SSブログ
性社会史研究(連れ込み旅館) ブログトップ
前の10件 | -

フランスのテレビ局の旅番組が、なぜ日本のラブホテルに興味をもつのか?  [性社会史研究(連れ込み旅館)]

10月1日(木)

そもそもの話、フランスのテレビ局の旅番組が、なぜ日本のラブホテルに興味をもつのか? 

ディレクター氏に質問すると、フランス人夫婦が日本に観光旅行をするとき、行ってみたい場所の1つなのだそうだ。

なぜなら、フランスには(欧米には)「ラブホテル」のような場所はないから。

なぜ、欧米になくて日本にはあるのか?
それを考えるのも、セクシュアリティの歴史研究なのだが、日本の場合、同様の施設は、すでに江戸時代(18世紀)にはあった。
たとえば、江戸では上野・不忍池界隈の「出会茶屋」とか。

「連れ込み旅館」は、戦災で多くの住宅が焼失してしまい、屋内のSexの場が決定的に不足した社会状況の中で、東京では1950年前後から急増する。
「連れ込み旅館」の顧客は大きく分けて3つ。
① 秘密性をもつ恋人たち(アベック)
② Sexの場に恵まれない夫婦
③ 上客をつかんだ街娼

①は説明するまでもないだろう。
②は日本の狭く、夫婦のプライバシーが守られない住宅環境が背景にある。
③は「連れ込み旅館」の経営者にとってはかなり厄介な客で、とりわけ「売春防止法」の施行(1958年)以降は、同法の「場所提供」に引っ掛かり、摘発されるリスクがあった。

1950~60年代の「連れ込み旅館」は、ほぼ和風(畳に布団)、部屋は高級感ある数寄屋造りが売りだったが、次第に洋室(ベッド)の需要が高まり、1960年代末頃から「ホテル化」していく。

同じ頃(1960年代末頃)、車で入れる「モーテル」が出現し、それらが1970年代に「ラブホテル」化していく。

生活の洋風指向(洋風へのあこがれ)とモータリゼーションが「ラブホテル」を出現させたというのが、私の説。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-05-17
そんな話をかいつまんで、フランス人向けにしゃべった。

nice!(0)  コメント(0) 

1950年代東京のエリア分け [性社会史研究(連れ込み旅館)]

5月5日(火・祝)

この3日ほど「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)全385軒」の改訂・加筆作業をしていた。

このデータベースでは、東京を都心、城西、城南、城北、城東の5つのエリアに分けている。
それをどう分けるかは、以前、けっこう悩んだ末に「えい!、やあ!」という感じで気合で分けたのだけど、もう少し論理的にしないといけない。

どちらに入れたらいいか、微妙な所もある。
新宿は城西エリアなのだけど、四谷荒木町、牛込矢来町はどうしよう?といったような。
あるいは、品川は城南エリアに入れるか、都心エリアに入れるか?

結局、江戸時代の「ご朱引内」(江戸町奉行所の管轄範囲)を(東側以外)都心エリアにするのが、いちばん現実に合うように思う。

西は四谷大木戸まで(四谷荒木町、牛込矢来町は都心エリア)。
南は高輪大木戸まで(田町は都心エリア、品川は城南エリア)。
北は木戸がないのであいまいだが、本郷・小石川、浅草・下谷の範囲。
東は「ご朱引」とはずれるが大川(隅田川)まで。

つまり、都心エリアは千代田区(旧:麹町区・神田区)、中央区(旧:日本橋区、京橋区)、港区(旧:芝区、麻布区、赤坂区)、文京区(旧:本郷区、小石川区)、台東区(旧:浅草区、下谷区)、それに新宿区の一部(牛込区、四谷区の東側3分の2)。

この1950年代の都心エリアは、網の目のような都電の路線網、都電が走り回っていたの範囲に(とくに西と南は)ほぼ相当する。

で、今「都電と『連れ込み旅館』」というコラムを書き始めた。


nice!(0)  コメント(0) 

4月21日(火)論考「坂の途中・渋谷の『性なる場』の変遷 ―『連れ込み旅館』から『ラブホテル街』の形成へ―」をアップ [性社会史研究(連れ込み旅館)]

4月21日(火)

午後から夜、論考に表と地図を入れる作業。
夜中、それを、アーカイブにアップする作業。

なにしろ、表が5つ、地図が18枚、図版が43点もあるのでものずごく手間がかかる。

4時、ようやく終了。
ということで、論考「坂の途中・渋谷の『性なる場』の変遷 ―『連れ込み旅館』から『ラブホテル街』の形成へ―」完成・公開!
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-20

これで、今月3本目。

ああ、疲れた、疲れた、寝よう。

就寝、4時半。
nice!(0)  コメント(0) 

渋谷・神山町「ホテルキャデラック」 [性社会史研究(連れ込み旅館)]

4月16日(木)

1955~58年頃に、かなり斬新なデザインの広告を出していた、渋谷・神山町の連れ込み旅館「ホテルキャデラック」。
渋谷神山町(キャデラック・19551120).jpg 渋谷神山町(ホテルキャデラック・).jpg 渋谷神山町(ホテルキャデラック・19580212).JPG

所在地とその後のを調べていたら、その後「東京湯ヶ島ホテル」を経て、現在、なんとモンゴル大使館になっていることがわかった。

「東京湯ヶ島ホテル」の廃業が1971年で、日本とモンゴル人民共和国(当時)の国交開始&大使館開設が1972年、ぴったり辻褄が合う。

15年ほど前、地方在住の友人に頼まれて、モンゴル大使館にビザの代行取得に行ったことがある。
松濤公園を左手に見ながら道を真っすぐどんどん奥に進む感じだった。
そうか、あそこだったのか!
毎日、調べながら書くのは身体が辛いけど、こういう「発見」があるとうれしい。

「プリンスオブトーキョー」→「ホテルキャデラック」→「東京湯ヶ島ホテル」→「モンゴル大使館」という変遷。

ただ「ホテルキャデラック」になる前の「プリンスオブトーキョー」がわからない。
時代と名称から、進駐軍関係の施設かも?と思うのだが・・・。



nice!(0)  コメント(0) 

論考「東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について ―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉―」をアップ [性社会史研究(連れ込み旅館)]

4月13日(月)

論考「東京・千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」街について ―「鳩の森騒動」と旅館街の終焉―」を、アーカイブにアップしました。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-13
この論考は、2012年1月22日に、井上章一先生(現:日本文化研究センター所長)主催の「性欲研究会」(京都)で報告した内容をベースにしています。

その後、いろいろな事情で放置してましたが、思い立って、その後に収集した資料も加えて、論文形式でまとめました。

とはいえ、どこも載せてくれないのは明白なので、このアーカーカイブに載せておきます。

引用される際には、著者名と、記事のURLを注記してください。

【目次】
はじめに ー「連れ込み旅館」街・千駄ヶ谷ー
1 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街についての「通説」と批判
2 「鳩の森騒動」の経緯とその影響
3 千駄ヶ谷「連れ込み旅館」街の衰退時期
 (1)1枚の地図は語る
 (2)「連れ込み旅館」の個別検証
 (3)「連れ込み旅館」群の衰退・解体時期とその理由
おわりに
nice!(0)  コメント(2) 

論考「1950年代東京の「連れ込み旅館」について 」をアーカイブ・ブログにアップ [性社会史研究(連れ込み旅館)]

4月8日(水)

論考「1950年代東京の「連れ込み旅館」について ―「城南の箱根」ってどこ?―」をアーカイブ・ブログにアップ。
https://zoku-tasogare-2.blog.ss-blog.jp/2020-04-08
15000字はともかく、図版が62点もあるので、かなりたいへんな作業だった。

この研究報告は、明治大学文学部の平山満紀教授が主催する「セクシュアリティ研究会」(第2回:2018年08月11日)で発表したもの。

私の「連れ込み旅館」研究のベースになる報告だが、1年半が経っても、活字にしてくれる所はなさそうなので、アーカイブに載せておく。
引用される際には、著者名と、記事のURLを注記してください。

【目次】
はじめに ―思い出―
1 「連れ込み旅館」とはなにか
2 「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」を作る
3 その分布
4 分布から見えるもの ―西の「連れ込み旅館」、東の「赤線」―
5 その設備
 (1)建築様式 (2)基本設備 (3)鏡 (4)テレビ (5)暖房 (6)冷房 (7)風呂
6 その立地
 (1)森 (2)水辺・川 (3)水辺・池 (4)水辺?・水族館 (5)高台 (6)山・山荘
7 そのイメージ
 (1)温泉偽装・温泉詐称・有名温泉への仮託 (2)温泉マークの使用 (3)なぜか南国
8 「連れ込み旅館」の機能 ―むすびに代えて―

nice!(0)  コメント(0) 

報告レジュメ完成 [性社会史研究(連れ込み旅館)]

8月9日(木)
(続き)
試写会+飲み会で疲れていたけど、頑張って、夜中、仕事。
今週土曜日の「セクシュアリティ研究会」(主宰:平山満紀明治大学文学部教授)で報告する「1950年代東京の『連れ込み旅館』について ―『城南の箱根』ってどこ?―」の報告レジュメの仕上げ。

3時過ぎ、ようやく完成。
広告の画像をたくさん入れたので、なんとA4版26枚。
平山先生に送信。

でも、参加者は、報告者の平山先生と私を除くと、わずか4人だけとのこと。
面白いと思うんだけどなぁ。
やっぱり、この研究会、私には向かないみたいだ。

「『城南の箱根』ってどこ?」(池上石川台「緑風園」)
池上石川台(緑風園・19530123).jpg

「謎の『ヨーマ風呂』」 (蒲田「川梅」)
蒲田(川梅・19560621).jpg

「ここが渋谷?」(渋谷「ホテル ニューフジ」)
渋谷(ホテルニューフジ・19540508).jpg

高原の湖のような洗足池(池上洗足池「やくも」)
池上洗足池(やくも・19521007).jpg

就寝、4時半。

nice!(1)  コメント(0) 

「渋谷PARCO」ができた頃 [性社会史研究(連れ込み旅館)]

8月4日(木)

ファッション・デパートとしてだけでなく、文化の発信地として一時代を築いた渋谷・公園通りの「渋谷PARCO」(地下1階・地上9階)がもうすぐ(8月7日)一時閉店・解体になる。
IMG_7603.JPG
↑ 「渋谷PARCO」前を行く「東京レインボー・プライド」パレード(2016年5月8日)

「渋谷PARCO」は、1973年6月に開業した。
では、その前には何があったのだろうか? 
私が渋谷の街を歩くようになったのは、1975年以降なので、開業時や開業前の様子は知らない。
そこで、調べてみた。

(1)1962年頃
1962年頃現況の住宅地図を見ると、当然のことながら、「渋谷PARCO」は影も形もない。
公園通り(1962)2.jpg
当時は「区役所通り」と呼ばれていた、渋谷から代々木方面を目指す緩い坂道の沿道は、まだビルが立ち並ぶ状態ではなく、かなり閑散としている。
それでも北側はそれなりに建物があるが、南側は「東京山手教会」があるくらいで、空き地が目立つ。
「山手教会」の向かい側には「渋谷ホテル」が、その少し坂下の路地の奥には「飛龍閣」があった。
どちらも、1950年代から営業している「連れ込み旅館」だ。
渋谷(渋谷ホテル・19540402k).jpg 渋谷(飛龍閣・19560107).jpg
現在、「公園通り」と「ファイアー通り」の分岐点にある「丸井」は、まだ奥まった所にある。

で、後に「渋谷PARCO PART1」になる場所だが、北東部分が「大成建設(株)渋谷アパート」に、南西部分が「井上」さんのお屋敷だった。
さらに、現在「渋谷PARCO PART3」になっている場所は「田所」さんのお屋敷だった。

現在、「井の頭通り」(当時は「国際通り」)から「PARCO」の脇に出て「公園通り」に達する南北の坂道は「スペイン坂」と呼ばれているが、坂の上り口の両側に割烹があるものの、坂の途中は一般住宅や個人病院ばかりで、まったく商業化していなかった。

また「PARCO」の南で「スペイン坂」と分岐して「井の頭通り」に下る東西方向の道は「ペンギン通り」と呼ばれているが、その周囲には「ホテルコスモス」「旅館つたや」「旅館よし村」など、おそらく「連れ込み」と思われる宿が密集していた。

(2)1969年頃
公園通り(1970)2.jpg
1969年頃現況の住宅地図を見ると、「区役所通り」(後の「公園通り」)の南側は空き地が減って、「西武デパートC館」(現:西武パーキング館)が進出し、その東には映画館「渋谷地球座」が入るビルもできた。

「山手教会」の向かい側にあった連れ込み旅館「渋谷ホテル」は姿を消し、「飛龍閣」はビル化したようだが同じ位置にある。

約4年後に「渋谷PARCO PART1」になる場所は、南西部分にあった「井上」さんのお屋敷が消えて地上げが完了し、全区画が「有楽土地所有地」になっている。
現在「渋谷PARCO PART3」の敷地には、まだ「田所」さんのお屋敷がある。

「スペイン坂」や「ペンギン通り」と呼ばれることになるエリアは、あまり変化がない。
「ホテルコスモス」「旅館つたや」「旅館よし村」などは健在だ。

ただ、「有楽土地所有地」の筋向い、現在「渋谷区勤労福祉会館」があるエリアに、ラブホテルと思われる「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」がある。
この内、「千春」はすでに1962年頃の現況図に見えるが、このブロックがラビホテル街化しつつあることがうかがえる。

(3)1976年頃
公園通り(1977)2.jpg
「渋谷PARCO PART1」開店の約3年後。
ようやく私が知っている渋谷の街になった。
「PART1」の道路を挟んで北側には「PART2」も開店している(1975年12月開業、2007年末休業)。
ここは「仁愛病院」があった場所だ。
病院の敷地そのままなので、地上げの手間はなかったろうが、やや手狭な感がある。

注目は、「PART3」(1981年9月開業)の敷地だ。
「田所」さんのお屋敷が消えて空き地になり、その一角に「大成建設作業所」がある。

ここで思い出すのは、1962年現況図で後に「PART1」になる敷地の東北部が「大成建設(株)渋谷アパート」になっていたことだ。
「PARCO」の敷地が形成される過程で「大成建設」の建物が現れる。
これは偶然ではないだろう。
早い話、「PARCO」の敷地を地上げをしていたのは大成建設だと思う。
1962年現況図は、大成建設による地上げの途中(「井上」さんが頑張っていた)の状況を示しているのだろう。
ということは、後に「PARCO」になる場所の地上げは、開店の10年以上前、1960年代初頭から計画されていたことになる。

周辺を見ると、「スペイン坂」を上った左手に「ホテルオリエント」ができている。
「ホテルコスモス」は「ホテル石庭」になり、「旅館つたや」「旅館よし村」は商業ビルになって姿を消した。
「スペイン坂」を上った所にラブホテルがあったのは記憶している。
「こんな人通りの多いところで、よく入れるなぁ」と思った。

「勤労福祉会館」があるエリアは、「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」に加えて、「ホテル虹」「ホテルモンブラン」「渋谷ヒルトップホテル」「ホテルロイヤル」が開業し、7軒が密集するラブホテル街になった。

おしゃれで文化的な「PARCO」の周囲は、実は「ラブホテル」の集中エリアなのだ。

「公園通り」をラブホテル目指して上っていくカップルもいただろうが、代々木公園で野外デートした後、「公園通り」を下ってラブホテルに入るカップルも多かったはずだ。
私も代々木競技場のあたりで、何度もデートした思い出がある。
貧乏な学生でお金がなかったからラブホテルには入らなかったが。

1970年代の若者にとって、渋谷「公園通り」界隈は、単におしゃれなだけでなく、微妙に性的なエリアだった。

【追記】写真が見たいという要望があったので・・・。
1970年の渋谷公園通り.jpg
http://actresspress.com/wp-content/uploads/2016/07/koen_dori-shibuya1970.jpg

1970年ころの渋谷「区役所通り」(現:公園通り)。
左端の「有料駐車場」が現在の「GAP」ビル。
その先の塀に囲まれた空地が「渋谷PARCO PART1」になる敷地。
奥に見える三階建ての建物が、後に「渋谷PARCO PART2」になる「仁愛病院」と思われる。
右端「中央電材株式会社」の看板があるビルは、1950~60年代に連れ込み旅館「渋谷ホテル」だった場所。
その先の(文字が読みにくい)ビルは「造園会館」。

都会の空が広かった、あの頃・・・。

公園通り(1970)2 (2).jpg

渋谷・国際通り「ホテルチトセ」(訂正) [性社会史研究(連れ込み旅館)]

7月20日(水)

「東急ハンズ」に行こうと、渋谷「井の頭通り」を歩いていて、ふと目に入ったビルの名称。
IMG_8985 - コピー.JPG

思わず路上で「あ~っ!」と声を出してしまった。
なぜなら、この広告が記憶にあったから。
渋谷(ちとせ・19550507).jpg
↑ 『内外タイムス』1955年5月7日号掲載

現在、「西武デパート渋谷店」のA館とB館の間を通っている「井の頭通り」は、その昔「国際通り」と呼ばれていた。
「西武デパート渋谷店」B館の部分に「渋谷国際」という映画館があったからだ。

「ホテルチトセ」の広告に記された場所は「渋谷国際通り 二又・右側」は、まさに現在「ちとせ会館」がある場所ではないか。
IMG_8986 - コピー.JPG
つまり、1955年に存在した連れ込み旅館「ホテルチトセ」の名前が、現在の「ちとせ会館」に受け継がれているということ。

なぜ、今まで気づかなかったかというと、1961年頃現況の住宅地図には、現在の「ちとせ会館」の場所は「宇田川有料駐車場」になっているから。
道玄坂下(1963)(7).jpg
かなり広い駐車場で、「ホテルチトセ」が大きな建物であったことがわかる。
広告の「和洋間四十数室」という規模もうなずける。

駐車場の左(東)に「割烹 小安」があるが、現在、「ちとせ会館」の東隣には「KOYAS ONE」ビル(1980年9月定礎)がある。
IMG_9268.JPGIMG_9269.JPG
IMG_9270.JPG

その後の状況を住宅地図で追うと、以下のようになる。
(1969年頃現況図)「宇田川有料駐車場」と「割烹 小安」
(1976年頃現況図)広い「有料駐車場」(「宇田川駐車場」)と「割烹 小安」
(1978年頃現況図)「東急ハンズパーキング」と「割烹 小安」 
(1982年頃現況図)「(仮称)千歳会館」と「KOYAS ONE」ビル

つまり、この場所は、以下のように変遷したと思われる。
連れ込み旅館「ホテルチトセ」(1955年存在)→「有料駐車場」(1961年~1978年頃)→「ちとせ会館」(1984年9月竣工)
?→「割烹 小安」(1961~78年頃存在)→「KOYAS ONE」ビル(1980年9月定礎)

「ホテルチトセ」の場所が判明し、1950年代の連れ込み旅館の名称が現代まで受け継がれている数少ない事例となる。

「だから何だ?」と言われれば、それまでだけど、私にとっては、ちょっとした「発見」だった。

【註】「ホテルチトセ」と「割烹 小安」の関係については、Twitterでいただいたご指摘に触発されて、住宅地図の調査と現地確認を行い、記述を訂正しました(2016年8月1日)。

「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」完成(全371軒)。 [性社会史研究(連れ込み旅館)]

7月4日(月)

「東京『連れ込み旅館』広告データベース(1953~1957年)」、資料補充作業をすべて終えて完成。

全371軒 

【エリア別】
都心エリア(76軒)
城西エリア(125軒)
城南エリア(104軒)
城北エリア(57軒)
城東エリア(9軒)
------------------------------------
【地区別】
千駄ヶ谷(39軒)
新宿(31軒)
渋谷(29軒)
池袋(19軒)
大塚(12軒)
代々木(11軒)
新橋・芝田村町(11軒)
長原・洗足池・石川台(9軒)
高田馬場(7軒)
新大久保・大久保(7軒)
原宿(7軒)
蒲田(7軒)
銀座(6軒)
五反田(6軒)
大井町(6軒)
大森(6軒)
飯田橋・神楽坂(5軒)
浅草(5軒)
赤坂見附・山王下(5軒)

極端な西高東低の状況から、1950年代の東京の性文化の地域差が明確に浮んでくる。
簡単に言えば、東(下町)の「赤線」、西(山の手)の「連れ込み旅館」。


前の10件 | - 性社会史研究(連れ込み旅館) ブログトップ