シャブの思い出(その2) [日常(思い出)]
2月13日(木)
23年ほど前、シャブ(覚醒剤)の売人なんていくらもいる新宿歌舞伎町の雑踏の中で、酔っぱらった女装の先輩(M衣子姐さん)が「順ちゃん、シャブ行こう!シャブ行こう!」と叫んで、とても困ったことがある。
で、しゃぶしゃぶ専門店の「モーモーパラダイス」に行った。
(参照)「シャブの思い出(その1)」
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2016-02-04-2
23年ほど前、シャブ(覚醒剤)の売人なんていくらもいる新宿歌舞伎町の雑踏の中で、酔っぱらった女装の先輩(M衣子姐さん)が「順ちゃん、シャブ行こう!シャブ行こう!」と叫んで、とても困ったことがある。
で、しゃぶしゃぶ専門店の「モーモーパラダイス」に行った。
(参照)「シャブの思い出(その1)」
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2016-02-04-2
「キヌブログ!」に館山市「中村屋」のことが [日常(思い出)]
11月20日(水)
新宿5丁目のバー「LE QUINE GUINE」の店主シンスケさんのブログ「キヌブログ!」に、千葉県館山市の「中村屋」のことが詳しく記されている。
http://lequineguine.jugem.jp/?eid=1263
私は、北関東の山間盆地(埼玉県秩父市)に生まれ育ったが、幼稚園(年長)から小学5年生まで6~11歳の6年間(1961~66年、昭和36~41年)、毎夏3週間くらい、親戚の別荘を借りて千葉県館山市に滞在した。
「中村屋」は昭和30年代の館山で唯一の都会的な店で、夏の間、母や祖母に連れられて、よく訪れた思い出の場所。
(参照)「続々・たそがれ日記」2017年8月30日(水)
館山・センチメンタルジャーニー(その1:南房総・館山へ)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31
館山・センチメンタルジャーニー(その2:遠い夏の思い出を探して)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31-1
館山・センチメンタルジャーニー(その3:海と「中村屋」)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31-2
館山の「中村屋」が新宿の「中村屋」直系(夏季分店)だったとは、知らなかった。
(だって、子供のだったから)
シンスケさん、思い出を蘇らせてくれて、ありがとう!
「千鳥街」といい「中村屋」といい、どうして波長が合うのだろう?
前世、兄弟でした?
新宿5丁目のバー「LE QUINE GUINE」の店主シンスケさんのブログ「キヌブログ!」に、千葉県館山市の「中村屋」のことが詳しく記されている。
http://lequineguine.jugem.jp/?eid=1263
私は、北関東の山間盆地(埼玉県秩父市)に生まれ育ったが、幼稚園(年長)から小学5年生まで6~11歳の6年間(1961~66年、昭和36~41年)、毎夏3週間くらい、親戚の別荘を借りて千葉県館山市に滞在した。
「中村屋」は昭和30年代の館山で唯一の都会的な店で、夏の間、母や祖母に連れられて、よく訪れた思い出の場所。
(参照)「続々・たそがれ日記」2017年8月30日(水)
館山・センチメンタルジャーニー(その1:南房総・館山へ)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31
館山・センチメンタルジャーニー(その2:遠い夏の思い出を探して)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31-1
館山・センチメンタルジャーニー(その3:海と「中村屋」)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31-2
館山の「中村屋」が新宿の「中村屋」直系(夏季分店)だったとは、知らなかった。
(だって、子供のだったから)
シンスケさん、思い出を蘇らせてくれて、ありがとう!
「千鳥街」といい「中村屋」といい、どうして波長が合うのだろう?
前世、兄弟でした?
「元AV『女優』」という肩書 [日常(思い出)]
10月24日(木)
今から20年前の話。
当時、お手伝いホステスをしていた新宿歌舞伎町「ジュネ」の客に、フェチ系(足首とか鎖骨とか)のアダルトビデオを制作・販売して景気が良い社長さんがいた。
で、私をモデルに「着物熟女ニューハーフ」ビデオを撮りたい、「ギャラの希望は?」と言ってきた。
「ギャラはなしでいいから、撮影場所は椿山荘でお願いします」と返事した。
翌週、また社長が来て「順子さん、勘弁して。調べたら(椿山荘の部屋とお庭の撮影レンタル料が)予定のギャラの2倍だった」ということで、お流れに。
あの時、わがまま言わなかったら、私も今頃「元AV『女優』」という肩書を名乗れたんだなぁ。
ちょっと後悔・・・。
最近、Twitterで「元AV女優」という肩書を見かけるので、そんなことがあったことを思い出した。
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↑ 1997年5月「椿山荘」で。
今から20年前の話。
当時、お手伝いホステスをしていた新宿歌舞伎町「ジュネ」の客に、フェチ系(足首とか鎖骨とか)のアダルトビデオを制作・販売して景気が良い社長さんがいた。
で、私をモデルに「着物熟女ニューハーフ」ビデオを撮りたい、「ギャラの希望は?」と言ってきた。
「ギャラはなしでいいから、撮影場所は椿山荘でお願いします」と返事した。
翌週、また社長が来て「順子さん、勘弁して。調べたら(椿山荘の部屋とお庭の撮影レンタル料が)予定のギャラの2倍だった」ということで、お流れに。
あの時、わがまま言わなかったら、私も今頃「元AV『女優』」という肩書を名乗れたんだなぁ。
ちょっと後悔・・・。
最近、Twitterで「元AV女優」という肩書を見かけるので、そんなことがあったことを思い出した。
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↑ 1997年5月「椿山荘」で。
ラグビーと私 [日常(思い出)]
9月28日(土)
私が高校に通った、埼玉県熊谷市は、ラグビーが盛んな街。
今回のW杯でも熊谷ラグビー場で試合が行われる。
その基を築いたのは、熊谷高校の5年先輩・宿沢広朗(しゅくざわ ひろあき、1950~ 2006年)さん。
160cmの小柄ながら、早稲田大学の黄金期(日本選手権2連覇達成)の、そして日本の代表のスクラムハーフとして活躍した名選手。
1989年には日本代表監督となり、5月28日、秩父宮ラグビー場でIRB所属のスコットランドに、28-24で勝利した。
第2回W杯(イギリス)ではジンバブエに52-8で勝ち、日本のW杯での最初の勝利となった。
2006年6月17日、登山中に心筋梗塞を発症、55歳の若さで急逝。
宿沢さんが生きていたら、今日のアイルランド戦をどう解説してくれただろう?
ということで、熊谷高校では冬場の体育ではラグビーをやった。
ちゃんと、校庭にラグビーゴールがあった。
クラス対抗試合もあり、私のポジションはバックスだった。
走るのは速いとはいえなかったが、足腰が強かったので、タックルされても倒れず、2人くらい引きずって、前に進み、味方にパスをすることができた。
あと、もともとサッカーをやっていたので、パントキックは得意だった。
だから、にわかラグビー・ファンじゃないのだよ。
私が高校に通った、埼玉県熊谷市は、ラグビーが盛んな街。
今回のW杯でも熊谷ラグビー場で試合が行われる。
その基を築いたのは、熊谷高校の5年先輩・宿沢広朗(しゅくざわ ひろあき、1950~ 2006年)さん。
160cmの小柄ながら、早稲田大学の黄金期(日本選手権2連覇達成)の、そして日本の代表のスクラムハーフとして活躍した名選手。
1989年には日本代表監督となり、5月28日、秩父宮ラグビー場でIRB所属のスコットランドに、28-24で勝利した。
第2回W杯(イギリス)ではジンバブエに52-8で勝ち、日本のW杯での最初の勝利となった。
2006年6月17日、登山中に心筋梗塞を発症、55歳の若さで急逝。
宿沢さんが生きていたら、今日のアイルランド戦をどう解説してくれただろう?
ということで、熊谷高校では冬場の体育ではラグビーをやった。
ちゃんと、校庭にラグビーゴールがあった。
クラス対抗試合もあり、私のポジションはバックスだった。
走るのは速いとはいえなかったが、足腰が強かったので、タックルされても倒れず、2人くらい引きずって、前に進み、味方にパスをすることができた。
あと、もともとサッカーをやっていたので、パントキックは得意だった。
だから、にわかラグビー・ファンじゃないのだよ。
「夏休みの一研究」 [日常(思い出)]
9月2日(月)
時節柄、Twitterで「夏休みの自由研究」について批判的見解を述べている人がいた。
https://twitter.com/kaneda_junko/status/1168152413196341248
私は、山間盆地(埼玉県秩父市)に生まれ育ったが、幼稚園(年長)から小学5年生までの6年間、毎夏3週間くらい、親戚の別荘(母方の会津藩士の相役で、明治以後、経済界で成功した一族)を借りて千葉県館山市に滞在した。
海辺育ちの両親(とくに母親)が、避暑と海を知らない子ども(私と妹)に海を見せて泳ぎを教えるためだったと思う。
夏休みに3週間も、家を離れていたわけで、当然「夏休みの一研究」は滞在先の海辺の家ですることになる。
覚い出すままに記すと、
1年生 浜で拾った海藻の標本 ★
2年生 埼玉県と千葉県の地形の違い
3年生 魚屋さんの研究 ★
4年生 海浜植物の標本 ★
5年生 海風と陸風の観測
6年生 秩父盆地の地質と不整合 ★
星印は秩父郡市の「夏休み一研究」で金賞(優秀賞)
私にとって「夏休みの一研究」(←1960年代はそう言った)は、
世の中のいろいろな現象に気づくこと
↓
「なぜだろう」と不思議に思うこと
↓
それを調べてみること
↓
考えてまとめること
を教えてもらったという点で、今の「研究者」としての原点になったと思っている。
山育ちの少年が海辺の町で、見たり気づいたりした「不思議」を「夏休みの一研究」という形に誘導してくれた母親(6年生の時は、海に行かなくなったので父親)がいたからこそのなのだが。
「課題になってる(読書)感想文と自由研究は、やりたい人だけやる、でいいと思う」には基本的に賛成だが、やった(提出した)子はちゃんと評価すべきだと思う。
時節柄、Twitterで「夏休みの自由研究」について批判的見解を述べている人がいた。
https://twitter.com/kaneda_junko/status/1168152413196341248
私は、山間盆地(埼玉県秩父市)に生まれ育ったが、幼稚園(年長)から小学5年生までの6年間、毎夏3週間くらい、親戚の別荘(母方の会津藩士の相役で、明治以後、経済界で成功した一族)を借りて千葉県館山市に滞在した。
海辺育ちの両親(とくに母親)が、避暑と海を知らない子ども(私と妹)に海を見せて泳ぎを教えるためだったと思う。
夏休みに3週間も、家を離れていたわけで、当然「夏休みの一研究」は滞在先の海辺の家ですることになる。
覚い出すままに記すと、
1年生 浜で拾った海藻の標本 ★
2年生 埼玉県と千葉県の地形の違い
3年生 魚屋さんの研究 ★
4年生 海浜植物の標本 ★
5年生 海風と陸風の観測
6年生 秩父盆地の地質と不整合 ★
星印は秩父郡市の「夏休み一研究」で金賞(優秀賞)
私にとって「夏休みの一研究」(←1960年代はそう言った)は、
世の中のいろいろな現象に気づくこと
↓
「なぜだろう」と不思議に思うこと
↓
それを調べてみること
↓
考えてまとめること
を教えてもらったという点で、今の「研究者」としての原点になったと思っている。
山育ちの少年が海辺の町で、見たり気づいたりした「不思議」を「夏休みの一研究」という形に誘導してくれた母親(6年生の時は、海に行かなくなったので父親)がいたからこそのなのだが。
「課題になってる(読書)感想文と自由研究は、やりたい人だけやる、でいいと思う」には基本的に賛成だが、やった(提出した)子はちゃんと評価すべきだと思う。
歌上手が揃った店で [日常(思い出)]
4月3日(水)
今、思い出すと、あの頃(1990年代半ば~後半)の「ジュネ」(新宿歌舞伎町の女装スナック)は歌上手が揃っていた。
「歌姫」中山麻衣子さん(金曜日チーフ)だけでなく、チーママの麻生未央さん、火曜日担当だった莉佳子さん、月曜日担当のニーナさん、後に「MISTY」(歌舞伎町のニューハーフ・パブ)のオーナー&ママになるエルさん、みんなセミプロ並みに上手だった。
薫ママの聖飢魔Ⅱ「蠟人形の館」は大迫力で、ほんとうに怖いくらいだった。
スタッフが歌上手だと、お客さんも歌好き・歌上手の人が集まる。
そんな中で、歌うのはたいへんだったけど、周囲のレベルが高かったからこそ、本気で頑張れたのだと思う。
歌好きのお客さんに続けてつくと、「あれ唄え」「これ唄ってくれ」で、一晩に20~25曲くらい歌うことになる。
同じ夜に同じ歌は唄わないので、必然的にレパートリーを広げないと、やっていけない。
だから、レパートリーは100曲以上(9割は女性歌手の歌)あった。
中でも、麻衣子さんと私のデュエット、ザ・ピーナツ「恋のバカンス」は、なかなかのものだったと思う(自賛)。
あと、閉店時(明け方4~5時)に唄うラストソング、越路吹雪「ラストダンスは私に」は、私の十八番(おはこ)になった。
「ジュネ」が閉店(2003年)して、唄わなくなって、もう16年。
歌唱力は大幅に落ちた。
とくに高音が出ない。
カラオケに行って歌い込めば、ある程度は戻るだろうけど、喉を使いすぎると仕事(講義・講演)に差しさわりがあるので控えている。
今、思い出すと、あの頃(1990年代半ば~後半)の「ジュネ」(新宿歌舞伎町の女装スナック)は歌上手が揃っていた。
「歌姫」中山麻衣子さん(金曜日チーフ)だけでなく、チーママの麻生未央さん、火曜日担当だった莉佳子さん、月曜日担当のニーナさん、後に「MISTY」(歌舞伎町のニューハーフ・パブ)のオーナー&ママになるエルさん、みんなセミプロ並みに上手だった。
薫ママの聖飢魔Ⅱ「蠟人形の館」は大迫力で、ほんとうに怖いくらいだった。
スタッフが歌上手だと、お客さんも歌好き・歌上手の人が集まる。
そんな中で、歌うのはたいへんだったけど、周囲のレベルが高かったからこそ、本気で頑張れたのだと思う。
歌好きのお客さんに続けてつくと、「あれ唄え」「これ唄ってくれ」で、一晩に20~25曲くらい歌うことになる。
同じ夜に同じ歌は唄わないので、必然的にレパートリーを広げないと、やっていけない。
だから、レパートリーは100曲以上(9割は女性歌手の歌)あった。
中でも、麻衣子さんと私のデュエット、ザ・ピーナツ「恋のバカンス」は、なかなかのものだったと思う(自賛)。
あと、閉店時(明け方4~5時)に唄うラストソング、越路吹雪「ラストダンスは私に」は、私の十八番(おはこ)になった。
「ジュネ」が閉店(2003年)して、唄わなくなって、もう16年。
歌唱力は大幅に落ちた。
とくに高音が出ない。
カラオケに行って歌い込めば、ある程度は戻るだろうけど、喉を使いすぎると仕事(講義・講演)に差しさわりがあるので控えている。
暑い思い出 [日常(思い出)]
7月18日(水)
今から、45年前のこと、埼玉県熊谷市では、気温が36度以上になると、市の広報車が巡回してきて、
「気温が体温を超えました。屋外で運動している人は、今すぐ運動を止めて、屋内に入ってください」
と通知する。
すると、グラウンドで運動していた男子高校生は、「だってよ」と言いながら、頭から水を被り、塩を嘗めて、水を口に含み、
「はい、トラック(1周300m)3周」
と運動を続けていた。
どうして平気だったのだろう?
身体の造りが、原始的だったのだろうか?
身体が火だるまみたいになって、練習を終えると、プールに飛び込んでクールダウン。
で、麦茶をがぶがぶ飲んで、帰りの電車(冷房はない)の窓を開けて、風に吹かれながら、昼寝する。
今から、45年前のこと、埼玉県熊谷市では、気温が36度以上になると、市の広報車が巡回してきて、
「気温が体温を超えました。屋外で運動している人は、今すぐ運動を止めて、屋内に入ってください」
と通知する。
すると、グラウンドで運動していた男子高校生は、「だってよ」と言いながら、頭から水を被り、塩を嘗めて、水を口に含み、
「はい、トラック(1周300m)3周」
と運動を続けていた。
どうして平気だったのだろう?
身体の造りが、原始的だったのだろうか?
身体が火だるまみたいになって、練習を終えると、プールに飛び込んでクールダウン。
で、麦茶をがぶがぶ飲んで、帰りの電車(冷房はない)の窓を開けて、風に吹かれながら、昼寝する。
『AERA』初取材の思い出(1997年12月) [日常(思い出)]
6月5日(月)
『AERA』(朝日新聞社)の取材を最初に受けたのは、1997年12月22日号の「ズボンを捨て街へ出よう -女装で広がる『もう一人の私』の世界-」だった。
まず、昼間、冬枯れの代々木公園で和装で撮影。
.jpg)
その後、洋装(シースルーのワンピース)に着替えて夜の新宿で寒さに耐えながら撮影。

(1997年12月7日撮影)
なのに、どちらの写真も「没」だった。
「もう一人の私」という題名も、私のコピーのそのままパクリ。
ほんと、ひどい扱いだった。
朝日新聞社のエリート記者からしたら、新宿の女装者なんて「下賤の者」で、まともな気遣いをする必要もなかったのだと思う。
今だったら「これだけ協力してその扱いはないだろう!」と激怒すると思うが、当時はこちらも「まあ、無料で写真撮ってもらったからいいか」という感じで、あまり腹も立てなかった。
それからもう20年の歳月が流れたのか・・・。
つくづく、世の中、変わるものだと思う。
よく生き残ったものだなぁ、私。
『AERA』(朝日新聞社)の取材を最初に受けたのは、1997年12月22日号の「ズボンを捨て街へ出よう -女装で広がる『もう一人の私』の世界-」だった。
まず、昼間、冬枯れの代々木公園で和装で撮影。
.jpg)
その後、洋装(シースルーのワンピース)に着替えて夜の新宿で寒さに耐えながら撮影。

(1997年12月7日撮影)
なのに、どちらの写真も「没」だった。
「もう一人の私」という題名も、私のコピーのそのままパクリ。
ほんと、ひどい扱いだった。
朝日新聞社のエリート記者からしたら、新宿の女装者なんて「下賤の者」で、まともな気遣いをする必要もなかったのだと思う。
今だったら「これだけ協力してその扱いはないだろう!」と激怒すると思うが、当時はこちらも「まあ、無料で写真撮ってもらったからいいか」という感じで、あまり腹も立てなかった。
それからもう20年の歳月が流れたのか・・・。
つくづく、世の中、変わるものだと思う。
よく生き残ったものだなぁ、私。
2月10日(水)Sさんのお墓を探しに行く [日常(思い出)]
2月10日(水)
午後、ちょっと時間がとれたので、思い立って、昔、歌舞伎町ホステス時代に、お世話になったSさんのお墓を探しに行く。
渋谷のお寺の墓地はイメージしていたより広かった。
これは端から探していくしかないと思ったら、「おい、塀の方だ」という声が聞こえたような気がした。
そちらを向くと、塀沿いの正面にその方の名字が刻まれたお墓があった。
墓石の側面のお名前を確認。
「廣修院紹山潔誠居士 平成二十四年一月十四日 七十才」
70歳か・・・、Sさん、早く逝きすぎですよ。
墓前で合掌。
「おお、順子か、よく来たな」
「遅くなって、ごめんなさい」
「元気そうじゃないか」
「お蔭さまで、なんとかやっています」
「すっかり女っぽくなったな」
「おばさんになっただけです」
「いくつになった?」
「今年で61です。どんどんSさんに近づいていきます」
「それは仕方がないな。俺はもう年はとらんからな」
「今日はお墓を探しに来ただけなので、お花もお線香もなくて、ごめんなさい」
「そうか、じゃあ、また来てくれ」
「はい」
帰り道、河津桜が咲いていた。

Sさんは、1980~2000年代前半の新宿女装コミュニティの大立者。
「女装者愛好男性」(ご自分は女装しないで女装者を愛好する男性)の典型的な方。
ホステス時代には、いつも席に呼んでくださって、ずいぶんかわいがっていただいた。
その後、「戦後日本〈トランスジェンダー〉社会史研究会」(代表:矢島正見中央大学教授)で、ベテランの女装関係者の方にロング・インタビューをしてライフヒストリーにまとめる際、特にお願いして「女装者愛好男性A氏」として調査に協力していただいた。
その成果は、
「女装者愛好男性A氏のライフヒストリー」(三橋順子、杉浦郁子、石田仁)
「Aさんと私―ホステス順子の手記―」(三橋順子)
「女装者愛好男性という存在」(三橋順子)
「異性装の社会学的分析に向けてー「アマチュア女装」の観点からひとつの仮説へー」(杉浦郁子)
として、矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』(中央大学出版部 2006年3月)に収録されている。
私が「女装者愛好男性」という概念を提起する上で、いちばんお世話になった方。
数年前に「亡くなられた」と聞いて以来、ずっと心に掛かっていた。
なぜ、私がお墓のあるお寺を知っているかというと・・・。
ある夜、お店に来られたSさんが、こう話し始めた。
「今日は、渋谷に行ってきたんだ」
「お仕事ですか?」
「いや、娘の墓参りだ」
「えっ! お嬢さんのですか?」
「高校生になったばかりの夏休みにな、クラブ活動の最中にばったり倒れてそれっきりだ」
「え・・・・・、心臓、お悪かったのですか」
「どうだったんだろうな、ともかく突然死ってやつだ」
「それは、お辛かったでしょう」
「まあな」
「お墓は渋谷のどちらですか?」
「〇〇寺だ」
「ああ、〇〇〇大学の隣ですね」
「よく知ってるな、ついでがあったら寄ってみてくれ」
「はい」
それから、16~17年も経ってしまった。
今日、15歳で亡くなったお嬢さんの名前を墓石で確認して「ごめんなさい」と謝った。
午後、ちょっと時間がとれたので、思い立って、昔、歌舞伎町ホステス時代に、お世話になったSさんのお墓を探しに行く。
渋谷のお寺の墓地はイメージしていたより広かった。
これは端から探していくしかないと思ったら、「おい、塀の方だ」という声が聞こえたような気がした。
そちらを向くと、塀沿いの正面にその方の名字が刻まれたお墓があった。
墓石の側面のお名前を確認。
「廣修院紹山潔誠居士 平成二十四年一月十四日 七十才」
70歳か・・・、Sさん、早く逝きすぎですよ。
墓前で合掌。
「おお、順子か、よく来たな」
「遅くなって、ごめんなさい」
「元気そうじゃないか」
「お蔭さまで、なんとかやっています」
「すっかり女っぽくなったな」
「おばさんになっただけです」
「いくつになった?」
「今年で61です。どんどんSさんに近づいていきます」
「それは仕方がないな。俺はもう年はとらんからな」
「今日はお墓を探しに来ただけなので、お花もお線香もなくて、ごめんなさい」
「そうか、じゃあ、また来てくれ」
「はい」
帰り道、河津桜が咲いていた。
Sさんは、1980~2000年代前半の新宿女装コミュニティの大立者。
「女装者愛好男性」(ご自分は女装しないで女装者を愛好する男性)の典型的な方。
ホステス時代には、いつも席に呼んでくださって、ずいぶんかわいがっていただいた。
その後、「戦後日本〈トランスジェンダー〉社会史研究会」(代表:矢島正見中央大学教授)で、ベテランの女装関係者の方にロング・インタビューをしてライフヒストリーにまとめる際、特にお願いして「女装者愛好男性A氏」として調査に協力していただいた。
その成果は、
「女装者愛好男性A氏のライフヒストリー」(三橋順子、杉浦郁子、石田仁)
「Aさんと私―ホステス順子の手記―」(三橋順子)
「女装者愛好男性という存在」(三橋順子)
「異性装の社会学的分析に向けてー「アマチュア女装」の観点からひとつの仮説へー」(杉浦郁子)
として、矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』(中央大学出版部 2006年3月)に収録されている。
私が「女装者愛好男性」という概念を提起する上で、いちばんお世話になった方。
数年前に「亡くなられた」と聞いて以来、ずっと心に掛かっていた。
なぜ、私がお墓のあるお寺を知っているかというと・・・。
ある夜、お店に来られたSさんが、こう話し始めた。
「今日は、渋谷に行ってきたんだ」
「お仕事ですか?」
「いや、娘の墓参りだ」
「えっ! お嬢さんのですか?」
「高校生になったばかりの夏休みにな、クラブ活動の最中にばったり倒れてそれっきりだ」
「え・・・・・、心臓、お悪かったのですか」
「どうだったんだろうな、ともかく突然死ってやつだ」
「それは、お辛かったでしょう」
「まあな」
「お墓は渋谷のどちらですか?」
「〇〇寺だ」
「ああ、〇〇〇大学の隣ですね」
「よく知ってるな、ついでがあったら寄ってみてくれ」
「はい」
それから、16~17年も経ってしまった。
今日、15歳で亡くなったお嬢さんの名前を墓石で確認して「ごめんなさい」と謝った。
シャブの思い出 [日常(思い出)]
2月3日(水)
18年ほど前の夏の夜、ネオンきらめく新宿歌舞伎町での話。
もう時効だから、書いてもいいだろう。
さっき外廊下に出ていったママが、地味な中年の男性客といっしょに戻ってきた。
「順ちゃん、ちょっと」と呼ばれて、二人でまた店の外へ。
「今、入ってもらった人ね、警察関係の人なのよ」
「何かあったのですか?」
「シャブ(覚醒剤)の売人を尾行中なんだって。『ウチでは、そういう取引はないです』って言ったんだけどね。悪いけど、普通のお客みたいに相手してくれる?」
「はい」
内心「なんで私に振るんだよ~ぉ」と思いながら、店内に戻って、ボックス席の端に座っている陰気な感じの地味なスーツの男性の席につく。
「いらっしゃいませ。順子です。お作りしますか?」
ウィスキーのボトルを取り上げながら、一応、尋ねる。
「いや」
「お仕事中ですよね。じゃあ、こちらで」
ウーロン茶を氷を入れたグラスに注いで、コースターに置く。
「あ、ありがとう」
額に汗をにじませている男はグラスを手にして冷たいウーロン茶を飲む。
でも、その間も右奥のカウンター席に視線を向けている。
さっきまで、カウンターで接客していたから、私は目を向けるまでもない。
手前に今はカラオケを歌っている、私の馴染のお客さん。
奥の隅の席で、やはり常連のお客さんが居眠りをしている。
ということは、今、チーママとしゃべっている、ちょっと派手な感じの中年の客がターゲットなのだろう。
少なくとも、私は知らない人だ。
「ママが言ってたと思いますけど、真ん中の人は常連さんではないですよ」
「ああ」
「もう少しおしゃべりしないと、かえって変ですよ。お仕事、お忙しいですか?」
「うん、まあね」
「暑い時期に外回りのお仕事は大変ですね」
「仕事だからね」
「普通、外回りのお仕事って、2人組じゃないんですか?」
返事はなく、ドアの方に顎をしゃくる。
なるほど、相棒は外で待機なのか。
そんな感じで、中身のない話を続ける。
「トイレは奥?」
「はい、カウンター席の奥、突き当りです」
ターゲットの男の背中を通ることになるが、戻る時にチラと視線を向けたくらいで、さりげない。
席に戻っても状況は変わらず。
結局、1時間ほど経って、ターゲットの男が席を立った。
チーママがお会計している間に、ママがこちらに来て「あら、もうお帰りですか」と、捜査員の男を先に店外に連れ出す。
さすがに料金は取れない。
私もドアの所まで見送り、「ありがとうございました~ぁ」と声をかける。
すぐに、ターゲットの男がチーママに送られて、ドアを出ていく。
また「ありがとうございました~ぁ」と声をかける。
このビルは外廊下の両端に出口があるから、捜査員とその相棒が二手に分かれて待伏せれば、ターゲットを見失うことはないだろう。
ママが戻ってきたので「なんで私に振るんですか~ぁ?」と尋ねたら、
「順ちゃん、度胸が据わっているから。それにあなた、警察に後ろめたいことないでしょう」と言われたので、
「じゃあ、ママは後ろめたいことあるのですか?」ときいたら、
「そりゃあ、あるわよ」
「この店、シャブは関係ないけど、違う種類の薬(ヤク)の取引してますからね」
ママがニヤリと笑った。
その時はそれだけのことだったけど、今になってみると、その後、どうなったのだろう?と思う。
18年ほど前の夏の夜、ネオンきらめく新宿歌舞伎町での話。
もう時効だから、書いてもいいだろう。
さっき外廊下に出ていったママが、地味な中年の男性客といっしょに戻ってきた。
「順ちゃん、ちょっと」と呼ばれて、二人でまた店の外へ。
「今、入ってもらった人ね、警察関係の人なのよ」
「何かあったのですか?」
「シャブ(覚醒剤)の売人を尾行中なんだって。『ウチでは、そういう取引はないです』って言ったんだけどね。悪いけど、普通のお客みたいに相手してくれる?」
「はい」
内心「なんで私に振るんだよ~ぉ」と思いながら、店内に戻って、ボックス席の端に座っている陰気な感じの地味なスーツの男性の席につく。
「いらっしゃいませ。順子です。お作りしますか?」
ウィスキーのボトルを取り上げながら、一応、尋ねる。
「いや」
「お仕事中ですよね。じゃあ、こちらで」
ウーロン茶を氷を入れたグラスに注いで、コースターに置く。
「あ、ありがとう」
額に汗をにじませている男はグラスを手にして冷たいウーロン茶を飲む。
でも、その間も右奥のカウンター席に視線を向けている。
さっきまで、カウンターで接客していたから、私は目を向けるまでもない。
手前に今はカラオケを歌っている、私の馴染のお客さん。
奥の隅の席で、やはり常連のお客さんが居眠りをしている。
ということは、今、チーママとしゃべっている、ちょっと派手な感じの中年の客がターゲットなのだろう。
少なくとも、私は知らない人だ。
「ママが言ってたと思いますけど、真ん中の人は常連さんではないですよ」
「ああ」
「もう少しおしゃべりしないと、かえって変ですよ。お仕事、お忙しいですか?」
「うん、まあね」
「暑い時期に外回りのお仕事は大変ですね」
「仕事だからね」
「普通、外回りのお仕事って、2人組じゃないんですか?」
返事はなく、ドアの方に顎をしゃくる。
なるほど、相棒は外で待機なのか。
そんな感じで、中身のない話を続ける。
「トイレは奥?」
「はい、カウンター席の奥、突き当りです」
ターゲットの男の背中を通ることになるが、戻る時にチラと視線を向けたくらいで、さりげない。
席に戻っても状況は変わらず。
結局、1時間ほど経って、ターゲットの男が席を立った。
チーママがお会計している間に、ママがこちらに来て「あら、もうお帰りですか」と、捜査員の男を先に店外に連れ出す。
さすがに料金は取れない。
私もドアの所まで見送り、「ありがとうございました~ぁ」と声をかける。
すぐに、ターゲットの男がチーママに送られて、ドアを出ていく。
また「ありがとうございました~ぁ」と声をかける。
このビルは外廊下の両端に出口があるから、捜査員とその相棒が二手に分かれて待伏せれば、ターゲットを見失うことはないだろう。
ママが戻ってきたので「なんで私に振るんですか~ぁ?」と尋ねたら、
「順ちゃん、度胸が据わっているから。それにあなた、警察に後ろめたいことないでしょう」と言われたので、
「じゃあ、ママは後ろめたいことあるのですか?」ときいたら、
「そりゃあ、あるわよ」
「この店、シャブは関係ないけど、違う種類の薬(ヤク)の取引してますからね」
ママがニヤリと笑った。
その時はそれだけのことだったけど、今になってみると、その後、どうなったのだろう?と思う。