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麻布霞町「霞ホテル」 [性社会史研究(連れ込み旅館)]

6月1日(水)

1950年代、麻布霞町にあった「霞ホテル」の場所が判明。
麻布霞町(霞ホテル・19531030).jpg
広告(『内外タイムス』1953年10月30日号)の地図にあるように、港区の麻布霞町(現:西麻布1、3丁目)の交差点(現:西麻布交差点)で、「六本木通り」を行く都電6系統(渋谷~新橋)と「外苑東通り」を通る7系統(四谷三丁目~品川駅前)がクロスする。

「霞ホテル」は、1961年現況の住宅地図によると、霞町交差点の北東にあった。
電停からは徒歩1分もかからない抜群の立地だった。
麻布霞町(霞ホテル・1961年).jpg
しかし、よく見ると、東京オリンピック開催に関連する「六本木通り」の拡幅に伴い、霞町交差点を大きく北に拡大する計画線の内側に入っている。

実際、1963年の航空写真では、すでに拡幅工事が始まり、「霞ホテル」の姿はなくなっている。
麻布霞町(霞ホテル・1963年).jpg
ところが、念のため1947年の航空写真を見ると、不鮮明だが、外苑東通りに沿って延びる空襲による焼け跡の東(右)側に、それらしき輪郭が読みとれる。
麻布霞町(霞ホテル・1947年).jpg
屋根が白く写っているので瓦葺きではなくコンクリートの洋風建築だと思う(だから焼けなかった?)。

以下は想像だが、戦災で焼け残った洋風建物を米軍関係者向けのホテルに転用したのが、米軍関係者が減った50年代半ば頃から「連れ込みホテル」化していったのかも。

ということで、「霞ホテル」の場所は、現在の西麻布交差点の北東部(の路面)ということになる。

やっと、麻布在住の館淳一さんの質問にお答できた。



渋谷「大向通」・「大映通」 [性社会史研究(連れ込み旅館)]

5月14日(土)

また、1950年代の渋谷のことを調べていたのだが、通りの名前が今と違いすぎで、戸惑うことが多い
「国際通り」が現在の「井の頭通り」(西武デパートA館とB館の間の道路)であり、その由来がA館の場所にあった「渋谷国際(映画館)」であることは、以前にも書いた。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-11-09

では「大向(おおむこう)通り」は?
渋谷(ホテルエコー・19531126).jpg
↑ 「ホテルエコー」の広告(1953年)
道案内に「大映先 大向通」とある。

これは、現在「東急百貨店・本店」(1967年開店)がある場所が、1960年代半ばまで「渋谷区立大向小学校」(その後、宇田川町に移転し、1997年に統合に伴い神南小学校に改称)だったことを知らないとわからない。

大向小学校は、高級住宅街の松濤と花街(かがい)の円山町の子供が一緒に学んでいた小学校で、大正期までは、周囲に「大向田んぼ」と呼ばれる水田が広がっていた。

つまり、「大向通り」は、現在の「文化村通り」の一部に相当する(「文化村通り」になるまでそ間は「東急本店通り」と言っていた)。
現在の「文化村通り」は東急本店のY字路で左(西)に折れるが、その部分は「栄通り」と呼ばれていた。
「大向通り」は、Y字路からさらに北西に進み、以前は「大向通り」に沿った両側が松濤町・神山町と宇田川町の間に細長く割り込む「大向通」という町だった(現在は松濤・神山・宇田川に分割して組み込み)。

その由来は古い字(あざ)名なのだが、現在、「大向」という地名がほとんど残っていない(渋谷区地域交流センター・大向と区立大向保育園くらい)ので、なかなか推測がつかない。

SCN_0155 (3).jpg
↑ 1961年頃の住宅地図「渋谷区立大向小学校」とその周辺。
学校の周囲には「連れ込み旅館」がたくさんあった。
左上部に広告の「ホテルエコー」が見える。

ところで、同じころの広告に「大映通」という名称も見える。
渋谷(ホテルニューフジ・19550624).jpg
↑ 「ホテル ニューフジ」の広告。
道案内に「大映通 消防署隣」とある。

稚拙な地図だが、「消防署」は1961年頃の住宅地図に見える「渋谷消防署栄通出張所」のことで、「大映通」が現在の「文化村通り(栄通り)」であることがわかる。
ちなみに、「ホテル ニューフジ」の場所は、住宅地図の左端「ホテル石亭」のある場所。

つまり「大向通り」=「文化村通り(栄通り)」=「大映通り」であり、「大映通り」は「大向通り」の異称ということになる。
先に紹介した「ホテルエコー」の広告に「大映先 大向通」とあるように、「大向通り」のランドマークは「渋谷大映(映画館)」だったので、「大映通り」という異称が生じるのは当然だった。

「国際通り」にしろ「大映通り」にしろ、1950年代の都市における映画館の重要性がよくわかる。

道玄坂下(1963)(6).jpg
↑「渋谷大映(映画館)」の場所(前掲の住宅地図の右隣)。
最近まで大型パチンコ店「マルハンパチンコタワー渋谷」があった(2016年1月17日閉店)。

佐野洋『密会の宿』ー「連れ込み旅館」が舞台の推理小説ー [性社会史研究(連れ込み旅館)]

5月5日(木・祝)

アスパラカス・スープをすすりながら、文庫本を読む、静かな夜。
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何を読んでいるかというと、佐野洋『密会の宿』。
連れ込み旅館「くわの」を舞台にした連作推理小説。

佐野洋(さの よう 1928~ 2013年)は、1960~80年代を中心に活躍した推理小説家。
大仕掛けの犯罪や奇抜なトリックを排除し、日常性を重んじた穏やかで現実的な作風が特色。
つまり、作家としては多作が可能で、読者としては気軽に読める。

1973年から2012年まで39年間『小説推理』誌に推理小説時評「推理日記」を連載。
1997年に推理文壇への長年の貢献から日本ミステリー文学大賞を、2009年には 菊池寛賞を受賞するなど、晩年は推理文壇の大御所的存在だった。

「密会の宿」シリーズは、佐野が作家活動の初期から書き続けた連作シリーズで、4冊が出ている。
1 密会の宿(アサヒ芸能出版、1964年、 後に徳間文庫、1983年)
2 仮面の客(徳間文庫、1987年)
3 似ているひげ(徳間文庫、1988年)
4 周囲の人々(徳間文庫、1991年)

いずれも、連れ込み旅館「くわの」を舞台に、その女主人桑野厚子と、その愛人で「くわの」に同居する久保隆(ライター)が主人公。

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興味深いのは、第1冊『密会の宿』の初出。
文庫版には詳しい巻号が記されていなかったので、調べると・・・。
第1話「ご内聞に」『講談倶楽部』1962年1月号
第2話「乱れた末に」『講談倶楽部』1962年2月号
第3話「残念ながら」『講談倶楽部』1962年3月号
第4話「お手をどうぞ」『講談倶楽部』1962年4月号
第5話「知らぬが仏」『講談倶楽部』1962年5月号
第6話「論より証拠」『講談倶楽部』1962年6月号
第7話「虚栄の果て」『講談倶楽部』1962年7月号か?

1962年12月に終刊となった『講談倶楽部』(講談社)の末期に連載されていることがわかった。
(戸田和光氏作成の「佐野洋 作品書誌」による)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tdk_tdk/sanoyo.html

1962年1月号の初出ということは、「連れ込み旅館」の全盛期(1956~57年頃)から程ない、まだ十分に社会的役割を保っていた時期に書かれたことになり、「同時代資料」としての価値がある。

それに対して第2冊『仮面の客』は『問題小説』1986年2月号~1987年3月号、第3冊『似ているひげ』は『同』1987年6月号~1988年8月号)、第4冊『周囲の人々』は『同』1988年11月号~1991年3月号の連載で、連れ込み旅館」はすでに過去のものになっていて、同時代性はない。
実際、厚子と隆の年齢はそのままに、時代風俗は1980年代に移行していて、「くわの」はすっかり古風な「旅館」という設定になっている。

なぜ1冊目と2冊目の連載が25年近くも間が空いているかというと、1984年11月にテレビドラマ化されたから。
放送枠は「土曜ワイド劇場」(テレビ朝日系)で、1984年から1993年まで8作が放送された。
現代に続く「2時間ドラマ」のはしりで、配役は主人公厚子に松尾嘉代、隆が森本レオ。

ということで、楽しみながら、かつ資料性を意識して第1冊目を読んでいるのだが、「くわの」の所在地がどうもはっきりしない。
厚子と隆が渋谷からタクシーで千駄ヶ谷の「連れ込み旅館」に「見学」に行く話(第3話)があるので、当時の「連れ込み旅館」の密集地である千駄ヶ谷でなく、渋谷駅から遠くない場所のはずだが、第4冊には、「M区」にあると書かれている。
東京で「M区」は「港区」「目黒区」しかないが、港区青山あたりだろうか?。
まあ、小説だから、あえてぼかしているのだろう。

都電と「連れ込み旅館」 [性社会史研究(連れ込み旅館)]

4月30日(土)

1960年代までの東京を語る場合、都電の交通網を頭に入れておくことが重要だ。
東京の「赤線」(黙認買売春地区)の立地がまさにそうで、執筆中の著書に掲載予定の論考「欲望は電車に乗って―都電と「赤線」―」は、その観点から「赤線」の歴史地理を考えてみた。

ところで、現在、作成中の「東京『連れ込み旅館』広告データーベース(1953~57年)」では、鉄道(電車)の駅を基準に地域を分類しているが、都電が走っていた都心エリアでは、それではうまくいかない例がいくつもあることに気づいた。
そこで、都電の電停が案内に記されている事例を集めて簡単な分析を加えてみた。

(1)「石切橋」電停の「ホテル小日向」
小日向(ホテル小日向・19570602).jpg
(『内外タイムス』1957年6月2日号)


「飯田橋下車」とある「ホテル小日向」。
「飯田橋・神楽坂」地区に分類しようと思ったが、「小日向」という名称が気にかかる。
そこで「都電石切橋」を調べると、飯田橋(千代田区)の駅前から目白通り(新宿区と文京区の境界)を走る都電15系統(茅場町~高田馬場)もしくは39系統(厩橋~早稲田)に乗り北へ、大曲、東五軒町を過ぎて3つ目が石切橋の電停。
そこから次の江戸川橋の電停までの間がだいたい「小日向」(文京区)という地域。
「ホテル小日向」の正確な場所はまだ突き止めていないが、石切橋の電停は国電飯田橋駅からだと約1.4kmあるので、やはり都電立地と考えるべきだろう。

(2)「池ノ端七軒町」電停の「清和園」
上野(清和園・19530123).jpg
(『内外タイムス』1953年1月23日号)

ちょっと文字が見にくいが、上野の不忍池の北畔にあった「清和園」という旅館。
正確な所在地は不明だが、現在の地名だと台東区池ノ端二丁目か、文京区根津二丁目と思われる。
広告には「都電七軒町前」とある。「七軒町」は正式には「池ノ端七軒町」で、都電20系統(江戸川橋~須田町)・37系統(三田~千駄木町)の電停。
20・37系は上野広小路ー上野公園(不忍池の南東隅)ー動物園前(不忍池の北東隅)ー池ノ端七軒町というルートで、国電の上野駅前は通っていない。
上野駅南口から上野公園の電停までは約300mほどだが、歩かないといけない。
上野エリアと言えば言えなくもないが、やはり都電立地で別に考えるべきだろう。

(3)「田村町四丁目」電停の「たむら」と「初音」
新橋田村町(たむら・).JPG
新橋田村町(初音・19570707).jpg
(『内外タイムス』1957年7月7日号)

「田村町」と言ってすぐに「ああ」とわかる人は、かなりの「昭和の東京通」だと思う。
JR新橋駅北口から西に200mほど行った「西新橋」交差点が旧「田村町」交差点。
ここにあった「田村町一丁目」電停は「日比谷通り」を走る都電2系統(三田~白山曙町)・37系統(三田~千駄木町)と「外堀通り」を行く5系統(目黒~永代橋)が直交する都電の要所だった。
「たむら」と「初音」があった「田村町四丁目」電停は、「田村町一丁目」の1つ西で2系統と37系統が通っていた。現在の「新橋4丁目」交差点で、港区新橋4丁目」、5丁目、西新橋2丁目、3丁目の接点。
都電2系統の路線をほぼ踏襲して「日比谷通り」の下を走る都営地下鉄三田線の御成門駅と内幸町駅のちょうど中間になる。
国電新橋駅烏森口からは700mほどで、歩けない距離ではないが、やはり都電立地だろう。

(4)「小石川柳町」の「文楽荘」
小石川柳町(文楽荘・19531017).jpg
(『内外タイムス』1953年10月17日号)

「小石川柳町」も「江戸っ子」以外は「それどこ?」だと思う。
「白山通り」を通っていた都電2系統(三田~白山曙町)・35系統(巣鴨車庫~田村町一丁目)で、水道橋ー後楽園ー春日町ー初音町ときて次が小石川柳町。
現在の地名は文京区小石川1丁目で、都営地下鉄三田線春日駅から北に500mほど歩く。
いちばん近い国電の駅は水道橋駅だが、1.3kmほど離れていて、やはり都電に基づく立地。

(5)「白山上」・「本郷肴町」電停の「あけぼの荘」
白山(あおば荘・19541009).jpg
(『内外タイムス』1954年10月9日号)

都電2系統(三田~白山曙町)・35系統(巣鴨車庫~田村町一丁目)で、小石川柳町ー八千代町ー指ヶ谷町と「白山通り」を進んで、次の電停が白山上。
しかし、そこは最寄りではなく「あけぼの荘」へは「本郷肴町」電停の方が近かった。
「本郷肴町」は、「本郷通り」を走る都電19系統(日本橋~王子)で、本郷三丁目から東大赤門ー東大正門-東大農学部-本郷追分町-蓬莱町と進んで、次が本郷肴町。
「あけぼの荘」があった場所は、広告の地図で見ると、文京区駒込蓬莱町(現:向丘2丁目)と思われ、現在、「本郷通り」の下を走る東京メトロ南北線の本駒込駅が近い。
ここも国電の最寄りの山手線駒込駅や日暮里駅から1.5kmほど離れていて、都電に乗るしかない。

(6)「東大久保」電停の「二條」
新宿抜弁天(二条・19550620).jpg
(『内外タイムス』1955年6月20日号)

新宿駅前(靖国通りの歌舞伎町の前あたり)から都電13系統(水天宮~新宿駅)に乗り、角筈ー四谷三光町ー新田裏ー大久保車庫と進んで、次が東大久保の電停(三光町からだと「四ッ目」ではなく三ッ目だと思う)。
すぐ近くに八幡太郎・源義家ゆかりの「牛込の抜弁天」(厳島神社:新宿区余丁町)がある。
「二條」は所在地が明らかになっている
新宿抜弁天「二条」地図 (2).jpg
↑ 左手、専用軌道を走ってきた都電13系統が路面軌道になるところが「東大久保」電停。すぐ南側の「厳島神社」(ピンク色)が「抜弁天」。図面右端のオレンジ色が「二條」。

1961年現況の住宅地図では「料亭」になっているが、周囲はほとんど一般住宅ばかり。
現在は、抜弁天の地下を都営地下鉄大江戸線が通過しているが、東新宿駅と若松河田町駅のほぼ中間で駅はない。
当時も国電新宿駅からだと直線距離で1.5kmほど、実際は2km近くあり、かなり遠い。都電なくしては考えられない立地だ。

(7)「霞町」電停の「霞ホテル」
麻布霞町(霞ホテル・19531030).jpg
(『内外タイムス』1953年10月30日号)

以前にも紹介したが、港区の麻布霞町(現:西麻布1、3丁目)の交差点(現:西麻布交差点)で、都電6系統(渋谷~新橋)と7系統(四谷三丁目~品川駅前)がクロスする。
現在、東京メトロ日比谷線(1964年全通)が、広尾駅から外苑西通りを北進して、西麻布交差点の地下で東に折れ六本木通りに入って六本木駅を目指すが、霞町付近には駅はない。

(8)「小川町」電停の「神田家」
神田小川町(神田家・19530708).jpg 神田小川町(神田家・19531016k).jpg
(左)『内外タイムス』1953年7月8日号 
(右)『日本観光新聞』1953年10月16日号
神田小川町(おがわまち)といえば、私が講義をしている明治大学駿河台校舎「リバティタワー」から「明大通り」を渡った向こう側で、「性同一性障害」の専門医院として名高い「はりまメンタルクリニック」がある。
駿河台下交差点から淡路町交差点に至る「靖国通り」の両側に広がる町だ。
そんな所に「連れ込み旅館」があったのか?と思うが、この「神田家」ともう1軒「乃じ」の2軒もあった。
「小川町」電停は、「靖国通り」と「本郷通り」の交差点で、5系統が合流し3方向に分岐していく都電の要衝だった。
「靖国通り」を走る2つの系統、10系統(渋谷駅前~須田町)と12系統(新宿駅前~岩本町)は直進し、大手町方面から来る3つの系統の内、15系統(高田馬場駅前~茅場町)は左折し(西へ)、25系統(西荒川~日比谷公園前)と37系統(三田~千駄木町)は右折する(東へ)。つまり、3方向から来やすい便利な場所ということだ。
「神田家」があった「神田錦町一丁目12」は「小川町」の南側で、現在もそのまま神田錦町1丁目。東京電機大学のすぐ東側で、「靖国通り」の下を走っている都営地下鉄新宿線の小川町駅に近い。
ただ、1960年、1961年」現況の住宅地図には、該当の住所に「神田屋」は見えず、「高砂旅館」という名が見える。もしかすると、屋号を変えたのかもしれない。

ちなみに1950年代、産児制限(太田リング)で名高く、同性愛や異性装を学問的に分析した最初の書籍である『第三の性』( 妙義出版、 1957年)の編著者である太田典禮博士(1900~1985年)の診療所も神田小川町交差点の近くにあった。
太田典礼診察所(19551107).jpg
(『内外タイムス』1955年11月7日号)

(9)「蔵前三丁目」電停の「三福」
蔵前(三福・19540305k).jpg
(『日本観光新聞』1954年3月5日号)
「蔵前三丁目」電停は、都電22系統(新橋~南千住)で浅草橋駅前―蔵前一丁目と進んで、その次。
さらに厩橋―駒形二丁目-浅草とつながる。
現在、この場所には都営地下鉄浅草線の蔵前駅がある。
都電の停留所が地下鉄の駅に受け継がれている例でわかりやすい。
ちなみに、「国技館」は1954~1984年の間、蔵前にあった(跡地は、東京都下水道局の処理場と「蔵前水の館」)。

(10)「神谷町」電停の「翠明荘」
神谷町(翠明荘・19550213).jpg
(『内外タイムス』1955年11月7日号)

「翠明荘」がある神谷町といえば、現在、東京メトロ日比谷線の神谷町駅がある。
しかし、その開業は1964年3月のこと。
それ以前は、都電3系統(品川駅前~飯田橋)、4系統(五反田駅前~銀座二丁目)、33系統(四谷三丁目~浜松町一丁目)の電停があった。
電車の駅からは遠いいが、都電を利用すれば、それなりに便利なところだった。
現在の神谷町駅は、ほぼ電停の位置を踏襲している。

(11)「虎ノ門」電停の「虎ノ門ホテル」
虎ノ門(虎ノ門ホテル・19550315).jpg虎ノ門(虎ノ門ホテル・19550315) (2).jpg
(『内外タイムス』1955年3月15日号) 地図は右が北。

「虎ノ門ホテル」がある虎ノ門には、現在、東京メトロ銀座線の虎ノ門駅がある。
その位置は、「外堀通り」と「桜田通り」の交差点の地下で、かっての「虎ノ門」電停の位置を踏襲している。
銀座線は戦前の開通で、虎ノ門駅の開業は1938年11月のこと。
なのに、地図には地下鉄の駅が見えず、都電の路線だけが描かれている。
新橋方向(下)から田村町一丁目を経て来るのが都電6系統(渋谷駅前~新橋)、神谷町方向(左)から西久保巴町を経て来るのが都電3系統(品川駅前~飯田橋)と8系統(中目黒~日比谷駅前)。(12)の神谷町と同様、都電を使えば便利な場所だった。
それにしても、なぜ地下鉄は広告に記されないのだろう。

(12)「赤坂見附」電停の「ホテル赤坂」と「山王下」電停の「しのぶ」
赤坂見附(ホテル赤坂・19550513).jpg赤坂見附(しのぶ・19570428).jpg
(左)『内外タイムス』1955年5月13日号 (右)『同』1957年4月28日号

同じ、赤坂見附にある旅館の広告。
「ホテル赤坂」は「都電赤坂見附下車」となっているが、「旅荘しのぶ」は「地下鉄赤坂見附下車」「都電山王下」と併記されている。
「しのぶ」の広告は、今まで集めた「連れ込み旅館」の広告の中で、地下鉄利用が明記されている唯一のもの。
「赤坂見附」の電停は、3系統(品川駅前~飯田橋)、6系統(渋谷駅前~新橋)、9系統(渋谷駅前~月島通八丁目)が通過していた。
「山王下」電停は、3系統で赤坂見附の1つ新橋寄り。
新橋―田村町一丁目―虎ノ門―溜池―山王下―赤坂見附というルートになる。
その赤坂見附には、すでに戦前に東京地下鉄(現:東京メトロ)銀座線が通り、電停とほぼ同じ場所の地下に赤坂見附駅が1938年11月に開業している。
(現:東京メトロ丸の内線の開業は1959年3月なので、まだ。)

それなのに「赤坂ホテル」の広告は、地下鉄の存在を無視している。
やはり、「連れ込み旅館」の客は、地下鉄より都電をよく利用したということだろうか。
その証明は難しいが、少なくとも、限られた広告のスペースに、どちらか1つの交通情報を記す場合、地下鉄よりも都電の方が優先されたことは、間違いなさそうだ。

1957年当時、地下鉄はまだ2系統しかなかった(帝都高速度交通営団銀座線・丸の内線)し、それに比べて41系統を擁した都電の利便性がはるかに高かったということだ。
その点、地下鉄の利用価値が極めて高い(12系統)現在の東京の感覚を、この時代の歴史を考える時には修正しないといけない。


東京「連れ込み旅館」広告データーベース(1953~57) [性社会史研究(連れ込み旅館)]

4月29日(金・祝)

先週に引き続き、昨夜から東京の「連れ込み旅館」広告のデーターベースの作成作業。

1953~56年(昭和28~31)だったのを1957年(昭和32)までに拡張して、約100点を増補。
全450点、軒数にして282軒。

さらに、画像データーベースから地域別リストを作成。

都心エリア(45軒)
城西エリア(104軒)
城南エリア(76軒)
城北エリア(48軒)
城東エリア(9軒)

極端な西高東低のアンバランスが見られる。

さらに詳しく見ると、こんな感じ。

千駄ヶ谷(34軒)
渋谷(24軒)
新宿(20軒)
池袋(17軒)
代々木(14軒)
大塚(9軒)
長原・洗足池・石川台(7軒)
高田馬場(6軒)
新大久保・大久保(6軒)
原宿(6軒)
大森(6軒)

あくまでも広告を出している旅館だが、いろいろ興味深い。

「連れ込み旅館」広告の画像データーベース [性社会史研究(連れ込み旅館)]

4月24日(日)

金曜日の夜から週末を費やして、1953~56年(昭和28~31)の東京の「連れ込み旅館」広告の画像データーベースを作る。

5年ほど前に同じようなものを作ったのだが、パソコンのトラブルで失われてしまい、一から再構築。

『内外タイムス』に掲載されている広告から抜粋してスキャニングしていく。
前回はデジカメで撮影していたので画像に歪みがあったが、今回は歪みが少なく画像の精度も高い。
また、前回は入っていなかった掲載年月日も記録して、学術的使用に耐えられるようにする。
2日夜鍋して(眠るのは朝7~12時)、350点ほどを収集。
まだ少し拾い残しはあると思うが、やっと一段落。

かなり疲労・・・。
でも、これで後が楽になる。
このデータベースを基に、この時期の東京の「連れ込み宿」の設備と立地を分析した論考を書くつもり。

参宮橋(みやこホテル・19560304).jpg
↑ 参宮橋「みやこホテル」(1956年03月04日)
お風呂がたくさんある旅館。
しかも、25→30→35と増えていく。

麻布霞町(霞ホテル・19531030).jpg
↑ 麻布霞町「霞ホテル」(1953年10月30日)
麻布霞町で都電6系統(渋谷~新橋)、7系統(四谷三丁目~品川駅前)がクロスする。
当時の交通路としての都電の重要性がわかる広告。

渋谷(山のホテル・19550702).jpg
↑ 渋谷「山のホテル」(1955年07月02日)
渋谷の道玄坂上にあるホテルだが、すっかり高原の山荘のイメージ。

蒲田(川梅・19560621).jpg
↑ 蒲田「川梅」(1956月06月21日)
謎の「ヨーマ風呂」。
「ローマ風呂」の誤植かと思うが、何度も出てくる。

登戸の「旅館 新雪」 [性社会史研究(連れ込み旅館)]

9月9日(水)
大雨の中、所用で登戸に行ったので、1950年代後半から存在が確認できる連れ込み旅館「新雪」を撮影してきた。
IMG_2728(2).jpg
↑ 看板。

登戸(新雪・19570627).jpg
↑ 『内外タイムス』1957年6月27日号(『新雪』の広告のたぶん初見) 
「初夏はボート 鮎釣りが招く ロマンチックな 多摩川畔」
登戸(新雪・19570713).jpg
↑ 『内外タイムス』1957年7月13日号
「夏はロマンスの多摩川へ 粋でモダンな皆様の 新築旅館 新雪」
登戸(新雪・19570823).jpg
↑ 『内外タイムス』1957年8月23日号 
キャッチコピーは「多摩川の涼風が誘う」で、風情ある多摩川の景色が描かれている。
でも、富士山はこの方向ではないと思う。

駅名が「登戸多摩川駅」だったのは1955年(昭和30)4月~1958年(昭和33)3月の間。

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↑ 全景。左の道路の突き当りが多摩川の堤防。

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↑ 正面入口。和風な造りと、右手のハローウィン風の飾りが微妙にすれているのがご愛敬。

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↑ 料金。比較的安い。

1950年代に数多く建てられた「連れ込み旅館」で、同じ場所・同じ屋号で、現在でも営業を続けている旅館は極めて少ない。
「新雪」は、60年も営業を続けているわけで、建物は建て替えられているものの、超老舗と言える。

10月10日(金)小田急線「稲田多摩川駅」ってどこ? [性社会史研究(連れ込み旅館)]

10月10日(金)  曇り   東京   26.3度   湿度53%(15時)
9時、起床。
朝食はグレープフルーツ・デニッシュとコーヒー。
まだ風邪が治っていないので、外出の予定を明日に延期して自宅で静養。

昼食は、「いわちく」の銀河璃宮まかないカレー(ポーク)。
141010-1.JPG

午後は、資料の画像取り込み作業。
登戸(福田屋・19530404) (3).jpg
この旅館の所在地は、小田急線の「稲田多摩川駅」。
一瞬、「どこだっけ?」と思う。
すぐにわかった人は、かなりの鉄道通か、小田急沿線に昔から住んでいた人。
答えは、現在の小田急線「登戸駅」。
小田急の「登戸駅」は、1927年(昭和2)4月1日の開業から1955年(昭和30)3月31日まで 「稲田多摩川」という駅名だった。
この広告はその時代のもの(『内外タイムス』1953年4月4日号掲載)。
1955年(昭和30)4月1日に「登戸多摩川駅」と改称された。
登戸(新雪) (2).jpg
この「新築旅館 新雪」の広告は「登戸多摩川駅」時代のもの。
現在の「登戸駅」になるのは、1958年(昭和33)4月1日。
ちなみに、国鉄南武線の駅名は、1927年(昭和2) 3月9日の開業以来、ずっと「登戸駅」。
この「福田屋」と「旅館新雪」という連れ込み旅館が登戸のどこらへんに在ったのか、まだ調べていない。
1950年代の登戸が、ちょっと訳有りの男女が、いつもより少し遠出して多摩川の風光を楽しむ場所だったことがわかる。

夕食は、簡単に。
お刺身。
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鶏団子の中華スープ。
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野菜サラダ。
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お風呂に入って温まる。
就寝、2時。

鶯谷ラブホテル街の形成過程(その1:現状把握) [性社会史研究(連れ込み旅館)]

5月11日(土)
ゴールデン・ウィーク、「両毛線の旅」の帰路、上野終点の臨時電車に乗った。
日が暮れてもう少しで上野駅に到着する直前、JR山手線鴬谷駅の前後で車窓の左側に林立するラブホテルのネオンにあらためて驚いてしまった。
鴬谷駅北口周辺の根岸1丁目、2丁目は、新宿歌舞伎町2丁目、渋谷円山町、五反田と並ぶ東京の四大ラブホテル街である。
いや、その軒数と密集度からして、東京区部最大のラブホテル街と言うべきだろう。

ただ、東京西部(城西・城南地区)を生活圏にしてきた私にとって、新宿歌舞伎町2丁目と渋谷円山町はそれなりに馴染みがあるが、鴬谷はまったく土地勘がない。
なにしろ、鴬谷駅は29ある山手線の駅の内、たぶん一度も乗り降りしていない唯一の駅だと思う。
なぜなら私が山手線に乗るのは、渋谷、恵比寿、目黒駅のどれかだが、鴬谷駅はその真反対、ほぼ180度向う側で、いちばん時間がかかるからだ。
いつだったか、上野公園の博物館に行った時に気が向いて新坂を下って入谷まで歩いたことがあったが、鴬谷駅は素通りして、東京メトロ日比谷線の入谷駅から電車に乗った。

私は、サブ・ワークとして1950年代の「連れ込み宿」のことを調べているので(なかなか進まないが)、その関係で新宿区や渋谷区の状況、つまり、1950年代の「連れ込み宿」の立地と、その後のラブホテル街の形成の関係については、ある程度の見通しは得ている。
簡単に結論を言えば、両者は必ずしも一致しない。
少なくとも1950年代に形成される「連れ込み宿」街が1980年以降のラブホテル街にすんなり発展するとは限らないということ。

さて、鴬谷だ。
先日、知人のFaceBookで、正岡子規ゆかりの「根岸の里」のひどい現状が話題になり、ラブホテル街の形成について、まったく実証性がない話が通説化している現実に気付いた。
ということで、鴬谷ラブホテル街の形成過程を調べてみることにした。
まず、手始めは現状把握である。
そこで、ネットで見つけた「鶯谷駅のラブホテル」というサイトを参考に、2012年の住宅地図を赤鉛筆で塗っていく作業をした。
http://fujoho.jp/index.php?p=hotel_list&s=22
ちなみに、私は「地理学の基本作業は何ですか?」と問われれば、「地図の色塗りです」と答える。
まあ、今時、赤鉛筆で塗る研究者はいないだろうが…。

大きさ的に1枚の画像には収められないので、2つに分割して示す(薄い赤に塗ってあるのがラブホテル)。
鴬谷・根岸2丁目 (2).jpg
鴬谷・根岸1丁目 (2).jpg
上が根岸2丁目、下が根岸1丁目(画像をクリックして大きくしてご覧ください)。
いやぁ、すごい。
子規庵(根岸2丁目5-11)も台東区立書道博物館・中村不折記念館(同10-4)も、鎌倉後期に勧請されたという縁起をもつ東京区部有数の古社である元三島神社(根岸1丁目7−11)も、ラブホテル群に埋もれている。
いったい何軒あるかというと、数えた方にもよるが根岸1丁目に46軒 同2丁目に23軒、合計69軒である。
ちなみに先述の「鶯谷駅のラブホテル」には65軒が載っている。

これで、現状把握はできた。
あとはエリアごとにリストを作って、1軒1軒、いつ頃できたか、過去の住宅地図を当たっていく。
手間はかかるが、これがいちばん確実で実証性の高い方法だから。
(続く)

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