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7月3日(水)今日の古代史(岡山市鹿田遺跡出土の奈良時代の絵馬) [お仕事(古代史)]

7月3日(水)   曇り  東京  27.4度  湿度69%(15時)
8時、起床。
朝食はダークチェリー・デニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
白地に黒のアニマル模様のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。
9時55分、家を出る。
東急東横線で自由が丘に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
まず、岡山市鹿田遺跡で出土した奈良時代の絵馬の話。
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岡山の遺跡から国内最古の絵馬 「猿駒曳」と「牛」

岡山大埋蔵文化財調査研究センターは23日、同大鹿田キャンパスの医学部構内にある鹿田遺跡(岡山市北区鹿田町)で、奈良時代(8世紀後半)の井戸跡から、絵馬が2枚出土したと発表した。猿が馬を引く「猿駒曳(さるこまひき)」と「牛」の図柄で、どちらも国内最古の例。絵が描かれた絵馬が素焼きの土器と共に出土したと発表した。絵馬に願いを託すという今に続く習俗の起源に迫る貴重な発見だ。
絵馬は4月中旬、井戸跡から2枚重なった状態で見つかった。
「猿駒曳」は横23cm、縦12cmの木板に墨で描かれていたらしく、その跡が板の表面に白く残っていた。鞍などの馬具で飾られた馬と、手綱を持つ猿の姿が判別でき、本来は顔料などで彩色されていた可能性もあるという。
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(上)「猿駒曳」の絵馬の現状 (下)復元
猿は馬の守り神との信仰を基に、現代まで描かれる「猿駒曳」だが現存最古の例は鎌倉時代(13世紀末)の戯画で、今回の例は約500年さかのぼる。

もう1枚の「牛」は横21・5cm、縦12・3cmの木板に描かれ。肉眼でもはっきり墨の線が見える。 これまでの絵馬に描かれた最古の牛は、静岡県で出土した9世紀の例だった。
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(上)「牛」の絵馬の現状 (下)赤外線写真

絵馬は寺社に生きた馬を奉納する代わりに始まったとされ、奈良・平城京跡出土の8世紀前半例が最古。その後、有力な地方に伝わったとみられる。
同遺跡は、藤原摂関家の荘園「鹿田荘(しかたのしょう)」跡として知られ、同センターの山本悦世教授は「絵馬は、鹿田荘が単なる一地方ではなく、都との関係が非常に近い有力荘園だったことを示す資料になる」と話している。
重要な資料 古代の絵馬に詳しい次山淳富山大教授(考古学)の話
現代に続く猿駒曳信仰の起源を奈良時代まで大幅にさかのぼらせる極めて貴重な発見。古代の絵馬に牛が描かれているのも珍しい。2枚一緒に井戸から見つかっており、絵馬の使い方など当時の民俗を知る上でも重要な資料になる。
『山陽新聞』2013年5月24日
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馬と猿との関係は、後白河法皇(1127~1192年)が治承年間(1177~1181)年に編纂した歌謡集『梁塵秘抄』に、「御馬屋の隅なる飼猿は 絆離れてさぞ遊ぶ 木に登り 常磐の山の楢柴は 風の吹くにぞ ちうとろ揺るぎて裏返る」(353番)と詠まれていて、「厩猿」の存在がわかる。
絵画では、鎌倉時代末期(1324~1326年頃)に成立した『石山寺縁起絵巻』には、厩につながれた猿が描かれている。
今回の発見は、そうした馬と猿の関係を奈良時代まで約400年遡らせるもので、両者の関係がかなり古くから密接だったことがわかる。
また、今回の発見から絵馬が井戸の祭祀に用いられたことが推定できる。
井戸の祭祀といえば、いちばん考えられるのは、日照りで井戸が枯れたときの雨乞いだろう。
平安時代には「祈雨」(雨乞い)に際しては黒馬を、「止雨」を祈るときには白馬を奉納した。
奉納されるのは、当初は生きた馬だったが、 次第に土馬や板絵馬になっていく。
土馬は奈良時代の祭祀遺跡から発見されているが、今回の発見で土馬と板絵馬が並行して用いられていた可能性が高くなった。
牛については、牛を殺して漢神に雨を祈る渡来系の「殺牛祭神」信仰との関係が注目される。
桓武天皇の延暦10年(791)9月16日 伊勢・尾張・近江・紀伊・若狭・越前國に対し百姓が牛を殺して漢神を祀ることを禁止したことが、『続日本紀』と『類聚三代格』に見える(同日太政官符「応禁制殺牛用祭漢神事」)。
この渡来系の祭祀は、平安時代最初期の桓武朝に現れるとされてきたが、さらに遡る可能性が出てきた。
ということで、とても興味深い発見だと思う。

残りの時間、『続日本紀』天平勝宝4年(752)正月~2月紀の講読。
12時、終了。
(続く)
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