8万円ー(空目)→80万円 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
6月2日(金)
さっき到着した古書店「股旅堂」さんの目録に、仙台・小田原遊廓のある妓楼の「遊客名簿」3冊を含む一括書類(大正末期~昭和初期)が出ていた。
「8万円か・・・、私が買い取って、まじめな院生さんプレゼントして、ちゃんと分析すれば、博士論文になるかも」
と思って、よく見たら、80万円だった(←老眼にゃ)。
ごめん・・・無理。
現在の大学の人文系の専任教授の図書購入費では、たぶん無理。
よほど潤沢な科研費でももらっていればともかく、購入に私財を投入することになると思う。
場所からして、本来なら、東北大学あたりの図書館に購入して欲しいが、予算的に難しいだsろう。
まして買売春関係の史料となると、会議を通らない。
さっき到着した古書店「股旅堂」さんの目録に、仙台・小田原遊廓のある妓楼の「遊客名簿」3冊を含む一括書類(大正末期~昭和初期)が出ていた。
「8万円か・・・、私が買い取って、まじめな院生さんプレゼントして、ちゃんと分析すれば、博士論文になるかも」
と思って、よく見たら、80万円だった(←老眼にゃ)。
ごめん・・・無理。
現在の大学の人文系の専任教授の図書購入費では、たぶん無理。
よほど潤沢な科研費でももらっていればともかく、購入に私財を投入することになると思う。
場所からして、本来なら、東北大学あたりの図書館に購入して欲しいが、予算的に難しいだsろう。
まして買売春関係の史料となると、会議を通らない。
遊廓の移転と近代都市の発展&都市政策 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
5月14日(日)
遊廓の移転と近代都市の発展&都市政策は強く関係する。
都市が発展して、それまでの遊廓が都市の中心部になってくると、「風紀」が問題化され、郊外への移転計画が出てくる。
それを後押しするのが、明治期に多かった「大火」だ。
「大火」自体も、都市の膨張と大きく関わるのだが、遊廓移転もきっかけになる。
昨日報告を聴いた、名古屋市「旭遊廓」の「中村遊廓」への移転や、静岡県藤枝町の「藤枝新地」への移転は、その典型だ。
私が踏査した中でも、東京都八王子遊廓、北海道小樽市の「松ヶ枝遊廓」、富山県の高岡市の「高岡遊廓」など、大火が移転のきっかけになっている。
他にも数多い。
郊外移転した遊廓はほとんどの場合、計画的に地割りされたシンメトリーな姿になる。
近代遊廓は、けっしてごちゃごちゃした町割りではなく、広い道路と整った区画の町並みにが特徴で、当時としては近代的ない異空間となる。
「大火」が移転のきっかけになった近代遊廓では、当事者(妓楼主)の心理的にも、行政の都市政策的にも、防火対策に意識が向くのは当然だ。
八王子遊廓も、松ヶ枝遊廓も、高岡遊廓も、交通路としての機能からしたら、道路幅を過大に広くとっているのは、防火帯としての機能を期待したからだ。
中村遊廓の場合、高く長大なコンクリート防火壁を遊廓中心部を南北に貫いて南北に2本設置しているのは、当時としては画期的。
それを再発見したことぶきさんの仕事は,フィールドワークの大きな成果だと思う。
今回、そのコンクリート防火帯をトンネルのようにくり抜いて、避難用通路が設置されていることに驚いた。
これは見に行かなければと思った。
実は、大火→郊外移転→防火機能をともなったシンメトリーな計画的遊廓というパターンの最初は、江戸の新吉原遊廓だった。
明暦の大火(1657年)の後、日本橋人形町付近にあった吉原遊廓(元吉原)は、江戸の北郊・金竜山浅草寺のさらに北の僻地に移転させられる。
そこでは、広い仲ノ町通りに3本の通りが直交する「三筋町」の計画的なシンメトリーな遊廓空間が設置された。
1923年に開設された中村遊廓も外周道路を別にすれば,基本設計は「三筋町」である。
明治末期~大正期の近代遊廓のお手本(原点)は、250年以上前の新吉原遊廓だったのだ。
そこに新吉原遊廓の先進性がある。
遊廓の移転と近代都市の発展&都市政策は強く関係する。
都市が発展して、それまでの遊廓が都市の中心部になってくると、「風紀」が問題化され、郊外への移転計画が出てくる。
それを後押しするのが、明治期に多かった「大火」だ。
「大火」自体も、都市の膨張と大きく関わるのだが、遊廓移転もきっかけになる。
昨日報告を聴いた、名古屋市「旭遊廓」の「中村遊廓」への移転や、静岡県藤枝町の「藤枝新地」への移転は、その典型だ。
私が踏査した中でも、東京都八王子遊廓、北海道小樽市の「松ヶ枝遊廓」、富山県の高岡市の「高岡遊廓」など、大火が移転のきっかけになっている。
他にも数多い。
郊外移転した遊廓はほとんどの場合、計画的に地割りされたシンメトリーな姿になる。
近代遊廓は、けっしてごちゃごちゃした町割りではなく、広い道路と整った区画の町並みにが特徴で、当時としては近代的ない異空間となる。
「大火」が移転のきっかけになった近代遊廓では、当事者(妓楼主)の心理的にも、行政の都市政策的にも、防火対策に意識が向くのは当然だ。
八王子遊廓も、松ヶ枝遊廓も、高岡遊廓も、交通路としての機能からしたら、道路幅を過大に広くとっているのは、防火帯としての機能を期待したからだ。
中村遊廓の場合、高く長大なコンクリート防火壁を遊廓中心部を南北に貫いて南北に2本設置しているのは、当時としては画期的。
それを再発見したことぶきさんの仕事は,フィールドワークの大きな成果だと思う。
今回、そのコンクリート防火帯をトンネルのようにくり抜いて、避難用通路が設置されていることに驚いた。
これは見に行かなければと思った。
実は、大火→郊外移転→防火機能をともなったシンメトリーな計画的遊廓というパターンの最初は、江戸の新吉原遊廓だった。
明暦の大火(1657年)の後、日本橋人形町付近にあった吉原遊廓(元吉原)は、江戸の北郊・金竜山浅草寺のさらに北の僻地に移転させられる。
そこでは、広い仲ノ町通りに3本の通りが直交する「三筋町」の計画的なシンメトリーな遊廓空間が設置された。
1923年に開設された中村遊廓も外周道路を別にすれば,基本設計は「三筋町」である。
明治末期~大正期の近代遊廓のお手本(原点)は、250年以上前の新吉原遊廓だったのだ。
そこに新吉原遊廓の先進性がある。
5月13日(土)「東海遊里史研究会 in 東京!」 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
5月13日(土)
「東海遊里史研究会 in 東京!」(主催:カストリ書房)を聴講のため、2週続けて新吉原へ。

引き手茶屋の系譜を引く料亭「金村」の2階座敷で、1部・2部併せて4時間、6本の報告(3人の方が2本ずつ)を聴く。



「素人」とは思えない研究レベルの高さは、すでに出版されている3冊の論集を読んでわかっていたが、生でお話をうかがうと、ますます、その素晴らしさがわかる。
地方遊廓・「赤線」研究の、まさにお手本。
結果、名古屋(愛知県)・藤枝(静岡県)の研究が他地域に比べて突出した結果に。
それと、以前からTwitterでやりとりしていた「ことぶき」さん(報告者の1人)にやっと会えて、うれしかった。
ただ、畳に4時間座り続けは、今の私の体調だとけっこう厳しかった。
「東海遊里史研究会 in 東京!」(主催:カストリ書房)を聴講のため、2週続けて新吉原へ。

引き手茶屋の系譜を引く料亭「金村」の2階座敷で、1部・2部併せて4時間、6本の報告(3人の方が2本ずつ)を聴く。
「素人」とは思えない研究レベルの高さは、すでに出版されている3冊の論集を読んでわかっていたが、生でお話をうかがうと、ますます、その素晴らしさがわかる。
地方遊廓・「赤線」研究の、まさにお手本。
結果、名古屋(愛知県)・藤枝(静岡県)の研究が他地域に比べて突出した結果に。
それと、以前からTwitterでやりとりしていた「ことぶき」さん(報告者の1人)にやっと会えて、うれしかった。
ただ、畳に4時間座り続けは、今の私の体調だとけっこう厳しかった。
5月5日(金・祝)写真展「紅子の色街探訪記」を観る [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
5月5日(金・祝)
11時半、家を出る。
東急目黒線→都営地下鉄浅草線を乗り継いで、浅草へ。
観光客ですごい人。
タクシーを拾って、新吉原・大門(跡)へ(1000円)。
13時20分到着。
ここまで1時間50分かかった。
多摩川の西から新吉原は遠い。
お歯黒ドブ跡の「カストリ書房」へ。


ここで開催中の写真展「紅子の色街探訪記」を観る。
受付をしている店主に挨拶。
すごい人気と聞いていたので、かなり待つ覚悟で行ったが、幸い1人待ちで入れた。
Facebookでは「友達」になっている紅子さんに初対面のご挨拶。
作品をじっくり見せてもらう。
私が撮影している建物もあるが、知らない場所の写真も多い。
とくに青森の旧妓楼「中村旅館」は行ってみたい。


その間にも、次々に入場者。
40~60代の男性が多い。
皆さん、紅子さんに会えてうれしそう。
その間をぬって、いろいろ質問。
紅子さんの写真、撮り始めて2年というのが信じられない。
画面の切り取りも、光の扱いも巧み。
習った技術ではなく、天性の感性なのだと思う。
今回、残念だったのは、作品が小さかったこと。
ギャラリーのスペースが狭いので仕方がないが、もっと大きな画面で見たい。
秋に予定されている本格的な写真集(目標額150万円のクラウドファンディングをわずか5日で達成)の出版の際には、ぜひ本格的な写真展をやってほしい。
11時半、家を出る。
東急目黒線→都営地下鉄浅草線を乗り継いで、浅草へ。
観光客ですごい人。
タクシーを拾って、新吉原・大門(跡)へ(1000円)。
13時20分到着。
ここまで1時間50分かかった。
多摩川の西から新吉原は遠い。
お歯黒ドブ跡の「カストリ書房」へ。


ここで開催中の写真展「紅子の色街探訪記」を観る。
受付をしている店主に挨拶。
すごい人気と聞いていたので、かなり待つ覚悟で行ったが、幸い1人待ちで入れた。
Facebookでは「友達」になっている紅子さんに初対面のご挨拶。
作品をじっくり見せてもらう。
私が撮影している建物もあるが、知らない場所の写真も多い。
とくに青森の旧妓楼「中村旅館」は行ってみたい。


その間にも、次々に入場者。
40~60代の男性が多い。
皆さん、紅子さんに会えてうれしそう。
その間をぬって、いろいろ質問。
紅子さんの写真、撮り始めて2年というのが信じられない。
画面の切り取りも、光の扱いも巧み。
習った技術ではなく、天性の感性なのだと思う。
今回、残念だったのは、作品が小さかったこと。
ギャラリーのスペースが狭いので仕方がないが、もっと大きな画面で見たい。
秋に予定されている本格的な写真集(目標額150万円のクラウドファンディングをわずか5日で達成)の出版の際には、ぜひ本格的な写真展をやってほしい。
関東大震災前後の東京の遊廓 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
9月1日(木)
関東大震災から99年。
警視庁の統計書によると、1923年9月1日に発生した関東大震災を挟む。遊廓の状況は下記の通り(ことぶき氏調べ)
新吉原遊郭 1922年末 1923年末
貸座敷 300軒 189軒
引手茶屋 42軒 3軒
娼妓 2480人 1166人
洲崎遊廓 1922年末 1923年末
貸座敷 302軒 89軒
引手茶屋 23軒 5軒
娼妓 2214人 650人
地盤が悪い下町の新吉原・洲崎遊郭は地震動による倒壊と、その後の火災で壊滅的な被害を受けた。
特に湾岸の洲崎遊郭の被害は大きかった。
それに対して地盤が良い新宿遊廓の損害は軽微で、貸座敷の数は53軒のまま、娼妓ぼ数は451人から572人へと大きく増えている。
震災後、新宿遊廓が、東都の遊客を一手に引き受け大繁盛し、昭和初期のモダン遊廓「新宿」の繁栄の基礎を作ったことがよくわかる。
とは言うものの、大震災による壊滅からわずか4か月後に、189軒が復活している新吉原の再生力も恐ろしい。
それだけの需要があったということで、どんな大災害・戦災があっても、買春男性の行動様式は変らないということ。
関東大震災から99年。
警視庁の統計書によると、1923年9月1日に発生した関東大震災を挟む。遊廓の状況は下記の通り(ことぶき氏調べ)
新吉原遊郭 1922年末 1923年末
貸座敷 300軒 189軒
引手茶屋 42軒 3軒
娼妓 2480人 1166人
洲崎遊廓 1922年末 1923年末
貸座敷 302軒 89軒
引手茶屋 23軒 5軒
娼妓 2214人 650人
地盤が悪い下町の新吉原・洲崎遊郭は地震動による倒壊と、その後の火災で壊滅的な被害を受けた。
特に湾岸の洲崎遊郭の被害は大きかった。
それに対して地盤が良い新宿遊廓の損害は軽微で、貸座敷の数は53軒のまま、娼妓ぼ数は451人から572人へと大きく増えている。
震災後、新宿遊廓が、東都の遊客を一手に引き受け大繁盛し、昭和初期のモダン遊廓「新宿」の繁栄の基礎を作ったことがよくわかる。
とは言うものの、大震災による壊滅からわずか4か月後に、189軒が復活している新吉原の再生力も恐ろしい。
それだけの需要があったということで、どんな大災害・戦災があっても、買春男性の行動様式は変らないということ。
「(講演録)洲崎・亀戸の性文化史」 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
7月16日(土)
ブログのアーカイブに「(講演録)洲崎・亀戸の性文化史」をアップしました。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2021-05-29
2019年6月23日に「江東区2019男女共同参画フォーラム」(パルシティ江東)でおこなった講演の記録です。
最近、刊行された『21世紀の女たちへの伝言』8号(江東の女性史研究会、2022年7月)に掲載された講演録の原版(カラー)です。
遊廓・「赤線」の歴史に関心がある方に、読んでいただければ幸いです。
ブログのアーカイブに「(講演録)洲崎・亀戸の性文化史」をアップしました。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2021-05-29
2019年6月23日に「江東区2019男女共同参画フォーラム」(パルシティ江東)でおこなった講演の記録です。

最近、刊行された『21世紀の女たちへの伝言』8号(江東の女性史研究会、2022年7月)に掲載された講演録の原版(カラー)です。
遊廓・「赤線」の歴史に関心がある方に、読んでいただければ幸いです。
宮岡謙二『娼婦 海外流浪記ーもうひとつの明治ー』 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
津田加壽子『男たちとの夜ー赤線女給十年の手記ー』 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
10月8日(金)超久しぶりのフィールドワーク旅行 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
10月8日(金)
これから超久しぶり(いつ以来だ?)のフィールドワーク旅行。
富山県高岡市の「羽衣新地」(跡)の現地調査。
明治33年(1900年)の高岡大火の後、移転・造営された方形区画と「三筋町」(メインストリートと直交する2本の道路)の構造が現在もきれいに残る。
明治期に整備された地方遊廓の典型。
今日の夜、高岡に泊り、明日、現地調査して、夕方、金沢へ。
日曜日の「金沢レインボー・パレード」を見学する予定。
【追記】2年前の2019年10月の鹿児島・出水のフィールドワーク以来。
これから超久しぶり(いつ以来だ?)のフィールドワーク旅行。
富山県高岡市の「羽衣新地」(跡)の現地調査。
明治33年(1900年)の高岡大火の後、移転・造営された方形区画と「三筋町」(メインストリートと直交する2本の道路)の構造が現在もきれいに残る。
明治期に整備された地方遊廓の典型。
今日の夜、高岡に泊り、明日、現地調査して、夕方、金沢へ。
日曜日の「金沢レインボー・パレード」を見学する予定。
【追記】2年前の2019年10月の鹿児島・出水のフィールドワーク以来。
富山県の遊廓 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
10月8日(金)
1 富山県の「遊廓」
ちょっと関りがあって、富山県の遊廓を調べ始めた。
例によって『日本遊廓一覧』(1929年)のデータ。
貸座敷指定地は13か所、県の大きさを考えるとやや多いか。
① 商工業の中心地・高岡の羽衣新地が最大規模だが、それほど抜けてはいない。
② 越中富山藩(前田分家)10万石の城下町・富山には遊廓がない。
③ 氷見・伏木・新湊・魚津などの港湾に中規模な遊廓が展開する。
④ 砺波郡などの農村部にも存在する。
⑤ 「新地」がほとんど。
⑥ 高岡の羽衣新地を除いて、1軒あたりの娼妓数は1~2人で、経営規模はきわめて小さい。
羽衣新地でさえ3.3人で大きいとは言えない。
ただしこれは芸娼妓の分離がなされているという建前の数字で、『全国遊郭案内』(1930年)22軒、180人という数字を参照すると、実態はその3倍ほどをイメージすすべきだと思う。
高岡市開発町 (羽衣新地) 20軒 66人(3.3) 高岡市 商工業
氷見郡氷見町 (有磯新地) 24軒 48人(2.0) 氷見市 港
射水郡伏木町 (玉川新地) 18軒 38人(2.1) 高岡市 港 越中国府
東蠣波郡出町 (新地) 27軒 31人(1.1) 砺波市 農村部
射水郡新湊町 (十銭町) 23軒 28人(1.2) 射水市 港
下新川郡道下村 (魚津新地) 23軒 27人(1.2) 魚津市 港
中新川郡滑川町 (常盤新地) 14軒 26人(1.9) 滑川市 港
西蠣波郡石動町 (福町新地) 16軒 23人(1.4) 小矢部市 農村部 北陸道宿場
西蠣波郡福光町 (末広新地) 15軒 18人(1.2) 南砺市 農村部
東蠣波郡井波町 (堀道新地) 14軒 17人(1.2) 南砺市 農村部・工芸
下新川郡泊町 (神田新地) 10軒 11人(1.1) 朝日町 港
婦負郡八尾町 (下町新地) 4軒 7人(1.8) 富山市 農村部
上新川郡東岩瀬町(常盤新地) 2軒 5人(2.5) 富山市 港 北前船の寄港地
2 高岡・羽衣新地
高岡城址の北北西約1kmの羽衣町にあった。高岡駅からは直線距離2km近くで「徒歩三十分」。
妓楼は高岡の中心街にあったが、1900年(明治33)の「高岡大火」の後、新開地に移転した「新地」である。
現在の地番は五福町。
現在の地図でも、ほぼ正南北のメインストリートの両側に3つずつ6つの方形地割が認められる。
広いメインストリートの一部には中央分離帯(現在は駐車場)が設けられている(昔は桜並木があった)。
『全国遊郭案内』(日本遊覧社、1930年)には、戦前は「揚屋(貸座敷業)が二十一軒」「娼妓は兼業で百八十人」と記されている。営業形態は芸娼妓の分離があまり進んでいない、いわゆる「二枚鑑札」的な形だったようだ。
『全国女性街ガイド』(渡辺寛、季節風書店、1955年)によると、戦後の「赤線」時代は、「三十二軒に百二十一名」とある。
規模は戦前とそれほど変わっていない。
1 富山県の「遊廓」
ちょっと関りがあって、富山県の遊廓を調べ始めた。
例によって『日本遊廓一覧』(1929年)のデータ。
貸座敷指定地は13か所、県の大きさを考えるとやや多いか。
① 商工業の中心地・高岡の羽衣新地が最大規模だが、それほど抜けてはいない。
② 越中富山藩(前田分家)10万石の城下町・富山には遊廓がない。
③ 氷見・伏木・新湊・魚津などの港湾に中規模な遊廓が展開する。
④ 砺波郡などの農村部にも存在する。
⑤ 「新地」がほとんど。
⑥ 高岡の羽衣新地を除いて、1軒あたりの娼妓数は1~2人で、経営規模はきわめて小さい。
羽衣新地でさえ3.3人で大きいとは言えない。
ただしこれは芸娼妓の分離がなされているという建前の数字で、『全国遊郭案内』(1930年)22軒、180人という数字を参照すると、実態はその3倍ほどをイメージすすべきだと思う。
高岡市開発町 (羽衣新地) 20軒 66人(3.3) 高岡市 商工業
氷見郡氷見町 (有磯新地) 24軒 48人(2.0) 氷見市 港
射水郡伏木町 (玉川新地) 18軒 38人(2.1) 高岡市 港 越中国府
東蠣波郡出町 (新地) 27軒 31人(1.1) 砺波市 農村部
射水郡新湊町 (十銭町) 23軒 28人(1.2) 射水市 港
下新川郡道下村 (魚津新地) 23軒 27人(1.2) 魚津市 港
中新川郡滑川町 (常盤新地) 14軒 26人(1.9) 滑川市 港
西蠣波郡石動町 (福町新地) 16軒 23人(1.4) 小矢部市 農村部 北陸道宿場
西蠣波郡福光町 (末広新地) 15軒 18人(1.2) 南砺市 農村部
東蠣波郡井波町 (堀道新地) 14軒 17人(1.2) 南砺市 農村部・工芸
下新川郡泊町 (神田新地) 10軒 11人(1.1) 朝日町 港
婦負郡八尾町 (下町新地) 4軒 7人(1.8) 富山市 農村部
上新川郡東岩瀬町(常盤新地) 2軒 5人(2.5) 富山市 港 北前船の寄港地
2 高岡・羽衣新地
高岡城址の北北西約1kmの羽衣町にあった。高岡駅からは直線距離2km近くで「徒歩三十分」。
妓楼は高岡の中心街にあったが、1900年(明治33)の「高岡大火」の後、新開地に移転した「新地」である。
現在の地番は五福町。
現在の地図でも、ほぼ正南北のメインストリートの両側に3つずつ6つの方形地割が認められる。
広いメインストリートの一部には中央分離帯(現在は駐車場)が設けられている(昔は桜並木があった)。
『全国遊郭案内』(日本遊覧社、1930年)には、戦前は「揚屋(貸座敷業)が二十一軒」「娼妓は兼業で百八十人」と記されている。営業形態は芸娼妓の分離があまり進んでいない、いわゆる「二枚鑑札」的な形だったようだ。
『全国女性街ガイド』(渡辺寛、季節風書店、1955年)によると、戦後の「赤線」時代は、「三十二軒に百二十一名」とある。
規模は戦前とそれほど変わっていない。