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「花魁道中」の様式はいつできた? [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月9日(木)

現在、「花魁道中」ということになっている様式、つまり、錫杖を持った男衆が扇動、妓楼の屋号の提灯、花魁の名の提灯、禿(かむろ)、外八文字を踏む花魁、振袖新造、番頭新造。遣り手、と続く行列、実は江戸~明治時代の史料では確認できない。

江戸時代の花魁は、禿や振袖新造を連れているが、もっと大仰でなく歩いている。
歌川豐國「吉原大門内花魁道中圖」.jpg
↑ 歌川豊國「吉原大門内花魁道中図」(1795年)

それと、明治中期には花魁道中の「古式」(江戸時代の様式)が分からなくなっていたという話も伝わっている。
「御一新」から30年、幕末の状況を知っている人は、まだ存命だったはずだ。

なのに「分からなくなっていた」のは、そもそも花魁道中の「古式」など存在しなかったのではないか?という疑いを抱く。

ということで、現在「花魁道中」とされている様式は、大正3年(1914)の新吉原復興記念の「花魁道中」イベントの際に作られたものなのではないか?と私は推測している。
新吉原花魁道中(角海老楼・左々浪)6-2.jpg
↑ 大正3年、新吉原復興記念「花魁道中」角海老楼・左々浪

その際、歌舞伎の「花魁道中」の演出、たとえば「助六」の揚巻花魁の場面などが影響していると思われる。

というような話を、研究者の方(加藤晴美さん:東京家政学院大学准教授)と意見交換できたのが、今日の収穫だった。

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新吉原「お鉄漿どぶ」の埋め立て・縮小 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月9日(木)

新吉原の「お鉄漿どぶ」の埋め立てについての新聞記事。
東京朝日新聞19010819.jpg
『東京朝日新聞』1901(明治34)年8月1日。
ことぶきさん@kotobuki_76_nagの調査による発見。

この点については、拙著『新宿「性なる街」の歴史地理」(2018年)「コラム1 「廓」という空間」(41頁)に、
「「お鉄漿どぶ」は、開設当初は幅5間(約9メートル)で、溝というより堀というべき規模だった(江戸末期から明治初期に縮小されて幅2間=約3・6メートルとなり、さらに明治後期には3尺=約90センチメートル程になってしまう)。」
とあるように、明治後期の「お鉄漿どぶ」の埋め立て・縮小は既知。

しかし、その時期が明治34年であると史料で確定できたのは貴重。

「明治全盛」の新吉原の大門が門柱だけで門扉がないことも、明治後期の絵葉書から確定できるが、いつからそうなったのか?は、史料的に確定できていないと思う。
新吉原・大門(明治中期・小川一真撮影).jpg
新吉原・大門(明治後期)4.jpg
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オーラル・ヒストリーの両義性 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

10月30日(水)

『ジェンダー史学』20号に掲載された茶園敏美さんによる平井和子『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店、2023年7月)の書評を読む。

原著はかなり重厚な本で、視力が衰えている私は十分に読み切れてないのでありがたい。

整理されている論点のうち、私が共感するjのは「オーラル・ヒストリーという手法の両義性(怖さと潜在力)」だ。

私は、若い頃に、文字資料の分析をベースにする文献史学を徹底的に学んだ。
40代で、研究テーマを変えた時、オーラルヒストリーの手法に出会い、おおいに魅力を感じたが、同時にその危うさも感じた。

オーラルヒストリーで語られることは、語り手にとっての「事実」ではあっても、必ずしも歴史事実とは言えない。

しかし、そこに文字資料としては残っていない事実がたくさん含まれていることも間違いない。

もちろん可能な限り「裏をとる」わけだが、裏がとれるようなテーマでないことの方がずっと多い。

その結果、「その人にとっての事実」を記録することが重要であり、その積み重ねの中から、おのずから歴史事実が見えてくると考えるようになった。

オーラルヒストリーを軽視する(信じない)傾向が日本の歴史学会には根強く存在する。

そうした風潮の中で、平井さんや茶園さんは、オーラルヒストリーに基づく、戦後占領期の女性史研究を続け、すばらしい成果をあげてきた。
心から敬意を抱いている。

私も、死ぬ前に、なんとかオーラルヒストリーをベースにした本を書かなければいけない。
その思いを強くした。

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高級遊女(花魁)の「高級」さ [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

4月27日(土)

「大吉原展」を観ても、花魁(高級遊女)がどのくらい高級なのかということは、まったくわからない。

「お値段」のことを、あれこれ言うのは、研究者として下品なことだ思っているのか? あるいは「人
身売買だ!」と批判されることを怖れているのか?

私は、頭が悪いので、金額がわからないと、「高級」感がわからない。

で、以前、少し考えたことがある。

禿(かむろ)2人,振袖新造を伴って花魁道中してくるような最上級の「呼び出し」は、ガイドブック『吉原細見』に「入山形に黒2つ星」の印がついていて、一夜のお値段は1両2分だった。

これが現代の貨幣価値でどのくらいに相当するか(物価換算)は、とても難しい。
比較的わかりやすいところでは、かけ蕎麦が二八の16文だった。

では1両は何文かというと、公定で4000文だった(実態は変動相場)。
つまり1両=蕎麦250杯分。

現代のかけ蕎麦を400円とすると、1両=10万円、500円とすると12万5000円ということになる。
では1両2分は?
1両=4分なので、1両=10万円換算で15万円、1両=12万5000円換算で18万7500円となる。

ちなみに、1両2分はあくまで基本料金で、これに飲食代やご祝儀(チップ)が必要になる。
大雑把に、1両2分の倍くらいの掛かりになると思う。
30~40万円というところか。

現在、銀座の高級クラブで豪遊すると、たぶんそのくらいの請求になると思う。
「お大尽遊び」の相場として、そんなものなのだろう。

やっと高級遊女(花魁)の「高級」さがイメージできたと思う。

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花魁絵葉書と大正天皇「大禮紀念」印 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

4月26日(金)

昨日のレクチャーで紹介した、大正3年(1914)4月の新吉原・花魁道中イベントは、同年の大正天皇即位大礼記念博覧会(会場:上野公園)に便乗して行われた。

そのことをよく示す資料。

花魁道中を出した3つの大楼の1つ「角海老楼」の紫花魁の絵葉書の裏に「大禮紀念」のスタンプが捺してある。
新吉原花魁道中(角海老楼・紫)7 - コピー.jpg
新吉原花魁道中(角海老楼・紫)7裏 - コピー.jpg

記念印は、大正4年11月10日・栃木益子。
新吉原花魁道中(角海老楼・紫)7裏2.jpg
栃木県益子の人が,新吉原に遊びに行き、写真館で花魁絵葉書を購入し、益子にもどって、「大禮紀念」のスタンプを捺したのかも。
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歌川広重「江戸名所 雪(吉原の三景の中)」 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

4月25日(木)

歌川広重「江戸名所 雪(吉原の三景の中)」(1848~49年)。
歌川広重 雪.jpg
「大吉原展」でみて、「やっぱり広重はうまいな」と思った作品。

雪の日、新吉原のメインストリート・仲之町を歩く2人の芸者。
右手遠くに大門が見える。

仲之町を描く場合、ほとんどが大門を入って奧を観る視線だが、この作品は、視線を逆にして、奧から大門方向を見ているのが斬新。

画面左に大きく描かれているのは「水道尻」の常夜灯。
女性2人は、このあと右折して、九郎助稲荷にお詣りするのか。

四隅や下部が丸くなっているのは、団扇絵だから。
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4月25日(木)「大吉原展」 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

4月25日(木)

東京芸術大学美術館で開催中の「大吉原展」を観てきた。
大吉原展.jpg
とんでもなく分厚く重い「図録」が示すとおり、作品は充実している。

喜多川歌麿「青楼十二時」を揃えたのは、good job。

欲を言えば、新吉原遊廓を描いた最高傑作(と私が思う)葛飾応為「吉原格子先之図」がなかったのは残念。

ただし、歴史研究者としてみると、物足りなさを覚える。
第一に、「廓」の形成史がまったく語られていない。
いきなり「元吉原」が出てくる。
(「廓」の形成史については、拙著『新宿「性なる街」の歴史地理』のコラム1にまとめてある)

さらに言えば、「遊女(あそびめ)」都は何か? そもそも「遊び」とは何か? ということが語られていない。

まあ、美術館にそれを求めるのはお門違いなのかもしれないが、「吉原」という存在を考える上では避けて通れないことだと思う。

第二に、江戸時代の「吉原」については多角的に展示されているが、明治以降の「吉原」についての展示が薄すぎる。
さらに、昭和戦後期の「赤線・吉原」については、一文字の言及もなかった。
歴史は常に現代に通じるという点からすると、もうちょっとなんとかならないものか、と思う。

展示を観おえた後、上野駅公園口前の喫茶店で、7人の方に1時間半ほど、お話しする。
展示ではほとんどなかった、明治後期~大正期の新吉原遊廓について、私が収集した絵葉書をお見せしながらレクチャー。
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喜んでいただいて、よかったし、私も楽しかった。
ご参加いただいた皆さま、お世話いただいた鈴木さん、ありがとうございました。
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「赤線」女給の再現イメージ [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月22日(月)

先週金曜日の「「赤線」と売春防止法」の講義で、「赤線」の女給さんの復元画像を見せたのだけど、ちょっと驚いた顔をしていたお客さんがいた。

やはり、一般的なイメージはもっと地味なのだろうか。

しかし、「原色の街」(吉行淳之介の小説)と言われた色彩に富んだ街で、お客を引く女性が地味だったら、仕事にならないだろう。
「赤線」復元1.jpg 「赤線」復元2.jpg

「赤線」の全盛期、1952年頃、「赤線」新吉原の高級店のトップクラスの女給さん(やや古風)の再現イメージ。
「赤線」復元3.jpg
たぶんこんな感じ。

拙著『新宿「聖なる街」の歴史地理』(朝日選書、2018年)の表紙に使った。
モデルは、この種の再現撮影では、右に出る者がいないYUKOさん。
実は、もっとすごい色気の写真があるのだけど、怖くて使えなかった(笑)

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買春の確実な、たぶん最も古い事例 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月16日(火)

買春の確実な、たぶん最も古い事例。

源師時(1077~1136)『長秋記』元永2年〔1119〕9月3日条
「相公(源師頼)は熊野を迎え、与州(藤原長実)は金寿を抱き、羽林(源顕雅)は小最を抱く」

摂津広田社に参詣した帰路、江口(現:大阪市東淀川区)の遊女と遊んだ記録。
「熊野」「金寿」「小最」は相手になった遊女の名。
貴族が江口・神崎の遊女を召した記録は、もっと古いものがあるが、相方の名まで記録しているのは珍しい。

もう一つ。
藤原頼長(1120~1156)『台記』久安4年(1148)3月21日条

「柱本の辺りに宿す。今夜、密に江口の遊女を舟中に召し、これに通ず」

この時、頼長(内大臣)は舟で難波の四天王寺に詣でた帰りで、柱本(現:大阪府高槻市)あたりに停泊した際に、江口の遊女を舟中に召して性的関係をもった。
江口(淀川河口)の遊女、かなりの距離を出張している。

ちなみに、頼長は難色好みで知られるが、この時は女

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「色里」の成立 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月16日(火)

日本における「色里」の成立。

平安時代中期(10世紀)になると、京と難波を結ぶ淀川水運の河港に「遊女(あそびめ)」が集まる。
 江口・神崎(摂津国=大阪府)。
住吉詣の貴族たちも利用。

平安時代後期~鎌倉時代(11~13世紀)になると、瀬戸内海航路の港(津)にも遊女が集まる。
 室津(播磨国=兵庫県)、
 鞆の浦(備後国=広島県)、
 赤間関(長門国=山口県)
遊女の「長(おさ)」=統率者は、ほとんどの場合、女性。
女性たち(擬似母系集団)による自立的な売春であり、男性による遊女の管理・収奪は、まだ周縁的だった。
「法然上人絵伝」.jpg
画像は、讃岐国に流罪になる法然上人の船に漕ぎ寄せる室津の遊女。
(「営業」ではなく説法を聴きに来た)
鼓を持つのは巫女の、傘を差し掛けられるのは貴人の象徴。
櫓を操るのも女性であることに注意。
「法然上人絵伝」(1209年)

「立君と辻子君」(七十一番職人歌合絵巻).jpg
「七十一番職人歌合絵巻」(1500年頃)の「辻子(ずし)君と立君」。
左の家で、男の来訪をうけているのが「辻子君」(左上)。
右の路上で、男と会話(交渉)しているのが「立君」。

室町時代の京に、路上で客を誘う「立君」と、家で客の来訪を待つ「辻子君」の2つの売春形態があったことがわかる。
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