SSブログ
日常(思い出) ブログトップ
前の10件 | 次の10件

寒い朝 [日常(思い出)]

1月25日(水)

電車通学していた高校時代、朝6時43分の電車に乗るため、6時半に家を出ていた。
秩父は真冬だと、氷点下6~7度は当たり前で、時には-10度になる。

駅に着いて、友人に「おはよう」と挨拶すると、彼の前髪が白く凍っている。

で、自分の髪に触れると針のような氷が。
整髪料がなく水で髪をとかして、すぐに家を出るので、凍ってしまうのだ。

そんな50年前のことことを思い出した寒い朝。
nice!(0)  コメント(0) 

斎藤誠会長のお墓詣り [日常(思い出)]

1月19日(木)

渋谷の丘の上にある吸江寺へ。

久しぶりに、歌舞伎町「ホステス」時代にお世話になった斎藤誠会長のお墓詣り。

「斎藤さん、ご無沙汰しています。順子です。昨年の7月にこんな本を岩波書店から出しました」
「おおっ、順子か、元気にしてるか、岩波から本を出したのか!それはすごいな。さすがは俺の女だ」
「ありがとうございます(最後はちょっと違うけど)」

「ホステス」時代にいろいろ教えていただいただけでなく、駆け出しの研究者の頃、長時間のライフヒストリー・インタビューに応じてくださり、私が「女装者愛好男性」という概念を確立するうえで、大きな貢献をしてくださった。

亡くなったのが2012年1月、いつの間にか11年がたった。
亡くなった方は歳をとらない。
斎藤さんが亡くなった年齢(70歳)まで、私はあと数歳だ。
あと、何回、お詣りに来られるかな?

(前回)2019年8月3日
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2019-08-04
(前々回)2017年8月25日
https://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2017-08-25-1
(最初・事情いろいろ)2016年2月10日
https://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2016-02-10-2
nice!(0)  コメント(0) 

これも遺伝なのか? [日常(思い出)]

7月16日(土)

突然、思い出したので、書き留めておく(さして意味はない、単なる思い出)

1994~95年、六本木で遊んでいた頃、大きなゲームセンターの中に、射撃ゲームがあった。
コインを入れて、ライフルのスコープを覗くと、10点満点の同心円の的があり、それに照準を合わせて、引き金を引く仕組み。
実際に弾が飛ぶわけではないが、的に当たると、そこに●が着く。
5発(5回)で50点満点。

30代くらいのビジネスマンが熱心にやっていたので、脇で見ていた。
だいたい45~47点くらいで、下手ではなかった。
彼、ちょっと疲れたのか、一息入れて、私が見ているのに気づいくと、
「お姐ちゃん、やってみる?」
と勧めてくれた。

お言葉に甘えて、やらせてもらった。
照準を合わせるのがけっこう微妙で(揺れる)、しかも制限時間があり、想像していたより難しかった。
結果は、照準の揺れの周期を合わせ損ねて1つ外してしまい、49点。

彼が「えっ、すげ~ぇ!」と言ったので、思わず「ごめんなさい」と謝って立ち去った。

その数年後、仲良しの男性が銃器マニアで、仲間と新しい(模擬)拳銃の試し撃ちをしていた。
見ていたら「姐さんも、やってみるかい」と言われたので、やってみた。

的は3mほど先のビール缶(短い方)。
両手グリップではなく、直角に曲げた左手を台にして右手を載せる片手撃ち。
皆が上方に外すのを見ていたので、缶の下部に照準を合わす。

初弾で「カ~ン」と良い音。

そこにいた5~6人が静まり返ってしまった。
友人が「さすがは歌舞伎町で名が知られた姐さんだ。構えからして素人じゃない」と褒めてくれた。
「いやだなぁ、まっさらの素人だよ」

で、思い出したのは、父親が、お祭などの射的場で、業者に「旦那さん、もう勘弁してください」と言わせるくらい上手だったこと。
まあ、世代的に実弾を撃っているのだが。
その場面を思い出した。

でも、父に手を取って教えてもらったことはない。
たぶん集中力の問題なのだろうと思う。
もしかすると、遺伝なのかも。
でも、視力が弱いので、遠い的は駄目。


nice!(0)  コメント(0) 

キャバレーの思い出 [日常(思い出)]

4月13日(火)

なぜか、FB友達とキャバレーの話が盛り上がった。
1994年6月、東京・小岩のキャバレー「ハリウッド」に行った。
940626-3 (2).jpg
女装クラブのイベントで客として行ったのに、「研修」だと思われ、No1ホステスさんに「あなたとあの子は合格」と言われた。
940626-2 - コピー.jpg
ちなみに、その予言通り、2か月後「あなたとあの子」は夜の新宿にデビューする。
さらに3年後、「あの子」は小店のママになり、「あなた」は大店のNo2になる。
「小岩ハリウッド」のNo1ホステスさん、さすがに慧眼だった。

呼び込みのお兄ちゃんにも「いつから入るの?」と言われた。
940626-1 - コピー.jpg
ところで、私を接客してくれたNo1とNo2のホステスさんは、どちらも30代半ばのシングルマザーだった。
後に「ハリウッド」の福富太郎会長のお話しをうかがったときにも、「若い子はすぐに辞めてしまう。訳有りの子の方が長続きするし頑張る」とおっしゃっていたのを思い出す。

以下、キャバレー・ホステス経験(2000年頃)がある友人とのやりとりのメモ。
キャバレーのホステスのファッションは、1990年代はボディ・コンシャスなスーツが基本だった。
00年代の初めでも、まだそうだったと思う。

たぶん2001~02年頃だったと思うが、歌舞伎町のビルに入っている「キャバクラ」からロングドレスのホステスがぞろぞろ出てきて驚いた記憶がある
そこらへんが、一つの転機だったようだ。
90年代のホステスもドレスは着たが、ミニ・ドレスが主流で、あんなお姫様ドレスは着なかった。

ホステスの基本ファッションが、着物→ボディコン・スーツ→お姫さまロングドレスと変わっていったのは、そのまま。顧客である男性のセクシュアル・ファンタジー(性幻想)の変遷でもある。

もうひとつ、90年代のキャバレーでは、踊れるホステスが、まだ人気だった。
踊りは社交ダンス。ジルバとかルンバとか。
踊りたがる男性客(おじさん、おじいさん)がまだたくさんいた時代で、踊れるホステスの需要があった。





nice!(0)  コメント(0) 

地下鉄サリン事件から16年 [日常(思い出)]

3月20日(土)

26年前の1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起こった時、私は、妹分の岡野香菜ちゃんと新宿のホテルにいた。

前日、香菜ちゃんの『ニューハーフ倶楽部』(三和出版、その年夏の創刊)のカラーグラビア撮影が奥多摩の古い旅館であり、斡旋した責任上、同行・立ち合いをした。

帰路、香菜ちゃんは慣れない撮影(5時間)で疲労困憊、「これ以上、運転したくにゃい」と言い出して、もっともだし、危ないので、ホテルに投宿。

翌日、警察・消防の車両がけたたましく行きかう様子に驚いて、テレビをつけると大事件。
香菜ちゃんが「毒ガスかもしれにゃい」と言ったのを覚えている。

ちなみに、香菜は、陸上自衛隊で対ソ最前線の精鋭戦車部隊の出身。

念のため都心を回避して、目黒の家まで送ってもらい帰宅。

オウム真理教関連の事件でも最大の都市テロ。
日本でもこういうこと(致死性毒ガスの無差別散布)が起こるのだという点で、おおいに教訓になった思い出。

nice!(0)  コメント(0) 

日本文化デザイン会議・秋田(1998年) [日常(思い出)]

2月17日(水)

ちょっと必要があって、「第20回日本文化デザイン会議’98秋田」の資料を、ファイルから引っ張り出す。
日本文化デザイン会議・秋田(1998) (1).jpg
写真は、昼の日程が終わってから夜に行われた「小こまち夜楽(やがく)」の「松岡塾」の記念写真。
日本文化デザイン会議・秋田(1998) (5).jpg
日本文化デザイン会議・秋田(1998) (6).jpg
この頃は、まだバブルの名残で、こうしたお金がかかる文化イベントが全国巡回形式で毎年行われていた(仕切りは博報堂)。
日本文化デザイン会議・秋田(1998) (7).jpg
↑ サインが下手で恥ずかしかった(今でも下手だけど)。

私が初めて参加した大規模な文化フォーラムで、ここで知り合って、その後、いろいろご縁があった方も多い。
塾長の松岡正剛先生、「顔学会」の原島博先生、緊縛師の明智伝鬼さん、そして、今週金曜のZoom講演に呼んでくださった佐伯順子さん(同志社大学教授)。

私は、作家の松本侑子さんに連れて行ってもらったのだけど、出演が決まったとき、「秋田には(鉄道の)どのルートで行きましょうか?」と尋ねたら「順子ちゃん、何言ってるの、飛行機に決まってるでしょ!」と言われた思い出がある。
実はその時、松本さんと乗った羽田ー秋田が国内線初フライトだった(飛行機嫌いで鉄道で行ける国内では乗らなかった)。

もう23年前、私も含めて、みんな若いなぁ。
日本文化デザイン会議・秋田(1998) (8).jpg
松本さんはもちろん、松岡先生(今年喜寿)がお元気なのが何より。
右の方に写ってる麿赤兒(77歳)さんも。

でも、懇親パーティーで緊縛ショーを見せてくださった明智伝鬼さ(2005年、64歳で逝去)ん、集合写真で松岡先生の隣にいる金子國義さん(2015年、78歳で逝去)、あと、この写真にはいないが、控室の同じテーブルでお弁当を食べていた川島なお美さん(2015年、54歳で逝去)は逝ってしまった。
nice!(0)  コメント(0) 

シャブの思い出(その2) [日常(思い出)]

2月13日(木)

23年ほど前、シャブ(覚醒剤)の売人なんていくらもいる新宿歌舞伎町の雑踏の中で、酔っぱらった女装の先輩(M衣子姐さん)が「順ちゃん、シャブ行こう!シャブ行こう!」と叫んで、とても困ったことがある。


で、しゃぶしゃぶ専門店の「モーモーパラダイス」に行った。

(参照)「シャブの思い出(その1)」
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2016-02-04-2
nice!(0)  コメント(0) 

「キヌブログ!」に館山市「中村屋」のことが [日常(思い出)]

11月20日(水)

新宿5丁目のバー「LE QUINE GUINE」の店主シンスケさんのブログ「キヌブログ!」に、千葉県館山市の「中村屋」のことが詳しく記されている。
http://lequineguine.jugem.jp/?eid=1263

私は、北関東の山間盆地(埼玉県秩父市)に生まれ育ったが、幼稚園(年長)から小学5年生まで6~11歳の6年間(1961~66年、昭和36~41年)、毎夏3週間くらい、親戚の別荘を借りて千葉県館山市に滞在した。

「中村屋」は昭和30年代の館山で唯一の都会的な店で、夏の間、母や祖母に連れられて、よく訪れた思い出の場所。

(参照)「続々・たそがれ日記」2017年8月30日(水)
館山・センチメンタルジャーニー(その1:南房総・館山へ)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31
館山・センチメンタルジャーニー(その2:遠い夏の思い出を探して)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31-1
館山・センチメンタルジャーニー(その3:海と「中村屋」)
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-08-31-2

館山の「中村屋」が新宿の「中村屋」直系(夏季分店)だったとは、知らなかった。
(だって、子供のだったから)
シンスケさん、思い出を蘇らせてくれて、ありがとう!
「千鳥街」といい「中村屋」といい、どうして波長が合うのだろう?
前世、兄弟でした?

nice!(0)  コメント(0) 

「元AV『女優』」という肩書 [日常(思い出)]

10月24日(木)

今から20年前の話。
当時、お手伝いホステスをしていた新宿歌舞伎町「ジュネ」の客に、フェチ系(足首とか鎖骨とか)のアダルトビデオを制作・販売して景気が良い社長さんがいた。

で、私をモデルに「着物熟女ニューハーフ」ビデオを撮りたい、「ギャラの希望は?」と言ってきた。
「ギャラはなしでいいから、撮影場所は椿山荘でお願いします」と返事した。

翌週、また社長が来て「順子さん、勘弁して。調べたら(椿山荘の部屋とお庭の撮影レンタル料が)予定のギャラの2倍だった」ということで、お流れに。

あの時、わがまま言わなかったら、私も今頃「元AV『女優』」という肩書を名乗れたんだなぁ。
ちょっと後悔・・・。

最近、Twitterで「元AV女優」という肩書を見かけるので、そんなことがあったことを思い出した。

970504-1 (2).jpg
↑ 1997年5月「椿山荘」で。

nice!(0)  コメント(0) 

ラグビーと私 [日常(思い出)]

9月28日(土)

私が高校に通った、埼玉県熊谷市は、ラグビーが盛んな街。
今回のW杯でも熊谷ラグビー場で試合が行われる。

その基を築いたのは、熊谷高校の5年先輩・宿沢広朗(しゅくざわ ひろあき、1950~ 2006年)さん。
160cmの小柄ながら、早稲田大学の黄金期(日本選手権2連覇達成)の、そして日本の代表のスクラムハーフとして活躍した名選手。

1989年には日本代表監督となり、5月28日、秩父宮ラグビー場でIRB所属のスコットランドに、28-24で勝利した。
第2回W杯(イギリス)ではジンバブエに52-8で勝ち、日本のW杯での最初の勝利となった。

2006年6月17日、登山中に心筋梗塞を発症、55歳の若さで急逝。

宿沢さんが生きていたら、今日のアイルランド戦をどう解説してくれただろう?

ということで、熊谷高校では冬場の体育ではラグビーをやった。
ちゃんと、校庭にラグビーゴールがあった。
クラス対抗試合もあり、私のポジションはバックスだった。
走るのは速いとはいえなかったが、足腰が強かったので、タックルされても倒れず、2人くらい引きずって、前に進み、味方にパスをすることができた。
あと、もともとサッカーをやっていたので、パントキックは得意だった。

だから、にわかラグビー・ファンじゃないのだよ。

nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | 次の10件 日常(思い出) ブログトップ