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宮岡謙二『娼婦 海外流浪記ーもうひとつの明治ー』 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

12月17日(金)
宮岡謙二『娼婦 海外流浪記ーもうひとつの明治ー』(三一新書、1968年)。
宮岡謙二『娼婦 海外流浪記ーもうひとつの明治ー』 (1).JPG
宮岡謙二『娼婦 海外流浪記ーもうひとつの明治ー』 (2).JPG
明治時代を中心に、日本人娼婦の海外渡航の実態を数多くの文献を駆使して明らかにする、
北はシベリア、南はスマトラ、ジャワ、西はアフリカ・ザンジバル、東はハワイ、カルフォルニア。

著者は在野の研究者で、戦前は「大阪商船」の社員として在外勤務が長く、戦後は九州別府の名門ホテルの経営者。

民俗学者の谷川健一が長い解説を添えている。

この本、それほど古いものではないが、なぜか今まで手に入らなかった。
高かった(5000円)けど、ようやく入手。
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津田加壽子『男たちとの夜ー赤線女給十年の手記ー』 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

12月17日(金)

津田加壽子『男たちとの夜ー赤線女給十年の手記ー』(あまとりあ社、1957年6月)
津田加寿子『男たちとの夜』 (1957年)(1).JPG
津田加寿子『男たちとの夜』 (1957年)(4).JPG
「赤線」新吉原・従業婦の手記の体裁の実録風小説。
すべて事実かは不明だがリアリティは高い。
拙著『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日選書、2018年)でも、参考資料として使った。
今まで、全文コピーしか持っていなかったが、今日、書籍として入手。
しかもカバーだけでなく帯まで完存(うれしい)。
津田加寿子『男たちとの夜』 (1957年)(3).JPG
こういう感じの本だったのか、と納得。
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10月8日(金)超久しぶりのフィールドワーク旅行 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

10月8日(金)

これから超久しぶり(いつ以来だ?)のフィールドワーク旅行。

富山県高岡市の「羽衣新地」(跡)の現地調査。
明治33年(1900年)の高岡大火の後、移転・造営された方形区画と「三筋町」(メインストリートと直交する2本の道路)の構造が現在もきれいに残る。
明治期に整備された地方遊廓の典型。

今日の夜、高岡に泊り、明日、現地調査して、夕方、金沢へ。
日曜日の「金沢レインボー・パレード」を見学する予定。

【追記】2年前の2019年10月の鹿児島・出水のフィールドワーク以来。
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富山県の遊廓 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

10月8日(金)

1 富山県の「遊廓」
ちょっと関りがあって、富山県の遊廓を調べ始めた。
例によって『日本遊廓一覧』(1929年)のデータ。
貸座敷指定地は13か所、県の大きさを考えるとやや多いか。

① 商工業の中心地・高岡の羽衣新地が最大規模だが、それほど抜けてはいない。
② 越中富山藩(前田分家)10万石の城下町・富山には遊廓がない。
③ 氷見・伏木・新湊・魚津などの港湾に中規模な遊廓が展開する。
④ 砺波郡などの農村部にも存在する。
⑤ 「新地」がほとんど。
⑥ 高岡の羽衣新地を除いて、1軒あたりの娼妓数は1~2人で、経営規模はきわめて小さい。
羽衣新地でさえ3.3人で大きいとは言えない。
ただしこれは芸娼妓の分離がなされているという建前の数字で、『全国遊郭案内』(1930年)22軒、180人という数字を参照すると、実態はその3倍ほどをイメージすすべきだと思う。

高岡市開発町  (羽衣新地) 20軒 66人(3.3) 高岡市 商工業
氷見郡氷見町  (有磯新地) 24軒 48人(2.0) 氷見市 港
射水郡伏木町  (玉川新地) 18軒 38人(2.1) 高岡市 港 越中国府
東蠣波郡出町  (新地)   27軒 31人(1.1) 砺波市 農村部
射水郡新湊町  (十銭町)  23軒 28人(1.2) 射水市 港
下新川郡道下村 (魚津新地) 23軒 27人(1.2) 魚津市 港
中新川郡滑川町 (常盤新地) 14軒 26人(1.9) 滑川市 港
西蠣波郡石動町 (福町新地) 16軒 23人(1.4) 小矢部市 農村部 北陸道宿場
西蠣波郡福光町 (末広新地) 15軒 18人(1.2) 南砺市 農村部
東蠣波郡井波町 (堀道新地) 14軒 17人(1.2) 南砺市 農村部・工芸
下新川郡泊町  (神田新地) 10軒 11人(1.1) 朝日町 港
婦負郡八尾町  (下町新地) 4軒 7人(1.8) 富山市 農村部
上新川郡東岩瀬町(常盤新地) 2軒 5人(2.5) 富山市 港 北前船の寄港地

2 高岡・羽衣新地
高岡城址の北北西約1kmの羽衣町にあった。高岡駅からは直線距離2km近くで「徒歩三十分」。
妓楼は高岡の中心街にあったが、1900年(明治33)の「高岡大火」の後、新開地に移転した「新地」である。
現在の地番は五福町。

現在の地図でも、ほぼ正南北のメインストリートの両側に3つずつ6つの方形地割が認められる。
広いメインストリートの一部には中央分離帯(現在は駐車場)が設けられている(昔は桜並木があった)。

『全国遊郭案内』(日本遊覧社、1930年)には、戦前は「揚屋(貸座敷業)が二十一軒」「娼妓は兼業で百八十人」と記されている。営業形態は芸娼妓の分離があまり進んでいない、いわゆる「二枚鑑札」的な形だったようだ。
『全国女性街ガイド』(渡辺寛、季節風書店、1955年)によると、戦後の「赤線」時代は、「三十二軒に百二十一名」とある。
規模は戦前とそれほど変わっていない。


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旧「赤線」安浦(横須賀市)の現状 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

6月18日(金)

先日(3日)、神奈川県立保健福祉大学にゲスト講義に行く途中、旧「赤線」安浦に寄り道。

ブルーのタイル装飾壁面やネオン看板の跡がのこる家は健在だった。
IMG_7822 - コピー.JPG
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しかし、「赤線」時代の風情を残していた石畳の路地がアスファルト舗装になっていて残念。
地元の方の生活道路だから仕方がないのだが。
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同じ場所の舗装される以前の旧景(2008年撮影)。
安浦・石畳の路地&街路灯 (2) - コピー.JPG
当時、遊客の足元を照らしたおしゃれな街路灯は変わらず今も健在。

まだ舗装されていない別の路地。
IMG_7825.JPG
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「復興、廃娼運動、法の整備でイメージと全然違う! 『鬼滅の刃』の「遊郭編」で描かれる大正時代の史実の吉原」 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

4月17日(土)
私が取材協力した記事。
「復興、廃娼運動、法の整備でイメージと全然違う! 『鬼滅の刃』の「遊郭編」で描かれる大正時代の史実の吉原」(「サイゾー premium」2021年04月16日配信)
https://www.premiumcyzo.com/modules/member/2021/04/post_10138/?fbclid=IwAR39UBAQ_swm2u0k93pubJwCBxWz6NCdoSS5e9FVADp6pc13W4cF5CTdPiA
でも、有料記事なので読めない・・・。
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東京の私娼街の歴史 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

4月11日(日)

館一平「夜の歴史は女が作る」(『千一夜』3巻7号、1950年7月)
1950年(昭和25)の古老(おそらく明治生まれ)の語り。
わずか1頁の記事で、東京の私娼街の歴史を簡潔に語っている
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①東京における私娼街の起源説。
明治5年(1872)4月5日の吉原大火で焼け出された女性たちが、浅草、向島、上野、両国方面に仮小屋を設けて営業を始めた。
その末裔が、浅草観音裏、浅草並木町~松葉町、上野山下~湯島天神下、両国橋~薬研堀、芝神明あたりの私娼になり、さらに浅草六区~千束町の「十二階下」の私娼街に結集する。

②東京における私娼街の規制と移転
大正5年(1916)、警視庁の丸山鶴吉保安課長が「銘酒屋」街(実態は私娼街)の一掃に乗り出す。
警察と業者の攻防のさなか、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、「十二階下」の私娼街は壊滅。
私娼街の業者は、拠点を隅田川の東の玉の井、亀戸に移動。
「エロ・グロ」全盛の世相に乗り、昭和4,5年~10年頃(1929~35)「蜘蛛の巣の如き魔境」はその爛熟期を迎える。

③ 壊滅と再生
昭和20年(1945)3月10日の東京下町大空襲で、新吉原も玉の井、亀戸も壊滅し焼け野原と化す。
その中から、「見るも華麗な幻想の天国(パラダイス)『鳩の街』」が出現する。
「街や巣に颯爽として艶姿を現はす天使(エンゼル)達は、みな悉く昭和生まれの彼女ばかりとなった。」

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長野県の遊郭 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

3月7日(日)

ちょっと気になって、長野県の遊廓を調べてみた。
起源的には、城下町と中山道、北国街道の宿場町が多く、わかりやすい。
中山道の木曽谷の宿場(奈良井、福島、妻籠、馬籠宿など)に遊廓が残らなかったのは、近世以降の衰退が顕著だったからだろう。

規模的には、長野、松本、上田、飯田の順で、現在の都市規模(人口)と同じ並び。
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全国遊郭一覧(1929年)より。貸座敷軒数と娼妓人数

長野市(鶴田新地) 32軒 252人 県庁所在地、門前町、北国街道善光寺宿
上田市(常盤城)   26軒 167人 城下町、北国街道宿場
松本市(横田)    20軒 108人 城下町
飯田町(二本松)   10軒 110人 城下町
平隠村(湯田中)   12軒  55人 温泉地 → 山ノ内町
坂城町(坂城)     8軒  59人 北国街道坂木宿
岩村田町(岩村田)  9軒  49人 中山道岩村田宿 → 佐久市
上諏訪町(高島)     8軒  50人 城下町、甲州街道上諏訪宿
下諏訪町(下諏訪)  7軒 42人 中山道下諏訪宿
塩尻町(塩尻)     9軒 30人 中山道塩尻宿 
長久保(新町)     4軒 18人 中山道和田宿 → 長和町
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街娼のシマとして新宿・渋谷は後発 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

2月11日(木・祝)

各務千代『悲しき抵抗』117頁に、
街娼のシマ(縄張り)として有楽町、新橋、上野、池袋に対して「最近出始めた新宿や渋谷」という記述があり、新宿と渋谷は後発であることがわかる。

同書の執筆は。1947年夏~秋ごろと推定される。

また、同じ箇所に、渋谷に「ヤシブ」とルビが振られているのを見つけた。
今まで、渋谷は「ブヤ」だと思っていた。

昭和戦前期~戦後混乱期に、愚連隊や「闇の女(街娼)」たちが使った、東京の地名の符牒(スラング)には、転倒系と省略形があり、前者だと「ヤシブ」、後者だと「ブヤ」になるということだろう。

参考までに、同書から列挙すると
浅草「エンコ」、上野「ノガミ」、有楽町「ラクチョウ」、新橋「バシン」、渋谷「ヤシブ」、新宿「ジュク」、池袋「ブクロ」、大宮「ミヤ」、横浜「ハマ」。

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それって、「テクスチュアル・ハラスメント」ではないですか? [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

2月8日(月)

女性が著者名の先駆的な著作を、男性が「これほどの作品を女性が書けるはずがない。偽作だ。男性が書いたものに違いない」と、決定的な根拠もなく決めつけることは、重大な「ジェンダーによる差別」であり、「テクスチュアル・ハラスメント」であることを、私は友人の小谷真理さんの裁判で学んだ。

しかし、その類の言説はいまだに横行している。
1940~50年代の「娼婦の自伝小説」にも同種の言説がしばしば見られる。
たとえば、各務千代『悲しき抵抗ー闇の女の手記ー』(1947年)や津田加寿子『男たちとの夜ー赤線女給十年の手記ー』(1957年)など。

「女に書けるはずがない、まして娼婦に書けるはずがない」という言説は、女性とセックスワーカーへの二重の差別だ。

たとえ、リライターが介在したとしても、元になる「語り」は存在したはずで、私はその部分を汲み取って、歴史資料として評価したい。


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