーマート、セブン-イレブン)が、売り上げの落ちる1月後半~2月初旬の販売促進イベントとして、取り入れたことから全国展開していく。
その時期は、1998年頃かららしい。

(6)首都圏で「節分の恵方巻」の認知が広まったのは、ごく最近、2000年代になってからである。

つまり、以前から、大阪船場あたりの狭いエリアで細々と行われていた習俗が、最初は海苔問屋、続いてコンビニエンス・ストアの販売促進という目的で、あたかも伝統的な習俗であるかのように宣伝され、世間に広まってしまったということ。

「目を閉じて一言も喋らず」というのも、その過程で、誰かが言いだしたのかもしれない。
商業ベースで、年中行事(習俗)らしきものが捏造されたという点では、同じ2月のバレンタインデーのチョコレートとそっくり。

で、(1)の昭和初期の大阪・船場の商人の間では、節分の縁起もの(厄落とし習俗)として行われていたことについて、最近読んだ荒木康代『大阪船場おかみの才覚-「ごりょんさん」の日記を読む-」(平凡社新書 2011年12月)に記述があるので、紹介しておく。

この本で読解・紹介している「日記」は、大阪船場の商家に嫁いだ杉村久子(1875~1945年、旧姓:五代)という女性が残した「日記」。

その昭和2年(1927)の2月4日の条に、当時は大阪府伊丹町に住んでいた久子が女中とともに前日から用意しておいた材料で、節分の巻き寿司を作った記述が見える。

「台所六時起出つ。久子七時半起出、洗面。八時半参詣し九時より台所へ出、寿し材料昨日巻し分を味滲み、高野、椎茸、かんぴょうなど皆味を付け出し、飯たき上げしを酢をかげんして、まぜてさまさせ、厚やき切り、高野きり、あなごす焼きにさせて、後に味醂を付けてきざみ、海苔あぶりなど準備手間取り、やっつ十一時より巻にかかる。十二時迄に五本巻き置きて、中食。台所下女うわのはしにて中食させ、十二時半より松と二人にて巻き、一時半大阪送りの分揃う。準備九時より、十一時より巻かけ久子任七本、松任二本巻、三時に終り、四時片付け終わる。」

この朝、久子はいつもより早く起き、9時から女中たちを指揮して巻寿司の下準備にかかる。
水で戻した高野豆腐、椎茸、干瓢に味を滲ませ、飯を炊いて酢加減して冷まし、酢飯を作る。穴子を素焼きにして味醂を付けて刻み、海苔をあぶってやっと準備完了。
11時から手分けして巻き始め、昼食を挟んで13時半までに、大阪に送る分が完了、さらに巻く作業を15時まで続ける。

贈り先リストによると、この日、久子が女中とともに作った巻寿司は合計50本。
自宅と店の分以外に親戚、知人に贈っているが、家族だけでなく雇人や女中の分もきちんとカウントして贈っている。

つまり、節分の巻寿司は、身分に関係なく1人1本であったことがわかる。

同時に、久子から巻寿司を贈られている実家の五代家の関係者や伊丹町の友人たちの家では巻寿司は作っていないと推測される。

「杉村久子日記」からは、節分の縁起物としての巻寿司が大阪・船場の商家という限られた範囲の習俗であったことが読み取れる。


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礒田湖龍斎「雛形若菜の初模様」シリーズ [生活文化・食文化・ファッション文化論]

1月26日(日)

今夜のNHK大河ドラマ「べらぼう」に出てきた
礒田湖龍斎の「雛形若菜の初模様」シリーズ(大判錦絵)のうち「たまや内 しづか」(1775年)。
礒田湖龍斎「たまや内 しづか」(1775年).jpg

しずか花魁の帯の柄、青海波に何かいる・
礒田湖龍斎「たまや内 しづか」(1775年)部分 青海波に兎.jpg
兎さんだ。
波を渡る兎といえば、出雲神話の「因幡の白兎」。
おしゃれだなぁ。
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蕎麦切りの原形態 [生活文化・食文化・ファッション文化論]

9月2日(月)

「X」で友人の研究者が「蕎麦史」論議をしているので、私の見解を少し。

蕎麦(蕎麦切り)の原形態をどのようにイメージすべきなのか?

江戸時代、大都市における蕎麦の大衆化は、屋台見世の「二八蕎麦」が主導したと思われ、その形態は
器に入れた蕎麦に汁をかける「かけ」だった。

これは狭い屋台見世で、丼一つで蕎麦を提供できる合理的な形態だった。
都市における蕎麦文化が「かけ」主流であったことは、間違いないと思う。

しかし、典型的な蕎麦食地帯である埼玉県秩父地方に生まれ育った私の経験(1960年代)からすると、自宅で蕎麦を打つ家では、「かけ」の食べ方を見た記憶がない。
記憶にある限り、すべて、大皿などに並べられた蕎麦切りを付け汁に軽く浸してすする「もり」形態だった。

街の蕎麦屋には「かけ」もあったが、自家食としては「もり」がほとんどだった。

つまり、自家食だった蕎麦切りが、都市に流入して商業化することで、主流形態が「もり」から「かけ」に変化したと思われる。

「もり」の形態も絶えたわけではなく、「もり」の高級化として「ざる」が出現する。


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三角形のフレアー・ミニ [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月27日(木)

キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」(1977年)
キャンディーズ  暑中お見舞い.jpg
松田聖子「夏の扉」(1981年)の衣装。
松田聖子「夏の扉」.jpg
こういうシルエットが三角形になるフレアーのミニスカートが流行った時代があったのか?

?を付けたのは、記憶がまったく欠落しているから。
ちょっと調べてみよう。

女装世界で、このタイプのフレアー・ミニといえば、MR先生こと宮崎留美子さん。
もしかして、MR先生の原点の1つが、このあたりなのかも。


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女房装束の重さ [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月20日(木)

NHK「朝イチ」で、平安時代の女房装束を再現して、重量12kgと言っていた。

まあ、そんなもの。
もう少し重いかも。
絹もたくさん重ねると重いのだ。

画像は「王朝時代の私」。
王朝時代の私.jpg
唐衣・裳を着けていないので女房装束ではなく、小袿姿。


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ボディコン・ワンピースの背景 [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月13日(木)

1990年代のバブル崩壊期のディスコファッションとして身体のラインが出るボディコンシャスな服が流行った背景には、伸縮性に富んだスパンディング素材の導入がある。
ボディコン・ファッション1(1993) 3.jpg
ボディコン・ファッション4(1993).jpg
↑ 私が着ているボディコンワンピース(1993年)はどちらも、かなりの伸縮素材。

人間、とりわけ女性の身体には凹凸があるので、スパンディング素材がない時代に、身体ラインにぴったりした衣服を作ろうとすると、丁寧に採寸して、立体裁断・縫製をしなければならなかった。

しかも、そのままでは脱ぎ着ができないので、背中などを開いて、着た後にファスナーで閉じるという操作が必要だった。

それがスパンディング素材の導入で、頭からすっぽり被れば、あるいは下から引き上げれば、誰でもボディコンシャスなワンピースを着られるようになった。

実 は、1980年代のバブル全盛期のディスコファッションは、それほどボディコンシャスではない。
ちょうど1990年前後を境に、衣料素材の変化があったということ。

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↑ 2000年代の欧米のボディコンファッション。
見事にボディラインが演出されている。
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サイドが開くボディコンミニ(その2) [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月13日(木)

バブル崩壊期、1992~93年頃のディスコファッション、サイドが開いているボディコンミニは、通常の下着が着けられない。
930203-3.jpg
ブラジャーのサイド部分やショーツの紐がみえてしまうからだ。

で、どうしたかというと、特殊な形状の下着?を着けていた。
ブラは、乳房に直接貼り付けてリフトする「ヌーブラ」。
ヌーブラ.jpg
ショーツは「Cッッストリングス」という、下着と言えるのか?と思う不思議なものを着けていた(らしい)。
Cストリングス.jpeg

私はどうしていたかというと・・・。
胸はシリコン製の偽乳を接着剤で直接貼り付けていた。

股間はいわゆる「前バリ」。
ガーゼを三角形にたたんで脱脂綿を当てて、それを粘着テープで股間に装着していた。
これは、おしっこに行けないので、耐久時間は長くない。
あと、接着剤や粘着テープはけっこうかぶれる。

今にして思うと、なんでこんなことしてたのだろう?と思うけど、そういう時代だったのだ。



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サイドが開くボディコンミニ(その1) [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月13日(木)

バブル崩壊期、1992~93年頃のディスコファッションは、ボディコンミニの裾丈が極限的に短くなって、もうこれ以上は無理状態になると、なぜかサイドが開き始めた。

ボディコン・ファッション1(1993) (2).jpg
↑ 私が着ているワンピース(1993年)は、裾から腰骨のあたりまで、そして両袖のサイドが金属リングになっている。

ボディコン・ファッション2(1992~93) (2).jpg
↑ この女性のワンピース(1992年)が典型的で文字通りサイドに穴が開いているデザイン。

ボディコン・ファッション3(1993年後半) (2) - コピー.jpg
↑ この女性のワンピース(1993年)など、前身頃と後身頃がほとんど分離してい手、紐でつなげている。

こういうファッション、欧米にもあるのか?と思い、ファッション画像のコレクションを探してみたが、ほとんど見当たらない。

Fashion131-2.jpg
↑ この女性の白いワンピース、片方のウェストが開いているが、デザイン的になんか違うように思う。

さらに探したら、デザイン的に似ているのを見つけた。
Karla Carrillo 1.jpg
Karla Carrillo というshemaleのお姐さん。
ただし、これから男性と遊ぶ(Sexする)状況なので、服というよりランジェリーなのかも。

結論的に、サイドが開くボディコンミニは、日本独自の進化ということで、いいように思う。

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女性の行動を制約する衣服 [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月12日(水)

以前(10年前)、資料として集めたフェティッシュ・ファッションの画像。
Latex20.jpg
この女性のポーズがずっと不思議だった。

画像処理を変えたら、モデルさんが挙げている右手は、天井に着いているのがわかった。
つまり、つっかえ棒にして身体を支えている。

この接地面積ではそうでもしないと立っていられない。

Latex7.jpg
こちらの画像の女性も同様で、左右の壁に手を突っ張って、姿勢を保っている。

問題は、そんなことをしないと、立ち姿勢を保てないような身動き不自由なファッションをなぜする(させる)のか? そうした欲望はどこから来るのか? ということ。

端的に言えば、女性の行動を制約(身動きを不自由にする)する欲望。

衣服(靴を含む)や身体変工がそうした欲望の道具になっている。

念のため付け加えると、このモデルさん2人は生得的女性です(たぶん)。



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漢字の字形と使用について [生活文化・食文化・ファッション文化論]

5月27日(月)

昨日の米澤泉美さんの「幽霊漢字」の報告でコメントしたことを敷衍しておく。

日本の奈良時代(8世紀)は世界中で一番たくさん文字資料が残っているが、仏典を除く行政文書(戸籍を含む)に使用されている漢字は、それほど多くない。

当然のことながら文書は書記官が毛筆で紙に書くわけで、字体の細部にややブレはあるが、公文書ではまずまず「標準化」がなされている。

地名は、和銅6年(713)に国・郡・郷レベルまで「好字二字」で完全に「標準化」されている。
だから、やたらと難しい漢字を使う地名はない。

戸籍も、庶民の名前に難しい漢字を使うはずもなく、多くは音に漢字を当てるか(佐久良)、子、丑、寅・・・のように生年の十二支を使うくらい(子麻呂、寅女)。

そうした状況は、徐々に崩壊しつつも律令文書主義が行われていた平安時代までは、大きな変化変はなかったと思う。

平安時代中期、898~901年頃にb編纂された最初の漢和辞典『新撰字鏡』(僧・昌住)12巻本には、約2万1000字が収録されている。
目一杯集めてこれで、日常的に使われていた漢字はもっとずっと少ない。

自筆本が残っている藤原道長の日記『御堂関白記』も、それほど使用漢字は多くない。
藤原実資の『小右記』や藤原行成の『権記』の方が、若干、使用漢字が多いように思う(誰も数えていない)が、まあ大差ない。

律令文書主義に起源する漢字の「標準化」が外れて、やたらと漢字の字体が増えていくのは、おそらく
鎌倉時代以降ではないだろうか。

その傾向は江戸時代にさらに拡大していく。

そうした字体の多様化の背景には、漢字使用者の拡大があると思う。
使用者が多くなり、標準化チェックが効かなくなると、誤字も増え、その誤った字形が引き写されて拡大していく。

私は、多様な字形のかなりは、誤字起源だと思っている。

明治時代になって「王政復古」で律令制的な戸籍や土地台帳(土地登記簿)が作成されるようになったが、漢字の「標準化」がまったく不十分で、江戸時代以来の多様な字形が、戸籍や登記簿のような公文書に持ち込まれる。

本来、誤字であっても、いったん公文書に記されると、「この字形は誤りである」と言えなくなる。
で、字形がどんどん増えていく。

そうした状況が、昭和戦後期の漢字使用制限(でも、名字は例外)、1970年代末のコンピューター使用の開始による漢字の電子化まで続く。

という理解でどうでしょう? 泉美さん。
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