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「赤線」女給の再現イメージ [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月22日(月)

先週金曜日の「「赤線」と売春防止法」の講義で、「赤線」の女給さんの復元画像を見せたのだけど、ちょっと驚いた顔をしていたお客さんがいた。

やはり、一般的なイメージはもっと地味なのだろうか。

しかし、「原色の街」(吉行淳之介の小説)と言われた色彩に富んだ街で、お客を引く女性が地味だったら、仕事にならないだろう。
「赤線」復元1.jpg 「赤線」復元2.jpg

「赤線」の全盛期、1952年頃、「赤線」新吉原の高級店のトップクラスの女給さん(やや古風)の再現イメージ。
「赤線」復元3.jpg
たぶんこんな感じ。

拙著『新宿「聖なる街」の歴史地理』(朝日選書、2018年)の表紙に使った。
モデルは、この種の再現撮影では、右に出る者がいないYUKOさん。
実は、もっとすごい色気の写真があるのだけど、怖くて使えなかった(笑)

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買春の確実な、たぶん最も古い事例 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月16日(火)

買春の確実な、たぶん最も古い事例。

源師時(1077~1136)『長秋記』元永2年〔1119〕9月3日条
「相公(源師頼)は熊野を迎え、与州(藤原長実)は金寿を抱き、羽林(源顕雅)は小最を抱く」

摂津広田社に参詣した帰路、江口(現:大阪市東淀川区)の遊女と遊んだ記録。
「熊野」「金寿」「小最」は相手になった遊女の名。
貴族が江口・神崎の遊女を召した記録は、もっと古いものがあるが、相方の名まで記録しているのは珍しい。

もう一つ。
藤原頼長(1120~1156)『台記』久安4年(1148)3月21日条

「柱本の辺りに宿す。今夜、密に江口の遊女を舟中に召し、これに通ず」

この時、頼長(内大臣)は舟で難波の四天王寺に詣でた帰りで、柱本(現:大阪府高槻市)あたりに停泊した際に、江口の遊女を舟中に召して性的関係をもった。
江口(淀川河口)の遊女、かなりの距離を出張している。

ちなみに、頼長は難色好みで知られるが、この時は女

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「色里」の成立 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月16日(火)

日本における「色里」の成立。

平安時代中期(10世紀)になると、京と難波を結ぶ淀川水運の河港に「遊女(あそびめ)」が集まる。
 江口・神崎(摂津国=大阪府)。
住吉詣の貴族たちも利用。

平安時代後期~鎌倉時代(11~13世紀)になると、瀬戸内海航路の港(津)にも遊女が集まる。
 室津(播磨国=兵庫県)、
 鞆の浦(備後国=広島県)、
 赤間関(長門国=山口県)
遊女の「長(おさ)」=統率者は、ほとんどの場合、女性。
女性たち(擬似母系集団)による自立的な売春であり、男性による遊女の管理・収奪は、まだ周縁的だった。
「法然上人絵伝」.jpg
画像は、讃岐国に流罪になる法然上人の船に漕ぎ寄せる室津の遊女。
(「営業」ではなく説法を聴きに来た)
鼓を持つのは巫女の、傘を差し掛けられるのは貴人の象徴。
櫓を操るのも女性であることに注意。
「法然上人絵伝」(1209年)

「立君と辻子君」(七十一番職人歌合絵巻).jpg
「七十一番職人歌合絵巻」(1500年頃)の「辻子(ずし)君と立君」。
左の家で、男の来訪をうけているのが「辻子君」(左上)。
右の路上で、男と会話(交渉)しているのが「立君」。

室町時代の京に、路上で客を誘う「立君」と、家で客の来訪を待つ「辻子君」の2つの売春形態があったことがわかる。
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「買売春」史の前提 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月13日(土)

昨夜(12日)の講義では、はじめに「買売春史の困難」という話をした。

まず、何をもって「買売春」とするか?という定義から。
「買売春」を
「性的サービス」と「財物」との交換行為
と定義した。

しかし、次に「性的サービス」トは何か?、「財物」とは何かということになる。
「性的サービス」の範囲は広い。
膣性交が含まれることはほとんど異論はないと思うが、肛門性交や口唇性交は含まれるのか、「手こき」はどうなのか?
あるいは、性的サービスの行為主体は女性限定なのか、それとも男性が行為主体の場合も含むのか?
ちゃんと考えると、けっこう大変だ。

「財物」も、一般的には貨幣だが、貨幣制度の成立以前はどうなのか? 
布や米でもよいのか?

さらに、一妻多夫制の社会で、1人の女性のところに複数の男性が食料を持ってやって来て、性行為をしているとしたら、売春との境界は、どうなるのか?

まあ、厳密にいろいろ考えると話ができないので、緩く定義して先に進みましょうと言って、スタートした。

実は、駄目な研究者は、こういう定義問題を平然とすっ飛ばす。
「売春の定義? 男が女性を買うことよ」
で済ましてしまう。
これでは、学問は進歩しないということ。

「買売春」史の前提として、もう1つ話をしたのは、日本における「遊び」の意味。
子ども同士ならろもかく、大人同志で「遊びましょう」と言った場合、そこには性的な意味が込められている。

それは、日本の「遊び」が、共同飲食サービス・芸能・性的サービスの三位一体であり、基本的に不分離だから。

そして、その源流は「神遊び」にある。
神との共食、神への芸能奉納。神の「妻」との性行為(聖婚=神と「妻」をシェア)が「神遊び」であり、そこから「神」が抜けた(存在が希薄化した)のが「遊び」。

ここで、なかなか理解してもらえないのが「聖婚」。
神と「妻」をシェアすることで、神がもつ聖性が伝播するという考え方。

そうした行為は、神殿で行われる。
つまり「神殿売春」。
「神殿売春」は、ユダヤ教では強く忌避されているが、多くの宗教で行われていた。

日本の場合も、少なくとも中世までは巫女と遊女は、かなり重なる存在だった。
この話、現代の神社の巫女が穢れを知らない処女で、性的なものから遠い存在として認識されているので、なかなか理解してもらえない。

ということで、古代・中世の日本においては、性的サービスだけが独立して行われるケースはほとんどなかったと思われる。
だからといって性的サービスがおこなわれていないわけではない。

つまり、性的サービスだけを切り離して「買売春」の成立を論じても意味がない、ということになる。

例えば、『万葉集』に登場する「遊行女婦(うかれめ・あそび)」は、貴人の宴席に侍して(共同飲食)、歌を詠み舞う(芸能)女性だが、宴席が終わった途端に「さよなら」と帰ってしまうかといえば、それはまずあり得ないだろう。

『万葉集』にはっきりとは記されていないが、その後、「性的サービス」が行われる機会があったと考えるべきだ思う。

それが「遊び」だからだ。

それが「遊び」だからだ。

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紅子さんの写真集『紅子の色街探訪記』 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

12月8日(金)

紅子さんの写真集『紅子の色街探訪記』が届いた。
紅子の色街写真集.jpg
出来映え、期待以上に、すばらしい!
芸術性と記録性のバランスがとても良い。

惜しむらくは、もう10年、いやせめて5年早く撮影を始めていたら・・・。

でも、それは紅子ではなく、私たち世代の責任だ。

クラファンで、目標額の3倍の450万円を集めた話題の写真集。
さらに評価が高まるだろう。
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うれしい悲鳴 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

6月13日(火)

うわ~~ぁ! 

古書店「股旅堂」に注文を出した9点、全部「当選(落札)」だ。

うれしいけど、お金(お支払い)どうしよう。

昭和戦前期の新宿遊廓の娼妓の「実録」本(この種の「実録」本はほとんどが新吉原遊廓の娼妓の設定なので、新宿はとても珍しい)も当選(落札)。
これが高いのだ。

でも、これをネタに、論文1本、書けるかな。


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8万円ー(空目)→80万円 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

6月2日(金)

さっき到着した古書店「股旅堂」さんの目録に、仙台・小田原遊廓のある妓楼の「遊客名簿」3冊を含む一括書類(大正末期~昭和初期)が出ていた。

「8万円か・・・、私が買い取って、まじめな院生さんプレゼントして、ちゃんと分析すれば、博士論文になるかも」
と思って、よく見たら、80万円だった(←老眼にゃ)。

ごめん・・・無理。

現在の大学の人文系の専任教授の図書購入費では、たぶん無理。
よほど潤沢な科研費でももらっていればともかく、購入に私財を投入することになると思う。

場所からして、本来なら、東北大学あたりの図書館に購入して欲しいが、予算的に難しいだsろう。
まして買売春関係の史料となると、会議を通らない。

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遊廓の移転と近代都市の発展&都市政策 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

5月14日(日)

遊廓の移転と近代都市の発展&都市政策は強く関係する。

都市が発展して、それまでの遊廓が都市の中心部になってくると、「風紀」が問題化され、郊外への移転計画が出てくる。

それを後押しするのが、明治期に多かった「大火」だ。
「大火」自体も、都市の膨張と大きく関わるのだが、遊廓移転もきっかけになる。

昨日報告を聴いた、名古屋市「旭遊廓」の「中村遊廓」への移転や、静岡県藤枝町の「藤枝新地」への移転は、その典型だ。

私が踏査した中でも、東京都八王子遊廓、北海道小樽市の「松ヶ枝遊廓」、富山県の高岡市の「高岡遊廓」など、大火が移転のきっかけになっている。
他にも数多い。

郊外移転した遊廓はほとんどの場合、計画的に地割りされたシンメトリーな姿になる。
近代遊廓は、けっしてごちゃごちゃした町割りではなく、広い道路と整った区画の町並みにが特徴で、当時としては近代的ない異空間となる。

「大火」が移転のきっかけになった近代遊廓では、当事者(妓楼主)の心理的にも、行政の都市政策的にも、防火対策に意識が向くのは当然だ。
八王子遊廓も、松ヶ枝遊廓も、高岡遊廓も、交通路としての機能からしたら、道路幅を過大に広くとっているのは、防火帯としての機能を期待したからだ。

中村遊廓の場合、高く長大なコンクリート防火壁を遊廓中心部を南北に貫いて南北に2本設置しているのは、当時としては画期的。

それを再発見したことぶきさんの仕事は,フィールドワークの大きな成果だと思う。
今回、そのコンクリート防火帯をトンネルのようにくり抜いて、避難用通路が設置されていることに驚いた。
これは見に行かなければと思った。

実は、大火→郊外移転→防火機能をともなったシンメトリーな計画的遊廓というパターンの最初は、江戸の新吉原遊廓だった。

明暦の大火(1657年)の後、日本橋人形町付近にあった吉原遊廓(元吉原)は、江戸の北郊・金竜山浅草寺のさらに北の僻地に移転させられる。

そこでは、広い仲ノ町通りに3本の通りが直交する「三筋町」の計画的なシンメトリーな遊廓空間が設置された。

1923年に開設された中村遊廓も外周道路を別にすれば,基本設計は「三筋町」である。

明治末期~大正期の近代遊廓のお手本(原点)は、250年以上前の新吉原遊廓だったのだ。
そこに新吉原遊廓の先進性がある。



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5月13日(土)「東海遊里史研究会 in 東京!」 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

5月13日(土)

「東海遊里史研究会 in 東京!」(主催:カストリ書房)を聴講のため、2週続けて新吉原へ。
東海遊里史研究会in東京.jpg
引き手茶屋の系譜を引く料亭「金村」の2階座敷で、1部・2部併せて4時間、6本の報告(3人の方が2本ずつ)を聴く。
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「素人」とは思えない研究レベルの高さは、すでに出版されている3冊の論集を読んでわかっていたが、生でお話をうかがうと、ますます、その素晴らしさがわかる。

地方遊廓・「赤線」研究の、まさにお手本。
結果、名古屋(愛知県)・藤枝(静岡県)の研究が他地域に比べて突出した結果に。

それと、以前からTwitterでやりとりしていた「ことぶき」さん(報告者の1人)にやっと会えて、うれしかった。

ただ、畳に4時間座り続けは、今の私の体調だとけっこう厳しかった。
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5月5日(金・祝)写真展「紅子の色街探訪記」を観る [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

5月5日(金・祝)

11時半、家を出る。
東急目黒線→都営地下鉄浅草線を乗り継いで、浅草へ。
観光客ですごい人。

タクシーを拾って、新吉原・大門(跡)へ(1000円)。
13時20分到着。
ここまで1時間50分かかった。
多摩川の西から新吉原は遠い。

お歯黒ドブ跡の「カストリ書房」へ。
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ここで開催中の写真展「紅子の色街探訪記」を観る。
受付をしている店主に挨拶。
すごい人気と聞いていたので、かなり待つ覚悟で行ったが、幸い1人待ちで入れた。

Facebookでは「友達」になっている紅子さんに初対面のご挨拶。
作品をじっくり見せてもらう。
私が撮影している建物もあるが、知らない場所の写真も多い。
とくに青森の旧妓楼「中村旅館」は行ってみたい。
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その間にも、次々に入場者。
40~60代の男性が多い。
皆さん、紅子さんに会えてうれしそう。

その間をぬって、いろいろ質問。

紅子さんの写真、撮り始めて2年というのが信じられない。
画面の切り取りも、光の扱いも巧み。
習った技術ではなく、天性の感性なのだと思う。

今回、残念だったのは、作品が小さかったこと。
ギャラリーのスペースが狭いので仕方がないが、もっと大きな画面で見たい。

秋に予定されている本格的な写真集(目標額150万円のクラウドファンディングをわずか5日で達成)の出版の際には、ぜひ本格的な写真展をやってほしい。
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