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藤原道長の写経、金峯山寺で発見 [お仕事(古代史)]

12月12日(火)

おおっ、すごいものが見つかった。
道長願経.jpg
藤原道長直筆の「阿弥陀(あみだ)経」の写経=文化庁提供

寛弘4年(1007)、吉野・金峯山の山上に、藤原道長が埋納した自筆の紫紙金泥経典15巻のうち9巻(法華経7巻、観普賢経、阿弥陀経が各1巻)が「発見」された。

下半分が欠損しているが、巻物の原形をとどめ、奥書に記された発願文や道長自身を示す「左大(臣)」などの文字も読みとれる。

道長が埋納した金銅製の経筒は、江戸時代の元禄4年(1691)に、山上蔵王堂の造営を行った際に出土し、その後は、山下蔵王堂の金峯山寺に保管されていた(国宝指定)。

中身の経典は、東京・上野毛の五島美術館に4巻があり(重要文化財指定)、今回金峯山寺で「発見」された9巻と合わせて13巻。あと2巻はどこ?

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行方わからなかった藤原道長の写経、世界遺産の金峯山寺で発見…納戸の木箱から風呂敷に包まれ

平安時代中期に権勢を振るった貴族・藤原道長(966~1027年)の直筆の写経9巻が、奈良県吉野町の世界遺産・ 金峯山寺(きんぷせんじ) に残されていたことが、文化庁などの調査でわかった。道長が金峯山(現・山上ヶ岳)の山上に埋納したと伝わる写経15巻の一部で、江戸時代に掘り出された後、行方がわからなくなっていた。

金峯山寺は、飛鳥時代に修験道の開祖・ 役行者えんのぎょうじゃ が開いた寺。経巻は2015年に同寺の管領(住職)が使う納戸の木箱から、風呂敷に包まれた状態で発見され、文化庁や県が17年から調査を進めてきた。

縦の長さは最大15・5センチ。埋納されている間に水で腐食したとみられ、下半分が欠損している。紺紙に発色のよい金泥で書写した豪華なつくりが、道長の当時の権勢をうかがわせる。

江戸期に出土した15巻の一部が、五島美術館(東京都)などに残され、下半分の欠損、紺紙に金泥のつくりが共通している。また、写した経の内容に重複がなく、文化庁は道長直筆の写経と判断した。

平安貴族・藤原道長(966~1027年)の直筆の写経9巻が見つかった奈良県吉野町の 金峯山寺きんぷせんじ がある一帯は、修験道の聖地として古くから貴族や大衆の信仰を集めた。道長がそこに写経を埋納して栄華を極めたことで、極楽往生や現世利益を願い写経を埋める「経塚」の風習が広がったとされ、研究者は「仏教史や文化史を研究する上で価値の高い資料」とする。

道長は、天皇の外戚として朝廷の実権を握り、摂関政治の全盛期を築いた。自らの権勢を満月(望月)に例えて詠んだ「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の和歌で知られ、「源氏物語」の作者・紫式部の後ろ盾となった人物でもあった。

道長の日記「御堂関白記」などには、左大臣時代の寛弘4年(1007年)8月、金峯山(現・山上ヶ岳)を詣で、山上に写経15巻を埋めて灯籠を建て、「経塚」とした記載がある。

写経を納めた経筒は、江戸時代の元禄4年(1691年)に出土したと伝わり、現在は金峯神社(吉野町)が所蔵している。しかし、中の15巻の写経は散逸し、うち3巻分が五島美術館(東京都)に、他に金峯神社などに一部残されているだけだった。

新たに見つかった9巻は、法華経7巻、観普賢経と 阿弥陀あみだ 経が各1巻。下半分が欠損しているが、巻物の原形をとどめ、奥書に記された発願文や道長自身を示す「左大(臣)」などの文字も読み取れる。

金峯山寺の五條良知・管領(住職)は「古来の吉野の信仰の歴史を示す貴重な資料だ」とする。

京都国立博物館の宮川禎一・特任研究員(考古学)は「道長の埋めた経の全体像が確認できた。その後、経塚の風習がどのように変遷したのか研究の進展が期待できる」と話している。

『読売新聞』2023/12/12 15:00


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再査読 [お仕事(古代史)]

11月14日(土)

9月に、某国立研究機関の投稿論文を査読して、かなり悩んだ末に「訂正・修正の上、再査読」というB評価をした。

再査読の依頼が来てわかったのだが、他の査読者はC評価(掲載不可)と、限りなくCに近いB評価(再査読無用)だった。
やっぱり、そうだろうなぁ、という感じ。

で、結局、いちばん甘い評価をした私の「ホモソーシャルな関係性を指摘するならそれが形成された『場』が重要」(なのにそこにぜんぜん触れていない)という指摘に対して「他日を期す(他の論文で書く)」という、事実上のゼロ回答。

これでは、もうどうしようもない。
再査読はC評価に。

若い女性研究者なので、なんとか頑張って欲しいと思い、温情をかけたのだが、残念な結果に。
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縄文人の核DNA初解読 東アジア人と大きく特徴異なる [お仕事(古代史)]

8月31日(水)

縄文人のゲノム解析に成功、これは遺伝子人類学の画期的な大成果。

ただし、縄文人の遺伝子が、大陸の東アジア人(中国南部先住民、中国・北京の中国人、ベトナム人など)とはかなり遠く、現代人ではアイヌ人に比較的近く、次いで沖縄人、さらに離れて東日本人という結論は、従来の推定通り。

最大の問題は、縄文人がどこから日本列島にきたのか?ということ。
現在、地球上に生きている人たちの中に、アイヌ人より縄文人に近い遺伝子をもつ人たちがいるのだろうか?
たぶん、もういないのだろうな・・・。
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縄文人の核DNA初解読 東アジア人と大きく特徴異なる

縄文時代に日本列島で狩猟採集生活をしていた縄文人の遺伝的特徴は、東アジアや東南アジアの人たちとは大きく離れていることがDNA解析でわかった。縄文人のルーツを考えるうえでの手がかりになりそうだ。総合研究大学院大学や国立科学博物館などのチームが、人類学の専門誌ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクスに1日発表する。

福島県北部の三貫地貝塚で出土した約3千年前の縄文人2人の歯から、細胞核のゲノム(全遺伝情報)解読を試みた。約30億個ある塩基のうち、約1億1500万個の解読に成功した。縄文人の核DNAの解読は初めて。

世界各地の現代人のDNAと比較したところ、中国南部の先住民や中国・北京の中国人、ベトナム人などは互いに近い関係にあるのに対し、縄文人はこれらの集団から大きく離れていた。

ログイン前の続き現生人類ホモ・サピエンスは、4万~5万年前にアジア地域に到来し、その後、各系統に分かれたとされる。今回のDNA解読で、少なくとも1万5千年前よりも古い時期に縄文人につながる系統ができ、東アジアや東南アジアの集団は、別の系統の中から生まれたと考えられるという。

日本人では、遺伝的にはアイヌ人が最も縄文人と近い関係にあり、沖縄の琉球人、東京周辺の人と続いた。

頭骨と歯の特徴から、現在の日本人は、縄文人と、弥生時代以降に大陸から渡ってきた渡来人が混血して形成されたと、されていた。チームの国立科学博物館の神沢秀明研究員は「日本人が、縄文人と弥生系渡来人の混血という説が、DNA解読でも裏付けられた」としている。(神田明美)

『朝日新聞』2016年9月1日00時12分
http://digital.asahi.com/articles/ASJ8Z5S0LJ8ZULBJ00M.html?rm=347

3月16日(水)「産経学園・自由丘」の講座「『続日本紀』と古代史」終了 [お仕事(古代史)]

3月16日(水)

「産経学園・自由丘」の講座「『続日本紀』と古代史」、今日で終了。
28年6カ月、684回。

全40巻の前半(巻1~20)文武天皇元年(697)~天平宝字2年(758)7月紀まで、文武・元明・元正・聖武・孝謙の5代の記録を精読した。

当初30人近くいた受講生のほとんどが彼岸に旅立たれ、最後までお付き合いいただいたのは2人。

私も32歳から、社会的性別の移行を挟んで60歳まで、毎月2回、夏休みもなく年間24回の講義を続けたが、さすがに疲れた
ここらへんが引き際だろう。

3月2日(水)残すところあと1回 [お仕事(古代史)]

3月2日(水)  晴れ  東京  12.4度  湿度32%(15時)

8時15分、起床。
朝食は新丸子駅前「ブーランジュリー・メチエ」のカカオ・ド・クレームとコーヒー。
IMG_6225.JPG
シャワーを浴びて、髪を洗い、よくブローして、あんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
化粧と身支度。
紺地に白い雲のような模様のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、焦茶のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。

10時、家を出る。
午前中、自由が丘「産経学園」で「『続日本紀』と古代史」の講義。
『続日本紀』巻20の購読。
天平宝字2年(758)4月~6月条。

その後、今朝、新聞各紙で報道された福岡県糸島市三雲・井原遺跡で発見の弥生時代後期(1~2世紀)の硯について解説。
SCN_0013.jpg
後漢が朝鮮半島北部(平壌付近)に置いた楽浪郡の土器といっしょに出土している点が興味深い。
今まで文字の受容については、文字そのもの(刻書土器・墨書土器など)が注目されていたが、硯・墨・筆などの筆記具にも注意を向けるべきだろう。

12時、終了。
28年間続けたこの講座も、いよいよ次回が最終回。

昼食は、タイ家庭料理「クルン サイアム」へ。
今日は、直前にグループ客が出ていったので、待たずに案内される。
久しぶりにグリーンカレーのランチを注文(1080円)。
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タイ旅行で、あまりカレーを食べられなかったから。

郵便局、銀行を回って、学芸大学駅に移動。
また銀行に寄った後、東口商店街の「ドトール」で時間調整を兼ねて読書。
(続く)

2月17日(水)残すところあと2回 [お仕事(古代史)]

2月17日(水)  晴れのち曇り  東京  13.4度  湿度29%(15時)

8時15分、起床。
朝食は新丸子駅前「ブーランジュリー・メチエ」のカカオ・ド・クレームとコーヒー。
IMG_5523.JPG
シャワーを浴びて、髪を洗い、よくブローして、あんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒地に白で唐草模様のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、焦茶のトートバッグ。
ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。
IMG_5531(2).jpg

10時、家を出る。
午前中、自由が丘「産経学園」で「『続日本紀』と古代史」の講義。
『続日本紀』巻20の購読。
天平宝字2年(758)正月~3月条。
28年間続けたこの講座も、残すところあと2回。
なんとか巻20を読み終われそう。

12時、終了。

昼食は、自由が丘のインド料理「タージマハール(TajMahal)」のBランチ(1058円)。
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カレーは、日替わりのオクラ&チキン(手前)とマトン。
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オクラカレー、けっこう好き。
ナンが大きくて、かなりお腹いっぱい。
(続く)

9月22日(月)「奈良時代政治史」の最終講義―20年240回の大団円― [お仕事(古代史)]

9月22日(月)   晴れのち曇り   東京   27.2度   湿度49%(15時)
7時20分、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
朝食は、グレープフルーツ・デニッシュとコーヒー。
8時、化粧と身支度。
黒地に茶と白の花柄のロングチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、茶色のトートバッグ。
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に入り新宿三丁目駅で下車。
地下道を歩き、JR新宿駅東南口に出て、JR中央線に乗り換えて吉祥寺駅へ。
公園口から歩いて産経学園(吉祥寺)へ。
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↑ このビルの5階にある。
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↑ 今日が最終講義なので、写真を撮った。

10時30分、「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
最終講「平安遷都への道」の3回目、そして最終講義。
平安遷都の詔に続いて、新京を「平安京」と号する詔を読む。

『日本後紀』(逸文)延暦13年(794)11月丁丑(8日)。
詔す。云々、此の國、山河襟帯にして、自然に城を作す。斯の形勝に因りて、新號を制すべし。宜しく山背國を改めて、山城國と爲すべし、子来の民、謳歌の輩、異口同辞して、號して平安京と曰ふ。

1994年10月、神亀元年(724)の聖武天皇の即位から始めた「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義、20年240回で、ついに平安京に到達。

最後に平安京出迎えた最初の正月16日の「踏歌の節会」で唄われた新京を寿ぐ漢詩を読み、はやし言葉の「新年楽、平安楽土、万年春」の寿詞で講義を終える。

20数名で始まったこの講座も、受講生の方が徐々に逝かれて最後は3人。
最後まで聴いてくださった方に「長い間、ほんとうにありがとうございました。どうかお健やかにお過ごしください」と挨拶。
20年の歳月を思うと、感慨無量。
20年続いた講座もそう多くないだろが、なにしろ14年は男性講師、6年は女性講師、そんな例はほとんどないだろう。

新宿の教室が廃止になったとき、快く引き受けてくれた所長さんに挨拶。
12時05分、辞去。
(続く)

8月25日(月)平安京の歴史地理 [お仕事(古代史)]

8月25日(月)   曇りときどき雨   東京   28.9度   湿度62%(15時)
7時20分、起床。
睡眠時間5時間では、旅の疲れは取れず、体調不良。
喉に違和感があるが、声は普通に出るようだ。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
朝食は、マンゴー・デニッシュとコーヒー。
8時、化粧と身支度。
黒地に茶と白の花柄のロングチュニック(3分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、大きな籠バッグ。
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に入り新宿三丁目駅で下車。
地下道を歩き、JR新宿駅東南口に出て、JR中央線に乗り換えて吉祥寺駅へ。
雨の中、産経学園(吉祥寺)へ。

10時30分、「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
最終講「平安遷都への道」の2回目。
前回述べた長岡京の水害問題について、先日の広島の大規模土石流災害と絡めて再説。
つまり、人工的に地形を改変しても、何かあると自然は元の地形に戻りたがるということ。
延暦11年(792)6月22日の大雷雨による溢水氾濫(土石流の可能性もあり)で長岡宮の式部省南門が倒壊するが、そもそも小畑川の谷を埋めて宮に必要な平地を造成していた可能性が高い。
また、同年8月9日の大雨による桂川の大洪水では、長岡京東南部(左京3坊以東、6条以南)はほぼ水没したと思われる。
これらの水害によって、水運に恵まれながら洪水に弱かった長岡京の地形的特質(構造的欠陥)が強く意識され、それがひとつのきっかけになって、桓武天皇の再遷都決断に至ったことは間違いないと思う。

続いて、再遷都先の平安京の地形的特色。
平安京をめぐる地形で、最大の問題は、鴨川の流路、とりわけ賀茂川と高野川の合流点の位置と形状について。
平安京3 (2).jpg
これが自然のものなのか?人工的に改変された結果なのか?
改変されたものだとしたら、その時期はいつなのか?
まず、地形学的にY字があまりに整い過ぎている。
川が合流する時は、一般的にどちらかが優勢(本流になる)でどちらかが劣勢(支流になる)で、イーブンに合流するということは稀。
つまり、合流の形としては大文字のYではなく、小文字のy(もしくは、その裏返し)になる。

さらに、平安京の都市設計として・・・。
平安京1 (2).jpg
双ヶ岡から東に1800丈(10里)、船岡山から東に900丈(5里)の位置に最初から合流点があったというのは、いくらなんでも都合が良すぎる。
丘や山は動かせないから、その位置に川の合流点を設定して移したと考えるのが合理的。
その際、流路を変更したのは賀茂川だと思う。
おそら南の方向に流下してしたのを南東方向に遷して、設定された高野川との合流点に持って行ったのではないだろうか。

また、川(水)は低い方に流れるのが自然の理。
平安京北東部は北白川の扇状地で傾斜は北東が高く南西に低い。
つまり合流して流れを真南に変える鴨川の現状の流路はかなり不自然。
等高線に従えば、北東から南西に流れる高野川の延長上に流れるのが自然。

ところで、ネットを探していたら、こんな地図が見つかった。
平安京2.jpg
 「京都の水辺の歴史的変遷と都市防災に関する研究」(京都大学防災研究所年報 第47号)

平安京造営以前の流路の推定図。
高野川の延長上に平安京左京を北北東から南南西に流れる流路が2本ある。
おそらくこれが高野川の旧流路だろう。
また、京域の北を南流して京域に入ったあたりから南西に流れる流路がある。
これが賀茂川の旧流路ではないだろうか。
この旧流路は東三条院の泉や神泉苑の池の湧水など伏流として残っていて、現在も井戸水に恵まれていると聞く。

どうも、平安遷都決定後に、高野川との合流点の設定、賀茂川の付け替え、(高野川と賀茂川が合流した)鴨川の京域の東側を真南に流れる流路の設定という工事が行われたのではないだろうか。
これはかなりの大土木工事だが、それなくしては平安京の設定は不可能であり、現在に至る「鴨川のY字の不思議」は解決できないと思う。

では、その大土木工事を発想したのは誰だろうか?
私は造宮大夫和気清麻呂だと思う。
清麻呂は『日本後紀』延暦18年(799)2月乙未(21日)条の薨伝に「贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造和気朝臣清麻呂薨ず。(中略)長岡の新都、十載を経て未だ功成らず、費、勝げて計るべからず。清麻呂潜に奏し、上(桓武天皇)をして遊猟に託し葛野の地を相せしむ。更にして上、都を遷す。(下略)」と見えるように、平安京への再遷都を桓武天皇に進言した人である。
民政に手腕を発揮した有能な実務官僚であり、また摂津大夫の官にあった延暦4年(785)に、難波の神崎川と淀川を直結させる工事を行い長岡京方面への物流路を整え、さらに延暦7年(788)には上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうとする(のべ23万人を投じたが失敗)など、土木的発想を持った人だった。
平安京の造営については、当該時期の正史『日本後紀』が欠失していて史料が乏しく、詳しい事情が解らないのが残念だ。

そんな話をする。
長い間(20年)、続けてきたこの講座もいよいよ残り1回。
なんとか大団円となりそうだ。
12時05分、終了。
(続く)

8月20日(水)今日の古代史(飛鳥・都塚古墳) [お仕事(古代史)]

8月20日(水)  晴れ   東京  34.5度  湿度58%(15時)
暑さで目が覚める。
涼しい部屋に移動して30分ほどクールダウン。
8時30分、起床。
朝食は、ダークチェリーパイとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
濃紺の地に黄色の小菊模様のチュニック(2分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、大きな籠バッグ。
10時、家を出る。
今日は真夏の日差で暑い!
駅に着くと、汗が噴き出る。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
教室に行ったら、前回に引き続き生徒さんが1人しかいない。
皆さん、ご高齢なので、無理はしない方がいいのは確かだが、これでは講義にならない。
2回続けて、雑談というわけにもいかないので、作ってきた資料を渡して「飛鳥・都塚古墳について」話をする。
都塚に行ったのは、学生時代の飛鳥史跡巡り旅行の時だからもう38年くらい前のこと。
横穴式石室が開口していて、内部に収められた家形石棺の写真を撮った覚えがある。
都塚古墳3.jpg
石室の積み方から6世紀後半の築造という認識。
墳丘はかなり崩れていて方墳とも円墳ともつかない状態、大きさは20mクラス。
飛鳥地方のこの時期の古墳としては、小さくもないが大きくもないという感じで、正直なところそれほど重要な古墳とは思わなかった。

当時はまだ島庄遺跡も発見されてなかったので、石舞台古墳が蘇我馬子(551?~626)の墓という説はあったが、飛鳥盆地東南隅のこの地が蘇我本宗家の拠点という認識は無かったと思う。
その後、島庄遺跡の発掘が進み大型建物群や方形池などが発見され、「嶋大臣」(蘇我馬子)の邸宅跡である可能性が高まり、それに隣接する石舞台古墳が馬子の墓であるという説が有力になった。
都塚古墳1.jpg
都塚古墳2.jpg
都塚古墳4.jpg
今回の発掘で、石舞台古墳の東南400mほどにある都塚古墳が、40×41mの基壇の上に8段?に造成された階段状の大型方墳であることが、ほぼ確定的になった。
そうなると、6世紀後半にこの地にこれだけの規模をもつ墓を造成できるのは、馬子の父で、蘇我氏の権力基盤を築いた大臣(おおおみ)蘇我稲目(~570年)の他にはいない。
墓誌が発見されたわけではないので確定ではないが、まず9割方、間違いないだろう。

注目されるのは高句麗の積石塚との関係。
高句麗好太王(在位:391~413年)の陵とする説が強い将軍塚古墳(中華人民共和国吉林省集安市:5世紀前半)などとの類似性。
高句麗将軍塚古墳 (2).jpg
↑ 一辺31.6m、高さ12.5m、7段の築成。

稲目の父は「高麗(こま)」、祖父は「韓子(からこ)」で、その名から朝鮮半島との関係が強く感じられる。
さらに曽祖父の「満智(まち)」は、百済の権臣木満智との同一人物説がある。
その当否はともかく、稲目は欽明朝に渡来した仏教を受容するなど、国際情勢に通じた人物だったことは間違いなさそう。
稲目が自らの墓に、朝鮮半島の様式を取り入れたとしてもおかしくはない。
12時、終了。

昼食は、久しぶりに自由が丘駅南口の「Butcher's (ブッチャーズ)」で、おろしハンバーグランチ(830円)。
P1110349 (2).JPG

東横線で学芸大学駅に移動して、「仕事部屋」へ。
郵便物の整理と少し調べもの。

東口商店街の「ドトール」で冷たい物を飲みながら、7月18日に平凡社で行った人文地理学者の加藤政洋さん(立命館大学准教授)との対談の原稿に、1時間半ほどかけて目を通す。
う~ん、けっこうあちこち話題が飛んだ対談だったのに、ちゃんとまとまっている。
編集者のAさんの有能さに感服。
(続く)

7月28日(月)長岡京の洪水と平安遷都への道 [お仕事(古代史)]

7月28日(月)   晴れ   東京   30.7度   湿度53%(15時)
7時20分、起床。
気温も湿度も下がり、久しぶりにさわやかな目覚め。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
朝食は、カスタードクリーム・デニッシュとコーヒー。
8時、化粧と身支度。
白地に黒のアニマル柄のロングチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、大きな籠バッグ。
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に入り新宿三丁目駅で下車。
地下道を歩き、JR新宿駅東南口に出て、JR中央線に乗り換えて吉祥寺駅へ。
移動中、明治大学「ジェンダー論」のレポート読み(7本)。
10時30分、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
「後宮の不幸と早良皇太子の怨霊出現」の5回目。
延暦11年(792)の長岡京と洪水の史料を読み、水運に恵まれながら洪水に弱かった長岡京の地形的特質について解説。
続いて最終講「平安遷都への道」に入る。
延暦12年(793)の平安京へ遷都決定についての史料を読む。
長い間(20年)、続けてきたこの講座も残りあと2回。
12時05分、終了。

12時15分、吉祥寺駅南口のタイ料理「Khucha(クーチャイ)」で昼食。
P1110010 (2).JPG
ムーパッキン(豚肉の炒め物+ライス、980円+税)。
オーナーの息子さん、数カ月見ないうちにまた大きくなり、走り回る様子もしっかりしてきた。
でも、このくらいの時期は事故に気をつけないと・・・。
(続く)
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