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「渋谷PARCO」ができた頃 [性社会史研究(連れ込み旅館)]

8月4日(木)

ファッション・デパートとしてだけでなく、文化の発信地として一時代を築いた渋谷・公園通りの「渋谷PARCO」(地下1階・地上9階)がもうすぐ(8月7日)一時閉店・解体になる。
IMG_7603.JPG
↑ 「渋谷PARCO」前を行く「東京レインボー・プライド」パレード(2016年5月8日)

「渋谷PARCO」は、1973年6月に開業した。
では、その前には何があったのだろうか? 
私が渋谷の街を歩くようになったのは、1975年以降なので、開業時や開業前の様子は知らない。
そこで、調べてみた。

(1)1962年頃
1962年頃現況の住宅地図を見ると、当然のことながら、「渋谷PARCO」は影も形もない。
公園通り(1962)2.jpg
当時は「区役所通り」と呼ばれていた、渋谷から代々木方面を目指す緩い坂道の沿道は、まだビルが立ち並ぶ状態ではなく、かなり閑散としている。
それでも北側はそれなりに建物があるが、南側は「東京山手教会」があるくらいで、空き地が目立つ。
「山手教会」の向かい側には「渋谷ホテル」が、その少し坂下の路地の奥には「飛龍閣」があった。
どちらも、1950年代から営業している「連れ込み旅館」だ。
渋谷(渋谷ホテル・19540402k).jpg 渋谷(飛龍閣・19560107).jpg
現在、「公園通り」と「ファイアー通り」の分岐点にある「丸井」は、まだ奥まった所にある。

で、後に「渋谷PARCO PART1」になる場所だが、北東部分が「大成建設(株)渋谷アパート」に、南西部分が「井上」さんのお屋敷だった。
さらに、現在「渋谷PARCO PART3」になっている場所は「田所」さんのお屋敷だった。

現在、「井の頭通り」(当時は「国際通り」)から「PARCO」の脇に出て「公園通り」に達する南北の坂道は「スペイン坂」と呼ばれているが、坂の上り口の両側に割烹があるものの、坂の途中は一般住宅や個人病院ばかりで、まったく商業化していなかった。

また「PARCO」の南で「スペイン坂」と分岐して「井の頭通り」に下る東西方向の道は「ペンギン通り」と呼ばれているが、その周囲には「ホテルコスモス」「旅館つたや」「旅館よし村」など、おそらく「連れ込み」と思われる宿が密集していた。

(2)1969年頃
公園通り(1970)2.jpg
1969年頃現況の住宅地図を見ると、「区役所通り」(後の「公園通り」)の南側は空き地が減って、「西武デパートC館」(現:西武パーキング館)が進出し、その東には映画館「渋谷地球座」が入るビルもできた。

「山手教会」の向かい側にあった連れ込み旅館「渋谷ホテル」は姿を消し、「飛龍閣」はビル化したようだが同じ位置にある。

約4年後に「渋谷PARCO PART1」になる場所は、南西部分にあった「井上」さんのお屋敷が消えて地上げが完了し、全区画が「有楽土地所有地」になっている。
現在「渋谷PARCO PART3」の敷地には、まだ「田所」さんのお屋敷がある。

「スペイン坂」や「ペンギン通り」と呼ばれることになるエリアは、あまり変化がない。
「ホテルコスモス」「旅館つたや」「旅館よし村」などは健在だ。

ただ、「有楽土地所有地」の筋向い、現在「渋谷区勤労福祉会館」があるエリアに、ラブホテルと思われる「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」がある。
この内、「千春」はすでに1962年頃の現況図に見えるが、このブロックがラビホテル街化しつつあることがうかがえる。

(3)1976年頃
公園通り(1977)2.jpg
「渋谷PARCO PART1」開店の約3年後。
ようやく私が知っている渋谷の街になった。
「PART1」の道路を挟んで北側には「PART2」も開店している(1975年12月開業、2007年末休業)。
ここは「仁愛病院」があった場所だ。
病院の敷地そのままなので、地上げの手間はなかったろうが、やや手狭な感がある。

注目は、「PART3」(1981年9月開業)の敷地だ。
「田所」さんのお屋敷が消えて空き地になり、その一角に「大成建設作業所」がある。

ここで思い出すのは、1962年現況図で後に「PART1」になる敷地の東北部が「大成建設(株)渋谷アパート」になっていたことだ。
「PARCO」の敷地が形成される過程で「大成建設」の建物が現れる。
これは偶然ではないだろう。
早い話、「PARCO」の敷地を地上げをしていたのは大成建設だと思う。
1962年現況図は、大成建設による地上げの途中(「井上」さんが頑張っていた)の状況を示しているのだろう。
ということは、後に「PARCO」になる場所の地上げは、開店の10年以上前、1960年代初頭から計画されていたことになる。

周辺を見ると、「スペイン坂」を上った左手に「ホテルオリエント」ができている。
「ホテルコスモス」は「ホテル石庭」になり、「旅館つたや」「旅館よし村」は商業ビルになって姿を消した。
「スペイン坂」を上った所にラブホテルがあったのは記憶している。
「こんな人通りの多いところで、よく入れるなぁ」と思った。

「勤労福祉会館」があるエリアは、「仙亭ホテル」「美苑ホテル」「千春ホテル」に加えて、「ホテル虹」「ホテルモンブラン」「渋谷ヒルトップホテル」「ホテルロイヤル」が開業し、7軒が密集するラブホテル街になった。

おしゃれで文化的な「PARCO」の周囲は、実は「ラブホテル」の集中エリアなのだ。

「公園通り」をラブホテル目指して上っていくカップルもいただろうが、代々木公園で野外デートした後、「公園通り」を下ってラブホテルに入るカップルも多かったはずだ。
私も代々木競技場のあたりで、何度もデートした思い出がある。
貧乏な学生でお金がなかったからラブホテルには入らなかったが。

1970年代の若者にとって、渋谷「公園通り」界隈は、単におしゃれなだけでなく、微妙に性的なエリアだった。

【追記】写真が見たいという要望があったので・・・。
1970年の渋谷公園通り.jpg
http://actresspress.com/wp-content/uploads/2016/07/koen_dori-shibuya1970.jpg

1970年ころの渋谷「区役所通り」(現:公園通り)。
左端の「有料駐車場」が現在の「GAP」ビル。
その先の塀に囲まれた空地が「渋谷PARCO PART1」になる敷地。
奥に見える三階建ての建物が、後に「渋谷PARCO PART2」になる「仁愛病院」と思われる。
右端「中央電材株式会社」の看板があるビルは、1950~60年代に連れ込み旅館「渋谷ホテル」だった場所。
その先の(文字が読みにくい)ビルは「造園会館」。

都会の空が広かった、あの頃・・・。

公園通り(1970)2 (2).jpg
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コメント 3

てるね

渋谷は今でもラブホテルは多いですが、公園通りにもそのなごりがあったのですね。
私は道玄坂上の「千雅(センガ)」という旅館の思い出が強いです。
渋谷には東急電鉄はあるが、西武鉄道は走っていない。
なぜ、そこに西武系列が進出して来たのか、疑問は残ります。
by てるね (2016-08-05 10:24) 

ウッチー

はじめまして。
1976年の地図を見て思わず見入ってしまいました。その頃私は家出同然で地方から東京へ出て、六本木のプティシャトウという店の染谷ママにお世話になり、神南の三○マンションが寮で何人かのお仲間と1年程過ごした日々を懐かしく思い出しました。41年も過ぎた感覚はないのですが、パルコや西武はテリトリーでしたので、懐かしく拝見させて頂きました。
by ウッチー (2016-08-05 13:35) 

いっこー

はじめまして。検索していてたどり着きました。学生時代から渋谷をウロウロしてもう40年以上になります。

スペイン坂を上ったところにあった、オリエントと石庭は記憶にあります。パルコ パート3が出来てからもしばらくはそのまま営業していたと思います。私もこんな人が多いところでラブホに出入りするのは恥ずかしいだろうなあ、と思っていました。

その後、映画館になって今はライブハウスです。若い人に「昔は連れ込みホテルだったんだよ」というと少し驚かれます。パルコパート3なんてつい最近できたばかりのように思いますが、あっという間に無くなってしまいました。

今は TGI Friday がある裏手にもラブホが何軒かあったと思います。

パルコ跡地が工事中ということもあり、公園通りはすっかり寂しくなってしまいました。新しい建物ができればまた賑やかになるでしょうか。

長々と失礼いたしました。
by いっこー (2019-06-01 18:59) 

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