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12月18日(水)今日の古代史(弥生時代の製鉄炉・飛鳥寺西方遺跡) [お仕事(古代史)]

12月18日(水)  曇りのち雨  東京  8.8度  湿度55%(15時)

8時、起床。
朝食は、りんごデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
多色使いの植物柄のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黄色のウールのポンチョ。
9時55分、家を出る。
どんより重い曇り空だが、まだ雨は降っていない。
東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
まず、考古学の話題から。
1つ目は長崎県壱岐市の弥生時代の環濠集落カラカミ遺跡から、国内で初めて鉄生産用の地上炉跡が発見されたニュース。
鉄器は紀元前3世紀頃 、青銅器とほぼ同時期に日本へ伝来したが、当初は製鉄技術がなく製品が輸入されていたと思われる。
鉄生産用の地上炉は、岡山県総社市の千引かなくろ谷遺跡で発見された6世紀後半の製鉄炉跡4基、製鉄窯跡3基が最も古いとされていたので、今回のカラカミ遺跡の発見が地上炉と確定すれば、日本における本格的な鉄器生産の開始が一気に300~500年も遡上することになる。
まあ、朝鮮半島南部で行われていたことが、一衣帯水の北九州に何百年間も伝来しないことの方がおかしい。
まして弥生時代末期から古墳時代前期にかけて倭国は朝鮮半島南部の鉄資源(「任那の鉄」)を掌握しようとしていたわけで、壱岐島から初期の鉄生産遺構が出土したのは、むしろ当然だろう。
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鉄生産の地上炉跡、国内初確認…長崎・壱岐市
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地上炉跡付近を右手で示す壱岐市学芸員(14日、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡で)
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長崎県壱岐市教委は14日、同市の弥生時代の環濠(かんごう)集落カラカミ遺跡で、国内で初めて鉄生産用の地上炉跡が複数見つかった、と発表した。
弥生時代では明確に確認されていない精錬炉跡の可能性があるとしている。専門家によると、日本で精錬が始まったのは6世紀後半とされており、従来の定説の見直しにつながる可能性もあるという。
市教委によると、炉跡は少なくとも6基あり、竪穴住居跡の中で見つかった。弥生時代後期(紀元1~3世紀)の複数の時期のもので、床面に直径約80センチの範囲で焼土塊が広がっており、床面に直接炉を築く地上式とみられる。炉に風を送るふいごの一部や棒状の鉄素材も出土している。
これまで国内各地で確認されている鍛冶炉は地面に穴を掘ったものだが、今回は韓国南部の遺跡などにみられる精錬炉跡に似ているという。
市教委は「カラカミ遺跡では鉄素材が多く出土していることからも、精錬炉だった可能性がある」と指摘。朝鮮半島から1次素材を輸入し、本土へ鉄を供給する中継交易拠点だったと推測している。
カラカミ遺跡は、「魏志倭人伝」に記された「一支国(いきこく)」の王都とされる「原(はる)の辻(つじ)遺跡」(国特別史跡)とともに、一支国を構成する集落と位置づけられている。
『読売新聞』2013年12月15日(日)11時13分配信
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20131214-OYT1T00733.htm
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もう1つは、奈良県明日香村の飛鳥寺西方遺跡から焼け土が入った大きな柱穴が13個発見されたというニュース。
飛鳥寺西方遺跡からは、今までの調査で広大な(東西120m×南北200m?)石敷き広場が発見されていて、『日本書紀』で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が初めて出会った「槻(つき)の木の広場」とされるている。
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この場所には「壬申の乱」の時、近江朝廷(大友皇子)方の陣地が置かれ、それを大海人皇子(後の天武天皇)方の軍勢が襲撃して陣地を奪ったことが『日本書紀』に見えるので、今回発見の柱穴は、その時の「陣地」の建物や塀の跡かもしれないという話。
飛鳥のこのエリアは、長年、発掘調査を重ねて広域の様子が景観的に復元できるようになってきている。
さらに古代史の実相が明らかになることを期待したい。
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「槻の木の広場」に穴13個発見 奈良・飛鳥寺西方遺跡
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飛鳥寺西方遺跡の地図
【塚本和人】大化改新の立役者、中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蹴鞠(けまり)を通じて初めて出会った「槻(つき)の木の広場」とされる奈良県明日香村の飛鳥寺西方(せいほう)遺跡で、石組み溝に平行して並ぶ13個の穴が見つかった。村教委が11日発表した。塀や建物の柱穴の可能性があり、近江に遷都後の防衛拠点の建物ではとの見方も出ている。
村教委は昨年度、飛鳥寺の西方で石畳が広範囲に広がる遺構を発掘。今年度、その西側で東西約25メートル、幅1・3メートルに石を敷き詰め、排水溝の可能性がある石組み溝(深さ約15センチ)が見つかり、溝の約6・5メートル北で東西方向に13個の穴(直径約0・3~1・2メートル)が2・4~2・7メートルの間隔で並んでいた。穴を埋めた土には焼けた痕跡を確認。村教委は、塀や建物などが燃えて埋め戻された後に砂利が敷かれたとみている。
和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(日本古代史)は穴列について、中大兄皇子が667年に近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都後、飛鳥の防衛拠点として置かれた「留守司(とどまりまもるつかさ)」の建物だった可能性を指摘。「初めてその一部が見えてきたのかもしれない」と話す。
『朝日新聞』2013年12月11日21時36分
http://www.asahi.com/articles/OSK201312110113.html
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残りの時間、『続日本紀』巻18、天平勝宝4年(752)10~12月条の講読。
巻18を読了。
12時、終了。
(続く)
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