SSブログ
お仕事(古代史) ブログトップ
前の10件 | 次の10件

12月23日(月・祝)今日の古代史(征討軍の大敗) [お仕事(古代史)]

12月23日(月・祝)  曇り  東京  8.1度  湿度41%
8時、起床。
1時間ほど寝過ごす。
2日続きの寝坊。どうもおかしいな。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
大急ぎで化粧と身支度。
紺地に白い雲のような模様のロング・チュニック、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に乗り入れ新宿三丁目駅へ。
殺風景な地下道を歩いて新宿駅東南口へ。
JR中央線快速に乗換え、10時08分、吉祥寺駅に到着。
時間調整を兼ねて駅前(南口)の「ドトール」で、朝食(サンドイッチとコーヒー)。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
5月から続いている「桓武朝の『蝦夷征討』」の7回目。
『続日本紀』延暦8年(789)6月甲戌(3日)条を読んで、地図を使って解説。
いよいよ蝦夷の本拠地「胆澤」攻略を目指す征討軍(律令政府軍)と蝦夷軍が激突。
持節征東大使紀古佐美率いる征討軍は、衣川営(現:岩手県平泉町の中尊寺のある丘=関山、もしくは関山の北を西から東に流れる衣川を渡った地点)を出て、北上川西岸を北に進み、軍を3つに分け(前・中・後軍)、時を合わせて北上川本流を西から東に渡河。
中・後軍(各2000人、計4000人)は、北上川東岸を北上。
しかし、前軍は蝦夷勢に遮られて渡岸できない)。
蝦夷の本拠地に至る頃、蝦夷軍300人が現れて戦闘になるも、征討軍はこれを突破。
退却する蝦夷軍を追い、蝦夷の村に火を放ちながら北へ進む。
ところが、巣伏村付近で、優勢な蝦夷軍800人に前方を塞がれ激戦となり、征討軍は苦戦。
退却しようとした時、東の山から蝦夷軍の伏兵400人が出現し、前後を挟み撃ちにされ、征討軍は総崩れとなり、西に追われて次々に北上川に追い落とされる。
結果は、戦死25、溺死1036人、負傷245人、甲冑を脱ぎ捨て裸で泳ぎ着た者1257人。
別将丈部(はせつかべ)善理以下、名のある者5名が戦死。
征討軍は戦闘に参加した中・後軍4000人の内、2563人(64%)が戦闘能力を失うという大敗北を喫する。
延暦2年頃から6年の準備を重ね、桓武天皇が「坂東の安危、この一挙にあり」と檄を飛ばした征討作戦は頓挫してしまう。

征討軍は推定6000人、それに対して蝦夷軍は推定2000人ほど。
寡兵の蝦夷勢はまず渡岸する征討軍を分断し、まず300人が囮となって退却し、征討軍を誘い込む。
そして、深追いした征討軍を地の利と伏兵を使って挟撃し川に追い落とすという見事な作戦。
胆澤の蝦夷軍を率いる族長阿弖流爲(あてるい)の史書への鮮烈な登場だった。

問題は、戦闘が行われた場所がどこか?ということ。
まず、どの地点渡河したのかが判らない。
渡河に適した地点は限られるだろうが・・・。
次に、激戦地の「巣伏村」の場所が判らない。
この地域、北上川は胆沢盆地の東を流れ、東岸は山裾が迫ってほとんど平地が無い。
旧江刺市愛宕地区(現:奥州市江刺区愛宕)まで北上すれば平地があるが、北に行き過ぎる感がある(衣川の対岸から約20km)。
旧江刺市黒石町付近だと、約10km強いで距離的にはイメージに合う。
何度も読んでいる史料だが、具体的に地図の上にイメージしようとすると、判らないことだらけ。
12時、終了。
(続く)

12月18日(水)今日の古代史(弥生時代の製鉄炉・飛鳥寺西方遺跡) [お仕事(古代史)]

12月18日(水)  曇りのち雨  東京  8.8度  湿度55%(15時)

8時、起床。
朝食は、りんごデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
多色使いの植物柄のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黄色のウールのポンチョ。
9時55分、家を出る。
どんより重い曇り空だが、まだ雨は降っていない。
東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
まず、考古学の話題から。
1つ目は長崎県壱岐市の弥生時代の環濠集落カラカミ遺跡から、国内で初めて鉄生産用の地上炉跡が発見されたニュース。
鉄器は紀元前3世紀頃 、青銅器とほぼ同時期に日本へ伝来したが、当初は製鉄技術がなく製品が輸入されていたと思われる。
鉄生産用の地上炉は、岡山県総社市の千引かなくろ谷遺跡で発見された6世紀後半の製鉄炉跡4基、製鉄窯跡3基が最も古いとされていたので、今回のカラカミ遺跡の発見が地上炉と確定すれば、日本における本格的な鉄器生産の開始が一気に300~500年も遡上することになる。
まあ、朝鮮半島南部で行われていたことが、一衣帯水の北九州に何百年間も伝来しないことの方がおかしい。
まして弥生時代末期から古墳時代前期にかけて倭国は朝鮮半島南部の鉄資源(「任那の鉄」)を掌握しようとしていたわけで、壱岐島から初期の鉄生産遺構が出土したのは、むしろ当然だろう。
----------------------------------------------------------
鉄生産の地上炉跡、国内初確認…長崎・壱岐市
20131214-553811-1-N.jpg
地上炉跡付近を右手で示す壱岐市学芸員(14日、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡で)
20131214-553818-1-N.jpg
長崎県壱岐市教委は14日、同市の弥生時代の環濠(かんごう)集落カラカミ遺跡で、国内で初めて鉄生産用の地上炉跡が複数見つかった、と発表した。
弥生時代では明確に確認されていない精錬炉跡の可能性があるとしている。専門家によると、日本で精錬が始まったのは6世紀後半とされており、従来の定説の見直しにつながる可能性もあるという。
市教委によると、炉跡は少なくとも6基あり、竪穴住居跡の中で見つかった。弥生時代後期(紀元1~3世紀)の複数の時期のもので、床面に直径約80センチの範囲で焼土塊が広がっており、床面に直接炉を築く地上式とみられる。炉に風を送るふいごの一部や棒状の鉄素材も出土している。
これまで国内各地で確認されている鍛冶炉は地面に穴を掘ったものだが、今回は韓国南部の遺跡などにみられる精錬炉跡に似ているという。
市教委は「カラカミ遺跡では鉄素材が多く出土していることからも、精錬炉だった可能性がある」と指摘。朝鮮半島から1次素材を輸入し、本土へ鉄を供給する中継交易拠点だったと推測している。
カラカミ遺跡は、「魏志倭人伝」に記された「一支国(いきこく)」の王都とされる「原(はる)の辻(つじ)遺跡」(国特別史跡)とともに、一支国を構成する集落と位置づけられている。
『読売新聞』2013年12月15日(日)11時13分配信
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20131214-OYT1T00733.htm
----------------------------------------------------------
もう1つは、奈良県明日香村の飛鳥寺西方遺跡から焼け土が入った大きな柱穴が13個発見されたというニュース。
飛鳥寺西方遺跡からは、今までの調査で広大な(東西120m×南北200m?)石敷き広場が発見されていて、『日本書紀』で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が初めて出会った「槻(つき)の木の広場」とされるている。
20131212-506576-1-N.jpg20131212-506585-1-N.jpg
この場所には「壬申の乱」の時、近江朝廷(大友皇子)方の陣地が置かれ、それを大海人皇子(後の天武天皇)方の軍勢が襲撃して陣地を奪ったことが『日本書紀』に見えるので、今回発見の柱穴は、その時の「陣地」の建物や塀の跡かもしれないという話。
飛鳥のこのエリアは、長年、発掘調査を重ねて広域の様子が景観的に復元できるようになってきている。
さらに古代史の実相が明らかになることを期待したい。
----------------------------------------------------------
「槻の木の広場」に穴13個発見 奈良・飛鳥寺西方遺跡
images.jpg
飛鳥寺西方遺跡の地図
【塚本和人】大化改新の立役者、中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蹴鞠(けまり)を通じて初めて出会った「槻(つき)の木の広場」とされる奈良県明日香村の飛鳥寺西方(せいほう)遺跡で、石組み溝に平行して並ぶ13個の穴が見つかった。村教委が11日発表した。塀や建物の柱穴の可能性があり、近江に遷都後の防衛拠点の建物ではとの見方も出ている。
村教委は昨年度、飛鳥寺の西方で石畳が広範囲に広がる遺構を発掘。今年度、その西側で東西約25メートル、幅1・3メートルに石を敷き詰め、排水溝の可能性がある石組み溝(深さ約15センチ)が見つかり、溝の約6・5メートル北で東西方向に13個の穴(直径約0・3~1・2メートル)が2・4~2・7メートルの間隔で並んでいた。穴を埋めた土には焼けた痕跡を確認。村教委は、塀や建物などが燃えて埋め戻された後に砂利が敷かれたとみている。
和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(日本古代史)は穴列について、中大兄皇子が667年に近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都後、飛鳥の防衛拠点として置かれた「留守司(とどまりまもるつかさ)」の建物だった可能性を指摘。「初めてその一部が見えてきたのかもしれない」と話す。
『朝日新聞』2013年12月11日21時36分
http://www.asahi.com/articles/OSK201312110113.html
----------------------------------------------------------
残りの時間、『続日本紀』巻18、天平勝宝4年(752)10~12月条の講読。
巻18を読了。
12時、終了。
(続く)

12月4日(水)今日の古代史(多賀城・平安京運河・赤玉) [お仕事(古代史)]

12月4日(水)  晴れのち曇り  東京  14.5度  湿度61%(15時)

8時、起床。
朝食は、りんごデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
青基調に大小の楕円模様のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黄色のウールのポンチョ。
9時55分、家を出る。
昨日あたりから腰が重く、左の脹脛にときどき痛みが走る。
まずいなぁ。
コンビニで配布資料のコピー。
東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
まず、考古学の話題から。
律令国家の東北経営の拠点多賀城跡(宮城県多賀城市)で材木塀が発見される。
場所は正庁がある丘陵の南の裾の低湿地。
既に発見されていた八脚門と材木塀で創建期(奈良時代初期・神亀年間)の南外廓線を構成すると推定される。
従来の南外廓線は多賀城碑(壺の碑)がある小丘陵を通っているが、これは奈良時代中期(天平宝字年間)の大規模改修によって南に拡大された結果と思われる。
今まで外廓線の背後に低湿地があるのは防衛構想的に不自然と思っていたが、当初は低湿地+材木塀で防衛線を設定していたことになり納得。
おそらく、軍事的な城柵としての防衛機能よりも、陸奥国府としての威容を整えることを重視して見栄えの良い小丘陵上に南門をもってきたのだろう。
そして、宝亀11年(780)の伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の大反乱で多賀城は抵抗することもなく落城してしまう、
----------------------------------------------------------
「多賀城」に材木塀跡 創建時の外郭、明らかに
20131025014jd.jpg
発掘された材木塀の跡。指し示しているのが材木
20131025015jd.jpg
宮城県多賀城市の国特別史跡多賀城跡を発掘調査している宮城県多賀城跡調査研究所は24日、政庁の南側で材木塀の跡が見つかったと発表した。多賀城跡では初めて、塀本体を構成する材木5本も出土した。
塀は創建時(724年)にあった八脚門に延びる形で当時の外郭の南辺を構成したとみられ、研究所は「創建当初の区画施設の構造などが明らかになった」と説明する。
見つかった材木5本は直径約20センチ。土や木を盛った基礎にあった幅約40センチの溝に約1メートルの深さで埋まっていた。基礎は南北方向が4.4メートル以上、高さが45センチ以上あり、塀の高さは3メートル程度だったと推定されるという。
八脚門は政庁の南約250メートルの場所にあった。さらに南に120メートルの地点には8世紀半ば、新たに外郭や南門が築かれたのが分かっており、材木塀は切り倒され、通路が造られていたことも判明した。
研究所は「多賀城を取り囲む外郭が時代で移されたとの見方があらためて裏付けられた。材木塀が最初の外郭だったことが確実になり、通路などへの変遷もつかめた」と説明している。
研究所は26日午前10時半から現地説明会を開く予定。現地はあやめ園駐車場から徒歩10分。連絡先は研究所022(368)0102。
『河北新報』2013年10月25日金曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/10/20131025t15036.htm
----------------------------------------------------------
平城京の最北部(左京北辺3坊6町)で条坊制の南北規格とは異なる、北東~南西方向の大溝が見つかった。
現在の場所表示では烏丸・上長者町西入る北側。
幅5〜6mと大規模で、埋土から820〜830年ごろの土器類が出土していて、平安時代初期の京の造成期に建設資材の搬入に使われた運河の可能性高い。
おそらく高野川から分かれる構造で北山からの材木などを運んだのだろう。
興味深いのは、この運河が使われていた時期に土御門大路が造成されていなかったこと(『京都新聞』)の報道)。
平安京については、遷都からしばらく経った時期に、北側に1町拡張されたとする拡大説がある(私も支持)。
拡大説に立てば、それまでは土御門大路から一条大路までの間(北辺)は京域ではなかった(平安宮も同様に上東門と上西門を結ぶラインより北は苑地だった)。
今回の発見は、そうした平安京拡大説と考え合わすべきだと思う。
vol41_03.jpg
----------------------------------------------------------
平安京跡:運河?遺構 造営初期、鴨川から材木搬入か
京都市上京区元浄花院町の平安京跡で、造営初期の9世紀初めごろに材木などを運び入れるための運河の一部とみられる溝跡が見つかった。マンション建設に伴う発掘調査をしている民間団体「古代文化調査会」(神戸市)が17日、発表した。平安京で造営用に一時的に掘られた運河が確認されるのは初めて。
20131018dd0phj000048000p_size8.jpg
平安京跡から発掘された運河の一部とみられる溝=京都市上京区元浄花院町で2013年10月17日、榊原雅晴撮影

発掘地点は現在の京都御苑の西隣で、平安時代の大内裏(だいだいり)から東約800メートル。幅5〜6メートル、深さ50〜80センチの溝跡が、北東から南西方向に長さ約20メートルにわたって見つかった。溝跡から820〜830年ごろの土器類も出土した。運河は、碁盤の目のように整備された道路に対して斜めに掘られており、物資運搬が終了すると埋められたとみられる。
都の条坊制が完成する前に一時的に運河が造営された事例はこれまで、奈良県橿原市の藤原京(694〜710年)などで確認されているという。
同調査会の家崎孝治代表は「北山の材木をいかだに組み、鴨川などを経て運んだのではないか。平安遷都(794年)から数十年たっても主要な通りが完成していなかったことが分かり、大内裏から周辺に都市整備が広がっていく様子がうかがえる」と話している。
現地説明会は19日午前10時から。問い合わせは同調査会(090・3267・5730)。【榊原雅晴】
『毎日新聞』 2013年10月18日 大阪朝刊
http://mainichi.jp/feature/news/20131018ddn012040019000c.html
----------------------------------------------------------

3つ目は、群馬県渋川市金井東裏遺跡出土の「赤玉」。
金井東裏遺跡は榛名山の大噴火で埋没した甲装着人骨で注目されている6世紀初頭(古墳時代後期)の遺跡だが、この写真を見たとき「なんだこりゃ?」と思った。
赤色顔料の「べんがら」を直径5.5から8cmの団子状に丸めて保管する「赤玉」と呼ばれる物。
赤玉は水に弱いのでこういう出土の仕方をするのは稀で、この遺跡が火山噴出物で一気に埋まったため、残ったものと思われる。
「べんがら」は「弁柄」とか「紅殻」などと書くがそれは当て字で、オランダ語の「Bengala」が語源。
インド東部のベンガル地方産のものが運び込まれたからだそうだ。
成分は酸化第二鉄(Fe2O3)で、着色力・隠蔽力が強く、耐熱・耐水・耐光、耐酸、耐アルカリ性に優れた赤色顔料で広く用いられた。
色の鮮やかさでは水銀朱には劣るが、高価で毒性のある水銀朱に対して、「べんがら」は安価で毒性もないという特性がある。
製法は、緑礬(りょくばん・FeSO4・7H2O)という硫酸鉄の鉱物を焼くと得られる(礬紅)。
緑礬は火山地帯にあるので、日本有数の火山地帯である上野国で採掘されてもおかしくない。
実際に群馬県では、伊勢崎市本関町古墳群で15点、中之条町の伊勢町地区遺跡群で2点「赤玉」が出土している。
金井東裏遺跡でも、かなり大規模に「赤玉」の生産・供給が行われ、今回、発見されたのは、その保管庫だった可能性がある。
----------------------------------------------------------
金井東裏遺跡:新たに「赤玉」発見、県内3例目 「大量」100個以上−−渋川 /群馬

6世紀初頭(古墳時代)の鉄製のよろいを着けた人骨などが見つかった金井東裏遺跡(渋川市)で、新たに「赤玉」と呼ばれる団子状に丸められた赤色顔料の「ベンガラ」と、青銅製の鏡が発見された。県教委が発表した。
images.jpg
県埋蔵文化財調査事業団によると、赤玉は直径約5・5〜8センチ、重さ約350〜400グラムで100個以上見つかった。古墳の石室内部や土器の表面に「魔よけ」として塗られていたとみられ、県内の出土は本関町古墳群(伊勢崎市)、伊勢町地区遺跡群(中之条町)に続き3例目。これほどの数がまとまって発見されるのは全国的にも珍しく、同事業団は「付近に赤玉を生産する場所があったか、流通拠点として一時的に大量保管されていた可能性がある」と話している。同事業団は「生産、保管は集団体制で行われ、集団を束ねる人物がいた可能性もある」と指摘。よろいを着た成人男性の人骨との関連性にも着目し調査を進めている。

鏡は土器が多く出土された祭祀(さいし)遺構で1点発見された。直径5・68センチ、重さ26・4グラムで、背面には「乳」と呼ばれる突起があり、同事業団は「乳文鏡」と呼ばれる鏡とみている。同事業団は赤玉と鏡を11月9日の施設開放日に合わせ、県埋蔵文化財調査センターで公開するという。【塩田彩】
『毎日新聞』2013年10月24日 地方版
http://mainichi.jp/feature/news/20131024ddlk10040274000c.html
----------------------------------------------------------

残りの時間、『続日本紀』巻18、天平勝宝4年(752)10月条の講読。
12時、終了。
(続く)

11月20日(水)今日の古代史(紡錘車の錘に所有者の名を記すわけ) [お仕事(古代史)]

11月20日(水)  晴れ  東京  17.2度  湿度37%(15時)

8時、起床。
朝食は、カツサンドとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪と身体を洗い、髪はよくブローしてにあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
白と黒のジラフ柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黄色のウールのポンチョ。
9時55分、家を出る。
コンビニで配布資料のコピー。
東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
考古学の話題を2つ。
群馬県伊勢崎市関遺跡出土の紡錘車の錘(紡輪)の話。
蛇紋岩製で上面の最大径は4.4㎝、8世紀後半(奈良時代)のものと推定されるが、側面に「佐位郡」「有」と針書されている。
この遺跡周辺は、古代の上野国佐井郡なので矛盾はないが、問題は文字が書かれている意味。
物品に文字が書かれる場合、一般的に所有銘であることが多い。
とくに大事なものには記名して所有権を明示する。
しかし、紡錘車の錘って、そんなに大事なものなのだろうか?
あるいは、郡(行政機関)が所有するものなのだろうか?
という疑問がわく。
実は、紡錘車の錘に、文字(人名・郡名)を記す例は、上野国および武蔵国北西部(毛野文化圏)に集中している。
そのことを重視すると、単なる所有銘ではなく、他の意味があったのではないか?という考えも出てくる。
でも、他の意味って何?
考古学では、よくわからない物が出ると「祭祀」という話になる。
で、「御利益を得るために住所を刻んだのではないか」などという、かなり首を傾げたくなるような説が出てくる。
まあ、養蚕地帯である毛野文化圏特有の祭祀があった可能性もなくはないが・・・。
私は、やはり所有銘だと思う。
この地域のは、紡錘車の錘に所有者の名を記す必要があるような、なんらかのシステムがあったと考えるべきだろう。
たとえば、紡いだ糸を郡衙に収めるよう義務づけられている(契約している)人たちがいて、その登録の代わりに郡がまとめて制作・調整した紡錘車の錘を配布するような・・・。
紡錘車の錘への記名については、大学院生の頃から、不思議に思っているのだが、これくらいしか考えが浮かばない。
---------------------------------------
紡錘車に古代郡名「佐位郡」 伊勢崎の関遺跡
関遺跡(伊勢崎市本関町)からの出土品で、糸を作る際に使われた8世紀後半の石製道具「紡錘(ぼうすい)車」に、古代の郡名「佐位郡(さいぐん)」の文字が彫られていたことが、県内で初めて県埋蔵文化財調査事業団の出土品整理作業で確認された。
専門家は、出土地が佐位郡の政治文化の中心地に近いことから、知識層が関連するものと推測。祭祀(さいし)に関わっているとみて、「御利益を得るために住所を刻んだのではないか」とみている。
紡錘車は、糸によりをかけるために使用された。事業団によると、県内で紡錘車に古代の郡名が確認された例はこれまでに、芳賀東部団地遺跡(前橋市)出土の「勢多郡」のみという。
img.jpg
古代の郡名「佐位郡」の文字が確認された紡錘車。極めて細い文字で彫られている

「上毛新聞ニュース」2013年9月6日(金) AM 07:00
http://www.jomo-news.co.jp/ns/6613783939763915/news.html
---------------------------------------
関(せき)遺跡 【国道462号改築関連】 郡名「佐位郡」を刻む紡輪(ぼうりん)
伊勢崎市本関町にある関遺跡から文字が刻まれた石製の紡輪が発見されました。この紡輪は蛇紋岩製で、上面の最大径は4.4㎝、厚さは1.5㎝です。紡輪とは糸に撚りをかける時に使用する紡錘車のはずみ車で、布をつくるために必要な道具です。この紡輪は4区5号竪穴住居の床面に貼り付くように出土しました。この住居の住人が使っていたものと考えられます。
さて、関遺跡から出土した紡輪には、文字が刻まれ、その内容がとても珍しいものでした。文字は側面に「佐位郡(さいぐん)」「有」と書かれ、とても達筆です。このほかにもいくつか文字が刻まれていて、現在専門家に依頼し分析を進めているところです。さらに、遺跡周辺は古代行政区分の佐位郡にあたりますが、まさにその郡域内から「佐位郡」と刻まれた紡輪が出土しました。郡名を刻んだ紡輪は、芳賀東部団地遺跡で出土し、「勢多郡」の文字が書かれた例がありますが、「佐位郡」は初めてです。また、側面と上面には直径3~4㎜、深さ1.5~2㎜の穴がそれぞれ5か所と4か所あけられています。この穴は何のためにあけられているのかは今のところ不明ですが、配置から装飾的な意味合いがあるのかもしれません。
どうして紡輪に文字が刻まれているのか、文字は何を意味しているのかなど疑問は尽きませんが、今後他の出土例と比較しながら、その背景を探っていきたいと思っています。

財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団「群馬の遺跡・出土品・最新情報」
http://www.gunmaibun.org/remain/iseki/seiri/2013/20130903-1.html
---------------------------------------
もうひとつの話題は、鳥取県鳥取市の青谷横木遺跡。
平安時代前期(9~10世紀)の遺跡で、低湿地であるため木製品の遺存が良い。
3800点に及ぶ大量の木製祭祀具に加えて、今回、木簡が発見された。
img_1526312_62543536_2.jpgimg_1526312_62543536_0.jpg
さらに、古代山陰道と推定される砂利敷の道路遺構も発見されている。
問題は、遺跡の性格で、文書木簡の内容が「出挙」の返納に関するものなので、近くに公的機関(郡衙、もしくはその出先機関)があったことは間違いない。
この地域は、因幡国気多郡に相当する。
すぐ近くの台地上から総柱建物が出土しているので、そこが倉庫群(正倉別院)だと思われる。
一方、官道がすぐ近くを通過していることから、駅家の可能性も指摘されている。
さらに、祭祀具の大量出土から、郡衙の祭祀施設(祓戸)があった可能性も高い。
つまり、地方行政機関が集中立地していた可能性があり、興味深い遺跡になっている。
---------------------------------------
鳥取・青谷横木遺跡 国内初、木簡での出土
■住民代表から行政への文書
鳥取市青谷町の青谷横木遺跡から平安時代(9~10世紀)に住民の代表が行政に対し税の返納などを約束する内容の文面が記された木簡2点が出土し、5日、鳥取県埋蔵文化財センターが発表した。
住民代表が上部機関に提出する形式の木簡としては国内初。同様の内容が紙に書かれた例はあるという。
出土した木簡は、長さ約32センチ、幅約4センチと長さ約36センチ、幅約4センチの2点。税の納付期限を約束する内容などが書かれ、「税(稲)は9月中に進上いたします。もし、期限を過ぎた場合は罪をたまわりますので、(期限までに)納め終えます」など生々しい契約の様子が読み取れるという。
センターによると、当時は行政が農民に対し強制的に稲を貸し付け、農民がそれを育てて収穫し、利子分を加えた稲を返納するシステムが整っていたらしい。また、木簡は、文面で同じ文の繰り返しなどが見られることから、行政が念書の下書きなどとして使用した可能性があるという。
このほか、木製の人形など祭祀具約3800点も出土。センターは「遺跡周辺はこの地域の行政機関があった場所でないか」としている。現地説明会が8日午前10時と午後2時にある。
「msn産経ニュース」2013年9月6日 02:27
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130906/ttr13090602270000-n1.htm
---------------------------------------
残りの時間、『続日本紀』巻18、天平勝宝4年(752)8月条の講読。
12時、終了。
(続く)

11月6日(水)今日の古代史(興福寺旧境内から平安時代後期の「酔象」の駒が出土) [お仕事(古代史)]

11月6日(水)  晴れ  東京  20.7度  湿度47%(15時)
昨夜は疲労で倒れるように眠ってしまったので5時に目が覚める。
1時間ほどインターネットをやって、再びベッドへ。
2時間ほど眠り足して、8時、起床。
朝食は、いちじくパンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪と身体を洗い、髪はよくブローしてにあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
グレーの地に黒で唐草模様のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黒のカシミアのショール。
9時55分、家を出る。
コンビニで配布資料のコピー。
東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
10月下旬に報道された奈良興福寺旧境内の発掘で発見された将棋の駒「酔象」について、将棋の歴史、さらには日本における盤上遊戯の歴史について解説。

盤上遊戯のうち囲碁は、天平の遣唐使で帰国し、称徳朝に右大臣にまで上り詰めた吉備真備が日本に伝えたとされ、自身も名人であった説話がある(「江談抄」『吉備大臣入唐絵詞』)。
実際、東大寺の正倉院には「木画紫檀碁局」と称する奈良時代の碁盤が(碁石も)が伝わっている。
また、平安時代中期の『源氏物語』には女性が碁を打つシーンがあり、女性を含めて貴族層に愛好されていたことがよくわかる。
それに対して将棋は伝来の事情が不明なだけでなく、行われていたことを確実に示す古い資料に乏しい。
鎌倉時代初期の1220年頃に編纂された百科全書『二中歴』には2種類の将棋に関する解説がある。
『二中歴』」は平安時代後期に三善為康(1049~1139)が編纂した「懐中歴」(10巻)と「掌中歴」(4巻)を合わせたものなので、平安時代後期(11世紀)には「平安大将棋」と「平安小将棋」の2種類の将棋があったことが知られていた。

今回、興福寺の子院・観禅院の井戸跡から、「承徳二年(1098)」の年号を記した木簡とともに「酔象」の駒が発見されたことで、平安時代後期(11世紀)に「酔象」の駒を使う将棋が寺院で行われていたことが確定的になった。
しかし、『二中歴』に記載された「平安大将棋」「平安小将棋」には「酔象」の駒はない。
これはどうしたことだろうか? 考えられるのは2つ。
(1)11世紀頃に、「酔象」の駒が発明され新たに付け加わった
(2)『二中歴』記載が不十分、もしくは脱漏があり、平安将棋にも「酔象」の駒はあった。
今回の発見を重視すれば、(2)の可能性が高くなったと思う。

「酔象」の駒は鎌倉時代に行われた大将棋、中将棋、小将棋のすべてに使われるので、そのどれかは確定できない。
しかし、今回の発掘で、「酔象」の他に「桂馬」「歩兵」が各1枚出土していること、また今回の発掘現場から西に200mほど離れた興福寺旧境内で、1993年(平成5)に天喜6年(1058)の木簡と共伴した「玉将」「金将」「銀将」「桂馬」「歩兵」など15枚の駒が出土していることに注目したい。
逆に言えば、「銅将」「横行」「竪行」「龍馬」「龍王」「獅子」「奔王」「反車」「盲虎」「麒麟」「鳳凰」「猛豹」「仲人」などの駒は出土していない。
したがって、今回の「酔象」の駒は、王将・金将・銀将・桂馬・香車・飛車・角行・歩兵・酔象で構成される小将棋の駒である可能性が高いと思う。
また、将棋が貴族社会よりも寺院社会で盛んに行われていたとするならば、その伝来も僧侶によってなされた可能性が高くなると思う。

残りの時間、『続日本紀』巻18、天平勝宝4年(752)7月条の講読。
12時、終了。
---------------------------------------------------------------
日本で行われた主な将棋の種類
1 平安時代(11世紀)の将棋
(1)「平安大将棋」
• 盤=縦横13マス(169マス)
• 駒=王将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵・銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人の13種類

(2)「平安小将棋」
• 盤=縦横9マス(81マス)?(8×9、8×8説もあり)
• 駒=王将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵の6種類?

2 中世(鎌倉時代以降)の将棋
(3)大将棋
• 盤=縦横15マス(225マス)
• 駒=玉将(または王将)・金将・銀将・銅将・鉄将・石将・桂馬・香車・飛車・角行・歩兵・横行・竪行・龍馬・龍王・獅子・奔王・反車・盲虎・麒麟・鳳凰・猛豹・醉象・悪狼・嗔猪・猫刄・猛牛・飛龍・仲人の29種類65枚(×2)
• 獲った駒は再使用できない。
• 岩手県平泉町志羅山遺跡第88次発掘調査、表裏とも「飛龍」と読める駒状の木片が出土。
• 鎌倉時代には行われていたが、その後、衰退?

(4)中将棋  
• 盤=縦横12マス(144マス)
• 駒=玉将(または王将)・金将・銀将・香車・飛車・角行・歩兵・銅将・横行・竪行・龍馬・龍王・獅子・奔王・反車・盲虎・麒麟・鳳凰・猛豹・醉象・仲人の21種類46枚(×2)
• 獲った駒は再使用できない。
• 鎌倉・鶴岡八幡宮境内の13~14世紀の遺構から「鳳凰」(裏が「奔王」)と書かれた駒が出土。
• 江戸時代になっても公家や一部の武家の間で行われていた。
• 明治時代維新後は衰退し、伝承が途絶えかけたが、京阪地方に細々と伝わっていたものを、戦後になって岡崎史明八段と大山康晴十五世名人が採録して保存。

(5)小将棋
• 盤=縦横9マス(81マス)
• 駒=玉将(または王将)・金将・銀将・桂馬・香車・飛車・角行・歩兵・醉象の9種類21枚(×2)
• 獲った駒は再使用できない。
• (2)の平安小将棋に類似しているが、いつ、どのように行われていたか不明。

3 近世~現代の将棋
(6)「本将棋」
• 盤=縦横9マス(81マス)
• 駒=玉将(または王将)・金将・銀将・桂馬・香車・飛車・角行・歩兵の8種類20枚(×2)
• 獲った相手の駒を持ち駒にして再使用可。
• 小将棋から「酔象」が無くなり、駒の再使用が可能になった形。
• 江戸時代初期にはほぼ現行ルールで行われていた。
(最古の棋譜は、1607年=慶長12)の先手大橋宗桂×後手本因坊算砂の対局)
---------------------------------------------------------------
平安の将棋駒「酔象」もあった…興福寺跡で出土
20131025-561195-1-N.jpg
興福寺旧境内から出土した、現代の将棋にはない駒「酔象」
奈良県立橿原考古学研究所は24日、現代の将棋にはない駒「酔象(すいぞう)」が、興福寺旧境内(奈良市)の平安時代の井戸から出土したと発表した。「承徳二年(1098年)」の年号を記した木簡も見つかり、これまで確認されていた室町時代より古い、国内最古の酔象の駒という。
酔象は木製で、縦2・5センチ、横1・5センチ、厚さ0・2センチ。裏は墨跡がなかった。将棋は、インドが起源とされ、平安時代には日本に伝わっていた。酔象は、現代の将棋より駒数の多い、鎌倉時代以降の「大将棋」や「中将棋」で指されたことが文献などでわかっているが、平安時代については知られていなかった。
20131025-561279-1-N.jpg 
将棋進化 僧侶の知恵 ルール作り「楽しみながら」
20131025-561208-1-L.jpg
興福寺旧境内から出土した将棋駒(赤外線写真)=奈良県立橿原考古学研究所提供
現代の将棋にはない、平安時代の駒「酔象(すいぞう)」が見つかったのは、興福寺(奈良市)の子院があった場所だった。酔象はこれまで鎌倉時代以降に使われたとされており、専門家は「僧侶が寺で楽しみながら将棋を発展させていたことを示す発見」とする。
奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査では、酔象と一緒に、「桂馬」と「歩兵」の駒も出土。裏にはいずれも「金」と書かれていた。両面とも文字が不明の駒も見つかった。これら計4枚は、現代の将棋と同じ五角形で木製だった。
約200メートル西では1993年、天喜六年(1058年)の木簡と一緒に最古の「玉将」や「金将」、「銀将」など15枚が出土。和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は「近接した場所でほぼ同時代の駒が見つかっており、興福寺で遊ばれたのだろう。中国・唐で学んだ留学僧が持ち帰ったのかもしれない」と推測する。
93年の調査では、「酔像」の文字が読み取れる木簡も出土し、平安時代の将棋に酔象があった可能性も指摘されていた。同研究所の鈴木一議(かずよし)主任研究員は「平安時代に酔象が使われていたことが今回の発見ではっきりした」と語る。
語源は不明で、平安時代の将棋で酔象がどのような役割だったかも、まだわかっていない。文献で指し方が確認されているのは、鎌倉時代の「大将棋」(駒130枚)や、室町~江戸時代に流行した「中将棋」(同92枚)。40枚で勝負する現代の将棋にはない多くの駒があり、なかでも、酔象はユニークな働きをする。

鈴木研究員は「最初に『玉』の真上や右横に並べられ、盤上を、真後ろ以外の7方向に一マスずつ動かすことが可能。相手の陣に入ると、『太子』になる」と解説。中将棋のルールでは、自分の玉が取られたあとも、太子が残っていれば勝負を続けられた。
古作登・大阪商業大アミューズメント産業研究所主任研究員(遊戯史)は「当時、寺院には知的階層が集まっており、将棋の工夫や改良が行われたのだろう。後世の大将棋、中将棋へ発展する先駆けだったのではないか」と話している。
調査は続いており、現地説明会はない。
『読売新聞』2013年10月25日
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20131025-OYO1T00323.htm
---------------------------------------------------------------
平安期の井戸跡から「酔象」の駒 奈良・興福寺の旧境内

「酔象」と記された将棋の駒=24日午前、奈良県橿原市、高橋一徳撮影

【塚本和人】奈良・興福寺の旧境内にあたる奈良市登大路(のぼりおおじ)町の平安時代の井戸跡で、通常の将棋と異なる形の「中(ちゅう)将棋」などで使われる「酔象(すいぞう)」の木製駒が見つかった。奈良県立橿原考古学研究所が24日発表した。酔象駒の過去の出土例を数百年さかのぼり、国内最古という。
駒は縦25ミリ、横15ミリ、厚さ2ミリの五角形で、裏面に文字は確認できなかった。合わせて桂馬1、歩兵1、文字の確認できないもの1の3点も出た。井戸跡は興福寺の子院・観禅院があった場所で、「承徳二年」(1098年)の年号を記した木簡も見つかった。
中将棋では、酔象は真後ろ以外に一つ動け、敵陣に入ると玉将と同じ働きの「太子」に成り、玉将が取られても勝負を継続できる。過去に酔象の駒は京都市南区の14世紀中ごろの集落遺跡、上久世城之内(かみくぜしろのうち)遺跡で見つかっている。
今回の調査地の西約200メートルの旧境内跡では1993年、1058年前後のものとみられる国内最古の駒15点が出土。酔象を指すと見られる「酔像」と墨書された木簡が一緒に見つかっていた。
将棋の起源は古代インドのゲームが東に伝わったとされる。将棋や囲碁の歴史に詳しい大阪商業大アミューズメント産業研究所の古作(こさく)登・主任研究員は「酔象は日本独自の駒。平安時代の寺院で従来の将棋に新しい駒を加える工夫が芽生え、外来文化を日本流にアレンジしたのかもしれない」と話す。
現地説明会や展示の予定はない。
    ◇
〈中将棋〉 海外から伝えられた日本の将棋には、駒の数に応じてルールが異なる「小将棋」「中将棋」「大将棋」があった。中将棋は「酔象」「獅子」「麒麟(きりん)」など、現代の将棋(8種類40枚)にはない駒を含めた21種類92枚を使い、敵駒の再使用はできない。南北朝・室町時代に流行したが、時間がかかり、勝負がなかなか決まらないため廃れたが、京阪神に伝わり、故・大山康晴十五世名人も小さい頃から指した。
『朝日新聞』2013年10月25日07時45分
http://digital.asahi.com/articles/OSK201310250007.html?_requesturl=articles/OSK201310250007.html&ref=comkiji_txt_end_s_kjid_OSK201310250007
---------------------------------------------------------------
興福寺旧境内、平安将棋の駒 酔象、使用裏付け 奈良
■「小将棋」あった可能性高まる
奈良市の興福寺旧境内で見つかった11世紀末(平安時代)の将棋の駒「酔象(すいぞう)」。現在主流の将棋では使われておらず、平安将棋の形も一部の文献に残されているだけで、その姿はベールに包まれていた。今回の発見で当時、少なくとも駒数40枚の現在の将棋に近い「小将棋」があった可能性が高まった。
 将棋は平安時代ごろに中国から日本にもたらされ、発展。鎌倉時代には駒数130枚の大将棋が行われ、その中に酔象があったことが判明している。
酔象は、玉将の前に配置された駒。真後ろを除く7方向に一マス動くことができる。相手のエリアに入って成(な)ると「太子(たいし)」に変わり、全方向に一マス動くことができる。
今回は酔象のほか、「桂馬」と「歩兵」の駒も見つかった。当時、興福寺の境内にあった子院(しいん)(塔頭)の観禅院(かんぜんいん)の井戸跡から棄てられた状態で出土した。同時に承徳(しょうとく)2(1098)年の年号を記した木簡が見つかり、時期を特定できた。
平安将棋の駒は極めて珍しく、最古の駒は、今回の発見現場から西約200メートルの興福寺旧境内で平成5年に見つかった天喜(てんき)6(1058)年の「玉将」「金将」「銀将」「桂馬」「歩兵」など15枚。今回よりも40年古い。
この時は酔象は出土しなかったが、同時に見つかった木簡に「酔像(すいぞう)(酔象)」の文字があり、平安将棋に酔象があったことが推測されていた。
橿原考古学研究所は「今回の発見で、酔象が実際に使われていたことが裏付けられた」としている。
橿考研では、平安時代の将棋などについて解説した辞典「二中歴(にちゅうれき)」の記述や、前回の興福寺旧境内の発掘成果をもとに、平安将棋の形を推測。
将棋盤のマスの数は不明だが、駒数が現在主流の将棋より2枚少ない「38枚制小将棋」(現在の将棋に酔象を加え、角行と飛車がない形)や、駒数が2枚多い「42枚制小将棋」(現在の将棋に酔象を加えた形)などが考えられるとしている。
「MSN産経ニュース」2013.10.26 02:24
http://sankei.jp.msn.com/region/news/131026/nar13102602240004-n1.htm

8月7日(水)今日の古代史(東大寺盧遮那大仏開眼会) [お仕事(古代史)]

8月7日(水)  晴れ  東京  34.5度  湿度48%(15時)
8時、起床。
朝食は、胡桃パンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒地に茶色と白の草花紋のロング・チュニック、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、大きな籠バック。
9時55分、家を出る。
今日は暑くなりそうだ。
東急東横線で自由が丘に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
今日から、いよいよ天平勝宝4年(752)4月9日の東大寺盧遮那大仏開眼会の条に入る。

まず、大仏の完成度について。
塗金作業に入ったのは3月14日のこと。
当時の金メッキ技術は、水銀に金を溶かした溶液(金アマルガム)を塗り、火で加熱して水銀を蒸発させ(有毒な水銀ガスが発生)、金だけを定着させるアマルガム法。
加熱時に有毒な水銀ガスが発生するので、換気も気を配らないと、技術者がバタバタ倒れかねず、作業能率は高くないと思われる。
この年は閏3月があるので、作業期間は7週間ということになるが、7週間ではせいぜい大仏の顔面を塗金するのが精一杯だったのではないだろうか。
つまり、大仏が完成したから開眼会を行ったのではないということ。
実際、この後、大仏の「鋳加」に天平勝宝7歳(755)までかかっている掛かっている。
(鋳加とは、鋳造時に溶銅がうまく回らず空洞が生じたりした箇所に再度銅を流し込んだり、銅板で補強したり、逆に銅がはみ出した部分を削ったりという補修作業)
その後、体部の表面を鑢(やすり)で平滑にする仕上げ作業を行い、塗金作業に入る。
さらに、巨大な光背が完成したのは、開眼から19年後の宝亀2年(771)だった。
天平勝宝4年に開眼会を行ったのは、もっぱら発願者である聖武上天皇の体調(余命)を考慮してのことと思われる。
太上天皇の余命は実際にはあと4年あったのだが、それは結果論で、昨年(天平勝宝3年)から今年の春にかけて「不予」(体調悪化)が続いていたことを考えれば、ぎりぎりの時期選択だったと思う。

次に、4月9日という日付のこと。
『続日本紀』は「乙酉」と干支のみを記すが、実際に9日に行われたことは、正倉院宝物の開眼法会に使用されたさまざまな物品に「四月九日」と記した木札が付けられているので確定できる。
予定では4月8日だったことは、聖武太上天皇が菩提(僊那)僧正に開眼導師を依頼する3月21日付の勅書(『東大寺要録』供養章収載)に「四月八日を以て、斎を東大寺に設け、盧舎那仏を供養せんとす」と明記されているので史料的に間違いない。
日本の仏教徒なら誰でも知っている(はず)ように、釈迦の生誕記念日は4月8日である。
(ただし、4月8日とするのは中国経由の北伝仏教で、南伝仏教では2月15日)
盧遮那仏=釈迦仏ではないが、やはり釈迦の「誕生会(灌仏会)」の4月8日が大仏開眼の日にふさわしいと考えられたのだろう。
ところが、それが4月9日になった。
なぜ一日延びたのか、ちゃんと理由を推測している解説は意外にない。
私の推測は「8日が雨だったから」。
開眼法会は、大仏こそ大仏殿に収まっているが、僧尼だけでも1万26人(万僧供)、孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇太后以下文武百官、実務を担当する下級官人まで含めれば1万1000人と推定される人々は、大仏殿の前庭の仮設テントや露天に参集していたわけで、雨では法会を行うことは不可能だったと思われる。
「雨天順延」なんてことは、あまりにも当たり前だから、偉い学者先生はそんなことは書かないのだろう。
でも、私みたいなチンピラ研究者には気になるのだ。

続いて、開眼導師菩提僊那は、はたして本当に大仏の目に墨を入れたのかということ。
東大寺には開眼会に用いた長さ65.2.cmの巨大な筆と、それに着けられた長さ200mにも及ぶ長大な縷(綱)が伝来している。
photo.jpg
いちばんに問題になるのは、大仏(座高16m)の目は高さ14mほどの所にあり、そこまでどうやって上るのかということ。
まず足場を組むという方法が考えられる。
実際、鎌倉再建の開眼会(文治元年=1185)では、開眼導師を務めた後白河法皇はかなり高いところまで上ったようだ。
だた、この方法だと、組まれた足場が邪魔になり、肝心の仏体が見えにくくなってしまう。
次に、なんらかの工夫をして開眼導師を引き上げる方法。
斉衡2年(855)に落下した仏頭を修復した貞観3年(861)の大会の際には、「仏師入籠轆轤引上乃点仏眼」(『日本三代実録』貞観3年3月14日条)とあり、仏師を籠に乗せて、ロープと轆轤で大仏の目の高さまで引き上げたらしい。
現代の高層ビルの窓拭きゴンドラを想像すればいいのかも。
すごい工夫だと思うが、同時にけっこうリスキーだと思う。
開眼導師菩提僊那も同じことをしたのだろうか?
不安定なゴンドラの上で、60cmもの大筆を扱うのはかなり危ない。
しかも筆につながった長大な綱は大仏との結縁を願う大勢の人たちが握っている。
ちょっと綱が引かれて導師がバランスを崩し落下・・・という悲惨な状況を想像してしまう。
そんな危険なことはせず、もっと安全な低い位置で菩提僧正が筆を動かす所作をして、その後、大仏のお顔の覆いを外すして、あらかじめ描き込んであった眼を見せるという形だったとする説もある。
どうも、世の中のイメージでは、菩提僧正が墨黒々と眼を描き込んだように思われているが、実際は「所作」「儀式」で十分だったのではないだろうか。

法会で演奏された音楽と舞踊については、また次回に。
12時、終了。
(続く)


7月17日(水)今日の古代史(新発見の突厥碑文) [お仕事(古代史)]

7月17日(水)  曇りのち雨  東京  29.1度  湿度61%(15時)
8時、起床。
朝食は、ソーセージとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
紺地に小花模様のチュニック(2分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、大きな籠バック。
9時55分、家を出る。
東急東横線で自由が丘に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
今朝の『朝日新聞』に出ていた新発見の突厥碑文の話をする。
日本古代史の範囲ではないが、私の関心事なので。
------------------------------------------------------------
モンゴルで遊牧民の巨大碑文発見 「我が土地よ、ああ」
『朝日新聞』2013年07月17日05時35分
OSK201307160167.jpg
碑文から採取された突厥文字の一部(右から左に向かって読む)。解読の結果、被葬者が故郷や部族との別れを惜しむ言葉が記されていた=大澤教授提供
OSK201307160139.jpg
碑文を調査するモンゴル人の研究員ら=大澤教授提供
OSK201307160138.jpg
碑文の発見場所
【編集委員・今井邦彦】8世紀中ごろのトルコ系遊牧民族「突厥(とっけつ)」の巨大な碑文をモンゴル東部の草原で発見した、と大阪大大学院の大澤孝教授(古代トルコ史)が16日発表した。中国の隋・唐の各帝国と時に対立し、時に結びながら中央アジアを支配した突厥の国家体制や制度を解明する貴重な史料となりそうだ。
大澤教授とモンゴル科学アカデミー考古学研究所は5月、ウランバートルの南東約400キロにあるデレゲルハーン山近郊のドンゴイン・シレーと呼ばれる遺跡で、それぞれ全長約4メートルと約3メートルの碑文の残片を発見した。計20行、2832文字の古代トルコ文字(突厥文字)が刻まれ、解読の結果、「我が家よ、ああ」「我が土地よ、ああ」など、死者が家族や故郷との別れを惜しむ文面だった。刻まれた部族の紋章から、突厥第2帝国(682~744年)の王家、アシナ氏の一員の墓碑とみられる。
突厥は、中央ユーラシアの遊牧民族で最も古くに独自の言語と文字を残した。著名な3大碑文(ビルゲ可汗〈カガン〉、キョルテギン、トニュクク)が19世紀末にモンゴル中部で見つかっているが、それらに匹敵する碑文の発見は約120年ぶり。大澤教授は「地中に埋まっている部分に被葬者の生前の事績が記されている可能性がある」と話す。
------------------------------------------------------------
まだ、完全に掘り起こされていないようだが、ずいぶん大きく立派な碑文で、突厥第二帝国(682~744年)の王家、アシナ(安史那)一族のしかも高位の人の墓碑だろう。
日本でいえば、白鳳~天平時代の遺物ということになる。

私の関心事のまず一つは、この碑文に記された突厥文字。
中国北方、モンゴル高原を中心とした遊牧騎馬国家は、漢を悩ませた匈奴も、やがて北中国に入り込んで隋・唐帝国につながる?鮮卑も独自の文字を持たなかった。
5世紀代に始まるとされる突厥文字は北東アジアの遊牧民が最初に持った文字であり、しかも圧倒的な影響力があった漢字(表意文字)に対して、発音の要素(母音・子音)を記号に置き換える音素文字だった。
この北東アジアにおける音素文字の系譜は、突厥文字のあと、ウイグル文字(8世紀)、契丹小字(10世紀)、女真小字(12世紀)、モンゴル文字(13世紀)、満州文字(16世紀)へと受け継がれていく。
日本の仮名(片仮名・平仮名 9世紀)は音節を1文字に置き換える音節文字で、しかも漢字起源であることははっきりしているので、この系列とは無関係だ。
で、位置づけが問題になるのは、現在、朝鮮語の表記に使われているハングル(訓民正音)。
朝鮮王朝の第4代世宗が1466年に制定した訓民正音は、「朝鮮民族の偉大な発明」とされているが、ほんとうにオリジナルなものだったのだろうか?
朝鮮王朝の王族は全州李氏ということになっているが、その祖李成桂(太祖)の出自については微妙なところがあり、女真族であるという説も根強くある。
王朝の始祖が女真族だとすると、訓民正音(ハングル)は女真文字の影響を受けている可能性があると思う。
ところで、日本人は突厥文字とは縁がなかったはずだが、北海道小樽市の手宮洞窟などに記されている「線刻画」(これを文字と考える人は「北海道異体文字」と言う)が突厥文字であるという説を考古学者の鳥居龍蔵(1870~1953年)が唱えている。
たしかに、雰囲気は似てなくもないが・・・・、やっぱり文字というより絵のように見える。

もう1つの関心事は、突厥が古代トルコ人が建てた最初の国家だということ。
トルコには「昔、中央アジアの草原に住んでいた仲の良い兄弟が、一人は西へ、一人は東へと別れた。西へ歩いて行ったのがトルコ人で、東に歩いて行ったのが日本人(の先祖)」という話があるらしい。
いかにも世界一の親日国トルコらしい説話だが、下の地図を見ると、そんな説話もまったくなくはないなと思えてくる。
ic.jpg
現在では広大なアジアの西端と東端に分かれているが、7世紀段階では、トルコ人と日本人はけっこう近所に住んでいたのだ。
そのこと、どれだけの日本人が知っているだろうか?
(オリンピックはイスタンブールに譲ろう!)
突厥碑文を日本人が発見したことで、そうしたトルコと日本の縁が広く知られることを願う。

後半は、『続日本紀』天平勝宝4年(752)3月~閏3月紀の講読。
次回はいよいよ「大仏開眼会」。
12時、終了。
(続く)


7月3日(水)今日の古代史(岡山市鹿田遺跡出土の奈良時代の絵馬) [お仕事(古代史)]

7月3日(水)   曇り  東京  27.4度  湿度69%(15時)
8時、起床。
朝食はダークチェリー・デニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
白地に黒のアニマル模様のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。
9時55分、家を出る。
東急東横線で自由が丘に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
まず、岡山市鹿田遺跡で出土した奈良時代の絵馬の話。
-----------------------------------------------------------
岡山の遺跡から国内最古の絵馬 「猿駒曳」と「牛」

岡山大埋蔵文化財調査研究センターは23日、同大鹿田キャンパスの医学部構内にある鹿田遺跡(岡山市北区鹿田町)で、奈良時代(8世紀後半)の井戸跡から、絵馬が2枚出土したと発表した。猿が馬を引く「猿駒曳(さるこまひき)」と「牛」の図柄で、どちらも国内最古の例。絵が描かれた絵馬が素焼きの土器と共に出土したと発表した。絵馬に願いを託すという今に続く習俗の起源に迫る貴重な発見だ。
絵馬は4月中旬、井戸跡から2枚重なった状態で見つかった。
「猿駒曳」は横23cm、縦12cmの木板に墨で描かれていたらしく、その跡が板の表面に白く残っていた。鞍などの馬具で飾られた馬と、手綱を持つ猿の姿が判別でき、本来は顔料などで彩色されていた可能性もあるという。
2013052323385361-1 (3).jpg
2013052323385361-2 (3).jpg
(上)「猿駒曳」の絵馬の現状 (下)復元
猿は馬の守り神との信仰を基に、現代まで描かれる「猿駒曳」だが現存最古の例は鎌倉時代(13世紀末)の戯画で、今回の例は約500年さかのぼる。

もう1枚の「牛」は横21・5cm、縦12・3cmの木板に描かれ。肉眼でもはっきり墨の線が見える。 これまでの絵馬に描かれた最古の牛は、静岡県で出土した9世紀の例だった。
2013052323385361-1 (4).jpg
2013052323385361-2 (4).jpg
(上)「牛」の絵馬の現状 (下)赤外線写真

絵馬は寺社に生きた馬を奉納する代わりに始まったとされ、奈良・平城京跡出土の8世紀前半例が最古。その後、有力な地方に伝わったとみられる。
同遺跡は、藤原摂関家の荘園「鹿田荘(しかたのしょう)」跡として知られ、同センターの山本悦世教授は「絵馬は、鹿田荘が単なる一地方ではなく、都との関係が非常に近い有力荘園だったことを示す資料になる」と話している。
重要な資料 古代の絵馬に詳しい次山淳富山大教授(考古学)の話
現代に続く猿駒曳信仰の起源を奈良時代まで大幅にさかのぼらせる極めて貴重な発見。古代の絵馬に牛が描かれているのも珍しい。2枚一緒に井戸から見つかっており、絵馬の使い方など当時の民俗を知る上でも重要な資料になる。
『山陽新聞』2013年5月24日
-----------------------------------------------------------
馬と猿との関係は、後白河法皇(1127~1192年)が治承年間(1177~1181)年に編纂した歌謡集『梁塵秘抄』に、「御馬屋の隅なる飼猿は 絆離れてさぞ遊ぶ 木に登り 常磐の山の楢柴は 風の吹くにぞ ちうとろ揺るぎて裏返る」(353番)と詠まれていて、「厩猿」の存在がわかる。
絵画では、鎌倉時代末期(1324~1326年頃)に成立した『石山寺縁起絵巻』には、厩につながれた猿が描かれている。
今回の発見は、そうした馬と猿の関係を奈良時代まで約400年遡らせるもので、両者の関係がかなり古くから密接だったことがわかる。
また、今回の発見から絵馬が井戸の祭祀に用いられたことが推定できる。
井戸の祭祀といえば、いちばん考えられるのは、日照りで井戸が枯れたときの雨乞いだろう。
平安時代には「祈雨」(雨乞い)に際しては黒馬を、「止雨」を祈るときには白馬を奉納した。
奉納されるのは、当初は生きた馬だったが、 次第に土馬や板絵馬になっていく。
土馬は奈良時代の祭祀遺跡から発見されているが、今回の発見で土馬と板絵馬が並行して用いられていた可能性が高くなった。
牛については、牛を殺して漢神に雨を祈る渡来系の「殺牛祭神」信仰との関係が注目される。
桓武天皇の延暦10年(791)9月16日 伊勢・尾張・近江・紀伊・若狭・越前國に対し百姓が牛を殺して漢神を祀ることを禁止したことが、『続日本紀』と『類聚三代格』に見える(同日太政官符「応禁制殺牛用祭漢神事」)。
この渡来系の祭祀は、平安時代最初期の桓武朝に現れるとされてきたが、さらに遡る可能性が出てきた。
ということで、とても興味深い発見だと思う。

残りの時間、『続日本紀』天平勝宝4年(752)正月~2月紀の講読。
12時、終了。
(続く)

藤原道長自筆の日記「御堂関白記」がユネスコ「記憶遺産」に [お仕事(古代史)]

6月19日(水)

京都の「陽明文庫」(藤原道長の子孫である近衛家の文庫)に所蔵されている藤原道長自筆の日記「御堂関白記」(国宝)が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に登録されることが決定した。
20642540389cde01e9a758cb7b6e0abc.jpg
陽明文庫の文庫長の名和先生の喜びはさぞやと思う。

3年前に、まったく無名の炭鉱記録画家の作品(山本作兵衛氏の筑豊の炭鉱画)に先を越された時には、国際日本文化研究センター「日記の総合的研究」共同研究会のメンバーはちょっとショックだった(ユネスコの価値基準がわからないという意味で)。
今回は、日本政府のイチ押しだから、まず大丈夫と思っていたが、よかった、よかった。

道長自筆の「御堂関白記」は、一条天皇の長徳4年(998)から後一条天皇の治安元年(1021)年のものまで断続的に14巻(1巻は半年分)残っている。
著名な人物の自筆の日記としては世界最古であり、当然の評価だと思う。
(ちなみに、無名人物の日記としては、正倉院文書の中に奈良時代の天平18年=746のものがある)

私が最初に「御堂関白記」の自筆本を陽明文庫で見せていただいたのは、大学院時代に山中裕先生の「『御堂関白記』講読会」の巡見で連れて行っていただいた時だった.
もう30年も前のことだが、その時の文庫長も名和先生だった。
その後も何度か機会があり、3年前にも藤原道長研究の第一人者である倉本一宏さん(国際日本文化研究センター教授)が主宰する「日記の総合的研究」共同研究会の巡見で、見せていただいた。
この時は、名和文庫長が裏書を見るため展示ケースを開けて巻子を裏返してくださり、その様子を傍で見ていて、とてもドキドキした。
国宝中の国宝をガラス越でなく目の当たりにする機会なんてめったにあることではなく感激だったが、同時に咳やくしゃみはもちろん、息すらできない感じで、かなり心臓に悪い。
TKY201306180709.jpg
文字の大きさや行詰め、変体漢文の文法や漢字の使い方、抹消や訂正の様子がリアルにわかるのも自筆本だからこそで、そこから道長の性格や日記を書いた時の心情などがうかがえる。
さらに、道長という人は、『小右記』の藤原実資や『権記』の藤原行成のように毎日長文の細かな日記を書くような性格の人ではなく、鷹揚と言うよりかなりずぼらな人であり、そういう性格の人が政権担当者(内覧・左大臣)としての職務を自覚して、かなり頑張って日記を書いていた(だから、初期においては、しばしば記述が中絶する)ことが伝わってくる。
本来、いい加減な三日坊主的性格の私が、がんばって日記を書き続けているのと、どこか通じるものがあり、親近感を覚えてしまう。
カルチャーセンターでも「御堂関白記」自筆本を読む講座を5年間やったし、私としても思い入れはけっこうある。

名和さんがおっしゃっているように、人類の文化遺産としての価値をよく理解して、次の世代にしっかり受け継いでいかなければならないと改めて思う。
----------------------------------------------------
「御堂関白記」記憶遺産に決定 陽明文庫長が喜び

歴史的に貴重な文書や絵画の保存を目指す国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に、陽明文庫(京都市右京区)所蔵の平安貴族藤原道長の日記「御堂関白記」(国宝)と、江戸時代の鎖国直前の日欧交渉を伝える、仙台市の「慶長遣欧使節関係資料」(同)の登録が19日決まった。記者会見した陽明文庫の名和修文庫長(75)は、「わが国の文化の素晴らしさを世界の人に知ってもらえる」と世界的な史料として認め
られた喜びを語った。

御堂関白記は、藤原氏による摂関政治の最盛期を築いた藤原道長(966~1027年)の自筆の日記。全36巻のうち、自筆は14巻が近衛家が設立した陽明文庫に残る。現存する自筆日記としては最古で、古い暦の一種「具注暦(ぐちゅうれき)」の余白に書き込まれている。現存分は998~1021年のもので、道長33歳から56歳までの記述がある。後世の写本12巻と合わせて1951年に国宝となった。

ユネスコは「世界最古の自筆日記であり、重要な歴史的人物の個人的記録」と指摘。「王朝文化が頂点に達した時代を活写した極めて重要な文書」とした。名和文庫長は「今後世界各国から注目を浴びる。この先千年伝え残すのがわれわれに課された義務だ」と話した。今回登録された記憶遺産は、日本の2件を含め計54件。
『京都新聞』2013年6月19日(水)20時39分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130619-00000000-kyt-l26
----------------------------------------------------
焼失の危機、何度も乗り越え 御堂関白記、記憶遺産に
20130619-00000010-asahi-000-1-view.jpg
写真:世界記憶遺産の登録が決まった藤原道長の日記「御堂関白記」を手にする陽明文庫の名和修文庫長
=京都市右京区、戸村登撮影

【筒井次郎、大村治郎】この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば――。権勢を誇った和歌で知られる平安貴族、藤原道長(966~1027)の日記「御堂関白記(みどうかんぱくき)」(国宝)が、世界記憶遺産に登録されることになった。朗報に、関係者らは喜びの声を上げた。

「千年間守られた日本の文化が、世界に知ってもらえた」。御堂関白記を収蔵する「陽明(ようめい)文庫」=京都市右京区=の文庫長、名和(なわ)修さん(75)は喜んだ。

平安貴族の藤原氏とその直系の五摂家筆頭・近衛家の宝物十数万点を管理する歴史資料館として、首相を務めた近衛文麿が1938年に設立した。

文麿の親族と縁があった表具師の父が、文庫設立時から古文書の修理などを担当。名和さんは同志社大の夜間部に入った56年、文庫に就職。「文庫のできた年に生まれ、文庫のために生きてきた」

関白記を収めた書庫は鉄筋コンクリート高床土蔵造り。天井や壁面はすべて桐(きり)材だ。「文化財は保存するだけでは意味がない。文化的な貢献が大事だ」と年間600~700人の見学者を受け入れ、博物館での展示にも協力してきた。

関白記はかつて焼失の危機があった。15世紀の応仁の乱で近衛家の邸宅は乱入した軍勢によって焼き払われたが、日記は別の場所に移され無事だった。17世紀の大火では書庫に延焼。数人が大急ぎで中に入って日記を運び出したという。

「今までの人々の奮迅の働きがなければ、今日の姿はない。いつまでも伝え残そうとする心が日本の文化。それが認められたのが極めて喜ばしい」

関白記を東大の学生時代から研究し、全現代語訳を出した国際日本文化研究センター(京都市西京区)の倉本一宏教授(55)は指摘する。「欧米にも中国にもこの時期の日記は残っていない。権力者の自筆の日記が残っていることは奇跡だ」

関白記は古写本も含め、道長が33~56歳のころ、998~1021年の公私にわたる出来事を記している。「権力を持っているのに小心者。感激家でよく泣いた。自分にしっぽをふる人間には優しいが、敵対する者には冷たかった。田中角栄さんのようなタイプだったんでしょう」

『朝日新聞』2013年6月19日8時22分
http://www.asahi.com/culture/update/0619/OSK201306180204.html

平城京、水銀汚染痕なし 大仏建立で中毒説、退ける [お仕事(古代史)]

5月29日(水)
古代における塗金は、金や銀を水銀に溶かして銅や銅合金に塗り、その後で熱を加えて水銀を蒸発させ、金や銀を定着させる「水銀アマルガム」法だった。
奈良時代中期、東大寺の大仏造営、とりわけ塗金作業において、大量の水銀が使用され、それが環境を汚染し、水銀中毒が広がり、延暦3年(784)平城棄都=長岡遷都につながったという説は、杉山二郎『大仏以後』(1987年、学生社)が提唱して以来、けっこうもっともらしい説として、一部の人に信奉されていた。
私は、平城棄都=長岡遷都の理由を政治と仏教の分離に求める論文(「早良親王と長岡遷都」)を書いているので、水銀環境汚染説はとらなかったが、若干は影響があったかな?程度には思っていた。

今回の調査結果は、水銀による環境汚染は定性的にはあったものの、定量的にはほとんど問題にならない程度だったことを明らかにしたもので、これで水銀環境汚染説はほぼ成り立たなくなった。

むしろ、環境汚染としては鉛の方が重大だった可能性がある。
鉛汚染についての調査例がさらに増えることを期待したい。
------------------------------------------------------------
平城京、水銀汚染痕なし 大仏建立で中毒説、退ける   

『朝日新聞』2013年05月29日 東京 夕刊 環境

8世紀に都がおかれた平城京(奈良市)が74年間という短命で終わったのは、大仏建立時に使われた水銀による汚染のため? 近年広まっているこの学説について、東京大などが当時の土壌を調べたところ、水銀汚染は見つからなかった。23日、千葉市で開かれた日本地球惑星科学連合大会で発表された。

平城京には710年から都がおかれ、聖武天皇による大仏建立など仏教文化が花開いたが、784年には長岡京(京都府)に遷都した。大仏建立時に使った金めっきに大量の水銀が含まれていたことから、水銀中毒が広かったためという指摘があった。

東大大気海洋研究所の川幡穂高教授が奈良文化財研究所などの協力を得て、平城京のあった奈良市内や周辺4カ所の当時の土壌を採取し分析した。すると水銀については、大仏建造時に数倍増えているものの、現代の環境水準(15ppm以下)よりい大幅に低い0.25ppm前後にとどまっていることがわかった。
 
一方、8世紀中頃の土壌から最大で1200ppmの鉛が見つかった。これは現代の環境基準(150ppm)の8倍にあたる。平城宮から10km離れた地点でも高濃度の鉛が見つかっており、汚染は周辺にも及んでいたと見られる。これらの鉛は同位体の分析の結果、大仏に使われた銅と同じ長登(ながのぼり)鉱山(山口県)で採掘されたものとほぼ断定できた。

川幡さんは「水銀汚染で都を放棄したという説は退けられる。鉛汚染は、詳細な調査が必要だが、健康に影響のないレベル。白色や朱色の顔料として当時広く使われていた鉛白、鉛丹の影響ではないか」と話している。(香取啓介)

前の10件 | 次の10件 お仕事(古代史) ブログトップ