『月刊小説』1993年12月号に掲載された写真 [古い写真帳から]
1月8日(火)
『月刊小説』1993年12月号に掲載された写真。
25年前、場所は「エリザベス会館・亀戸店」。
「エリザベス会館」に取材が入ると、スタッフに頼まれてエキストラをしていた。
元の写真のコントラスト&印刷がひどく悪いので、最新の画像修正技術を使ってもこれが精一杯。
ソバージュの髪に、サイドが開いたボディコン・ミニ・ワンピースは、バブル崩壊期(1992~94年)の流行ファッション。
同じファッションの、少しはマシな写真(1993年3月撮影)。
『月刊小説』1993年12月号に掲載された写真。
25年前、場所は「エリザベス会館・亀戸店」。
「エリザベス会館」に取材が入ると、スタッフに頼まれてエキストラをしていた。
元の写真のコントラスト&印刷がひどく悪いので、最新の画像修正技術を使ってもこれが精一杯。
ソバージュの髪に、サイドが開いたボディコン・ミニ・ワンピースは、バブル崩壊期(1992~94年)の流行ファッション。
同じファッションの、少しはマシな写真(1993年3月撮影)。
1997年12月5日夜の新宿 [古い写真帳から]
露出オーバーのプリントからスキャニングした画像を補正。
(同様のこと、以前にも試みたが、再チャレンジ)
なんとか、少しはマシな状態になった。
撮影は1997年12月5日、『AERA』(朝日新聞社)のカメラマン。
歌舞伎町「ホステス」時代の出勤途上で撮影。
そこまでは覚えているのだが、撮影場所が新宿のどこかだが、はっきりした記憶がない。
どうも区役所通りの入口のような気がする。
FaceBooKで、何人かの方からご意見をいただき、やはり、背後の道路は靖国通りで、奥のネオンが見えるのが区役所通りと確定。
(「入口右側のダンキンドーナツがあったビルが写っている」「歩道の装飾」など)。
ありがとうございました。
着ているのは、腕が(背中の上の方も)シースルーになっている黒のベルベットのミニワンピース。
初冬の夜、いくらなんでもこれでは寒いので、カシミアのポンチョを着ていたが、撮影の際、サービスで脱いだ。
21年前、42歳(店では30歳と言っていた)の頃。
私の人生で、いちばん「華」があった時代。
(同様のこと、以前にも試みたが、再チャレンジ)
なんとか、少しはマシな状態になった。
撮影は1997年12月5日、『AERA』(朝日新聞社)のカメラマン。
歌舞伎町「ホステス」時代の出勤途上で撮影。
そこまでは覚えているのだが、撮影場所が新宿のどこかだが、はっきりした記憶がない。
どうも区役所通りの入口のような気がする。
FaceBooKで、何人かの方からご意見をいただき、やはり、背後の道路は靖国通りで、奥のネオンが見えるのが区役所通りと確定。
(「入口右側のダンキンドーナツがあったビルが写っている」「歩道の装飾」など)。
ありがとうございました。
着ているのは、腕が(背中の上の方も)シースルーになっている黒のベルベットのミニワンピース。
初冬の夜、いくらなんでもこれでは寒いので、カシミアのポンチョを着ていたが、撮影の際、サービスで脱いだ。
21年前、42歳(店では30歳と言っていた)の頃。
私の人生で、いちばん「華」があった時代。
20年前の新宿女装世界 [古い写真帳から]
8月24日(木)
資料探しをしていたら、懐かしい写真が・・・。
1997年12月19日、新宿歌舞伎町・区役所通りにあったBar「ギザ」で斎藤会長と。
齋藤会長か広告代理店の経営者で、1990年代の新宿女装世界の著名な男性客&パトロン。
私は「ジュネ」のホステス時代、ずいぶん可愛がっていただいた。
この時も「ジュネ」(区役所通り「丸源54ビル」)の前で出会い、隣の「星座館ビル」にある「ギザ」(宮沢万紀子ママは「ジュネ」出身)に連れて行ってもらった。
後(2003年)に、私は斎藤会長にロングインタビューをお願いし、その成果は「女装者愛好男性A氏のライフヒストリー」「Aさんと私―ホステス順子の手記―」「【論文】女装者愛好男性という存在」(いずれも矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』中央大学出版部、2006年 に収録)となり、「女装者愛好男性」という概念を立てることができた。
で、探し物はこっち。
1997年1月5日、新宿歌舞伎町区役所通りの「ジュネ」で。
左の久保島静香姐さんは、日本髪に稲穂と鳩の簪のお正月の装い。
真ん中のおじ様は、フジ・サンケイグループ某社の社長Mさん。
来店回数こそ少なかったが、斎藤会長とはライバル関係の新宿女装世界の有名男性客。
お会いすると、いつも特別に可愛がってくださった。
お元気かなぁ。
資料探しをしていたら、懐かしい写真が・・・。
1997年12月19日、新宿歌舞伎町・区役所通りにあったBar「ギザ」で斎藤会長と。
齋藤会長か広告代理店の経営者で、1990年代の新宿女装世界の著名な男性客&パトロン。
私は「ジュネ」のホステス時代、ずいぶん可愛がっていただいた。
この時も「ジュネ」(区役所通り「丸源54ビル」)の前で出会い、隣の「星座館ビル」にある「ギザ」(宮沢万紀子ママは「ジュネ」出身)に連れて行ってもらった。
後(2003年)に、私は斎藤会長にロングインタビューをお願いし、その成果は「女装者愛好男性A氏のライフヒストリー」「Aさんと私―ホステス順子の手記―」「【論文】女装者愛好男性という存在」(いずれも矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』中央大学出版部、2006年 に収録)となり、「女装者愛好男性」という概念を立てることができた。
で、探し物はこっち。
1997年1月5日、新宿歌舞伎町区役所通りの「ジュネ」で。
左の久保島静香姐さんは、日本髪に稲穂と鳩の簪のお正月の装い。
真ん中のおじ様は、フジ・サンケイグループ某社の社長Mさん。
来店回数こそ少なかったが、斎藤会長とはライバル関係の新宿女装世界の有名男性客。
お会いすると、いつも特別に可愛がってくださった。
お元気かなぁ。
21年前(1995年12月13日)、伏見憲明さんとのツーショット [古い写真帳から]
2月3日(金)
明日(4日17~19時)の伏見憲明さんとのトークライブ(新宿二丁目「A Day In The Life」)に備えて昔の写真を発掘。
1995年12月13日、対談(『imago』1996年2月号掲載「ジェンダーをデザインする」)を終えた後、新宿歌舞伎町で。
21年前、二人とも若い!
伏見さんとの対談「ジェンダーをデザインする」が掲載された『imago』(青土社)1996年2月号「(特集)ボディ・デザイン」。
翌年、座談会でご一緒する石井達郎先生、今も化粧文化研究会でお世話になっている北山晴一先生、亡くなられた村澤博人先生など、すごいメンバーだった。
掲載が、新年発売号だったので、お正月っぽい黒地に金の竹模様の訪問着を着ていった。
私単独の写真の背景に、今はもうない「コマ劇」のネオンが写っている。
懐かしいなぁ。
明日(4日17~19時)の伏見憲明さんとのトークライブ(新宿二丁目「A Day In The Life」)に備えて昔の写真を発掘。
1995年12月13日、対談(『imago』1996年2月号掲載「ジェンダーをデザインする」)を終えた後、新宿歌舞伎町で。
21年前、二人とも若い!
伏見さんとの対談「ジェンダーをデザインする」が掲載された『imago』(青土社)1996年2月号「(特集)ボディ・デザイン」。
翌年、座談会でご一緒する石井達郎先生、今も化粧文化研究会でお世話になっている北山晴一先生、亡くなられた村澤博人先生など、すごいメンバーだった。
掲載が、新年発売号だったので、お正月っぽい黒地に金の竹模様の訪問着を着ていった。
私単独の写真の背景に、今はもうない「コマ劇」のネオンが写っている。
懐かしいなぁ。
2000年6月11日「明治村」(FLT10) [古い写真帳から]
11月13日(日)
古い写真帳から。
2000年6月11日、女装仲間と「明治村」(愛知県犬山市)に旅行した時のスナップ。
16年前だから、45歳。
1990年代後半に私が企画していた女装者の親睦旅行「Fake Lady Tour」の最後の回(FLT10)。
「Fake Lady Tour」は、女装者が自主的に旅行を企画することで、一般的な料金で旅を楽しむと同時に、世の中の人たちに「こういう人がいるんだよ」ということを知ってもらう広報活動としての意図をもっていた。
宿泊先の旅館・ホテルには、予約の段階で「新宿のニューハーフのお店の慰安旅行」と伝えていたが、一度として拒否されたことはなかった。
↑ 入り口で
↑ 蒸気機関車12号(1874年イギリスから輸入)の前で
↑ お風呂屋さん(半田東湯、1910年頃)の前で
↑ 旧・帝国ホテル(ライト館、1923年)で
古い写真帳から。
2000年6月11日、女装仲間と「明治村」(愛知県犬山市)に旅行した時のスナップ。
16年前だから、45歳。
1990年代後半に私が企画していた女装者の親睦旅行「Fake Lady Tour」の最後の回(FLT10)。
「Fake Lady Tour」は、女装者が自主的に旅行を企画することで、一般的な料金で旅を楽しむと同時に、世の中の人たちに「こういう人がいるんだよ」ということを知ってもらう広報活動としての意図をもっていた。
宿泊先の旅館・ホテルには、予約の段階で「新宿のニューハーフのお店の慰安旅行」と伝えていたが、一度として拒否されたことはなかった。
↑ 入り口で
↑ 蒸気機関車12号(1874年イギリスから輸入)の前で
↑ お風呂屋さん(半田東湯、1910年頃)の前で
↑ 旧・帝国ホテル(ライト館、1923年)で
9年前のツーショット、上川あやさんと(2007年11月20日) [古い写真帳から]
大阪堂山のレズビアンバー「百合かご」で(1993年11月5日) [古い写真帳から]
丹後半島・伊根の「舟屋」を背景に(2006年11月20日) [古い写真帳から]
6月25日(木)
2006年11月20日、「舟屋」で有名な丹後半島伊根(京都府与謝郡伊根町)の港で撮影。
着物は、雨模様の日に愛用しているピンクの会津木綿。
ウィッグから自毛にして間もない頃で、まだ髪の毛が伸びきっていない。
ジャストタイミングでカモメが飛んでくれた。
よく見ると、各家の屋根に、カモメが1羽ずつ止まっている。
舟屋は1階が船のガレージ、2階が居間になっている独特な建物で、波静かな伊根湾の海辺ぎりぎりに建ち並んでいる。
「伊根の舟屋」は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
保存地区なので、大きな変化はないが、それでも住民の方の生活があるので、少しずつ「舟屋」は減っているようだ。
映画「フーテンの寅」シリーズ第29作「寅次郎あじさいの恋」(松竹)のマドンナ役のいしだあゆみの故郷が丹後の伊根という設定だった。
京都から宮津もしくは天橋立経由で3時間くらいかかる不便な場所で、ともかく人口密度が低い(人が少ない)エリアで、私たちが訪れた時も、高齢者ばかりという印象だった。
それでもこの頃は、丹後半島を一周する観光バスがあったが、数年前に廃止されたらしい。
この景色をどうしても見たくて、少し無理なスケジュールで行き、滞在は3時間ほどだったが、行っておいて良かった。
2006年11月20日、「舟屋」で有名な丹後半島伊根(京都府与謝郡伊根町)の港で撮影。
着物は、雨模様の日に愛用しているピンクの会津木綿。
ウィッグから自毛にして間もない頃で、まだ髪の毛が伸びきっていない。
ジャストタイミングでカモメが飛んでくれた。
よく見ると、各家の屋根に、カモメが1羽ずつ止まっている。
舟屋は1階が船のガレージ、2階が居間になっている独特な建物で、波静かな伊根湾の海辺ぎりぎりに建ち並んでいる。
「伊根の舟屋」は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
保存地区なので、大きな変化はないが、それでも住民の方の生活があるので、少しずつ「舟屋」は減っているようだ。
映画「フーテンの寅」シリーズ第29作「寅次郎あじさいの恋」(松竹)のマドンナ役のいしだあゆみの故郷が丹後の伊根という設定だった。
京都から宮津もしくは天橋立経由で3時間くらいかかる不便な場所で、ともかく人口密度が低い(人が少ない)エリアで、私たちが訪れた時も、高齢者ばかりという印象だった。
それでもこの頃は、丹後半島を一周する観光バスがあったが、数年前に廃止されたらしい。
この景色をどうしても見たくて、少し無理なスケジュールで行き、滞在は3時間ほどだったが、行っておいて良かった。
歌舞伎町ホステス時代の名刺(1999~2000年頃) [古い写真帳から]
6月24日(水)
資料を探して本の山を崩していたら、こんなものがポロっと出てきた。
不要になったので、栞代わりに使っていたらしい。
名刺に、お店のサイトURLも、メールアドレスも記されてないのは、インターネットの普及がまだまだだった時代(1999年)を示している。
歌舞伎町区役所通り「風林会館」の斜め前のビルにあったニューハーフ・パブ「MISTY」(すでに閉店)では、1999年の2月の開店から2001年の春まで約2年間、お手伝いホステスをしていた。
ホステスとしては、週1~2度の非常勤だったが、一応、広報担当だったので、名刺を作ってもらった。
↑ 1999年9月26日、「MISTY」のボックス席で撮影。
ホステスとしての私の全盛期の頃。
↑ 1周年の頃(2000年2月26日)カウンターの中で撮影。
左がオーナーのエルさん(後にママ)、右が麻里ママ。
あの頃は、まだ若かったし(44歳)、楽しかったなぁ。
資料を探して本の山を崩していたら、こんなものがポロっと出てきた。
不要になったので、栞代わりに使っていたらしい。
名刺に、お店のサイトURLも、メールアドレスも記されてないのは、インターネットの普及がまだまだだった時代(1999年)を示している。
歌舞伎町区役所通り「風林会館」の斜め前のビルにあったニューハーフ・パブ「MISTY」(すでに閉店)では、1999年の2月の開店から2001年の春まで約2年間、お手伝いホステスをしていた。
ホステスとしては、週1~2度の非常勤だったが、一応、広報担当だったので、名刺を作ってもらった。
↑ 1999年9月26日、「MISTY」のボックス席で撮影。
ホステスとしての私の全盛期の頃。
↑ 1周年の頃(2000年2月26日)カウンターの中で撮影。
左がオーナーのエルさん(後にママ)、右が麻里ママ。
あの頃は、まだ若かったし(44歳)、楽しかったなぁ。
出勤の途上(1997年12月5日) [古い写真帳から]
6月16日(火)
「古い写真帳から」
1997年12月5日、新宿駅東口で撮影。
18年前、42歳の時。
『AERA』(朝日新聞社)の記者が、新宿の女装者を記事にする企画で「出勤の様子を撮影したい」というので協力した。
ファッションは、腕と背中がシースルーになっいる黒のベルベットのミニワンピース。
いくらなんでも師走の街をこんな寒い恰好で歩いているはずはなく、ほんとうはボア襟のカシミアのポンチョ(現在も使っている)を羽織っているのだが、カメラマンの要請で寒いのをこらえて、文字通り、一肌脱いだ。
どちらも、顔が露出オーバーで白く飛んでいて、プロが撮った写真としては失敗だと思う。
今回、かなり補正してみたが、やはり駄目なものは駄目。
↑ 7分身の写真だけは、少しは見られるようになった。
↑ この日、新宿二丁目にオープンした「青い鳥」(槇村かおりママ)という女装スナックで。
私がお手伝いホステスをしていた歌舞伎町区役所通りの「ジュネ」は、メディア取材不許可だったので、こちらの店で撮影させてもらった。
(というか、12月の金曜夜なんて「ジュネ」は無茶混みで取材撮影なんて絶対に無理)
この企画、「ズボンを捨て街へ出よう -女装で広がる『もう一人の私』の世界-」(『AERA』1997年12月22日号)という記事になるのだが、結局、これら写真は使われなかった。
「古い写真帳から」
1997年12月5日、新宿駅東口で撮影。
18年前、42歳の時。
『AERA』(朝日新聞社)の記者が、新宿の女装者を記事にする企画で「出勤の様子を撮影したい」というので協力した。
ファッションは、腕と背中がシースルーになっいる黒のベルベットのミニワンピース。
いくらなんでも師走の街をこんな寒い恰好で歩いているはずはなく、ほんとうはボア襟のカシミアのポンチョ(現在も使っている)を羽織っているのだが、カメラマンの要請で寒いのをこらえて、文字通り、一肌脱いだ。
どちらも、顔が露出オーバーで白く飛んでいて、プロが撮った写真としては失敗だと思う。
今回、かなり補正してみたが、やはり駄目なものは駄目。
↑ 7分身の写真だけは、少しは見られるようになった。
↑ この日、新宿二丁目にオープンした「青い鳥」(槇村かおりママ)という女装スナックで。
私がお手伝いホステスをしていた歌舞伎町区役所通りの「ジュネ」は、メディア取材不許可だったので、こちらの店で撮影させてもらった。
(というか、12月の金曜夜なんて「ジュネ」は無茶混みで取材撮影なんて絶対に無理)
この企画、「ズボンを捨て街へ出よう -女装で広がる『もう一人の私』の世界-」(『AERA』1997年12月22日号)という記事になるのだが、結局、これら写真は使われなかった。