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5月27日(月)今日の古代史(日本律令国家の軍事制度の問題点) [お仕事(古代史)]

5月27日(月)
7時半、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒と白のゼブラ柄のロングチュニック(長袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

9時10分前、家を出る。
東急東横線で渋谷駅に出て、京王井の頭線に乗り換える。
毎月1度この乗り換えをするわけだが、3回目にして半蔵門線のホームを経由するのがいちばん迷わず早いことがわかった。
余裕を持って9時47分発の吉祥寺行き急行に乗れた。
駅前(南口)の「ドトール」で、時間調整を兼ねて朝食。
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モーニングセットの海老と水菜のサンドイッチ+コーヒー(380円)。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
今日から新しいテーマ、「桓武朝の『蝦夷征討』」に入る。
最初に日本古代律令国家の軍事制度の問題点を説明。
・ 中央政府が強力な常備軍を持たない(五衛府の実態は、儀仗兵、警備員、門番)。
・ だから別に天皇・皇太子の親衛隊(授刀舎人)が必要だった。
  これも中衛府・近衛府になると、徐々に儀仗兵化。
・ 文官が武官を兼ねるケースが多く、専門の武官がほとんどいない。
  したがって、戦闘で司令官になる武官を養成する教育・訓練システムがない。
・ 地方に設置された軍団は、農民からの徴兵で、戦力としてはあまり期待できない。
  その証拠に、しばしば廃止される。
・ 精鋭部隊は、しばしば軍団兵士以外から徴集し、臨時編成される。
・ 実戦の機会に乏しい。
 律令国家成立後は、文武朝の隼人戦争、聖武朝の藤原広嗣の反乱、淳仁朝の藤原仲麻呂のクーデター、光仁朝(宝亀5年以降)の蝦夷戦争くらい。

桓武朝の「蝦夷征討」は、国家の領域内(辺境)の反乱鎮圧戦争なのか、国家の領域を外に広げる対外戦争なのか?
前者の意識から後者へ移行する点も重要。
12時、終了。
(続く)

3月25日(月)今日の古代史(早良親王の経歴) [お仕事(古代史)]

3月25日(月)  小雨  東京 11.2度  湿度74%
7時、起床。
眠い・・・、身体がすごく疲れているのはわかるが、仕事は休めない。
熱めのシャワーを浴びて、なんとか身体を起こす。
髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒地に紫・群青・水色・茶色の大小の長楕円がたくさんある変な柄のロング・チュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ。
菜の花色のケープ。

9時10分前、小雨の中、家を出る。
今日は冬が戻ってきたように肌寒い。
東急東横線で渋谷駅へ、京王井の頭線に乗り換える。
東横線から井の頭線の乗り換えは、もともとJR渋谷駅を挟んで対角線で遠かったのが、東急渋谷駅の移転でさらに遠くなった。
しかも、まだ最短経路が見つけられない。
今日は用心して10分早く家を出たので、余裕を持って9時47分発の吉祥寺行き急行に乗れたが、5分早目ではギリギリだったと思う。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
延暦4年(785)9月の藤原種継暗殺事件=早良親王廃太子事件について。
立太子以前は東大寺の僧侶だった早良親王の経歴は『続日本紀』にはまったく記されてないので、「大安寺碑文」などの史料によって復元しながら解説。
早良親王が草創期の東大寺に入り、じっかり修業・修学した一流の僧侶であり、父親の白壁王が即位した光仁朝には大安寺東院に住し「親王禅師」と称して東大寺をはじめ仏教界全体に影響力をもったことを説明。
この点は、男性研究者時代(28年前)に論文を書いているので、少し忘れていることはあったが、解説するのにまったく問題はない。
12時、終了。

昼食は、2ヵ月ぶりに南口駅前通りのタイ料理「Khuchai(クゥーチャイ)」へ。
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カオパッキーマオを注文(880円)。
身体がほてり少し汗ばむほどのちょうど良い辛さ。
ジャスミンティの器がすてき。

お会計の時に、店主(キックボクシング元日本フライ・バンタム級チャンピオンの深津飛成さん)が「生まれました」と言うので、「どちら?」と尋ねると、「男の子です」と、とてもうれしそう。
「おめでとうございます。(奥様に)よろしくお伝えください」と言って辞去。

いつものように駅前の古書店で昔の性風俗雑誌をあさる。
今日はとくに収穫なし。
12時57分の急行で渋谷へ。
(続く)


12月5日(水)今日の古代史(居村B木簡・西三条第仮名墨書土器) [お仕事(古代史)]

12月5日(水)  曇り  東京 13.7度 湿度49%(15時)

前夜、21時半頃に倒れるように眠ってしまったので、4時に目が覚める。
歳を取って、このごろは6時間ほど熟睡すれば疲労がほぼ回復するようになった。
若い頃は8時間寝ても寝足りなかったのに比べると大きな変化だ。
人生の残り時間が少なくなると、必要睡眠時間が少なくなるというのは、よくできた仕組みだと思う。

パソコンに向かって、ブログの記事をひとつまとめる。
メールのお返事を2通書く。

朝のニュースで、18世中村勘三郎さんの逝去を知る。
病態を危ぶんではいたものの大ショック(詳細別記)。

6時半、パートナーが起きてきたので、邪魔にならないようにベッドへ。
1時間半ほどうとうと。

8時、再起床。
お風呂に入って身体と髪を洗う。
髪はよくブローして、あんこを入れて頭頂部でまとめる。

朝食は、ダークチェリーパイとコーヒー。
化粧と身支度。
黒地に白で唐草模様のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、焦茶のショートブーツ、黒のトートバッグ。

9時40分、家を出る。
駅前のコンビニで配布資料をコピー。
東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
最初、雑談的に中村勘三郎さんの話。
続いて、神奈川県茅ケ崎市居村B遺跡出土の木簡について。

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県内最大の木簡出土、12月2日初公開/茅ケ崎
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文字を解析できるよう赤外線カメラで撮った木簡写真。右が表で左が裏(茅ケ崎市提供)

茅ケ崎市内の遺跡から古代の木簡3点が発掘された。このうち1点は県内で出土した木簡としては最大で、文字数も最多。市は「9世紀ごろの村単位の支配体系や儀式の実態を伝える、情報量の多い貴重な資料」とし、2日に市民文化会館で初公開される。

遺跡は同市本村4丁目にある「居村B遺跡」で、昨年10月から今年3月まで一帯約910平方メートルの調査が行われた。最大の木簡は9点の破片に分かれて出土し、長さ45・8センチ、最大幅7・8センチ、厚さ0・5センチ。

市によると、「貞観」(859~877年)という表記や地域有力者とみられる名前「市田殿」「吉成殿」、「酒」などの文字が記されている。当時の役所「官衙(かんが)」が儀式の際に地域有力者に酒や食料を支給したことを示す食料支給帳簿と考えられるという。

『神奈川新聞』 12月1日(土)14時0分配信
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1212010024/
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表に酒・飯・雑菜などの支給量が個人別に記され、裏にその合計(支給総量)を記した大型の帳簿木簡。

高座郡衙に地元の有力者を集めて、何かの儀礼・祭祀を行い、その後に宴席が設けられたと推定される。
問題は何の儀礼(祭祀)かということ。
時期が8月中旬ということを考えると、やはり収穫期の農耕儀礼だろうか。
養老儀制令代19「春時祭田」条には、春の祭田の時に在地の有力者を集めて「郷飲酒礼」(共同飲食=お振舞い)が行うことが規定されているが、秋にも同様のことをしたのだろうか。

さらに京都市西三条殿跡出土の平仮名墨書土器について。
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最古級の平仮名確認 京都・中京の貴族邸宅跡
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平仮名の文字が書かれていた土師器の皿(28日、京都市上京区・市考古資料館)

京都市埋蔵文化財研究所は28日、中京区西ノ京の平安時代の貴族藤原良相(よしみ)の邸宅「西三条第(百花亭)」跡で出土した9世紀後半の土器片に、日本最古級とみられる平仮名の文字が書かれているのを確認した、と発表した。文化の中心地だった平安京でのまとまった出土は、平仮名の成立過程の研究に大きな影響を及ぼしそうだという。

土器片は、西三条第の池跡で出土した。土師器(はじき)の皿など約20点に墨で平仮名が記されていた。判読できない文字や欠字も多かったが、「枕草子」に出てくる「ひと(人)にくし」の記述があった。また、「かつらきへ(葛城へ)」や「なかつせ(中つ瀬)」など、神楽歌や日本書紀にみられる表現も記されていた。

同時期の仮名文字は、宮城県の多賀城跡からも出土したが、万葉仮名の影響が残っていた。西三条第の墨書土器は、漢字も交じっていたがほぼ平仮名で、これまでは10世紀後半にしかみられなかった、続き文字の連綿体も確認された。

調査に関わった京都大の西山良平教授(日本古代・中世史)は「文化に造詣の深い良相の西三条第で平仮名の使用が進んでいたことが分かった。平仮名の形成期がさかのぼることになり、今後の研究で平仮名の歴史を変える可能性もある」と話している。

上京区の市考古資料館で、30日から12月16日まで出土品を展示する。

<仮名文字>漢字を基に日本で読みやすく作られた文字。日本語の音を表すために漢字をあてたものが万葉仮名。万葉仮名の草書体が草仮名で、さらに崩して簡略化したのが平仮名。主に女性が用いたため「女手(をんなで)」とも呼ばれ、和歌や文学に好んで使われた。

『京都新聞』2012年11月28日 23時50分
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121128000148
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写真を一見して、かなり驚いた。
9世紀第3四半世紀段階で、これだけ流麗な仮名が書かれているとは、今までイメージしていなかったから。

仮名の成立(何をもって「成立」と言うかが問題なのだが)が9世紀代であることはほぼ間違いない。
905年(延喜5)成立の『古今和歌集』に仮名序があるのだから。
しかし、9世紀にどのような形で仮名が成立していったかは、実物の資料がほとんどなく、わからなかった。

その点、今回の仮名書き墨書は大発見。
仔細に見ると、万葉仮名(漢字)の字形(草体)を残している文字と、現代の平仮名とほぼ同じ字体のものが混在している。
まさに平仮名が成立していく途上を示している。
記事で指摘しているように、数文字を続け書きする「連綿体」がすでに現れているのが、驚きだった。

藤原良相(813~867)は、藤原冬嗣の5男で、清和天皇の摂政になり摂関政治の基を開いた藤原良房(804~872)の弟で、正二位右大臣に至り西三条大臣と称した。
平安京右京三条一坊六町の邸宅は「百花亭」の別名がある名邸で、貞観8年(866)年には清和天皇が花見のため行幸し、文人が「賦百花亭詩」と詩を作っている。

良相は若くして大学に学び、漢籍や詩文に親しみ、また仏教の熱心な信奉者だった。
「百花亭」は当時もっとも先端的なサロンだった思われる。

時間が中途半端になってしまったので、『続日本紀』の講読には入らず、日本語と「字形」の問題について話す。

日本語論として、7~9世紀の日本人が苦労したのは、次の2つだと思う。
(1)漢文をどうやって日本語として読むか。
(2)日本語をどうやって(漢字を使って)表記するか。

(1)は訓点の発達になり、(2)は仮名の成立につながる。

(2)については、仮名が成立していく過程では、まだ字形の統一が行われていない。
したがって、日本語表記の次の課題として仮名の「字体」の統一が問題になるのだが、これはなかなか進まない。
平安~江戸時代はずっと1音=複数字体である。
1音=1字体になるのは、やっと明治時代(学校教育の場での必要性)になってからだ。

たとえば「つ」の表記は、「川」「津」「徒」「都」などの草体が混用されている。
そういう仮名を現代では「変体仮名」と言うが、それは字体統一後の感覚で、統一以前はどれが「正体」どれが「変体」という意識はない。

それと、万葉仮名→平仮名への変化を唐風文化→国風文化ととらえるのも、疑問。
この変化は文化的必然だと思う。

また、漢字=男文字、仮名=女文字という認識も、ジェンダー論的に疑問である。
これも、文字表記の「場」の問題だと思う。

そんな話をする。

12時、終了。

(続く)

アイヌ、琉球は縄文系=本土は弥生人との混血 [お仕事(古代史)]

11月1日(木)

学術的にはかなり以前から知られていて、ほぼ「常識」化していること。
今になってニュースにする意図は何?

わかりやすく言えば、1万年前頃、ユーラシア大陸の東の列島に、北海道から琉球まで、土器作りの文化を持った人々(縄文人)が住み始め、やがて狩猟・漁労・採集に半栽培や原始的農耕(芋・雑穀・豆などの栽培)を加えた独自の文化(縄文文化)を発展させた。

2700年前頃、ユーラシア大陸の長江(揚子江)下流域や山東半島、あるいは朝鮮半島南部から水田稲作農耕と金属器(青銅器・鉄器)の文化を持った人たちが次々に列島に渡来し、先住民である縄文人を圧迫しながら混血していった(弥生人)。

その混血の度合いは、九州北部や本州西部で強く、周辺部に行くにしたがって弱かった。
したがって、北海道や琉球には縄文人の形質が強く残ることになった。

そうして九州、四国、本州のほぼ全域の平野部を中心に水田稲作文化を基盤にする社会が形成され、それは首長国(数村落規模の小国、奴国や伊都国など)→地域首長国連合(邪馬台国など)→統一国家(ヤマト王権)へと発展していく(民族としての日本人の形成)。

今後の課題は3つあると思う。
1つ目は、記事が指摘しているように、はどこから来たのか?ということ。
この点については、ユーラシア大陸の北方と南方と両説があるが、長い旧石器時の間には北からも南からも何度かの渡来が想定され、そもそも縄文人が北方系と南方系の混血である可能性が高い。

2つ目は、古墳時代から飛鳥時代(5~7世紀)にかけて畿内とその周囲(近江など)に数多く渡来居住した朝鮮半島系の人々(秦氏系・東漢氏系・西文氏系、亡命百済人・亡命高句麗人)の影響。
近畿人と東国人(関東・東北人)の形質(DNA)的な差がどのくらいあるのか?

3つ目は、アイヌ人へのオホーツク人の影響。
アイヌ文化は、縄文文化の末裔であると同時に、オホーツク文化の影響を強く受けて文化的にかなり変容していると思われる。
それが形質的にどうのように表れているのか?

つまり、日本人は究極の混血(ハイブリッド)であるということ。

こういうことを書くと、「純血日本人」「単一民族日本人」を熱烈に主張する方たちに叱られる。

だが、ユーラシア大陸の東の果ての弧状列島、これ以上先は広大な太平洋、遺伝子(形質)も文化も、大陸からこぼれ落ちたものは、自然にこの列島にたどりつく。
そして、この列島に吹き溜まって混じり合う。
それは、地勢的に当然のことなのだ。

むしろ、私は、長年にわたる高度の混血が日本人の形質的・文化的優秀さの基本になっていると、考えるべきだと思う。

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アイヌ、琉球は縄文系=本土は弥生人との混血-日本人のDNA解析・総研大など

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日本人を北海道のアイヌ、本土人、沖縄の琉球人の3集団に分けた場合、縄文人に起源があるアイヌと琉球人が近く、本土人は中国大陸から朝鮮半島経由で渡来した弥生人と縄文人との混血が進んだことが確認された。総合研究大学院大や国立遺伝学研究所(遺伝研)、東京大などの研究チームが、過去最大規模の細胞核DNA解析を行い、1日付の日本人類遺伝学会の英文誌電子版に発表した。

アイヌと琉球人が同系との説は、東大医学部の教官を務めたドイツ人ベルツが1911年に初めて論文発表した。頭骨の分析では、狩猟採集生活の縄文人は小さい丸顔で彫りが深く、約3000年前に渡来し稲作をもたらした弥生人は北方寒冷地に適応していたため、顔が平たく長い傾向がある。

総研大と遺伝研の斎藤成也教授は「ベルツの説が101年後に最終的に証明された。本土人は大ざっぱに言えば、縄文人2~3割と弥生人7~8割の混血ではないか。今後は縄文人のDNA解析で起源を探るほか、弥生時代に農耕が広がり人口が急増した時期を推定したい」と話している。

「時事通信」2012年11月01日 02時19分
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201211/2012110100041&g=soc

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アイヌ民族のDNA、関東よりも沖縄の人と近い

北海道のアイヌ民族は地理的に近い関東よりも、沖縄の人たちと遺伝的に近いことがDNA解析から証明されたとする研究成果を、東京大学や国立遺伝学研究所などで作る「日本列島人類集団遺伝学コンソーシアム」がまとめた。

北海道と沖縄では、日本列島に古くから住んでいた縄文人と渡来の弥生人の混血が一部にとどまり、縄文系の人々が残ったとする「二重構造説」を裏付ける成果という。1日付の日本人類遺伝学会誌(電子版)に発表する。

研究チームはアイヌ民族36人と、3世代以上続く沖縄出身者35人の遺伝情報を詳細に調べた。DNAのわずか1文字(1塩基)の違い「SNP(スニップ)」を約60万か所にわたって分析。すでにデータとしてそろっている関東に住む243人と比較し、アイヌ民族は沖縄出身者により近いことを確認した。こうした傾向はこれまでも示されていたが、データが少なく結論は出ていなかった。

『読売新聞』2012年11月1日10時18分
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20121101-OYT1T00022.htm

10月22日(月) 今日の古代史(長岡遷都の理由) [お仕事(古代史)]

10月22日(月)  晴れ  東京  23.1度  湿度60%(15時)

7時過ぎ、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。

化粧と身支度。
今日、初下ろしの黒地に白と紫の花柄のチュニック(長袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンズ(6分)、黒網のストッキング、焦茶のショートブーツ、黒のトートバッグ。

9時前、家を出る。
東急東横線で渋谷に出て、京王井の頭線に乗り換え、9時47分発の急行に乗る。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。

延暦3年(784)の長岡遷都の理由を整理。

A 遷都(平城棄都)の理由
(政治政策的に)
1 政治と仏教の分離(非仏教都城の建設)
(理念的に)
2 (天智系)「新王朝」の都、辛酉革命(即位)、甲子革令(遷都)

B 長岡選地の理由
(政治政策的に)
3 水陸交通の便(琵琶湖―淀川水系の利用)
4 渡来系氏族の勢力圏(百済王氏・秦氏))
(理念的に)
5 北方志向(「天子南面」という理念からより北へ遷都)
6 天智天皇の都(近江大津宮)への志向

私は1と3を重視。

続いて、延暦4年(785)に起こった長岡宮造営の責任者である藤原種継暗殺事件に入る。

まず、種継の家系である藤原式家について。
次いで、種継の官歴について。

長兄藤原広嗣の乱で大打撃を受けながら、光仁天皇、山部皇太子(桓武)擁立の功績で光仁朝には政界第一の勢力を築きながら、世代継承がうまくいかず、第3世代(家祖式部卿宇合の孫の世代)では、現状、種継がほとんど唯一の存在だったこと。

無位無官で若死にした父を持ち不遇だった種継が昇進し始めるのは山部の立太子後であり、即位直前から例を見ないほど急激になること。

山部王と種継は同年(天平9年=737)の生まれで、ともに渡来系の母を持つ(山部は百済系の小氏族和史の娘新笠、種継は渡来系の学者秦朝元の娘)という共通点はあるが、その接点は不明なこと。

12時、終了。

昼食は、南口駅前通りのタイ料理「Khuchai(クゥーチャイ)」へ。

辛い物に飢えていたので久しぶりにグリーンカレーを注文(980円)。
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ん、以前より辛い?と思ったら、女将さんが「少し辛くなってるでしょう」。
ああ、やっぱり。
でも、このくらいが好き。

12時40分、辞去。

例によって駅前の古本屋に引っかかり、昭和30年の性風俗雑誌『あまとりあ』を2冊(2巻12号、3巻3号)購入。

吉祥寺駅12時51分発の京王井の頭線急行で渋谷へ。
東急東横線に乗り換えて学芸大学駅に13時23分に到着。
(続く)

10月17日(水)今日の古代史(南九州の古墳社会・八幡神入京と東大寺行幸) [お仕事(古代史)]

10月17日(水) 曇りのち雨  東京  23.4度  湿度64%(15時)

7時、起床。
前夜、お風呂に入らずに眠ってしまったので、シャワーを浴びて髪と体を洗う。

朝食はピーチデニッシュとコーヒー。
髪をブローしてにあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。

化粧と身支度。
白地に黒でジラフ模様のロングチュニック(長袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンズ(6分)、黒網のストッキング、焦茶のショートブーツ、黒のトートバッグ。

10時少し前、家を出る。

東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。

最初に『朝日新聞』10月15日夕刊に掲載されていた「南九州の古墳社会、再考 地下式横穴墓から新視点」という紹介記事についてコメント。

この記事、「隼人は無関係か 階層化進まず平等?」という小見出しで「古墳時代の南九州には、地下式横穴墓(よこあなぼ)というユニークな墓制があった。その独自性から大和政権に抵抗した「隼人(はやと)」の墓ともいわれてきたが、再検討を迫る声が上がっている」というリード。

私は、南九州の地下式横穴墓は、5世紀から6世紀にかけてヤマト王権から「隼人」と呼ばれていた人たちの首長クラスの墓と考えているので、「隼人は無関係か 階層化進まず平等?」という見解がとても意外だった。
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※赤丸が地下式横穴墓。オレンジ▲印が地下式・板石積石棺墓。青★印が地下式横穴墓と地下式板石積石棺墓の折衷墓。
(「熊襲・隼人の時代を語る」鹿児島県歴史資料センター黎明館)

私たちの世代の歴史・考古学研究者は、葬制・墓制を重視する。
それはその社会の階層構造の表れであり、同時にその人たちの死生観の反映だからだ。
つまり、同時代に葬制・墓制が明かに違う集団は、異民族(異人種ではない)と考える。

この時代のヤマト王権の墓制は前方後円墳(とその省略形である円墳・方墳)のようなマウンドを持つ高塚式古墳であり、南九州の地下式横穴墓とは明かに様相を異にし、両者は葬制・墓制という文化を共有しない異民族と考えてきた。

また南九州の社会も、広い範囲を統率するような強力な首長は出現していなくても、それなりの階層化は進み、村を統率する首長は当然、出現していると考えてきた。
北九州で弥生時代前期の村落首長から中期の小国の首長へ発展していく段階の間くらいのイメージだ。

そこらへんのことは、昨年の夏(2011年8月)、現地(鹿児島県指宿市)を旅して認識を確認したつもり。
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↑ 指宿橋牟礼川遺跡(国史跡)の古墳時代(約1500年前)の竪穴住居(復元)と貫頭衣の女性&犬。

ところが、その両方とも違うと言う。

なぜ前方後円墳を受け入れなかったか?という点については、
「前方後円墳を介してのネットワークに価値を見ださなかったということでしょう」とあっさり片付けられてしまった。
そういうものなのか?
私たちの世代は、ヤマト王権の墓制である前方後円墳を受け入れるか入れないかは、ヤマト王権の権威に従うかどうかの、きわめて政治性の高い問題だと思ってきたのだが・・・。

またこの時代の南九州では「冨や権力の集積はみられない。階層分化は進まず、特定の有力者が輩出しなかった」という。

それはいったいどういう社会なのか?
縄文時代的な階層分化のない社会がずっと続いていたという社会なのか?
でも、地下式横穴墓だって、それなりの労働力を必要とし、私には誰でも作れるものには思えない。
甲冑や太刀など武器類の副葬品だってあるではないか?
それは階層分化の証拠ではないのか?

私が第一線の歴史学・考古学を学んだのは15年も前だ。
その後、日本の考古学がどういう方向に進んだのか、まったく勉強不足である。

とはいえ、なんとも釈然としない学説紹介の記事だった。

続いて「『続日本紀』巻17、天平勝宝元年12月紀の講読。

前回に引き続き宇佐八幡神の入京について着目点を説明。

入京後、神前読経(悔過)が行われていること。
ご神体を抱いた禰宜尼大神杜女の輿が紫色で「乗輿」(天皇用)と同じであること。
大神に「一品」、比売神に「二品」と授けられた位階が親王・内親王の品位であること。
東大寺への行幸が、宇佐大神に天皇・上皇・皇太后がつき従うような形で行われていること。

続いて、行幸時の東大寺大仏の状況を説明。
本体の鋳造が終了し、「鋳浚(いさらえ)」=表面の調整に入る直前。
塗金作業はまだだが、取りあえず盧遮那大仏が全身を現した段階。
螺髪(らほつ)の鋳造を開始。
大仏殿の造営もまだ。
行幸にともなう封戸4000戸の施入(数量は問題有り)は、東大寺の寺院財政の基盤を作る上で重要。

さらに、行幸時に左大臣橘諸兄によって宣(の)られた詔の主体について。
「朕」は明らかに聖武太上天皇。
日本令では、太上天皇も「詔勅」を出せるが、この時期の王権のあり方(孝謙天皇の実質性)は再検討が必要か。

12時、終了。
(続く)

10月3日(水) 今日の古代史(八幡神の性格) [お仕事(古代史)]

10月3日(水) 曇りのち小雨  東京  22.7度  湿度87%(15時)

8時、起床。
起きようと思ったら、左脚のふくら脛が攣った。
なかなか戻らない、痛さに耐えてなんとか起き出す。

朝食はピーチデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧にかかろうと、椅子に座ったところで、また左脚が攣る。

身支度。
紺地に紫の大きな花柄のカシュクールのチュニック(7分袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

10時少し前、家を出る。
先週から左の坐骨神経痛が出ていて腰が痛い。
長い夏休みで身体がなまっているところに、いきなり2コマ講義を立ってしたので左のお尻から太腿にかけて筋肉痛(左が軸足なので)。
加えて今朝、左のふくら脛がひどく吊って・・・、左側は腰、お尻、太腿、ふくら脛と全部痛い。
歩いていて、ときどきズキッと痛み、駅まで17分程の道が遠く感じる。

東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。

「『続日本紀』巻17、天平勝宝元年11月紀の講読。
まず、「南薬新宮」で行われた孝謙天皇の大嘗祭について。

「南薬園新宮」は奈良県大和郡山市の薬園八幡宮の付近に想定される。
現在の鎮座地ではなく、お旅所になっている旧鎮座地のあたり。

なぜ孝謙天皇が平城宮ではなく、平城京の南郊外のこの地で大嘗祭を行ったのか?理由がわからない。
先帝の崩御による代替わりなら崩御した宮殿での神事を避けることもあったかもしれないが、今回は譲位による代替わり。

聖武天皇から孝謙天皇への継承は、仔細にみると、いろいろ謎がある。
これもそのひとつ。

次いで、宇佐八幡神の入京について。
まず宇佐八幡神の性格について解説。

宇佐八幡は、お稲荷さんと並んで、最も数多い神社である八幡さまの本家で、今では、応神天皇・比売大神・神功皇后(八幡三神))を祭神として、皇室と所縁の深い神(伊勢神宮に次ぐ皇室第二の宗廟)のふりをしている(だから皇族の分れの源氏の氏神になっている)。

しかし、歴史的に見るとかなり「怪しい」神様である。
以下、要点を箇条書きにすると・・・。
(1) 日本神話(『日本書紀』『古事記』)に登場しない。
宇佐地域の豪族宇佐君が奉祭する、ヤマト王権との関わりはほとんどない一地方神だった可能性が高い。

(2) 正史への登場もかなり遅い。
初見は『続日本紀』天平9年(737)4月朔日で「新羅无禮の状」を告げる奉幣に預かっている。
この時、奉幣を受けた西海道の神社は、筑紫住吉社と香椎宮。
次いで、天平9年(737)9月に藤原広嗣が大宰府で反乱した際、征討大将軍の大野東人が八幡神に祈請している。
そして翌13年(741)閏3月24日に「宿祷を賽す」(祈願を適えてくれたお礼)として、秘錦冠一頭、金字最勝王經・法華經各一部、度者(得度許可枠)十人、封戸、馬五疋が朝廷から奉られ、三重塔一區の造営が行われている。
どうも、広嗣の乱が、宇佐八幡宮と朝廷との本格的な縁の始まりらしい。

(3) にもかかわらず、登場後、短期間で皇室の祖先神的性格をもつようになる。
天平13年の記事には「八幡神宮」とあり、すでに皇室の祖先神化が始まっているように思われる。
天平勝宝元年(749)12月の入京後の神階叙位では「(八幡)大神一品、比売神二品」で、品位(親王・内親王の位)が授けられている。
称徳天皇代には皇位継承に口を挟んむようにすらなる(宇佐八幡神託事件)。

(4) 神意を言葉として伝えることは稀な日本の神としては、異例におしゃべり(多弁)な「託宣神」である。
そのことは、宇佐八幡に神様の言葉(託宣)を記した「宇佐八幡託宣集」という本があることからもわかる。
今回の入京でも「我、天神地祇を率ひいさないて、必ず成し奉らむ。事立るに有らず。銅の湯を水と成し、我身を草木土に交へて障ることなくさなむ」
と明確な言葉で盧舍那大仏造営を援助する意思を述べている。
神様がしゃべる、と言っても、実際は巫女に憑いて、その口を借りてしゃべるわけで、シャーマニズムにおける神とシャーマンの形に近い。

(5) 「託宣」、つまり神の言葉を取り次ぐのは女性で地位も高い。
「祝(はふり)」もしくは「禰宜」の大神杜女の位階(外従五位下→従四位下)は、「主神司」の大神田麻呂(従八位下→外従五位下)のそれよりかなり高い。

(6) 早くに神仏習合が行われている。
天平13年の金字最勝王經・法華經奉納と三重塔の造営。
今回の入京で大神杜女が「禰宜尼」と称していること。
こうした神仏習合形態は、他の神社に比べて早いし顕著である。

以上のことから、まとめ。
八幡神は、「素姓」がいたって怪しく、奈良時代中期の聖武天皇代に急速に台頭した新興の神であり、その性格は我が国在来の神とはかなり異なっていること。
そして、シャーマニズムの影響を強く受けていると思われること。
それが、朝鮮半島(おそらく新羅)伝来の北方系シャーマニズムなのか、九州に残存していた南方系のシャーマニズムかはわからないが・・・。
仏教と野習合を考えると、どうも後者のように、私には思える。

12時、終了。
(続く)

9月24日(月)今日の古代史(長岡遷都) [お仕事(古代史)]

9月24日(月)  晴れのち曇り  東京 28.1度  湿度 52%(15時)

7時過ぎ、起床。

シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。

化粧と身支度。
青・白・黒の不思議な柄のロングチュニック(2分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

9時前、家を出る。
今日は晴れて日差しはあるが、空気はさわやかで、駅まで15分歩いてもほとんど汗をかかない。

東急東横線で渋谷に出て、京王井の頭線に乗り換え、9時47分発の急行に乗る。

追加プリントを印刷。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。

延暦3年(784)の長岡遷都について資料の講読と解説。
桓武天皇は、延暦3年11月11日、まだ建設途上の山背国長岡宮に移幸し、ここに実質的に奈良時代は終わった。

20日には新宮の地主神となる賀茂上下、松尾、乙訓の社に勅使が立ち神階を加え、社殿を収蔵する。
24日には母親(故内大臣藤原良継の室阿倍古奈美)の喪に服していた皇后藤原乙牟漏と、中宮高野新笠(天皇の母)など後宮の女性たちも長岡に移る。

ちなみに、皇后藤原乙牟漏が氏社である春日神社の神を長岡宮の北西郊外に勧請したのが大原野神社で、以後、藤原氏の皇后が奉祀する神社になる。

12月2日には、中納言藤原種継以下、造宮に功労があった官人たちに位階が与えられた。

それにしても、遷都予定地の視察が5月16日、遷都決定が6月10日、準備期間6か月での遷都はあまりにあわただしい。
前後の例をみると、平城遷都は2年2カ月、同じ桓武天皇による平安遷都は1年9カ月かかっている。

このよく言えばすばやく迅速な、悪く言えばあわただしくまるで逃げるような遷都にこそ、平城棄都・長岡遷都の本質がある。

そこらへんの整理は次回に

12時、終了。

9月19日(水) 縄文時代の小豆、塩津港遺跡、孝謙天皇大郡宮 [お仕事(古代史)]

9月19日(水) 曇り  東京 29.1度 湿度75%

8時、起床。

朝食はアップルデニッシュとコーヒー。

シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。

白地に黒の斑模様のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

今日は、暑さが和らいが湿度が高く、私が苦手な気候。
とはいえ、9月も半ば過ぎとしては、まだ気温が高い(平年より+2.7度)。

東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。

まず、考古学の話題を2つ。
京都市西京区大原野の上里遺跡縄文晩期(約2800年前)の小豆が栽培種(にきわめて近い)ことが判明。
緑豆、大豆に続いて小豆も水田稲作に先行する縄文農耕の作物であることが、ほほ確定的になった。

どうやって、食べていたのだろう。やっぱり茹で小豆かな。

ちなみに、縄文農耕の作物として、ほぼ確定的なのは、以下の3類。
(1) イネ(陸稲が主)、ムギ、アワ、キビ、ヒエなどのイネ科の雑穀。
(2) タロイモ(里芋、)ヤムイモ(山芋)などのイモ類。
(3) 緑豆、大豆、小豆などの豆類。
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縄文期の京都でアズキ栽培 上里遺跡出土資料で判明

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上段から野生種、上里遺跡出土のアズキ、宝早生小豆、大納言小豆。出土アズキは野生種より肥大化している(西本豊弘教授提供) 

京都市西京区大原野の上里遺跡から出土した縄文晩期(約2800年前)のアズキが栽培種だったことが、市埋蔵文化財研究所や国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究者によって明らかになった。出土アズキの形状を野生種と比較すると明らかな差が現れ、研究者は「稲作以前の農耕を証明する完全な資料」としている。

市埋文研が2001~09年に実施した発掘調査で、炭化した豆類が約100点出土し、栽培の可能性が指摘されていた。豆類をアズキと確定した後、博物館の西本豊弘教授たちが計測できる形状を保つ10点について、野生種(ヤブツルアズキ)や現在栽培されている「宝早生小豆」「大納言小豆」と比較した。

その結果、全長や幅が野生種と重なる個体もあったが、豆の「へそ」の長さと、へそを中心とした厚みで明確な差が現れ、現在の栽培種に近かった。一般に豆類は栽培化が進むと厚みが増すとされている。また、出土アズキは炭化して縮んでおり、本来はもう少し大きいとみられることもあって「アズキが栽培され、食料として利用されたことは確実」と結論づけた。

全国の縄文遺跡から豆や雑穀類が出土し、栽培の可能性が指摘されている。山梨県の遺跡では07年に、土器に残る大豆の痕跡から、大豆を栽培していた例が確認されている。

縄文時代に詳しい京都大の泉拓良教授(考古学)は「出土した実物で栽培が実証された初の例といえる。縄文人が栽培というアイデアを持って種を選択できる農耕民の素質を持っていたことを示している。今後は、アズキの起源や栽培化のプロセスの解明が課題になる」と話している。

研究結果は動物考古学研究会刊行の学術誌「動物考古学29号」に掲載された。

『京都新聞』2012年07月27日 10時55分
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120727000057
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二つ目は、滋賀県長浜市塩津で、平安時代後期(12世紀中頃)の港湾遺跡が発見されたこと。

琵琶湖の湖上交通は、古墳時代(たぶんもっと以前から)から明治時代前期まで畿内と北陸(敦賀港)を結ぶ物資や人の輸送の重要ルートだった。
塩津は琵琶湖水運の最北の拠点で、その名の通り、越前・若狭も塩が山越えで運び込まれ、琵琶湖を行く舟に積み込まれた港。

実は、平安時代に遡る琵琶湖の港湾遺跡はほとんど出土していない。
これは琵琶湖の水位が関係している(平安時代より現代の方が高い)。

そもそも、古代の港湾遺跡自体がほとんど出土していない。
もう少し、水辺(もしくは水中)の考古学を重視しないと・・・。
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塩津港、初の遺構 平安後期の護岸施設
20120713090157shiotu2.jpg
矢板で囲まれたのが発掘現場で、その中の右端が当時の岸辺。水面は今より1メートル近く低かった(滋賀県文化財保護協会提供)
20120713090153shiotu.jpg
石が敷き詰められた「礫敷」。手前にあるのが水際に施されていた横矢板で、杭も至る所に打たれている(長浜市西浅井町塩津浜) 

滋賀県長浜市西浅井町の塩津港遺跡で、平安後期(12世紀中ごろ)の塩津港の入り口と推測される護岸施設が見つかった、と滋賀県文化財保護協会が12日、発表した。万葉集にも登場し、古代から北陸と京都を結ぶ琵琶湖水運の要衝だった塩津港とみられる遺構が見つかるのは初めて。協会は「繁栄を極めた塩津港の位置、構造、遺物を知り、中世の生産流通を解明する手がかり」と期待している。

調査は、国道8号塩津バイパス建設に伴い5月から約250平方メートルで行われている。地表を約2メートル掘り下げると、当時の琵琶湖を高さ1・5メートルほど埋め立てた大規模な護岸施設の遺構が確認できた。

平たんな部分から琵琶湖に向かって長さ約10メートルほど緩やかに傾斜がある。その水際には湖岸の長さ8メートル、幅2・5メートル、高さ20~30センチにわたって、人の頭ほどの大きさの石を敷き詰めた礫敷(れきじき)が施してあった。突端は杭(くい)が打たれ、横矢板で礫敷を波から守っていた。平たん部分では井戸や越前焼の甕(かめ)2基が見つかり、地下から多量の土師器(はじき)、中国製の磁器、船釘(ふなくぎ)などが出土した。

礫敷は、同時期に造られた鳥羽離宮(京都市)で使われた高度な石敷きの技術を応用しているという。

滋賀県立大の市川秀之教授(日本民俗学)は「河川の護岸で最古とされる徳島県川西遺跡(鎌倉~室町時代)よりさらに古く、土木技術の歴史を知る上で貴重な発見」と話す。

『京都新聞』2012年07月13日 09時04分
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120713000018
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残りの時間、巻17、天平勝宝元年10月紀の講読。

孝謙天皇の大郡宮・薬園宮について解説。
実は、大郡宮(おおごおりのみや)の性格と場所については、若い頃、『歴史読本』(1985年9月号)のコラム「今月の日本史」に書いたことがある。
大郡宮は、平城京の南、羅城門外に置かれた外国使節の慰労(郊労)施設に関係するという推定。
確実な証拠がない推測なので論文にはしなかったが、30数年経った今でも私の説を否定する見解は出ていないと思う。

12時、終了。

(続く)

9月5日(水) 残暑ぶり返す [お仕事(古代史)]

9月5日(水) 晴れのち曇り  東京  33.2度  湿度 50%(15時)

8時、起床。

朝食はアップルデニッシュとコーヒー。

シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。

化粧と身支度。
青・水色・グレー・白の斜め変形縞のチュニック(2分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

10時前、家を出る。

また残暑がぶり返す。
今日の最高気温は平年より3.7度も高い。東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
巻17、天平勝宝元年10月紀の講読。

河内智識寺行幸について解説。

天平12年、聖武天皇は難波行幸の途次、智識寺に立ち寄り、盧舎那仏を拝し、同時に仏に結縁する人々がその財力に応じて協力して仏寺を建立するという方法に感銘を受ける。

それが、東大寺の盧舎那大仏の建立につながっていく。

『続日本紀』には「行幸」とあるのみで、孝謙天皇が智識寺に行ったことは確かだが、聖武太上天皇が(そして光明皇太后も)同行したかは確証がない。

しかし、東大寺の盧舎那大仏の造営が進み、完成への目処がついた(仕上げ・塗金段階)時点で、「原点の地」を再訪したのではないだろうか。

12時、終了。

電車で学芸大学駅に移動。
昼食は、久しぶりに西口の「てんや」でオールスター天丼(650円)。
120905.JPG

東口商店街の「ドトール」でコーヒー・ブレイク。

自由が丘の書店で買ってきた『週刊・絵巻で楽しむ源氏物語』を読む。
いよいよ(と言うか、やっと)「若菜・下」である(購入が1週間遅れ)。

「仕事部屋」に寄って、郵便物の整理と、週末に着る着物の準備。
着物、この残暑でどうしようか?と思う。
でも、9月になって夏の薄物は着たくない。
やはり、痩せ我慢で、秋単にするしかない。

部屋が暑いので、再び東口商店街の「ドトール」へ。
ヨーグルンとコーヒーで涼みながら、駒沢女子大学での講演録(「男の娘」なるもの)の手直し作業。
3時間ほどかかって、とりあえず、最期まで朱を入れる。
原稿なしでしゃべった講演録なので直しに手間がかかった。
でもまだ、冗長だ。
もう一度、最初から手を入れないと・・・。

18時、自宅最寄り駅前の「ドトール」でパートナーと待ち合わせ。
「東急ストア」で買い物をして一緒に帰る。

19時、帰宅。

夕食の支度。
新さんまのお刺身、茄子とオクラと卵のお汁を作る。

食後、2時間ほど眠る。

お風呂に入って、髪を洗う。

就寝、2時。

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