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火が吹き渡る」と「火が走る」 [お仕事(父に聞いた戦後)]

5月25日(木)

今日5月25日は、アメリカ軍の空襲で、4000人以上が亡くなった「東京山の手大空襲」の日。

NHKのニュースで、15歳で体験したおじいさんが「表参道を火が吹き渡る」と言っていた。

同じように表参道で被災した亡父は「火が走る」と言っていた。

同じ現象だと思う。
大火災にあぶられて木材の温度が上がり、発火温度に達すると、一気に燃え広がる現象と思われる。



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B29の話 [お仕事(父に聞いた戦後)]

3月10日(水)

亡父を含む東京大空襲を経験した人のB29の印象は「ともかくデカい」。

「空の要塞」といわれたB29は、全長30mで当時、世界最大の爆撃機。
日本海軍の一式陸上攻撃機が20mだから1.5倍ある。

ただし、「デカい」と感じたのには、もう1つ理由がある。
それまで、高度8500mから9500mmの精密爆撃をしていたB29が、3月10日以降の都市部焼夷弾攻撃では、1500m~3000の低空爆撃に切り替えたため。
つまり低く(近く)を飛んでくるので、余計に大きく見えたということ。
だから、爆音もすさまじかったとのこと。

しかし、これだけ低空での侵入だと、高高度では届かない日本の高射砲もたまには当たるようになる。
また、「屠龍」をはじめとする日本軍の防空戦闘機の迎撃も機能してくる。

実際、3月10日の大空襲では15機のB29が撃墜されている(アメリカ軍発表は14機喪失)。
とはいえ、325機の大爆撃隊なので、14機喪失でも、率にすれば4.3%で、「悔しいが、焼け石に水」だった。

ちなみに5月25日の山の手大空襲では、日本軍の迎撃はさらに激烈になり、498機の出撃で26機喪失(5.2%)となる。

父も、日本の迎撃機の体当たり攻撃で撃墜されるB29を目撃している。
「B29の胴体にパッと火がはじけ、少しの間は水平姿勢を保っていたが、そのうちぐらっと崩れて墜ちていった」そうだ。
機体が大きいから墜ちたら墜ちたで、地上は大変とのこと(墜落現場を見に行っている)。

「けっして、やられっぱなしではなかった」のだが、B29は「後から後から来る」わけで、ともかく「物量が違い過ぎた」という話だった。

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調査旅行の予定 [お仕事(父に聞いた戦後)]

3月1日(月)

9月までに、広島の呉と、長野の飯田に行くつもり。

呉は亡父が子供~少年時代を過ごした街(旧制:呉一中の卒業)。
飯田は、東京医学専門学校の2年生だったとき、集団疎開して「玉音放送」を聞いた街(滞在は半年弱)。

どちらも、父の足跡を追う調査旅行。
だから早く越県移動ができるようになってほしい。

さっき、調べたら、呉(4時間15分)、飯田(5時間19分)で、東京からの時間距離は、呉の方が1時間も近い。
飯田が不便すぎる。


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密造焼酎の製造場所はどこか? [お仕事(父に聞いた戦後)]

2月28日(日)

戦後混乱期、焼け跡・闇市時代の新宿の医学生であった亡父は、たぶん1946年頃、密造焼酎の運び屋のアルバイトをやっていた。

その製造元である「大久保の朝鮮人部落」がどこなのか?
証言は「新大久保駅よりもっと先、高田馬場との間の線路際」。

戦後東京の朝鮮人集住地区についての論文などを参考に、旧・西大久保三丁目の西側(現:新宿区大久保三丁目)と推測。

ここで作られ、一升瓶に入れた密造焼酎を2本、背嚢(リュック)に入れて、新宿駅東口の闇市「和田組マーケット」まで運んでいた。

ちなみに、父は酒がまったく飲めない体質なので、密造酒の運び屋としては信頼されていたとのこと。
酒好きだと、途中で盗み飲みしてしまうので駄目なのだそうだ。

それと、学生という身分(見かけ)がカモフラージュになっていたようだ。






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山田風太郎の戦中・戦後「日記」シリーズを読む [お仕事(父に聞いた戦後)]

2月27日(土)

この2週間ほど、資料として読んでいた、小説家・山田風太郎(1922~2001年)の戦中・戦後「日記」シリーズをやっと読み終える。
『戦中派不戦日記』(1945年)
『戦中派焼け跡日記』(1946年)
『戦中派闇市日記』(1947~48年)
『戦中派動乱日記』(1949~50年)
『戦中派復興日記』(1951~52年)
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山田風太郎は、私の亡父の東京医学専門学校(現:東京医科大学)の同級生(1944年入学)で、その日記にはときどき父の名前が出てくる。

まったく「日記」や記録を残さなかった父の足跡を補う資料として読み始めたのだが、それは別として、戦中~戦後混乱期の世相をリアルに記録した貴重な資料であることを改めて痛感した(『不戦日記』は大学生の頃に読んでいたので再読)。

風太郎氏、医科大学に学びながら、途中で新進の探偵小説作家となり、医者にはならなかった(インターンはしたが医師国家試験は受験せず)という変わった経歴で、性格的にも相当に偏屈な(女性蔑視もひどい)人物ではあるが、事物を観察し文字にして記録するという点では、さすがにすぐれた才があり、面白かった。

貧乏な医学生時代、同級生たちとまったく女っ気がないホモソーシャルな生活を送っていたのに、小説が売れ始め金回りが良くなるにつれて、女性が寄ってくるようになり、「赤線」にも出入りするようになる。

その極端な(現金な)変化が面白い。

「赤線」についての記述は、大学から程近い「新宿二丁目」だけでなく、小岩(江戸川区)の「東京パレス」の探訪記もある。
これらは、「赤線」研究の資料になる。
ともかく付箋がいっぱいで、これから整理するのが大変。

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『父に聞いた戦後』を書き始める [お仕事(父に聞いた戦後)]

2月25日(木)

(山田風太郎が部屋にいってみると)「柱にもたれかかったまま、あぐらをかいて、眼をつむっていた。涙が二すじ頬にひいていた。」

信州・飯田の疎開先で、「玉音放送」(ポツダム宣言受諾=無条件降伏の詔)を聴いた直後の亡父の様子。
(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和20年8月16日条より)

当時、東京医学専門学校(現:東京医科大学)2年生(21歳)。

そうだろうな。
激昂せず、困難になるほど沈着冷静になるタイプだし、敗戦の不可避は東京が空襲で焼け野原になった段階で察していたようだし。
ただ、父親(私からすると祖父)は、連合艦隊軍医長として戦死しているわけで、当然ながら複雑な思いがあったろう。

ともかく、亡父の戦後の苦難は、ここから始まる。
それをこれから、『父に聞いた戦後』として、私なりに書いてみようと思う。
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