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8月7日(水)今日の古代史(東大寺盧遮那大仏開眼会) [お仕事(古代史)]

8月7日(水)  晴れ  東京  34.5度  湿度48%(15時)
8時、起床。
朝食は、胡桃パンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒地に茶色と白の草花紋のロング・チュニック、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、大きな籠バック。
9時55分、家を出る。
今日は暑くなりそうだ。
東急東横線で自由が丘に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
今日から、いよいよ天平勝宝4年(752)4月9日の東大寺盧遮那大仏開眼会の条に入る。

まず、大仏の完成度について。
塗金作業に入ったのは3月14日のこと。
当時の金メッキ技術は、水銀に金を溶かした溶液(金アマルガム)を塗り、火で加熱して水銀を蒸発させ(有毒な水銀ガスが発生)、金だけを定着させるアマルガム法。
加熱時に有毒な水銀ガスが発生するので、換気も気を配らないと、技術者がバタバタ倒れかねず、作業能率は高くないと思われる。
この年は閏3月があるので、作業期間は7週間ということになるが、7週間ではせいぜい大仏の顔面を塗金するのが精一杯だったのではないだろうか。
つまり、大仏が完成したから開眼会を行ったのではないということ。
実際、この後、大仏の「鋳加」に天平勝宝7歳(755)までかかっている掛かっている。
(鋳加とは、鋳造時に溶銅がうまく回らず空洞が生じたりした箇所に再度銅を流し込んだり、銅板で補強したり、逆に銅がはみ出した部分を削ったりという補修作業)
その後、体部の表面を鑢(やすり)で平滑にする仕上げ作業を行い、塗金作業に入る。
さらに、巨大な光背が完成したのは、開眼から19年後の宝亀2年(771)だった。
天平勝宝4年に開眼会を行ったのは、もっぱら発願者である聖武上天皇の体調(余命)を考慮してのことと思われる。
太上天皇の余命は実際にはあと4年あったのだが、それは結果論で、昨年(天平勝宝3年)から今年の春にかけて「不予」(体調悪化)が続いていたことを考えれば、ぎりぎりの時期選択だったと思う。

次に、4月9日という日付のこと。
『続日本紀』は「乙酉」と干支のみを記すが、実際に9日に行われたことは、正倉院宝物の開眼法会に使用されたさまざまな物品に「四月九日」と記した木札が付けられているので確定できる。
予定では4月8日だったことは、聖武太上天皇が菩提(僊那)僧正に開眼導師を依頼する3月21日付の勅書(『東大寺要録』供養章収載)に「四月八日を以て、斎を東大寺に設け、盧舎那仏を供養せんとす」と明記されているので史料的に間違いない。
日本の仏教徒なら誰でも知っている(はず)ように、釈迦の生誕記念日は4月8日である。
(ただし、4月8日とするのは中国経由の北伝仏教で、南伝仏教では2月15日)
盧遮那仏=釈迦仏ではないが、やはり釈迦の「誕生会(灌仏会)」の4月8日が大仏開眼の日にふさわしいと考えられたのだろう。
ところが、それが4月9日になった。
なぜ一日延びたのか、ちゃんと理由を推測している解説は意外にない。
私の推測は「8日が雨だったから」。
開眼法会は、大仏こそ大仏殿に収まっているが、僧尼だけでも1万26人(万僧供)、孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇太后以下文武百官、実務を担当する下級官人まで含めれば1万1000人と推定される人々は、大仏殿の前庭の仮設テントや露天に参集していたわけで、雨では法会を行うことは不可能だったと思われる。
「雨天順延」なんてことは、あまりにも当たり前だから、偉い学者先生はそんなことは書かないのだろう。
でも、私みたいなチンピラ研究者には気になるのだ。

続いて、開眼導師菩提僊那は、はたして本当に大仏の目に墨を入れたのかということ。
東大寺には開眼会に用いた長さ65.2.cmの巨大な筆と、それに着けられた長さ200mにも及ぶ長大な縷(綱)が伝来している。
photo.jpg
いちばんに問題になるのは、大仏(座高16m)の目は高さ14mほどの所にあり、そこまでどうやって上るのかということ。
まず足場を組むという方法が考えられる。
実際、鎌倉再建の開眼会(文治元年=1185)では、開眼導師を務めた後白河法皇はかなり高いところまで上ったようだ。
だた、この方法だと、組まれた足場が邪魔になり、肝心の仏体が見えにくくなってしまう。
次に、なんらかの工夫をして開眼導師を引き上げる方法。
斉衡2年(855)に落下した仏頭を修復した貞観3年(861)の大会の際には、「仏師入籠轆轤引上乃点仏眼」(『日本三代実録』貞観3年3月14日条)とあり、仏師を籠に乗せて、ロープと轆轤で大仏の目の高さまで引き上げたらしい。
現代の高層ビルの窓拭きゴンドラを想像すればいいのかも。
すごい工夫だと思うが、同時にけっこうリスキーだと思う。
開眼導師菩提僊那も同じことをしたのだろうか?
不安定なゴンドラの上で、60cmもの大筆を扱うのはかなり危ない。
しかも筆につながった長大な綱は大仏との結縁を願う大勢の人たちが握っている。
ちょっと綱が引かれて導師がバランスを崩し落下・・・という悲惨な状況を想像してしまう。
そんな危険なことはせず、もっと安全な低い位置で菩提僧正が筆を動かす所作をして、その後、大仏のお顔の覆いを外すして、あらかじめ描き込んであった眼を見せるという形だったとする説もある。
どうも、世の中のイメージでは、菩提僧正が墨黒々と眼を描き込んだように思われているが、実際は「所作」「儀式」で十分だったのではないだろうか。

法会で演奏された音楽と舞踊については、また次回に。
12時、終了。
(続く)


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