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7月17日(水)今日の古代史(新発見の突厥碑文) [お仕事(古代史)]

7月17日(水)  曇りのち雨  東京  29.1度  湿度61%(15時)
8時、起床。
朝食は、ソーセージとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
紺地に小花模様のチュニック(2分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、大きな籠バック。
9時55分、家を出る。
東急東横線で自由が丘に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
今朝の『朝日新聞』に出ていた新発見の突厥碑文の話をする。
日本古代史の範囲ではないが、私の関心事なので。
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モンゴルで遊牧民の巨大碑文発見 「我が土地よ、ああ」
『朝日新聞』2013年07月17日05時35分
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碑文から採取された突厥文字の一部(右から左に向かって読む)。解読の結果、被葬者が故郷や部族との別れを惜しむ言葉が記されていた=大澤教授提供
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碑文を調査するモンゴル人の研究員ら=大澤教授提供
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碑文の発見場所
【編集委員・今井邦彦】8世紀中ごろのトルコ系遊牧民族「突厥(とっけつ)」の巨大な碑文をモンゴル東部の草原で発見した、と大阪大大学院の大澤孝教授(古代トルコ史)が16日発表した。中国の隋・唐の各帝国と時に対立し、時に結びながら中央アジアを支配した突厥の国家体制や制度を解明する貴重な史料となりそうだ。
大澤教授とモンゴル科学アカデミー考古学研究所は5月、ウランバートルの南東約400キロにあるデレゲルハーン山近郊のドンゴイン・シレーと呼ばれる遺跡で、それぞれ全長約4メートルと約3メートルの碑文の残片を発見した。計20行、2832文字の古代トルコ文字(突厥文字)が刻まれ、解読の結果、「我が家よ、ああ」「我が土地よ、ああ」など、死者が家族や故郷との別れを惜しむ文面だった。刻まれた部族の紋章から、突厥第2帝国(682~744年)の王家、アシナ氏の一員の墓碑とみられる。
突厥は、中央ユーラシアの遊牧民族で最も古くに独自の言語と文字を残した。著名な3大碑文(ビルゲ可汗〈カガン〉、キョルテギン、トニュクク)が19世紀末にモンゴル中部で見つかっているが、それらに匹敵する碑文の発見は約120年ぶり。大澤教授は「地中に埋まっている部分に被葬者の生前の事績が記されている可能性がある」と話す。
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まだ、完全に掘り起こされていないようだが、ずいぶん大きく立派な碑文で、突厥第二帝国(682~744年)の王家、アシナ(安史那)一族のしかも高位の人の墓碑だろう。
日本でいえば、白鳳~天平時代の遺物ということになる。

私の関心事のまず一つは、この碑文に記された突厥文字。
中国北方、モンゴル高原を中心とした遊牧騎馬国家は、漢を悩ませた匈奴も、やがて北中国に入り込んで隋・唐帝国につながる?鮮卑も独自の文字を持たなかった。
5世紀代に始まるとされる突厥文字は北東アジアの遊牧民が最初に持った文字であり、しかも圧倒的な影響力があった漢字(表意文字)に対して、発音の要素(母音・子音)を記号に置き換える音素文字だった。
この北東アジアにおける音素文字の系譜は、突厥文字のあと、ウイグル文字(8世紀)、契丹小字(10世紀)、女真小字(12世紀)、モンゴル文字(13世紀)、満州文字(16世紀)へと受け継がれていく。
日本の仮名(片仮名・平仮名 9世紀)は音節を1文字に置き換える音節文字で、しかも漢字起源であることははっきりしているので、この系列とは無関係だ。
で、位置づけが問題になるのは、現在、朝鮮語の表記に使われているハングル(訓民正音)。
朝鮮王朝の第4代世宗が1466年に制定した訓民正音は、「朝鮮民族の偉大な発明」とされているが、ほんとうにオリジナルなものだったのだろうか?
朝鮮王朝の王族は全州李氏ということになっているが、その祖李成桂(太祖)の出自については微妙なところがあり、女真族であるという説も根強くある。
王朝の始祖が女真族だとすると、訓民正音(ハングル)は女真文字の影響を受けている可能性があると思う。
ところで、日本人は突厥文字とは縁がなかったはずだが、北海道小樽市の手宮洞窟などに記されている「線刻画」(これを文字と考える人は「北海道異体文字」と言う)が突厥文字であるという説を考古学者の鳥居龍蔵(1870~1953年)が唱えている。
たしかに、雰囲気は似てなくもないが・・・・、やっぱり文字というより絵のように見える。

もう1つの関心事は、突厥が古代トルコ人が建てた最初の国家だということ。
トルコには「昔、中央アジアの草原に住んでいた仲の良い兄弟が、一人は西へ、一人は東へと別れた。西へ歩いて行ったのがトルコ人で、東に歩いて行ったのが日本人(の先祖)」という話があるらしい。
いかにも世界一の親日国トルコらしい説話だが、下の地図を見ると、そんな説話もまったくなくはないなと思えてくる。
ic.jpg
現在では広大なアジアの西端と東端に分かれているが、7世紀段階では、トルコ人と日本人はけっこう近所に住んでいたのだ。
そのこと、どれだけの日本人が知っているだろうか?
(オリンピックはイスタンブールに譲ろう!)
突厥碑文を日本人が発見したことで、そうしたトルコと日本の縁が広く知られることを願う。

後半は、『続日本紀』天平勝宝4年(752)3月~閏3月紀の講読。
次回はいよいよ「大仏開眼会」。
12時、終了。
(続く)


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