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12月4日(水)今日の古代史(多賀城・平安京運河・赤玉) [お仕事(古代史)]

12月4日(水)  晴れのち曇り  東京  14.5度  湿度61%(15時)

8時、起床。
朝食は、りんごデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
青基調に大小の楕円模様のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黄色のウールのポンチョ。
9時55分、家を出る。
昨日あたりから腰が重く、左の脹脛にときどき痛みが走る。
まずいなぁ。
コンビニで配布資料のコピー。
東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
まず、考古学の話題から。
律令国家の東北経営の拠点多賀城跡(宮城県多賀城市)で材木塀が発見される。
場所は正庁がある丘陵の南の裾の低湿地。
既に発見されていた八脚門と材木塀で創建期(奈良時代初期・神亀年間)の南外廓線を構成すると推定される。
従来の南外廓線は多賀城碑(壺の碑)がある小丘陵を通っているが、これは奈良時代中期(天平宝字年間)の大規模改修によって南に拡大された結果と思われる。
今まで外廓線の背後に低湿地があるのは防衛構想的に不自然と思っていたが、当初は低湿地+材木塀で防衛線を設定していたことになり納得。
おそらく、軍事的な城柵としての防衛機能よりも、陸奥国府としての威容を整えることを重視して見栄えの良い小丘陵上に南門をもってきたのだろう。
そして、宝亀11年(780)の伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の大反乱で多賀城は抵抗することもなく落城してしまう、
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「多賀城」に材木塀跡 創建時の外郭、明らかに
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発掘された材木塀の跡。指し示しているのが材木
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宮城県多賀城市の国特別史跡多賀城跡を発掘調査している宮城県多賀城跡調査研究所は24日、政庁の南側で材木塀の跡が見つかったと発表した。多賀城跡では初めて、塀本体を構成する材木5本も出土した。
塀は創建時(724年)にあった八脚門に延びる形で当時の外郭の南辺を構成したとみられ、研究所は「創建当初の区画施設の構造などが明らかになった」と説明する。
見つかった材木5本は直径約20センチ。土や木を盛った基礎にあった幅約40センチの溝に約1メートルの深さで埋まっていた。基礎は南北方向が4.4メートル以上、高さが45センチ以上あり、塀の高さは3メートル程度だったと推定されるという。
八脚門は政庁の南約250メートルの場所にあった。さらに南に120メートルの地点には8世紀半ば、新たに外郭や南門が築かれたのが分かっており、材木塀は切り倒され、通路が造られていたことも判明した。
研究所は「多賀城を取り囲む外郭が時代で移されたとの見方があらためて裏付けられた。材木塀が最初の外郭だったことが確実になり、通路などへの変遷もつかめた」と説明している。
研究所は26日午前10時半から現地説明会を開く予定。現地はあやめ園駐車場から徒歩10分。連絡先は研究所022(368)0102。
『河北新報』2013年10月25日金曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/10/20131025t15036.htm
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平城京の最北部(左京北辺3坊6町)で条坊制の南北規格とは異なる、北東~南西方向の大溝が見つかった。
現在の場所表示では烏丸・上長者町西入る北側。
幅5〜6mと大規模で、埋土から820〜830年ごろの土器類が出土していて、平安時代初期の京の造成期に建設資材の搬入に使われた運河の可能性高い。
おそらく高野川から分かれる構造で北山からの材木などを運んだのだろう。
興味深いのは、この運河が使われていた時期に土御門大路が造成されていなかったこと(『京都新聞』)の報道)。
平安京については、遷都からしばらく経った時期に、北側に1町拡張されたとする拡大説がある(私も支持)。
拡大説に立てば、それまでは土御門大路から一条大路までの間(北辺)は京域ではなかった(平安宮も同様に上東門と上西門を結ぶラインより北は苑地だった)。
今回の発見は、そうした平安京拡大説と考え合わすべきだと思う。
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平安京跡:運河?遺構 造営初期、鴨川から材木搬入か
京都市上京区元浄花院町の平安京跡で、造営初期の9世紀初めごろに材木などを運び入れるための運河の一部とみられる溝跡が見つかった。マンション建設に伴う発掘調査をしている民間団体「古代文化調査会」(神戸市)が17日、発表した。平安京で造営用に一時的に掘られた運河が確認されるのは初めて。
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平安京跡から発掘された運河の一部とみられる溝=京都市上京区元浄花院町で2013年10月17日、榊原雅晴撮影

発掘地点は現在の京都御苑の西隣で、平安時代の大内裏(だいだいり)から東約800メートル。幅5〜6メートル、深さ50〜80センチの溝跡が、北東から南西方向に長さ約20メートルにわたって見つかった。溝跡から820〜830年ごろの土器類も出土した。運河は、碁盤の目のように整備された道路に対して斜めに掘られており、物資運搬が終了すると埋められたとみられる。
都の条坊制が完成する前に一時的に運河が造営された事例はこれまで、奈良県橿原市の藤原京(694〜710年)などで確認されているという。
同調査会の家崎孝治代表は「北山の材木をいかだに組み、鴨川などを経て運んだのではないか。平安遷都(794年)から数十年たっても主要な通りが完成していなかったことが分かり、大内裏から周辺に都市整備が広がっていく様子がうかがえる」と話している。
現地説明会は19日午前10時から。問い合わせは同調査会(090・3267・5730)。【榊原雅晴】
『毎日新聞』 2013年10月18日 大阪朝刊
http://mainichi.jp/feature/news/20131018ddn012040019000c.html
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3つ目は、群馬県渋川市金井東裏遺跡出土の「赤玉」。
金井東裏遺跡は榛名山の大噴火で埋没した甲装着人骨で注目されている6世紀初頭(古墳時代後期)の遺跡だが、この写真を見たとき「なんだこりゃ?」と思った。
赤色顔料の「べんがら」を直径5.5から8cmの団子状に丸めて保管する「赤玉」と呼ばれる物。
赤玉は水に弱いのでこういう出土の仕方をするのは稀で、この遺跡が火山噴出物で一気に埋まったため、残ったものと思われる。
「べんがら」は「弁柄」とか「紅殻」などと書くがそれは当て字で、オランダ語の「Bengala」が語源。
インド東部のベンガル地方産のものが運び込まれたからだそうだ。
成分は酸化第二鉄(Fe2O3)で、着色力・隠蔽力が強く、耐熱・耐水・耐光、耐酸、耐アルカリ性に優れた赤色顔料で広く用いられた。
色の鮮やかさでは水銀朱には劣るが、高価で毒性のある水銀朱に対して、「べんがら」は安価で毒性もないという特性がある。
製法は、緑礬(りょくばん・FeSO4・7H2O)という硫酸鉄の鉱物を焼くと得られる(礬紅)。
緑礬は火山地帯にあるので、日本有数の火山地帯である上野国で採掘されてもおかしくない。
実際に群馬県では、伊勢崎市本関町古墳群で15点、中之条町の伊勢町地区遺跡群で2点「赤玉」が出土している。
金井東裏遺跡でも、かなり大規模に「赤玉」の生産・供給が行われ、今回、発見されたのは、その保管庫だった可能性がある。
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金井東裏遺跡:新たに「赤玉」発見、県内3例目 「大量」100個以上−−渋川 /群馬

6世紀初頭(古墳時代)の鉄製のよろいを着けた人骨などが見つかった金井東裏遺跡(渋川市)で、新たに「赤玉」と呼ばれる団子状に丸められた赤色顔料の「ベンガラ」と、青銅製の鏡が発見された。県教委が発表した。
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県埋蔵文化財調査事業団によると、赤玉は直径約5・5〜8センチ、重さ約350〜400グラムで100個以上見つかった。古墳の石室内部や土器の表面に「魔よけ」として塗られていたとみられ、県内の出土は本関町古墳群(伊勢崎市)、伊勢町地区遺跡群(中之条町)に続き3例目。これほどの数がまとまって発見されるのは全国的にも珍しく、同事業団は「付近に赤玉を生産する場所があったか、流通拠点として一時的に大量保管されていた可能性がある」と話している。同事業団は「生産、保管は集団体制で行われ、集団を束ねる人物がいた可能性もある」と指摘。よろいを着た成人男性の人骨との関連性にも着目し調査を進めている。

鏡は土器が多く出土された祭祀(さいし)遺構で1点発見された。直径5・68センチ、重さ26・4グラムで、背面には「乳」と呼ばれる突起があり、同事業団は「乳文鏡」と呼ばれる鏡とみている。同事業団は赤玉と鏡を11月9日の施設開放日に合わせ、県埋蔵文化財調査センターで公開するという。【塩田彩】
『毎日新聞』2013年10月24日 地方版
http://mainichi.jp/feature/news/20131024ddlk10040274000c.html
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残りの時間、『続日本紀』巻18、天平勝宝4年(752)10月条の講読。
12時、終了。
(続く)
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