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12月23日(月・祝)今日の古代史(征討軍の大敗) [お仕事(古代史)]

12月23日(月・祝)  曇り  東京  8.1度  湿度41%
8時、起床。
1時間ほど寝過ごす。
2日続きの寝坊。どうもおかしいな。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
大急ぎで化粧と身支度。
紺地に白い雲のような模様のロング・チュニック、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、ボア襟の黒のカシミアのポンチョ。
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に乗り入れ新宿三丁目駅へ。
殺風景な地下道を歩いて新宿駅東南口へ。
JR中央線快速に乗換え、10時08分、吉祥寺駅に到着。
時間調整を兼ねて駅前(南口)の「ドトール」で、朝食(サンドイッチとコーヒー)。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
5月から続いている「桓武朝の『蝦夷征討』」の7回目。
『続日本紀』延暦8年(789)6月甲戌(3日)条を読んで、地図を使って解説。
いよいよ蝦夷の本拠地「胆澤」攻略を目指す征討軍(律令政府軍)と蝦夷軍が激突。
持節征東大使紀古佐美率いる征討軍は、衣川営(現:岩手県平泉町の中尊寺のある丘=関山、もしくは関山の北を西から東に流れる衣川を渡った地点)を出て、北上川西岸を北に進み、軍を3つに分け(前・中・後軍)、時を合わせて北上川本流を西から東に渡河。
中・後軍(各2000人、計4000人)は、北上川東岸を北上。
しかし、前軍は蝦夷勢に遮られて渡岸できない)。
蝦夷の本拠地に至る頃、蝦夷軍300人が現れて戦闘になるも、征討軍はこれを突破。
退却する蝦夷軍を追い、蝦夷の村に火を放ちながら北へ進む。
ところが、巣伏村付近で、優勢な蝦夷軍800人に前方を塞がれ激戦となり、征討軍は苦戦。
退却しようとした時、東の山から蝦夷軍の伏兵400人が出現し、前後を挟み撃ちにされ、征討軍は総崩れとなり、西に追われて次々に北上川に追い落とされる。
結果は、戦死25、溺死1036人、負傷245人、甲冑を脱ぎ捨て裸で泳ぎ着た者1257人。
別将丈部(はせつかべ)善理以下、名のある者5名が戦死。
征討軍は戦闘に参加した中・後軍4000人の内、2563人(64%)が戦闘能力を失うという大敗北を喫する。
延暦2年頃から6年の準備を重ね、桓武天皇が「坂東の安危、この一挙にあり」と檄を飛ばした征討作戦は頓挫してしまう。

征討軍は推定6000人、それに対して蝦夷軍は推定2000人ほど。
寡兵の蝦夷勢はまず渡岸する征討軍を分断し、まず300人が囮となって退却し、征討軍を誘い込む。
そして、深追いした征討軍を地の利と伏兵を使って挟撃し川に追い落とすという見事な作戦。
胆澤の蝦夷軍を率いる族長阿弖流爲(あてるい)の史書への鮮烈な登場だった。

問題は、戦闘が行われた場所がどこか?ということ。
まず、どの地点渡河したのかが判らない。
渡河に適した地点は限られるだろうが・・・。
次に、激戦地の「巣伏村」の場所が判らない。
この地域、北上川は胆沢盆地の東を流れ、東岸は山裾が迫ってほとんど平地が無い。
旧江刺市愛宕地区(現:奥州市江刺区愛宕)まで北上すれば平地があるが、北に行き過ぎる感がある(衣川の対岸から約20km)。
旧江刺市黒石町付近だと、約10km強いで距離的にはイメージに合う。
何度も読んでいる史料だが、具体的に地図の上にイメージしようとすると、判らないことだらけ。
12時、終了。
(続く)

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