SSブログ

11月6日(水)今日の古代史(興福寺旧境内から平安時代後期の「酔象」の駒が出土) [お仕事(古代史)]

11月6日(水)  晴れ  東京  20.7度  湿度47%(15時)
昨夜は疲労で倒れるように眠ってしまったので5時に目が覚める。
1時間ほどインターネットをやって、再びベッドへ。
2時間ほど眠り足して、8時、起床。
朝食は、いちじくパンとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪と身体を洗い、髪はよくブローしてにあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
化粧と身支度。
グレーの地に黒で唐草模様のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黒のカシミアのショール。
9時55分、家を出る。
コンビニで配布資料のコピー。
東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
10月下旬に報道された奈良興福寺旧境内の発掘で発見された将棋の駒「酔象」について、将棋の歴史、さらには日本における盤上遊戯の歴史について解説。

盤上遊戯のうち囲碁は、天平の遣唐使で帰国し、称徳朝に右大臣にまで上り詰めた吉備真備が日本に伝えたとされ、自身も名人であった説話がある(「江談抄」『吉備大臣入唐絵詞』)。
実際、東大寺の正倉院には「木画紫檀碁局」と称する奈良時代の碁盤が(碁石も)が伝わっている。
また、平安時代中期の『源氏物語』には女性が碁を打つシーンがあり、女性を含めて貴族層に愛好されていたことがよくわかる。
それに対して将棋は伝来の事情が不明なだけでなく、行われていたことを確実に示す古い資料に乏しい。
鎌倉時代初期の1220年頃に編纂された百科全書『二中歴』には2種類の将棋に関する解説がある。
『二中歴』」は平安時代後期に三善為康(1049~1139)が編纂した「懐中歴」(10巻)と「掌中歴」(4巻)を合わせたものなので、平安時代後期(11世紀)には「平安大将棋」と「平安小将棋」の2種類の将棋があったことが知られていた。

今回、興福寺の子院・観禅院の井戸跡から、「承徳二年(1098)」の年号を記した木簡とともに「酔象」の駒が発見されたことで、平安時代後期(11世紀)に「酔象」の駒を使う将棋が寺院で行われていたことが確定的になった。
しかし、『二中歴』に記載された「平安大将棋」「平安小将棋」には「酔象」の駒はない。
これはどうしたことだろうか? 考えられるのは2つ。
(1)11世紀頃に、「酔象」の駒が発明され新たに付け加わった
(2)『二中歴』記載が不十分、もしくは脱漏があり、平安将棋にも「酔象」の駒はあった。
今回の発見を重視すれば、(2)の可能性が高くなったと思う。

「酔象」の駒は鎌倉時代に行われた大将棋、中将棋、小将棋のすべてに使われるので、そのどれかは確定できない。
しかし、今回の発掘で、「酔象」の他に「桂馬」「歩兵」が各1枚出土していること、また今回の発掘現場から西に200mほど離れた興福寺旧境内で、1993年(平成5)に天喜6年(1058)の木簡と共伴した「玉将」「金将」「銀将」「桂馬」「歩兵」など15枚の駒が出土していることに注目したい。
逆に言えば、「銅将」「横行」「竪行」「龍馬」「龍王」「獅子」「奔王」「反車」「盲虎」「麒麟」「鳳凰」「猛豹」「仲人」などの駒は出土していない。
したがって、今回の「酔象」の駒は、王将・金将・銀将・桂馬・香車・飛車・角行・歩兵・酔象で構成される小将棋の駒である可能性が高いと思う。
また、将棋が貴族社会よりも寺院社会で盛んに行われていたとするならば、その伝来も僧侶によってなされた可能性が高くなると思う。

残りの時間、『続日本紀』巻18、天平勝宝4年(752)7月条の講読。
12時、終了。
---------------------------------------------------------------
日本で行われた主な将棋の種類
1 平安時代(11世紀)の将棋
(1)「平安大将棋」
• 盤=縦横13マス(169マス)
• 駒=王将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵・銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人の13種類

(2)「平安小将棋」
• 盤=縦横9マス(81マス)?(8×9、8×8説もあり)
• 駒=王将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵の6種類?

2 中世(鎌倉時代以降)の将棋
(3)大将棋
• 盤=縦横15マス(225マス)
• 駒=玉将(または王将)・金将・銀将・銅将・鉄将・石将・桂馬・香車・飛車・角行・歩兵・横行・竪行・龍馬・龍王・獅子・奔王・反車・盲虎・麒麟・鳳凰・猛豹・醉象・悪狼・嗔猪・猫刄・猛牛・飛龍・仲人の29種類65枚(×2)
• 獲った駒は再使用できない。
• 岩手県平泉町志羅山遺跡第88次発掘調査、表裏とも「飛龍」と読める駒状の木片が出土。
• 鎌倉時代には行われていたが、その後、衰退?

(4)中将棋  
• 盤=縦横12マス(144マス)
• 駒=玉将(または王将)・金将・銀将・香車・飛車・角行・歩兵・銅将・横行・竪行・龍馬・龍王・獅子・奔王・反車・盲虎・麒麟・鳳凰・猛豹・醉象・仲人の21種類46枚(×2)
• 獲った駒は再使用できない。
• 鎌倉・鶴岡八幡宮境内の13~14世紀の遺構から「鳳凰」(裏が「奔王」)と書かれた駒が出土。
• 江戸時代になっても公家や一部の武家の間で行われていた。
• 明治時代維新後は衰退し、伝承が途絶えかけたが、京阪地方に細々と伝わっていたものを、戦後になって岡崎史明八段と大山康晴十五世名人が採録して保存。

(5)小将棋
• 盤=縦横9マス(81マス)
• 駒=玉将(または王将)・金将・銀将・桂馬・香車・飛車・角行・歩兵・醉象の9種類21枚(×2)
• 獲った駒は再使用できない。
• (2)の平安小将棋に類似しているが、いつ、どのように行われていたか不明。

3 近世~現代の将棋
(6)「本将棋」
• 盤=縦横9マス(81マス)
• 駒=玉将(または王将)・金将・銀将・桂馬・香車・飛車・角行・歩兵の8種類20枚(×2)
• 獲った相手の駒を持ち駒にして再使用可。
• 小将棋から「酔象」が無くなり、駒の再使用が可能になった形。
• 江戸時代初期にはほぼ現行ルールで行われていた。
(最古の棋譜は、1607年=慶長12)の先手大橋宗桂×後手本因坊算砂の対局)
---------------------------------------------------------------
平安の将棋駒「酔象」もあった…興福寺跡で出土
20131025-561195-1-N.jpg
興福寺旧境内から出土した、現代の将棋にはない駒「酔象」
奈良県立橿原考古学研究所は24日、現代の将棋にはない駒「酔象(すいぞう)」が、興福寺旧境内(奈良市)の平安時代の井戸から出土したと発表した。「承徳二年(1098年)」の年号を記した木簡も見つかり、これまで確認されていた室町時代より古い、国内最古の酔象の駒という。
酔象は木製で、縦2・5センチ、横1・5センチ、厚さ0・2センチ。裏は墨跡がなかった。将棋は、インドが起源とされ、平安時代には日本に伝わっていた。酔象は、現代の将棋より駒数の多い、鎌倉時代以降の「大将棋」や「中将棋」で指されたことが文献などでわかっているが、平安時代については知られていなかった。
20131025-561279-1-N.jpg 
将棋進化 僧侶の知恵 ルール作り「楽しみながら」
20131025-561208-1-L.jpg
興福寺旧境内から出土した将棋駒(赤外線写真)=奈良県立橿原考古学研究所提供
現代の将棋にはない、平安時代の駒「酔象(すいぞう)」が見つかったのは、興福寺(奈良市)の子院があった場所だった。酔象はこれまで鎌倉時代以降に使われたとされており、専門家は「僧侶が寺で楽しみながら将棋を発展させていたことを示す発見」とする。
奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査では、酔象と一緒に、「桂馬」と「歩兵」の駒も出土。裏にはいずれも「金」と書かれていた。両面とも文字が不明の駒も見つかった。これら計4枚は、現代の将棋と同じ五角形で木製だった。
約200メートル西では1993年、天喜六年(1058年)の木簡と一緒に最古の「玉将」や「金将」、「銀将」など15枚が出土。和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は「近接した場所でほぼ同時代の駒が見つかっており、興福寺で遊ばれたのだろう。中国・唐で学んだ留学僧が持ち帰ったのかもしれない」と推測する。
93年の調査では、「酔像」の文字が読み取れる木簡も出土し、平安時代の将棋に酔象があった可能性も指摘されていた。同研究所の鈴木一議(かずよし)主任研究員は「平安時代に酔象が使われていたことが今回の発見ではっきりした」と語る。
語源は不明で、平安時代の将棋で酔象がどのような役割だったかも、まだわかっていない。文献で指し方が確認されているのは、鎌倉時代の「大将棋」(駒130枚)や、室町~江戸時代に流行した「中将棋」(同92枚)。40枚で勝負する現代の将棋にはない多くの駒があり、なかでも、酔象はユニークな働きをする。

鈴木研究員は「最初に『玉』の真上や右横に並べられ、盤上を、真後ろ以外の7方向に一マスずつ動かすことが可能。相手の陣に入ると、『太子』になる」と解説。中将棋のルールでは、自分の玉が取られたあとも、太子が残っていれば勝負を続けられた。
古作登・大阪商業大アミューズメント産業研究所主任研究員(遊戯史)は「当時、寺院には知的階層が集まっており、将棋の工夫や改良が行われたのだろう。後世の大将棋、中将棋へ発展する先駆けだったのではないか」と話している。
調査は続いており、現地説明会はない。
『読売新聞』2013年10月25日
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20131025-OYO1T00323.htm
---------------------------------------------------------------
平安期の井戸跡から「酔象」の駒 奈良・興福寺の旧境内

「酔象」と記された将棋の駒=24日午前、奈良県橿原市、高橋一徳撮影

【塚本和人】奈良・興福寺の旧境内にあたる奈良市登大路(のぼりおおじ)町の平安時代の井戸跡で、通常の将棋と異なる形の「中(ちゅう)将棋」などで使われる「酔象(すいぞう)」の木製駒が見つかった。奈良県立橿原考古学研究所が24日発表した。酔象駒の過去の出土例を数百年さかのぼり、国内最古という。
駒は縦25ミリ、横15ミリ、厚さ2ミリの五角形で、裏面に文字は確認できなかった。合わせて桂馬1、歩兵1、文字の確認できないもの1の3点も出た。井戸跡は興福寺の子院・観禅院があった場所で、「承徳二年」(1098年)の年号を記した木簡も見つかった。
中将棋では、酔象は真後ろ以外に一つ動け、敵陣に入ると玉将と同じ働きの「太子」に成り、玉将が取られても勝負を継続できる。過去に酔象の駒は京都市南区の14世紀中ごろの集落遺跡、上久世城之内(かみくぜしろのうち)遺跡で見つかっている。
今回の調査地の西約200メートルの旧境内跡では1993年、1058年前後のものとみられる国内最古の駒15点が出土。酔象を指すと見られる「酔像」と墨書された木簡が一緒に見つかっていた。
将棋の起源は古代インドのゲームが東に伝わったとされる。将棋や囲碁の歴史に詳しい大阪商業大アミューズメント産業研究所の古作(こさく)登・主任研究員は「酔象は日本独自の駒。平安時代の寺院で従来の将棋に新しい駒を加える工夫が芽生え、外来文化を日本流にアレンジしたのかもしれない」と話す。
現地説明会や展示の予定はない。
    ◇
〈中将棋〉 海外から伝えられた日本の将棋には、駒の数に応じてルールが異なる「小将棋」「中将棋」「大将棋」があった。中将棋は「酔象」「獅子」「麒麟(きりん)」など、現代の将棋(8種類40枚)にはない駒を含めた21種類92枚を使い、敵駒の再使用はできない。南北朝・室町時代に流行したが、時間がかかり、勝負がなかなか決まらないため廃れたが、京阪神に伝わり、故・大山康晴十五世名人も小さい頃から指した。
『朝日新聞』2013年10月25日07時45分
http://digital.asahi.com/articles/OSK201310250007.html?_requesturl=articles/OSK201310250007.html&ref=comkiji_txt_end_s_kjid_OSK201310250007
---------------------------------------------------------------
興福寺旧境内、平安将棋の駒 酔象、使用裏付け 奈良
■「小将棋」あった可能性高まる
奈良市の興福寺旧境内で見つかった11世紀末(平安時代)の将棋の駒「酔象(すいぞう)」。現在主流の将棋では使われておらず、平安将棋の形も一部の文献に残されているだけで、その姿はベールに包まれていた。今回の発見で当時、少なくとも駒数40枚の現在の将棋に近い「小将棋」があった可能性が高まった。
 将棋は平安時代ごろに中国から日本にもたらされ、発展。鎌倉時代には駒数130枚の大将棋が行われ、その中に酔象があったことが判明している。
酔象は、玉将の前に配置された駒。真後ろを除く7方向に一マス動くことができる。相手のエリアに入って成(な)ると「太子(たいし)」に変わり、全方向に一マス動くことができる。
今回は酔象のほか、「桂馬」と「歩兵」の駒も見つかった。当時、興福寺の境内にあった子院(しいん)(塔頭)の観禅院(かんぜんいん)の井戸跡から棄てられた状態で出土した。同時に承徳(しょうとく)2(1098)年の年号を記した木簡が見つかり、時期を特定できた。
平安将棋の駒は極めて珍しく、最古の駒は、今回の発見現場から西約200メートルの興福寺旧境内で平成5年に見つかった天喜(てんき)6(1058)年の「玉将」「金将」「銀将」「桂馬」「歩兵」など15枚。今回よりも40年古い。
この時は酔象は出土しなかったが、同時に見つかった木簡に「酔像(すいぞう)(酔象)」の文字があり、平安将棋に酔象があったことが推測されていた。
橿原考古学研究所は「今回の発見で、酔象が実際に使われていたことが裏付けられた」としている。
橿考研では、平安時代の将棋などについて解説した辞典「二中歴(にちゅうれき)」の記述や、前回の興福寺旧境内の発掘成果をもとに、平安将棋の形を推測。
将棋盤のマスの数は不明だが、駒数が現在主流の将棋より2枚少ない「38枚制小将棋」(現在の将棋に酔象を加え、角行と飛車がない形)や、駒数が2枚多い「42枚制小将棋」(現在の将棋に酔象を加えた形)などが考えられるとしている。
「MSN産経ニュース」2013.10.26 02:24
http://sankei.jp.msn.com/region/news/131026/nar13102602240004-n1.htm

nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 2

真樹猫ちゃん

おお、昔懐かしい古の将棋の駒ですにゃん。
何しろ昔の将棋は・・・
殿様「苦しゅうない、取り払え・・・」
家来「はは、御意のままに・・・」
といった、お取り払えやらお飛び越しという
特殊ルールがありみゃした。

そういえば、院の御所でも・・・。
お上「鴨の流れや山法師よりも容易いわいw」

by 真樹猫ちゃん (2013-11-08 21:26) 

df233285

nice!ありがとうございます。(長さん)

so-netの私のブログに、nice!を、かなり前ですが
頂きました。私がどこか、管理ページの操作を誤った
のか、”nice!くれた人”に、
このブログが表示できなくなりました。
このページに関連する記事を、多く書いている者です。
そのせつの御礼と、お詫びまで。

ps.伝来元地点で、酔象駒があったので、調査の上、
11世紀の興福寺の下級僧は、賭博場で大理国原始平安
小将棋を指していたというのが、当方の解釈です。
二中歴には、簡単に言うと、日本の皇族・貴族将棋が書いて
あります。後一条天皇が、”酔象象駒より銀将銀駒が
余分にあった方が喜ぶだろう”と、北宋交易商人が勝手に考え
たので、ただの原始平安小将棋に改変したのでしょうね。
天皇は、喜ばずにコマを回して遊んでいたと、大鏡に書いてある
し、別の説話でも、同じようなシチュエーションの話が、
この天皇については、記録に残っているようですね。

by df233285 (2019-06-11 08:30) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0