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土肥いつきさんから新著『トランスジェンダー生徒と学校』をいただく [現代の性(性別越境・性別移行)]
2月7日(金)確定申告の準備(その1) [日常]
2月7日(金)
確定申告の準備(その1)
源泉徴収票の整理。
収入明細表の作成。
目が見えないので、今年は、経費の計算は略式にするつもり。
確定申告の準備(その1)
源泉徴収票の整理。
収入明細表の作成。
目が見えないので、今年は、経費の計算は略式にするつもり。
1929年の道府県別の娼妓の数(人口1万人あたり)11~20位 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
2月7日(金)
1929年(昭和4年)の道府県別の娼妓の数(人口1万人あたり)
11位は奈良県。
娼妓数493人、人口1万人あたり8.27人。
貸座敷指定地は4箇所で、奈良市と郡山町。
奈良市木辻町・瓦堂町の「木辻遊廓」325人が最大。
次いで、郡山町の「洞泉寺遊廓」の161人。
県南部などには指定地はない。
12位は愛知県。
娼妓数2021人、人口1万人あたり7.87人。
貸座敷指定地は4箇所。
名古屋市中区「旭廓」は娼妓数1497人で全国4位の規模。
名古屋市では南区熱田の「稲永遊廓」の176人。
旧・三河国では、岡崎市「伝馬板屋」が200人、豊橋市「東田」が148人。
全国5位の人口規模の割に指定地が少なく、名古屋市への集中度が高い。
13位は、兵庫県。
娼妓数2064人、人口1万人あたり7.80人。
貿易港である神戸市「福原遊廓」の1057人が最大で、全国7位の規模。
次いで、西宮「浦町」339人、明石「新地」130人、姫路「梅ヶ坪」99人。
淡路島は洲本「漁師町」46人。
貸座敷指定地は10箇所。
ほとんどは瀬戸内海沿岸で、内陸部は多紀郡八上村(現:丹波篠山市)「池上」の29人のみ。
日本海側には指定地はない。
14位は山形県。
娼妓数833人、人口1万人あたり7.71人。
最大は、県都(城下町)山形市「小姓町」の169人。
次いで、鶴岡134人、日本海航路の港町・酒田105人、上杉氏の城下町・米沢56人、新庄34人、上ノ山34人と続く。
湯ノ浜(49人)、湯田川(24人)、赤湯(17人)、温海(13人)などは、地名からして温泉立地。
貸座敷指定地25箇所は、北海道、三重県、山口県に続き全国4位。
全県的にまんべんなく、こまめに指定されている印象。
15位は北海道。
娼妓数 2102人、人口1万人あたり7.48人。
貸座敷指定地51箇所は全国1位。
函館「大森」366人と札幌「白石」314人が道内の二大遊次いで次いで、根室「梅ケ枝町」196人、旭川「中島」181人、室蘭「幕西町」117人、釧路「米町」100人、小樽「入船」96人、同「手宮」79人、帯広「木賊原」71人、網走「北見町」56人、旭川「曙」43人、滝川37人、苫小牧32人、留萌31人と続く。
旭川は「曙」が旧廓、「中島」が新廓で、合わせると224人で3位相当になる。
小樽も「入船」「手宮」が拮抗していたが、合わせると175人で5位相当になる。
それぞれの地域で開拓拠点となった町には例外なく遊廓が設けられたが、娼妓数30人以上は51の指定地のうち15箇所に過ぎず、比較的小規模な指定地が多かった。
岩見沢 24人、歌志内12人、羽幌村10人は炭鉱立地。
離島にも指定地があり、利尻島(3+10人)、礼文島(3+7人)にそれぞれ2箇所、国後島、択捉島にも1箇所。
16位は熊本県。
娼妓数 994人、人口1万人あたり7.34人。
熊本市に近い「二本木遊廓」(行政区は飽託郡古町村)が娼妓数763人で圧倒的に大きく、全国でも10位の規模。
次いで、八代「紺屋町」の156人、
指定地は4箇所と少ない。
あとは三角の49人、天草・牛深町の26人。
17位は栃木県。
娼妓数783人、人口1万人あたり6.86人。
宇都宮「河原町」122人が最大。
次いで、堀米(現:佐野市)77人、御厨村大字福居(現:足利市)71人。
貸座敷指定地は22箇所で、関東地方最多、全国でも7位。
隣の群馬県(廃娼県)と著しい対照をなしている。
県内を南北に縦貫する街道の宿場起源が多い。
日光街道の宿場、小山20人、石橋(現:下野市)17人、徳次郎(現:宇都宮市)17人、今市32人。
日光例幣使街道の宿場、富田20人、合戦場(現:栃木市)62人、金崎(現:栃木市)71人、鹿沼「五軒町」34人、
奥州街道の宿場、氏家21人、喜連川「川松波」23人、大田原町「深川」30人。
また那須地方は、烏山59人、黒羽32人、黒磯20人、矢板「松の木」20人と、指定地が多い。
足尾「向原」(17人)は鉱山立地。
全体に実態に即して、こまめに指定している印象。
18位は福岡県。
10 169 娼妓数1687人、人口1万人あたり6.68人。
博多の郊外の「新柳町」(筑紫郡住吉町字春吉)の636人が最大。
筑前・豊前エリアでは、関門海峡の要衝で貿易港でもある門司「馬場」の250人、城下町・小倉「旭町」の107人、若松「連歌町」の93人、八幡の46人。
筑豊では、直方の72人。
筑後エリアでは、久留米「原古賀」の244人、大川「向島」の130人、大牟田市「新地」の103人。
貸座敷指定地は10箇所、中規模以上の指定地がほとんどで、小規模な指定地は1箇所だけ(芦屋「東町」6人)。
ある程度、絞り込んで指定している印象。
19位は高知県。
娼妓数469人、人口1万人あたり6.53人。
高知市の西郊の「玉水新地」(土佐郡旭村)の279人、東郊の「下知新地」(土佐郡下知村)の128人が大きい。
指定地は5箇所。
あとは、西部の中村「岩崎新地」31人、港町の宿毛「松田川新地」18人と須崎「琴平新地」13人。
20位は岐阜県。
娼妓数742人、人口1万人あたり6.30人。
貸座敷指定地は4箇所と少ない。
県都・岐阜市「金津遊廓」の427人が圧倒的。
次いで、大垣「旭」158人、多治見「西ヶ原」98人。
飛騨は高山「花岡」59人だけ。
1929年(昭和4年)の道府県別の娼妓の数(人口1万人あたり)
11位は奈良県。
娼妓数493人、人口1万人あたり8.27人。
貸座敷指定地は4箇所で、奈良市と郡山町。
奈良市木辻町・瓦堂町の「木辻遊廓」325人が最大。
次いで、郡山町の「洞泉寺遊廓」の161人。
県南部などには指定地はない。
12位は愛知県。
娼妓数2021人、人口1万人あたり7.87人。
貸座敷指定地は4箇所。
名古屋市中区「旭廓」は娼妓数1497人で全国4位の規模。
名古屋市では南区熱田の「稲永遊廓」の176人。
旧・三河国では、岡崎市「伝馬板屋」が200人、豊橋市「東田」が148人。
全国5位の人口規模の割に指定地が少なく、名古屋市への集中度が高い。
13位は、兵庫県。
娼妓数2064人、人口1万人あたり7.80人。
貿易港である神戸市「福原遊廓」の1057人が最大で、全国7位の規模。
次いで、西宮「浦町」339人、明石「新地」130人、姫路「梅ヶ坪」99人。
淡路島は洲本「漁師町」46人。
貸座敷指定地は10箇所。
ほとんどは瀬戸内海沿岸で、内陸部は多紀郡八上村(現:丹波篠山市)「池上」の29人のみ。
日本海側には指定地はない。
14位は山形県。
娼妓数833人、人口1万人あたり7.71人。
最大は、県都(城下町)山形市「小姓町」の169人。
次いで、鶴岡134人、日本海航路の港町・酒田105人、上杉氏の城下町・米沢56人、新庄34人、上ノ山34人と続く。
湯ノ浜(49人)、湯田川(24人)、赤湯(17人)、温海(13人)などは、地名からして温泉立地。
貸座敷指定地25箇所は、北海道、三重県、山口県に続き全国4位。
全県的にまんべんなく、こまめに指定されている印象。
15位は北海道。
娼妓数 2102人、人口1万人あたり7.48人。
貸座敷指定地51箇所は全国1位。
函館「大森」366人と札幌「白石」314人が道内の二大遊次いで次いで、根室「梅ケ枝町」196人、旭川「中島」181人、室蘭「幕西町」117人、釧路「米町」100人、小樽「入船」96人、同「手宮」79人、帯広「木賊原」71人、網走「北見町」56人、旭川「曙」43人、滝川37人、苫小牧32人、留萌31人と続く。
旭川は「曙」が旧廓、「中島」が新廓で、合わせると224人で3位相当になる。
小樽も「入船」「手宮」が拮抗していたが、合わせると175人で5位相当になる。
それぞれの地域で開拓拠点となった町には例外なく遊廓が設けられたが、娼妓数30人以上は51の指定地のうち15箇所に過ぎず、比較的小規模な指定地が多かった。
岩見沢 24人、歌志内12人、羽幌村10人は炭鉱立地。
離島にも指定地があり、利尻島(3+10人)、礼文島(3+7人)にそれぞれ2箇所、国後島、択捉島にも1箇所。
16位は熊本県。
娼妓数 994人、人口1万人あたり7.34人。
熊本市に近い「二本木遊廓」(行政区は飽託郡古町村)が娼妓数763人で圧倒的に大きく、全国でも10位の規模。
次いで、八代「紺屋町」の156人、
指定地は4箇所と少ない。
あとは三角の49人、天草・牛深町の26人。
17位は栃木県。
娼妓数783人、人口1万人あたり6.86人。
宇都宮「河原町」122人が最大。
次いで、堀米(現:佐野市)77人、御厨村大字福居(現:足利市)71人。
貸座敷指定地は22箇所で、関東地方最多、全国でも7位。
隣の群馬県(廃娼県)と著しい対照をなしている。
県内を南北に縦貫する街道の宿場起源が多い。
日光街道の宿場、小山20人、石橋(現:下野市)17人、徳次郎(現:宇都宮市)17人、今市32人。
日光例幣使街道の宿場、富田20人、合戦場(現:栃木市)62人、金崎(現:栃木市)71人、鹿沼「五軒町」34人、
奥州街道の宿場、氏家21人、喜連川「川松波」23人、大田原町「深川」30人。
また那須地方は、烏山59人、黒羽32人、黒磯20人、矢板「松の木」20人と、指定地が多い。
足尾「向原」(17人)は鉱山立地。
全体に実態に即して、こまめに指定している印象。
18位は福岡県。
10 169 娼妓数1687人、人口1万人あたり6.68人。
博多の郊外の「新柳町」(筑紫郡住吉町字春吉)の636人が最大。
筑前・豊前エリアでは、関門海峡の要衝で貿易港でもある門司「馬場」の250人、城下町・小倉「旭町」の107人、若松「連歌町」の93人、八幡の46人。
筑豊では、直方の72人。
筑後エリアでは、久留米「原古賀」の244人、大川「向島」の130人、大牟田市「新地」の103人。
貸座敷指定地は10箇所、中規模以上の指定地がほとんどで、小規模な指定地は1箇所だけ(芦屋「東町」6人)。
ある程度、絞り込んで指定している印象。
19位は高知県。
娼妓数469人、人口1万人あたり6.53人。
高知市の西郊の「玉水新地」(土佐郡旭村)の279人、東郊の「下知新地」(土佐郡下知村)の128人が大きい。
指定地は5箇所。
あとは、西部の中村「岩崎新地」31人、港町の宿毛「松田川新地」18人と須崎「琴平新地」13人。
20位は岐阜県。
娼妓数742人、人口1万人あたり6.30人。
貸座敷指定地は4箇所と少ない。
県都・岐阜市「金津遊廓」の427人が圧倒的。
次いで、大垣「旭」158人、多治見「西ヶ原」98人。
飛騨は高山「花岡」59人だけ。
【再掲】昭和初年の北海道の遊廓 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
2011年05月14日 昭和初年の北海道の遊廓
昭和初年の北海道の遊廓についても調べてみた。
なお、北海道に拠点都市の遊廓の開設年代については、以前、少し調べたことがある。
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-17
資料は例によって、上村行彰著『日本遊里史』(春陽堂、1929年)の巻末附録「日本全国遊廓一覧」。
この時代の北海道は、日本の他地域と比べて人口密度が圧倒的に希薄なので、遊廓の規模は、都市部のいくつかを除けば、おしなべて小さい。
娼妓100人以上の遊廓は、九州では17か所あるのに対し北海道には6か所しかない。
50人以上で切っても、東北地方ですら15か所あるのに北海道は10か所にとどまる。
なので、娼妓30人以上の指定地を掲げる
【指定地別ランキング(娼妓数30人以上)】
1 函館「大森」 67軒 366人( 5.46人)
2 札幌「白石」 32 314 ( 9.81人)
3 根室「梅ケ枝町」 21 196 ( 9.33人)
4 旭川「中島」 24 181 ( 7.54人)
5 室蘭「幕西町」 19 117 ( 6.16人)
6 釧路「米町」 14 100 ( 7.14人)
7 小樽「入船」 16 96 ( 6.00人)
8 小樽「手宮」 15 79 ( 5.26人)
9 帯広「木賊原」 7 71 (10.14人)
10 網走「北見町」 8 56 ( 7.00人)
11 厚岸 6 45 ( 7.50人)
12 旭川「曙」 7 43 ( 6.17人)
13 滝川 6 37 ( 6.17人)
14 苫小牧 6 32 ( 5.33人)
15 留萌 8 31 ( 3.87人)
函館「大森遊廓」と札幌「白石遊廓」(大正9年に「薄野遊廓」が移転)が抜けて大きい。
ただし、現在では人口規模も経済力も大きく差が開いている札幌と函館の地位が、この時代はまだ函館が上。
ただ、娼家の規模(貸座敷1軒当たりの娼妓の人数)は、函館「大森」より札幌「白石」の方がかなり(約1.8倍)大きい。
3位は道東の根室「梅ケ枝町」だが、道央の旭川が新旧の遊廓(「曙」が旧廓で、「中島」が新廓)を合わせると31軒224人で3位相当になる。
また小樽も「入船」「手宮」が色街として拮抗していたが、合わせると31軒、175人で5位相当になる。
以下、室蘭「幕西町」、釧路「米町」が100人以上、少し規模が小さくなり、帯広「木賊原」、網走「北見」など、それぞれに地域の開発拠点として早くに都市化(正確には町場化)した場所が続く。
さて、この時代の北海道の主要産業といえば炭鉱と漁業、とりわけ、日本海岸では鰊(にしん)漁が盛んだった。
炭鉱町には多くの鉱夫が、鰊漁の港には漁夫(ヤン衆)がたくさん集まるので、娼妓の需要があり、遊廓が栄えたかと思われる。
しかし、データで見る限り、どうもそうした傾向はあまり見えない。
上位ラインキングでは、6位の釧路は炭鉱町でもあったが道東の拠点としての性格が強い。15位の留萌も炭鉱町であり鰊の水揚げ港でもあったが、それだけくらいだ。
そこで、15位以下から炭鉱町を拾うと・・・、あまりない。
18 岩見沢 6軒 24人
26 歌志内 3 12
29 羽幌村 3 10
とても、大勢の鉱夫に応じられる規模ではない。
炭鉱主や幹部はともかく、一般の鉱夫の給料は、指定地の娼妓と遊ぶには不十分だったということだろうか。
では、鰊で賑わった日本海側の街はどうだろう。
20 岩内町 4 21
21 寿都村 3 21
22 瀬棚村 4 17
23 江差町「新地」 3 15
24 神恵内(かもえない)2 14
28 余市町 4 10
33 松前 「福山町」 2 7
35 増毛町 2 6
37 汐路村 2 4
39 磯谷村 1 4
47 古平町新地町 1 3
岩内、寿都、瀬棚などは町の人口規模に比べて遊廓が大きく、鰊景気の影響が認められる。
しかし、他はどうもあまりぱっとしない。
蝦夷地唯一の城下町の遊廓だった松前「福山遊廓」、北海道で有数の歴史を誇る江差「新地遊廓」の零落ぶりは哀れを誘う。
松前「福山遊廓」にいたっては、礼文島船泊と同規模にまで没落している。
調べてみたら、鰊漁の最盛期は明治30年代(1900年代)で、昭和初年(1930年頃)にはすでに漁獲量は半減し、鰊景気は去っていたようだ。
また、ニシン漁では、ほんの数日で親方たちは一年中遊んで暮らせるほどの大金を儲けたにしても、多くのヤン衆にまで、遊郭で遊ぶほどの金が回ったのだろうか?
そもそも、ヤン衆は、短期の季節労働者なので、遊廓を支える恒常的な客とはなり得なかった。
ということで、結論として昭和初期の北海道の遊廓は、やはり拠点都市集中型だったと思われる。
これは、開拓拠点に遊廓が形成されていった明治前半期の形態が、そのまま昭和初期にまで踏襲されているということだろう。
---------------------------------------------------
【昭和初年の北海道の遊廓(娼妓30人以下)】
16 枝幸 5軒 29人
17 幌泉(えりも町) 5 26
18 岩見沢 6 24
19 森村 4 24
20 岩内町 4 21
21 寿都村 3 21
22 瀬棚村 4 17
23 江差町「新地」 3 15
24 神恵内(かもえない)2 14
26 歌志内 3 12
27 石狩町 2 12
29 羽幌村 3 10
30 利尻島鷲泊村 3 10
31 霧多布村 3 9
32 広尾茂寄村 3 8
33 松前「福山町」 2 7
33 礼文島船泊村 2 7
35 増毛町 2 6
36 紋別村 1 6
37 浜益村 2 4
37 汐路村 2 4
39 深川村 1 4
39 静内下々片村 1 4
39 磯谷村 1 4
39 浦河町 1 4
39 稚内町常盤通 1 4
39 標津郡標津村 1 4
45 利尻島鬼脇村 2 3
46 礼文島香深村 2 3
47 古平町新地町 1 3
48 虻田郡虻田村 1 2
49 美国町大字澗 1 1
50 択捉島紗那村 1 1
51 国後島泊村 1 0
---------------------------------------------------
【参考:北海道の遊廓の開設時期】
安政5年(1858)函館「山ノ上遊廓」→ 明治4年(1871)「蓬莱町遊廓」→明治40年「大森遊廓」
明治4年(1871)札幌「薄野遊廓」→大正9年「白石遊廓」
明治6年(1873)小樽「金曇町(こんどんちょう)遊廓」明治14年「住之江遊廓」→明治29年「松ヶ枝遊廓」「手宮遊廓」
明治初年? 江差「新地遊廓」
明治9年(1876)根室「弥生町遊廓」→ 明治12年(1879)平内町→明治24年(1891)花園町
明治27年(1894)網走「北見町遊廓」
明治28年(1895)室蘭「幕西遊廓」
明治30年(1897)旭川「曙町遊廓」
明治31年(1898)帯広「木賊原(とくさはら)遊廓」
明治33年(1900)釧路「米町遊廓」
明治40年(1907)旭川「中島遊廓」
---------------------------------------------------
【文献】
(学術論文)
星 玲子「北海道における娼妓解放令--函館地方を中心にして」
『歴史評論』 491号(1991.3月)
星 玲子「北海道における娼妓自由廃業--1900年前後を中心に」
『歴史評論』 553号(1996年5月)
星 玲子「近代公娼制度における賦金の実態について--1870年代の北海道を中心にして」
『総合女性史研究』 18号 (2001年3月)
(単行本)
小寺平吉『北海道遊里史考』(北書房 1974年)
木野 工『旭川中島遊廓』(光風社書店 1975年) → 短編小説集
平林正一・久末進一『聞き書 室蘭風俗物語』(袖珍書林 1986年10月)
谷川美津枝『ものいわぬ娼妓たち-札幌遊廓秘話-』(みやま書房 1984年11月)
山谷一郎『オホーツク凄春(セイシュン)記-雑草の女・中川イセ物語-』(講談社 1986年6月)
2012-09-16 09:58 nice!(2) コメント(0) トラックバック(0)
2010年03月19日 北海道の
昭和初年の北海道の遊廓についても調べてみた。
なお、北海道に拠点都市の遊廓の開設年代については、以前、少し調べたことがある。
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-17
資料は例によって、上村行彰著『日本遊里史』(春陽堂、1929年)の巻末附録「日本全国遊廓一覧」。
この時代の北海道は、日本の他地域と比べて人口密度が圧倒的に希薄なので、遊廓の規模は、都市部のいくつかを除けば、おしなべて小さい。
娼妓100人以上の遊廓は、九州では17か所あるのに対し北海道には6か所しかない。
50人以上で切っても、東北地方ですら15か所あるのに北海道は10か所にとどまる。
なので、娼妓30人以上の指定地を掲げる
【指定地別ランキング(娼妓数30人以上)】
1 函館「大森」 67軒 366人( 5.46人)
2 札幌「白石」 32 314 ( 9.81人)
3 根室「梅ケ枝町」 21 196 ( 9.33人)
4 旭川「中島」 24 181 ( 7.54人)
5 室蘭「幕西町」 19 117 ( 6.16人)
6 釧路「米町」 14 100 ( 7.14人)
7 小樽「入船」 16 96 ( 6.00人)
8 小樽「手宮」 15 79 ( 5.26人)
9 帯広「木賊原」 7 71 (10.14人)
10 網走「北見町」 8 56 ( 7.00人)
11 厚岸 6 45 ( 7.50人)
12 旭川「曙」 7 43 ( 6.17人)
13 滝川 6 37 ( 6.17人)
14 苫小牧 6 32 ( 5.33人)
15 留萌 8 31 ( 3.87人)
函館「大森遊廓」と札幌「白石遊廓」(大正9年に「薄野遊廓」が移転)が抜けて大きい。
ただし、現在では人口規模も経済力も大きく差が開いている札幌と函館の地位が、この時代はまだ函館が上。
ただ、娼家の規模(貸座敷1軒当たりの娼妓の人数)は、函館「大森」より札幌「白石」の方がかなり(約1.8倍)大きい。
3位は道東の根室「梅ケ枝町」だが、道央の旭川が新旧の遊廓(「曙」が旧廓で、「中島」が新廓)を合わせると31軒224人で3位相当になる。
また小樽も「入船」「手宮」が色街として拮抗していたが、合わせると31軒、175人で5位相当になる。
以下、室蘭「幕西町」、釧路「米町」が100人以上、少し規模が小さくなり、帯広「木賊原」、網走「北見」など、それぞれに地域の開発拠点として早くに都市化(正確には町場化)した場所が続く。
さて、この時代の北海道の主要産業といえば炭鉱と漁業、とりわけ、日本海岸では鰊(にしん)漁が盛んだった。
炭鉱町には多くの鉱夫が、鰊漁の港には漁夫(ヤン衆)がたくさん集まるので、娼妓の需要があり、遊廓が栄えたかと思われる。
しかし、データで見る限り、どうもそうした傾向はあまり見えない。
上位ラインキングでは、6位の釧路は炭鉱町でもあったが道東の拠点としての性格が強い。15位の留萌も炭鉱町であり鰊の水揚げ港でもあったが、それだけくらいだ。
そこで、15位以下から炭鉱町を拾うと・・・、あまりない。
18 岩見沢 6軒 24人
26 歌志内 3 12
29 羽幌村 3 10
とても、大勢の鉱夫に応じられる規模ではない。
炭鉱主や幹部はともかく、一般の鉱夫の給料は、指定地の娼妓と遊ぶには不十分だったということだろうか。
では、鰊で賑わった日本海側の街はどうだろう。
20 岩内町 4 21
21 寿都村 3 21
22 瀬棚村 4 17
23 江差町「新地」 3 15
24 神恵内(かもえない)2 14
28 余市町 4 10
33 松前 「福山町」 2 7
35 増毛町 2 6
37 汐路村 2 4
39 磯谷村 1 4
47 古平町新地町 1 3
岩内、寿都、瀬棚などは町の人口規模に比べて遊廓が大きく、鰊景気の影響が認められる。
しかし、他はどうもあまりぱっとしない。
蝦夷地唯一の城下町の遊廓だった松前「福山遊廓」、北海道で有数の歴史を誇る江差「新地遊廓」の零落ぶりは哀れを誘う。
松前「福山遊廓」にいたっては、礼文島船泊と同規模にまで没落している。
調べてみたら、鰊漁の最盛期は明治30年代(1900年代)で、昭和初年(1930年頃)にはすでに漁獲量は半減し、鰊景気は去っていたようだ。
また、ニシン漁では、ほんの数日で親方たちは一年中遊んで暮らせるほどの大金を儲けたにしても、多くのヤン衆にまで、遊郭で遊ぶほどの金が回ったのだろうか?
そもそも、ヤン衆は、短期の季節労働者なので、遊廓を支える恒常的な客とはなり得なかった。
ということで、結論として昭和初期の北海道の遊廓は、やはり拠点都市集中型だったと思われる。
これは、開拓拠点に遊廓が形成されていった明治前半期の形態が、そのまま昭和初期にまで踏襲されているということだろう。
---------------------------------------------------
【昭和初年の北海道の遊廓(娼妓30人以下)】
16 枝幸 5軒 29人
17 幌泉(えりも町) 5 26
18 岩見沢 6 24
19 森村 4 24
20 岩内町 4 21
21 寿都村 3 21
22 瀬棚村 4 17
23 江差町「新地」 3 15
24 神恵内(かもえない)2 14
26 歌志内 3 12
27 石狩町 2 12
29 羽幌村 3 10
30 利尻島鷲泊村 3 10
31 霧多布村 3 9
32 広尾茂寄村 3 8
33 松前「福山町」 2 7
33 礼文島船泊村 2 7
35 増毛町 2 6
36 紋別村 1 6
37 浜益村 2 4
37 汐路村 2 4
39 深川村 1 4
39 静内下々片村 1 4
39 磯谷村 1 4
39 浦河町 1 4
39 稚内町常盤通 1 4
39 標津郡標津村 1 4
45 利尻島鬼脇村 2 3
46 礼文島香深村 2 3
47 古平町新地町 1 3
48 虻田郡虻田村 1 2
49 美国町大字澗 1 1
50 択捉島紗那村 1 1
51 国後島泊村 1 0
---------------------------------------------------
【参考:北海道の遊廓の開設時期】
安政5年(1858)函館「山ノ上遊廓」→ 明治4年(1871)「蓬莱町遊廓」→明治40年「大森遊廓」
明治4年(1871)札幌「薄野遊廓」→大正9年「白石遊廓」
明治6年(1873)小樽「金曇町(こんどんちょう)遊廓」明治14年「住之江遊廓」→明治29年「松ヶ枝遊廓」「手宮遊廓」
明治初年? 江差「新地遊廓」
明治9年(1876)根室「弥生町遊廓」→ 明治12年(1879)平内町→明治24年(1891)花園町
明治27年(1894)網走「北見町遊廓」
明治28年(1895)室蘭「幕西遊廓」
明治30年(1897)旭川「曙町遊廓」
明治31年(1898)帯広「木賊原(とくさはら)遊廓」
明治33年(1900)釧路「米町遊廓」
明治40年(1907)旭川「中島遊廓」
---------------------------------------------------
【文献】
(学術論文)
星 玲子「北海道における娼妓解放令--函館地方を中心にして」
『歴史評論』 491号(1991.3月)
星 玲子「北海道における娼妓自由廃業--1900年前後を中心に」
『歴史評論』 553号(1996年5月)
星 玲子「近代公娼制度における賦金の実態について--1870年代の北海道を中心にして」
『総合女性史研究』 18号 (2001年3月)
(単行本)
小寺平吉『北海道遊里史考』(北書房 1974年)
木野 工『旭川中島遊廓』(光風社書店 1975年) → 短編小説集
平林正一・久末進一『聞き書 室蘭風俗物語』(袖珍書林 1986年10月)
谷川美津枝『ものいわぬ娼妓たち-札幌遊廓秘話-』(みやま書房 1984年11月)
山谷一郎『オホーツク凄春(セイシュン)記-雑草の女・中川イセ物語-』(講談社 1986年6月)
2012-09-16 09:58 nice!(2) コメント(0) トラックバック(0)
2010年03月19日 北海道の
2月5日(水)強風+ビル風 [日常]
2月5日(水)
今日は風がとても強かった。
新綱島駅のバス停に行く途中の高層ビルの下、いつもビル風が強いのだが、今日は進めないくらいの強風。
子どもや足腰に支障がある高齢者(私)は危険。
今日は風がとても強かった。
新綱島駅のバス停に行く途中の高層ビルの下、いつもビル風が強いのだが、今日は進めないくらいの強風。
子どもや足腰に支障がある高齢者(私)は危険。
2月4日(火)力尽きる [日常]
2月4日(火)
1929年(昭和4年)の道府県別の娼妓の数(人口1万人あたり)、1位から13位まで概要を記して力尽きる。
でも、だいぶ状況把握ができてきた。
貸座敷許可地の指定は、鉄道が発達する以前の明治時代初期に行われたものが継承されているので、江戸時代以来の城下町や職場町が数多く指定されている。
(鉄道中心に切り替わっていない)
また、西日本では瀬戸内海水運の港津に指定地が多い。
ただし、日本海航路(北前船)の港津はすでに衰退している。
1929年(昭和4年)の道府県別の娼妓の数(人口1万人あたり)、1位から13位まで概要を記して力尽きる。
でも、だいぶ状況把握ができてきた。
貸座敷許可地の指定は、鉄道が発達する以前の明治時代初期に行われたものが継承されているので、江戸時代以来の城下町や職場町が数多く指定されている。
(鉄道中心に切り替わっていない)
また、西日本では瀬戸内海水運の港津に指定地が多い。
ただし、日本海航路(北前船)の港津はすでに衰退している。
【再録】「杉村久子日記」に見る大阪船場の「節分の巻寿司」習俗 [生活文化・食文化・ファッション文化論]
2012年02月03日
「杉村久子日記」に見る大阪船場の「節分の巻寿司」習俗
2月3日(金)
ついこの間、歳が明けたと思ったら、もう今日は節分である。
節分の「恵方巻」については、3年前に調べて書いたことがある。
(参照)2009年02月03日 節分の「恵方巻」のからくり
要約するとこんな感じになる。
(1) 昭和初期の大阪・船場の商人の間では、節分の縁起もの(厄落とし習俗)として「丸かぶりずし」を食べることが行われていたことが、広告などから確認できる。
(2)その発祥地は、大阪のほか、和歌山(紀州)、滋賀(近江)など候補があり確定はできない。
(3)そうした習俗も、戦後になるとまったく廃れた。
(4)1973年、大阪海苔問屋協同組合が、海苔を使用する巻き寿司販促キャンペーンとして、ポスターを寿司屋などの店頭に貼り出し、翌1974年には、大阪市で海苔店経営者が、海苔の需要拡大を目的に、節分のイベントとして「海苔巻きの早食い競争」を始める。
1977年には、大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行った海苔の販売促進行事が、現地のマスコミに紹介され、節分に巻き寿司を食べる習俗が、関西の一部で復活した
(5)コンビニエンス・ストアチェーン(ファミリーマート、セブン-イレブン)が、売り上げの落ちる1月後半~2月初旬の販売促進イベントとして、取り入れたことから全国展開していく。
その時期は、1998年頃かららしい。
(6)首都圏で「節分の恵方巻」の認知が広まったのは、ごく最近、2000年代になってからである。
つまり、以前から、大阪船場あたりの狭いエリアで細々と行われていた習俗が、最初は海苔問屋、続いてコンビニエンス・ストアの販売促進という目的で、あたかも伝統的な習俗であるかのように宣伝され、世間に広まってしまったということ。
「目を閉じて一言も喋らず」というのも、その過程で、誰かが言いだしたのかもしれない。
商業ベースで、年中行事(習俗)らしきものが捏造されたという点では、同じ2月のバレンタインデーのチョコレートとそっくり。
で、(1)の昭和初期の大阪・船場の商人の間では、節分の縁起もの(厄落とし習俗)として行われていたことについて、最近読んだ荒木康代『大阪船場おかみの才覚-「ごりょんさん」の日記を読む-」(平凡社新書 2011年12月)に記述があるので、紹介しておく。
この本で読解・紹介している「日記」は、大阪船場の商家に嫁いだ杉村久子(1875~1945年、旧姓:五代)という女性が残した「日記」。
その昭和2年(1927)の2月4日の条に、当時は大阪府伊丹町に住んでいた久子が女中とともに前日から用意しておいた材料で、節分の巻き寿司を作った記述が見える。
「台所六時起出つ。久子七時半起出、洗面。八時半参詣し九時より台所へ出、寿し材料昨日巻し分を味滲み、高野、椎茸、かんぴょうなど皆味を付け出し、飯たき上げしを酢をかげんして、まぜてさまさせ、厚やき切り、高野きり、あなごす焼きにさせて、後に味醂を付けてきざみ、海苔あぶりなど準備手間取り、やっつ十一時より巻にかかる。十二時迄に五本巻き置きて、中食。台所下女うわのはしにて中食させ、十二時半より松と二人にて巻き、一時半大阪送りの分揃う。準備九時より、十一時より巻かけ久子任七本、松任二本巻、三時に終り、四時片付け終わる。」
この朝、久子はいつもより早く起き、9時から女中たちを指揮して巻寿司の下準備にかかる。
水で戻した高野豆腐、椎茸、干瓢に味を滲ませ、飯を炊いて酢加減して冷まし、酢飯を作る。穴子を素焼きにして味醂を付けて刻み、海苔をあぶってやっと準備完了。
11時から手分けして巻き始め、昼食を挟んで13時半までに、大阪に送る分が完了、さらに巻く作業を15時まで続ける。
贈り先リストによると、この日、久子が女中とともに作った巻寿司は合計50本。
自宅と店の分以外に親戚、知人に贈っているが、家族だけでなく雇人や女中の分もきちんとカウントして贈っている。
つまり、節分の巻寿司は、身分に関係なく1人1本であったことがわかる。
同時に、久子から巻寿司を贈られている実家の五代家の関係者や伊丹町の友人たちの家では巻寿司は作っていないと推測される。
「杉村久子日記」からは、節分の縁起物としての巻寿司が大阪・船場の商家という限られた範囲の習俗であったことが読み取れる。
「杉村久子日記」に見る大阪船場の「節分の巻寿司」習俗
2月3日(金)
ついこの間、歳が明けたと思ったら、もう今日は節分である。
節分の「恵方巻」については、3年前に調べて書いたことがある。
(参照)2009年02月03日 節分の「恵方巻」のからくり
要約するとこんな感じになる。
(1) 昭和初期の大阪・船場の商人の間では、節分の縁起もの(厄落とし習俗)として「丸かぶりずし」を食べることが行われていたことが、広告などから確認できる。
(2)その発祥地は、大阪のほか、和歌山(紀州)、滋賀(近江)など候補があり確定はできない。
(3)そうした習俗も、戦後になるとまったく廃れた。
(4)1973年、大阪海苔問屋協同組合が、海苔を使用する巻き寿司販促キャンペーンとして、ポスターを寿司屋などの店頭に貼り出し、翌1974年には、大阪市で海苔店経営者が、海苔の需要拡大を目的に、節分のイベントとして「海苔巻きの早食い競争」を始める。
1977年には、大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行った海苔の販売促進行事が、現地のマスコミに紹介され、節分に巻き寿司を食べる習俗が、関西の一部で復活した
(5)コンビニエンス・ストアチェーン(ファミリーマート、セブン-イレブン)が、売り上げの落ちる1月後半~2月初旬の販売促進イベントとして、取り入れたことから全国展開していく。
その時期は、1998年頃かららしい。
(6)首都圏で「節分の恵方巻」の認知が広まったのは、ごく最近、2000年代になってからである。
つまり、以前から、大阪船場あたりの狭いエリアで細々と行われていた習俗が、最初は海苔問屋、続いてコンビニエンス・ストアの販売促進という目的で、あたかも伝統的な習俗であるかのように宣伝され、世間に広まってしまったということ。
「目を閉じて一言も喋らず」というのも、その過程で、誰かが言いだしたのかもしれない。
商業ベースで、年中行事(習俗)らしきものが捏造されたという点では、同じ2月のバレンタインデーのチョコレートとそっくり。
で、(1)の昭和初期の大阪・船場の商人の間では、節分の縁起もの(厄落とし習俗)として行われていたことについて、最近読んだ荒木康代『大阪船場おかみの才覚-「ごりょんさん」の日記を読む-」(平凡社新書 2011年12月)に記述があるので、紹介しておく。
この本で読解・紹介している「日記」は、大阪船場の商家に嫁いだ杉村久子(1875~1945年、旧姓:五代)という女性が残した「日記」。
その昭和2年(1927)の2月4日の条に、当時は大阪府伊丹町に住んでいた久子が女中とともに前日から用意しておいた材料で、節分の巻き寿司を作った記述が見える。
「台所六時起出つ。久子七時半起出、洗面。八時半参詣し九時より台所へ出、寿し材料昨日巻し分を味滲み、高野、椎茸、かんぴょうなど皆味を付け出し、飯たき上げしを酢をかげんして、まぜてさまさせ、厚やき切り、高野きり、あなごす焼きにさせて、後に味醂を付けてきざみ、海苔あぶりなど準備手間取り、やっつ十一時より巻にかかる。十二時迄に五本巻き置きて、中食。台所下女うわのはしにて中食させ、十二時半より松と二人にて巻き、一時半大阪送りの分揃う。準備九時より、十一時より巻かけ久子任七本、松任二本巻、三時に終り、四時片付け終わる。」
この朝、久子はいつもより早く起き、9時から女中たちを指揮して巻寿司の下準備にかかる。
水で戻した高野豆腐、椎茸、干瓢に味を滲ませ、飯を炊いて酢加減して冷まし、酢飯を作る。穴子を素焼きにして味醂を付けて刻み、海苔をあぶってやっと準備完了。
11時から手分けして巻き始め、昼食を挟んで13時半までに、大阪に送る分が完了、さらに巻く作業を15時まで続ける。
贈り先リストによると、この日、久子が女中とともに作った巻寿司は合計50本。
自宅と店の分以外に親戚、知人に贈っているが、家族だけでなく雇人や女中の分もきちんとカウントして贈っている。
つまり、節分の巻寿司は、身分に関係なく1人1本であったことがわかる。
同時に、久子から巻寿司を贈られている実家の五代家の関係者や伊丹町の友人たちの家では巻寿司は作っていないと推測される。
「杉村久子日記」からは、節分の縁起物としての巻寿司が大阪・船場の商家という限られた範囲の習俗であったことが読み取れる。
1929年(昭和4年)の道府県別の娼妓の数(人口1万人あたり)1~10位 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
2月4日(火)
1929年(昭和4年)の道府県別の娼妓の数(人口1万人あたり)
1位は大阪府。
娼妓数7403人で、人口1万人あたり 20.91人。
いずれも全国最多。
日本最大の遊廓も大阪市西区の「松島遊廓」(娼妓数3725人)。
次いで、南区「五花街」の1094人、西成区「飛田遊廓」1065人、西区「新町」622人と続く。
大阪市以外では、堺市の「栄橋」の648人が最多。
他には、南部の貝塚と北部の枚方だけで、大阪市内への集中度が高い。
当時の大阪は日本最大の「商都」であると同時に「娼都」だった。
2位は京都府。
娼妓数3242人、人口1万人あたりは、大阪府にわずかに及ばない20.88人。
最大は下京「七条新地」で、娼妓数988人。
次いで上京「北新地」の470人、下京「宮川町」の314人「祇園乙部」の262人、「島原」の237人と続く。
京都市外では伏見「中書島」が234人。
日本海側では、海軍の軍港がある舞鶴が「朝代」53人、「加津良」78人、「猪崎」(行政区分は天田郡庵我村)127人、「龍宮」205人で、4地区合わせて463人。
大阪、京都という関西の大都市圏が上位を占める。
人口あたりの娼妓数は、東京府のほぼ倍。
関西は、買売春という行為の社会的比重が高かったということ。
3位は沖縄県。
娼妓数1032人、人口1万人あたり17.85人。
那覇の「辻遊廓」に1点集中。
「辻」は単独遊廓として全国8位の規模。
ただし、沖縄の買売春の形態は「本土」とかなり異なる。
娼家には娘が2人(多くは養女)がいて、そこに複数の男性が通い供応(共同飲食、芸能、性交渉)を受ける。
客になるには事前に紹介が必要で、どちらの娘の客になるかが決められる。
フリの客は受けない。
擬似的な一妻多夫形態といえる。
1929年のデータは、貸座敷516軒、娼妓1032人で、きれいに1軒あたり2人になっている。
4位は神奈川県。
娼妓数2637人、人口1万人あたり16.28人。
最大は、幕末開港の「港崎遊廓」の系譜を引く横浜市「永真遊廓」で、真金町と永楽町を合わせて娼妓数1501人で、全国4位相当になる。
次いで、海軍の軍港・横須賀の「柏木田遊廓」で娼妓数343人。
川崎、神奈川、保土ケ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原と、東海道の宿場起源の貸座敷指定地も多い。
結果、人口当たりの娼妓数は東京府の1.5倍。
5位は三重県。
娼妓数1832人、人口1万人あたり15.83人。
最多は、東海道の宿場で港の桑名(娼妓数156人)。
次いで、江戸時代以来、伊勢参宮の客を集めた宇治山田市の「古市遊廓」(娼妓数135人)。
伊勢神宮の地元である宇治山田は、古市も含め市内4箇所で娼妓数361人で、実質的にはここが最大。
四日市(83+9人)、石薬師(32人)、関(20人)などの東海道の宿場、久居(47人)、松坂(愛宕町134人、川井町109人)などの伊勢参宮道沿いん人ん人(101人)、亀山(75人)、伊賀上野(70人)などの城下町、さらに鳥羽(60人)、的矢(8+17人)、中井浦(58人)など志摩の漁港など、県内まんべんなく貸座敷指定地があり、指定地33箇所は、北海道に次いで全国2位。
買売春活動が活発な土地柄だったことを思わせる。
6位は広島県。
娼妓数1949人、人口1万人あたり11.52人。
県都広島市は「西廓」(船入町)と「東廓」(下柳町)を合わせて娼妓数618人。
次いで、海軍の軍港・呉市「旭遊廓」で娼妓数590人。
東部(旧・備後国)の城下町・福山市「新町遊廓」は娼妓数99人。
指定地のほとんどは、尾道(112人)など瀬戸内海航路の港町。
内陸部の三次などには指定地はない。
7位は東京府。
娼妓数5778人、人口1万人あたり10.68人。
娼妓の人数は大阪府に次いで全国2位だが、人口が多いのでこのランクになる。
「権現様(徳川家康)のお許し」「江都唯一」の格式を誇る「新吉原遊廓」(娼妓数2362人)、幕末のどさくさに公許された「根津遊廓」が1888年に東京湾岸の埋立地に移転した「洲崎遊廓」(娼妓数1937人)が二大遊廓で、それぞれ全国2位、3位の規模。
貸座敷指定地は9箇所。
新吉原、洲崎に、五街道の最初の宿場である「四宿」(品川、板橋、千住、内藤新宿)、甲州街道の宿場(調布、府中、八王子)を加えた9箇所という構造は、明治6年(1873)の貸座敷指定以来、変化はない。
おそらく、膨張する大東京の人口を背景にした買春需要に対応できていない。
結果、玉ノ井、亀戸などの私娼街が繁栄することになる。
8位は山口県。
娼妓数1174人、人口1万人あたり10.34人。
東京府とほぼ同レベル。
瀬戸内海航路の要所・下関市は市内7箇所の指定地合わせて、娼妓数527人で一大売春地帯になっている。
貸座敷指定地は27箇所で全国3位。
柳井「石原遊廓」77人、宇部「老松遊廓」76人、防府68人、徳山56人など瀬戸内海航路の港町に多い。
内陸部では、県庁所在地の山口市が娼妓数137人。
日本海側では、長州藩の城下町・萩「弘法寺遊廓」が54人。
9位は長崎県。
娼妓数2248人、人口1万人あたり9.65人。
大貿易港・長崎市は「出雲町」(娼妓数370人)、「稲佐町」(291人)、「戸町」(213人)を中心に、合わせて1149人。
江戸時代以来の伝統がある「丸山遊廓」は62人で、すでに衰退している。
次いで、海軍の軍港・佐世保(行政区は東彼杵郡早岐村)「田子の浦遊廓」の590人。
指定地は23箇所で、全国5位。
島嶼部を含め津々浦々にある印象。
島嶼部では、対馬・厳原「立亀遊廓」の75人が目立つ。
10位は福井県。
娼妓数542人、人口1万人あたり8.77人。
最大は県都・福井市「玉井町遊廓」の146人。
次いで、敦賀「東」97人、武生「新町」96人、大野「山王」65人、鯖江「弁天」55人、三国「出村」35人、小浜「三丁目」34人と続く。
人口が少ない県なので、各遊廓の規模は小さいが、各地域にまんべんなく指定地がある印象。
1929年(昭和4年)の道府県別の娼妓の数(人口1万人あたり)
1位は大阪府。
娼妓数7403人で、人口1万人あたり 20.91人。
いずれも全国最多。
日本最大の遊廓も大阪市西区の「松島遊廓」(娼妓数3725人)。
次いで、南区「五花街」の1094人、西成区「飛田遊廓」1065人、西区「新町」622人と続く。
大阪市以外では、堺市の「栄橋」の648人が最多。
他には、南部の貝塚と北部の枚方だけで、大阪市内への集中度が高い。
当時の大阪は日本最大の「商都」であると同時に「娼都」だった。
2位は京都府。
娼妓数3242人、人口1万人あたりは、大阪府にわずかに及ばない20.88人。
最大は下京「七条新地」で、娼妓数988人。
次いで上京「北新地」の470人、下京「宮川町」の314人「祇園乙部」の262人、「島原」の237人と続く。
京都市外では伏見「中書島」が234人。
日本海側では、海軍の軍港がある舞鶴が「朝代」53人、「加津良」78人、「猪崎」(行政区分は天田郡庵我村)127人、「龍宮」205人で、4地区合わせて463人。
大阪、京都という関西の大都市圏が上位を占める。
人口あたりの娼妓数は、東京府のほぼ倍。
関西は、買売春という行為の社会的比重が高かったということ。
3位は沖縄県。
娼妓数1032人、人口1万人あたり17.85人。
那覇の「辻遊廓」に1点集中。
「辻」は単独遊廓として全国8位の規模。
ただし、沖縄の買売春の形態は「本土」とかなり異なる。
娼家には娘が2人(多くは養女)がいて、そこに複数の男性が通い供応(共同飲食、芸能、性交渉)を受ける。
客になるには事前に紹介が必要で、どちらの娘の客になるかが決められる。
フリの客は受けない。
擬似的な一妻多夫形態といえる。
1929年のデータは、貸座敷516軒、娼妓1032人で、きれいに1軒あたり2人になっている。
4位は神奈川県。
娼妓数2637人、人口1万人あたり16.28人。
最大は、幕末開港の「港崎遊廓」の系譜を引く横浜市「永真遊廓」で、真金町と永楽町を合わせて娼妓数1501人で、全国4位相当になる。
次いで、海軍の軍港・横須賀の「柏木田遊廓」で娼妓数343人。
川崎、神奈川、保土ケ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原と、東海道の宿場起源の貸座敷指定地も多い。
結果、人口当たりの娼妓数は東京府の1.5倍。
5位は三重県。
娼妓数1832人、人口1万人あたり15.83人。
最多は、東海道の宿場で港の桑名(娼妓数156人)。
次いで、江戸時代以来、伊勢参宮の客を集めた宇治山田市の「古市遊廓」(娼妓数135人)。
伊勢神宮の地元である宇治山田は、古市も含め市内4箇所で娼妓数361人で、実質的にはここが最大。
四日市(83+9人)、石薬師(32人)、関(20人)などの東海道の宿場、久居(47人)、松坂(愛宕町134人、川井町109人)などの伊勢参宮道沿いん人ん人(101人)、亀山(75人)、伊賀上野(70人)などの城下町、さらに鳥羽(60人)、的矢(8+17人)、中井浦(58人)など志摩の漁港など、県内まんべんなく貸座敷指定地があり、指定地33箇所は、北海道に次いで全国2位。
買売春活動が活発な土地柄だったことを思わせる。
6位は広島県。
娼妓数1949人、人口1万人あたり11.52人。
県都広島市は「西廓」(船入町)と「東廓」(下柳町)を合わせて娼妓数618人。
次いで、海軍の軍港・呉市「旭遊廓」で娼妓数590人。
東部(旧・備後国)の城下町・福山市「新町遊廓」は娼妓数99人。
指定地のほとんどは、尾道(112人)など瀬戸内海航路の港町。
内陸部の三次などには指定地はない。
7位は東京府。
娼妓数5778人、人口1万人あたり10.68人。
娼妓の人数は大阪府に次いで全国2位だが、人口が多いのでこのランクになる。
「権現様(徳川家康)のお許し」「江都唯一」の格式を誇る「新吉原遊廓」(娼妓数2362人)、幕末のどさくさに公許された「根津遊廓」が1888年に東京湾岸の埋立地に移転した「洲崎遊廓」(娼妓数1937人)が二大遊廓で、それぞれ全国2位、3位の規模。
貸座敷指定地は9箇所。
新吉原、洲崎に、五街道の最初の宿場である「四宿」(品川、板橋、千住、内藤新宿)、甲州街道の宿場(調布、府中、八王子)を加えた9箇所という構造は、明治6年(1873)の貸座敷指定以来、変化はない。
おそらく、膨張する大東京の人口を背景にした買春需要に対応できていない。
結果、玉ノ井、亀戸などの私娼街が繁栄することになる。
8位は山口県。
娼妓数1174人、人口1万人あたり10.34人。
東京府とほぼ同レベル。
瀬戸内海航路の要所・下関市は市内7箇所の指定地合わせて、娼妓数527人で一大売春地帯になっている。
貸座敷指定地は27箇所で全国3位。
柳井「石原遊廓」77人、宇部「老松遊廓」76人、防府68人、徳山56人など瀬戸内海航路の港町に多い。
内陸部では、県庁所在地の山口市が娼妓数137人。
日本海側では、長州藩の城下町・萩「弘法寺遊廓」が54人。
9位は長崎県。
娼妓数2248人、人口1万人あたり9.65人。
大貿易港・長崎市は「出雲町」(娼妓数370人)、「稲佐町」(291人)、「戸町」(213人)を中心に、合わせて1149人。
江戸時代以来の伝統がある「丸山遊廓」は62人で、すでに衰退している。
次いで、海軍の軍港・佐世保(行政区は東彼杵郡早岐村)「田子の浦遊廓」の590人。
指定地は23箇所で、全国5位。
島嶼部を含め津々浦々にある印象。
島嶼部では、対馬・厳原「立亀遊廓」の75人が目立つ。
10位は福井県。
娼妓数542人、人口1万人あたり8.77人。
最大は県都・福井市「玉井町遊廓」の146人。
次いで、敦賀「東」97人、武生「新町」96人、大野「山王」65人、鯖江「弁天」55人、三国「出村」35人、小浜「三丁目」34人と続く。
人口が少ない県なので、各遊廓の規模は小さいが、各地域にまんべんなく指定地がある印象。
1929年(昭和4年)の全国(47道府県)の遊廓 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]
2月3日(月)
1929年(昭和4年)の全国(47道府県)の遊廓(植民地を含まず)
貸座敷指定地 528箇所
貸座敷 10828軒
登録娼妓 49458人
総人口(1930年)6445.0万人
貸座敷1軒あたりの娼妓の人数 4.568人
人口1万人あたりの娼妓の人数 7.674人
これだけの数字を算出するのに3日かかった(笑)
1929年(昭和4年)の全国(47道府県)の遊廓(植民地を含まず)
貸座敷指定地 528箇所
貸座敷 10828軒
登録娼妓 49458人
総人口(1930年)6445.0万人
貸座敷1軒あたりの娼妓の人数 4.568人
人口1万人あたりの娼妓の人数 7.674人
これだけの数字を算出するのに3日かかった(笑)
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