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『AERA』初取材の思い出(1997年12月) [日常(思い出)]

6月5日(月)

『AERA』(朝日新聞社)の取材を最初に受けたのは、1997年12月22日号の「ズボンを捨て街へ出よう -女装で広がる『もう一人の私』の世界-」だった。

まず、昼間、冬枯れの代々木公園で和装で撮影。
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その後、洋装(シースルーのワンピース)に着替えて夜の新宿で寒さに耐えながら撮影。
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(1997年12月7日撮影)

なのに、どちらの写真も「没」だった。
「もう一人の私」という題名も、私のコピーのそのままパクリ。

ほんと、ひどい扱いだった。
朝日新聞社のエリート記者からしたら、新宿の女装者なんて「下賤の者」で、まともな気遣いをする必要もなかったのだと思う。

今だったら「これだけ協力してその扱いはないだろう!」と激怒すると思うが、当時はこちらも「まあ、無料で写真撮ってもらったからいいか」という感じで、あまり腹も立てなかった。

それからもう20年の歳月が流れたのか・・・。
つくづく、世の中、変わるものだと思う。

よく生き残ったものだなぁ、私。



2月10日(水)Sさんのお墓を探しに行く [日常(思い出)]

2月10日(水)

午後、ちょっと時間がとれたので、思い立って、昔、歌舞伎町ホステス時代に、お世話になったSさんのお墓を探しに行く。

渋谷のお寺の墓地はイメージしていたより広かった。
これは端から探していくしかないと思ったら、「おい、塀の方だ」という声が聞こえたような気がした。
そちらを向くと、塀沿いの正面にその方の名字が刻まれたお墓があった。

墓石の側面のお名前を確認。
「廣修院紹山潔誠居士 平成二十四年一月十四日 七十才」
70歳か・・・、Sさん、早く逝きすぎですよ。

墓前で合掌。

「おお、順子か、よく来たな」
「遅くなって、ごめんなさい」
「元気そうじゃないか」
「お蔭さまで、なんとかやっています」
「すっかり女っぽくなったな」
「おばさんになっただけです」
「いくつになった?」
「今年で61です。どんどんSさんに近づいていきます」
「それは仕方がないな。俺はもう年はとらんからな」
「今日はお墓を探しに来ただけなので、お花もお線香もなくて、ごめんなさい」
「そうか、じゃあ、また来てくれ」
「はい」

帰り道、河津桜が咲いていた。
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Sさんは、1980~2000年代前半の新宿女装コミュニティの大立者。
「女装者愛好男性」(ご自分は女装しないで女装者を愛好する男性)の典型的な方。
ホステス時代には、いつも席に呼んでくださって、ずいぶんかわいがっていただいた。

その後、「戦後日本〈トランスジェンダー〉社会史研究会」(代表:矢島正見中央大学教授)で、ベテランの女装関係者の方にロング・インタビューをしてライフヒストリーにまとめる際、特にお願いして「女装者愛好男性A氏」として調査に協力していただいた。

その成果は、
「女装者愛好男性A氏のライフヒストリー」(三橋順子、杉浦郁子、石田仁)
「Aさんと私―ホステス順子の手記―」(三橋順子)
「女装者愛好男性という存在」(三橋順子)
「異性装の社会学的分析に向けてー「アマチュア女装」の観点からひとつの仮説へー」(杉浦郁子)
として、矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』(中央大学出版部 2006年3月)に収録されている。

私が「女装者愛好男性」という概念を提起する上で、いちばんお世話になった方。
数年前に「亡くなられた」と聞いて以来、ずっと心に掛かっていた。

なぜ、私がお墓のあるお寺を知っているかというと・・・。
ある夜、お店に来られたSさんが、こう話し始めた。
「今日は、渋谷に行ってきたんだ」
「お仕事ですか?」
「いや、娘の墓参りだ」
「えっ! お嬢さんのですか?」
「高校生になったばかりの夏休みにな、クラブ活動の最中にばったり倒れてそれっきりだ」
「え・・・・・、心臓、お悪かったのですか」
「どうだったんだろうな、ともかく突然死ってやつだ」
「それは、お辛かったでしょう」
「まあな」
「お墓は渋谷のどちらですか?」
「〇〇寺だ」
「ああ、〇〇〇大学の隣ですね」
「よく知ってるな、ついでがあったら寄ってみてくれ」
「はい」

それから、16~17年も経ってしまった。
今日、15歳で亡くなったお嬢さんの名前を墓石で確認して「ごめんなさい」と謝った。

シャブの思い出 [日常(思い出)]

2月3日(水)

18年ほど前の夏の夜、ネオンきらめく新宿歌舞伎町での話。
もう時効だから、書いてもいいだろう。

さっき外廊下に出ていったママが、地味な中年の男性客といっしょに戻ってきた。
「順ちゃん、ちょっと」と呼ばれて、二人でまた店の外へ。
「今、入ってもらった人ね、警察関係の人なのよ」
「何かあったのですか?」
「シャブ(覚醒剤)の売人を尾行中なんだって。『ウチでは、そういう取引はないです』って言ったんだけどね。悪いけど、普通のお客みたいに相手してくれる?」
「はい」

内心「なんで私に振るんだよ~ぉ」と思いながら、店内に戻って、ボックス席の端に座っている陰気な感じの地味なスーツの男性の席につく。

「いらっしゃいませ。順子です。お作りしますか?」
ウィスキーのボトルを取り上げながら、一応、尋ねる。
「いや」
「お仕事中ですよね。じゃあ、こちらで」
ウーロン茶を氷を入れたグラスに注いで、コースターに置く。
「あ、ありがとう」
額に汗をにじませている男はグラスを手にして冷たいウーロン茶を飲む。
でも、その間も右奥のカウンター席に視線を向けている。

さっきまで、カウンターで接客していたから、私は目を向けるまでもない。
手前に今はカラオケを歌っている、私の馴染のお客さん。
奥の隅の席で、やはり常連のお客さんが居眠りをしている。
ということは、今、チーママとしゃべっている、ちょっと派手な感じの中年の客がターゲットなのだろう。
少なくとも、私は知らない人だ。

「ママが言ってたと思いますけど、真ん中の人は常連さんではないですよ」
「ああ」
「もう少しおしゃべりしないと、かえって変ですよ。お仕事、お忙しいですか?」
「うん、まあね」
「暑い時期に外回りのお仕事は大変ですね」
「仕事だからね」
「普通、外回りのお仕事って、2人組じゃないんですか?」
返事はなく、ドアの方に顎をしゃくる。
なるほど、相棒は外で待機なのか。

そんな感じで、中身のない話を続ける。

「トイレは奥?」
「はい、カウンター席の奥、突き当りです」
ターゲットの男の背中を通ることになるが、戻る時にチラと視線を向けたくらいで、さりげない。

席に戻っても状況は変わらず。

結局、1時間ほど経って、ターゲットの男が席を立った。
チーママがお会計している間に、ママがこちらに来て「あら、もうお帰りですか」と、捜査員の男を先に店外に連れ出す。
さすがに料金は取れない。
私もドアの所まで見送り、「ありがとうございました~ぁ」と声をかける。

すぐに、ターゲットの男がチーママに送られて、ドアを出ていく。
また「ありがとうございました~ぁ」と声をかける。
このビルは外廊下の両端に出口があるから、捜査員とその相棒が二手に分かれて待伏せれば、ターゲットを見失うことはないだろう。

ママが戻ってきたので「なんで私に振るんですか~ぁ?」と尋ねたら、
「順ちゃん、度胸が据わっているから。それにあなた、警察に後ろめたいことないでしょう」と言われたので、
「じゃあ、ママは後ろめたいことあるのですか?」ときいたら、
「そりゃあ、あるわよ」
「この店、シャブは関係ないけど、違う種類の薬(ヤク)の取引してますからね」
ママがニヤリと笑った。

その時はそれだけのことだったけど、今になってみると、その後、どうなったのだろう?と思う。




「目が怖い」おじさんの思い出 [日常(思い出)]

8月27日(木)

「山口組、分裂か?」のニュースを見て思い出したこと。

シノギに余裕があった頃のヤクザは、行動様式的にそれなりに「面白い」人たちだったと思う。
もちろん、直に付き合わずに、一定の距離を置いて見ていた場合だが。

10年ほど前、地元(目黒)の行きつけの居酒屋のカウンター関西弁のおじさんが話しかけてきた
「神戸から東京支店の開設準備のために単身赴任してきた金融業者」という自己紹介だったが、外見や話の内容から「菱の代紋系の街金が東京進出する先兵」なのは明らかだった。

出会う度に適当におしゃべりしたり、「街金」の仕組みを尋ねたりしていたが、3回目か4回目の時に「新宿のニューハーフがいる店に連れてってくれ」と頼まれた。
聴けば、関西時代にはキタやミナミのその系統の店でよく遊んでいたらしい。
「なんだ、 私に声をかけてきたのも、そういうことか」と納得した。
仕方がないので懇意な店に電話して、ママに「これこれで、どう見てもやーさんなんだけど、連れてっていい?」と確認すると、「いいわよ、ウチの店、そういうお客さん、何人も来るから」という返事。

で、案内することになった。
豪勢なことに目黒から新宿までタクシーに乗り、新宿区役所通りの入口で降りて、連れだって店に向かった。
当時の歌舞伎町区役所通りには客引きがたくさんいたのだが、私たちには誰も怖がって声をかけてこない。

そしたら、そのおじさん「新宿の客引きはなんで声をかけて来んのや? 姐さん、あんた相当に有名なんやな」と言った。
「あんたの目が怖いからやろ!」と、関西漫才風に思いっきりツッコミを入れたかったが、やっぱり怖いので止めた。

ほぼ1年後、私の携帯に「仕事のかたがついたので神戸に帰ります。良い店、紹介してくれたおかげで、寂しい東京生活の気が紛れた。ありがとさん」とメールが入っていた。

今、どうしているかな。
あの頃、50年配だったから、もう足洗って、引退しているかな。


官能小説家、館淳一先生にお会いする [日常(思い出)]

6月15日(日)
都内某所にあるフェティッシュバーで開催された「ブルゴン商事臨時株主総会」に参加。
「ブルゴン商事」は官能小説家の館淳一さんの小説の舞台としてしばしば登場する総合商社。
本社は赤坂にあり、高度な監視システムで社員が管理されている。
ときどき女子社員が行方不明になることはあるが、今「流行り」のブラック企業ではない。

「株主総会」に先立ち、中野サンモールのレトロな喫茶店「ノーベル」で館淳一さんに初めてお目にかかった。
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私が初めて読んだ館さんの作品は『別冊S&Mスナイパー』1980年11月号に掲載された「ナイロンの罠」という小説。
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↑ 切り抜きを保存してあった。
当時、私は25歳。
普通の青年と異なる自分の性の有り様にいちばん悩んでいた時期だった。
予備校生の美少年が、実姉が仕掛けた「ナイロンの罠」(=女装の象徴)に嵌っていくストーリーに大きな衝撃とシンパシィを感じた私は、その後、館さんの作品を買い求めて読み漁るようになり、その過程で、女装への道を歩み始めていった。
そういう意味で、館さんの「ナイロンの罠」は、私の今に至る「原点」のひとつである。
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館 淳一 SNIPER NOVELシリーズ(発行:ミリオン出版) 
① 『闇から来た猟人』(1982年11月)
② 『ナイロンの罠』(1983年2月)
③ 『乱倫のバラード』(1983年6月)
④ 『絹の淫ら夢』(1984年10月)  未購入
⑤ 『黒いレースのニンフ』(1986年2月)
⑥ 『濡れ色のマドンナ』(1986年9月)
⑦ 『ロリータの鞭』(1987年10月)  未購入

館さんの小説は、他のSM作家が、ひたすら男性が女性を責める「男S女M型」だったのに対し、女性が男性を責める「女S男M型」が中心で、しかも、しばしば責められるのが女装が似合う美少年だった。
また、他の作家が、出来るだけ早く、しかもワンパターン的に「責め場」に持っていくのに対し、状況設定が多彩でストーリー性に富み、かつ情景描写が細やかだった。
一応、文学青年だった私はそうした館作品の特色が気に入ったのだと思う。
しかし、SM雑誌の営業的にはどちらの特色もマイナスであり、シリーズが打ち切られたり、いろいろご苦労されたらしい。

館さんは、雑学的な関心・知識も豊富な方で、私は3年ほど前に新宿4丁目(旭町)の連れ込み旅館のことを調べていて、たまたま館さんのブログに行き当たった。
さらにFace Bookのコメント欄でやり取りをしているうちに、昨年4月に思いがけず「友達申請」をいただいた。
その時、改めて「ナイロンの罠」以来の長年のファンであることをお伝えした。

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この日、作品との出会いから34年の時を経て、作者にお目にかかり、愛蔵書である『ナイロンの罠』にサインをいただくことができた。
ほんとうにうれしく、感激だった。


3月11日(火)あの日から3年 [日常(思い出)]

3月11日(火)
14時46分は、確定申告のための領収書の束を計算しているうちに過ぎてしまった。
あの時も、確定申告の書類を書いていた。
そこの経験したこともないような激しい揺れ。
これは大きな地震だと思い、立ち上がってデスクサイドの本の山を押さえた。
しかし、揺れはどんどん大きくなる。家のあちこちで本や雑誌の山が崩壊する音がする。
これはもう駄目だと思い、本の山を押さえていた手を放して、デスクの下に退避。
ともかく、大きな揺れの時間がやたらと長かった。
大きな揺れは去ったが、まだ家は揺れている。
なんとか我が家は壊れなかったようだ。
パソコンを開ける。幸い停電はしていない。
ブログに「今、大きな地震、発生、川崎市は震度5強」と第一報を書く。
テレビをつけると、もう大混乱。
少し冷静になって、崩れた本の山を踏み越え、崩落した雑誌で埋まった階段をなんとか、義父母の安否を確認。
後は、ひたすらテレビから収集した情報をブログに入力していた。
ヘリコプターからの空中撮影された名取平野が大津波に飲み込まれていく様子を信じられない思いで見ていた。
あの画像の中でいったい何人の命が失われたのだろうと思うと、今でも心が刺される思いがする。
なぜ2日前の前震(M7.3)の段階で、M8~9の大地震、そして大津波襲来の可能性に思いが至らなかったのだろうと思ってしまう。
『日本三代実録』の「貞観の大地震・大津波」(貞観11年=869)の記事をちゃんと読んでいたのに。
地震研究の専門家ではなく、若い頃、地震学と地震史を勉強しただけの人間が個人ブログで警告をしたところで、何の影響もないことはわかっているが、それでも自分が学んできたことが肝心な時に役に立たなかったことが悔しかった。
夕方、自由が丘で地震に遭遇した息子が歩いて丸子橋を渡って帰ってきた。
20時過ぎに、パートナーが仕事先(某高校)からほとんど歩いて帰宅した。
家族の無事が、こんなにうれしかったことはなかった。
同時にこれからどんなことがあっても、自分の知力の限りを尽くして、家族を守ろうと強く思った。

さすがに、3年前の大津波の画像を貼るのは心理的に辛いので…、
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これは、最近、ガラス乾板が発見され、画像がきれいになった明治三陸大地震の津波被害写真。
1896年(明治29)6月15日に発生した明治三陸大地震(M8.2~8.5)では地震の直後に高さ10~20m」以上の大津波が三陸沿岸に襲来し、死者・行方不明という大被害となった。
もう118年も前のことだが、この写真、津波に破壊されている家屋の古めかしさに目を瞑れば、とても既視感がある。
「3年前の被害写真ですよ」と言われれば、信じてしまうかも。
場所は、岩手県鍬ケ崎町(現・宮古市鍬ケ崎町)。
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撮影者は、末崎仁平という地元の写真師。
末崎は写真説明で「親は子の屍を潰家の下に尋ね、子は親の行衛(ゆくえ)を叫ぶ。惨の最も酷なるものなり」と、当時の状況を記している。
その悲痛な情景は、まったく3年前と変わらない。
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宮古市鍬ケ崎地区は、3年前の大津波で大きな被害を受けた。
118年を隔てて、同じような悲劇が繰り返された。
いや、118年ではないかもしれない。
三陸の沿岸は、1933年(昭和8)3月3日の昭和三陸大津波(死者・行方不明3064人)や1960年(昭和35)5月24日チリ地震大津波(死者142人)でも大きな被害を出している。
30年、50年という間隔、つまりほぼ1世代に1回の頻度で大津波の被害に遭っているのだ

テレビの3周年特番で、津波に浚われた商店街の元の位置に商店が再建されたこと、大きな被害を被った港に朝市が蘇ったことなどを、復興への希望という論調で伝えられている。
「ちょっと待って!」と言いたくなる。
3年前に大津波に浚われた同じ場所は、次の大津波でも同じような事態になる可能性が極めて高い。
それでも人は、元の場に戻りたがる。
それを愚かな行為と言うことはできない。
人は住みたい場所に住む権利があるし、その土地がその人の所有地ならなおさらだからだ。

3年前、私は、大津波で完全に破壊された街の映像を見て、「行政がよほど強力な規制をしない限り、5年も経てば、また海岸沿いに家が立ち並ぶのだろうな」と思った。
3年経った今でもそう思っている。
行政が高台に建設するという新しい街に住みたがる人は少ないだろう。
安全だけども海から遠く不便だからだ。
結局、元のように海が見える便利で住み慣れた海辺の平野に街が作られていくのではないだろうか。

そして、また何年後かに大津波で浚われる。

逆断層タイプの海溝型巨大地震の場合、しばしば揺り戻し的な正断層タイプのアウターライズ大地震(大津波を伴う可能性が高い)がその何年後かに起こる。
「しばしば起こる」と言うより、地震のメカニズム的に言えば、海溝型巨大地震とアウターライズ大地震はセットと考えた方がいい。
問題は、それが何年後かということだ。
明日来るのか、30年、40年後なのか、誰にもわからない。
海溝型巨大地震の「明治三陸」とそのアウターライズ大地震の「昭和三陸」の間隔は37年だった。
しかし、たまたま37年だったということで、間隔はそれよりもっと短いかもしれない。

現在、70、80代の高齢の方は、もしかすると、生きている間に「次」はないかもしれない。
でも、現在、30歳以下の人は生きている間に、ほぼ確実に「次」があるはずだ。
世の中には「それ備えよ」と言う人と、「そんな不確定なことは気にしない、今日、明日が大事」という人がいる。
歴史的経験則で言えば、たいていの場合、後者の方が多数で、その意見が通る。
人間とは、そういう生き物なのだ。
どんな悲惨な体験をしても、その記憶とはべつの次元で、暮らしやすさだとか金銭的なものとかを優先して考えるようになる。
逆に考えれば、そうした楽天性、功利性こそが、繰り返し襲ってくる大災害を乗り越えて、人間を生き延びさせてきたのかもしれない。

11月21日(木)父親、90歳の誕生日 [日常(思い出)]

11月21日(木)

今日は、父親の90歳の誕生日。
夕方、電話をしてお祝いを述べ、かつ様子を聞く。
田舎は寒さが厳しい季節になったが、声の感じでは、まずまず大丈夫そうで、安心する。
「何か欲しいものがありますか?」と聞くと、意外にも「チョコレート」という返事。
食欲が出ないときの栄養補給用だそうだ。

それにしても、2003年2月、79歳の時に重い心筋梗塞を起こした時には、もう駄目だと思った。
順天堂病院の天野篤教授の執刀で心臓の血管を4本も付け替える大手術(冠動脈バイパス術)に耐え、40日も入院したものの、日常生活ができるまでに回復した。
そのとき、天野先生に「付け替えた血管も79歳の方のものですから、何年もつかはわかりません。3年か、5年か・・・」というお話をうかがった。
たとえ、3年でも、5年でも、働き通しだった父の最晩年に穏やかな時間が与えられるのなら、それは「天の恵み」だと思った。
旧盆と年末に帰省して、東京に戻るとき、父の肩を抱いて「大事にしてね」と言いながら、「これが最後になるかも」という覚悟はいつもしていた。
それから10年以上、まさか「恵み」が10年もあるとは正直思いもしなかった。

平均寿命79歳の男性で、卒寿はたいしたものだ。
まして父親は、終戦後の混乱期に放射線の専門医として、巡回診療でろくな遮蔽設備なしにレントゲンを撮りまくり、とんでもない量の被曝をしている。
本人曰く「800ミリ(シーベルト)は浴びているな」だそうだ。
実際に、30代後半には放射線障害を発症し、放射線医学研究の道を断念せざるを得なかった。
私も生まれてくるはずではなかった。
放射線医として同じ時期に活動した同僚・後輩は、もう誰もこの世にいない。
ほとんどは癌死だったそうだ。
それでも父は90歳に到達した。
なんという生命力、細胞修復力だろう。
祖母(父の母)は106歳まで生きた。
やはり、長命の遺伝子が受け継がれている。

今までは、「もう1年、頑張って」だったが、これからはもう「もう半年、もう3カ月」かもしれない。
その積み重ねが、どこまでできるかだ。
なんとか、この冬を乗り切って欲しいと祈っている。

新宿最古参の屋台(たこ焼き屋)が終業 [日常(思い出)]

4月25日(木)
新宿最古参の屋台(たこ焼き屋)が姿を消した。
この赤い屋台、何度も見たことがあるし、とても人情味がある良い記事なので記録しておく。
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昭和20年(1945)5月25日のアメリカ軍による山の手大空襲で、新宿一帯は焼け野原になった。
そして、8月15日の敗戦。
そのわずか3日後の18日、、戦前から新宿に根を張り露店商を仕切っていた「関東尾津組」というテキ屋の親分尾津喜之助(1898~1977)が、軍需産業の下請け業者などに向けて製品の「適正価格で大量引き受け」の広告を都内の主要新聞に出す。
尾津は続々と集まってくる物資と商品をもとに、「光は新宿より」というスローガンを掲げて、新宿駅東口に露店を並べた「尾津マーケット」を開く。
これが新宿における焼跡闇市の始まりで、敗戦からわずか5日後の8月20日のことだった。

それを皮切りに、東口の「高野」や「中村屋」の裏手には尾津組の「竜宮マート」が、東口から南口にかけては和田組マーケットが、そして西口には安田組の「民衆市場」が軒を連ね、露店の数は3000軒以上(正確には不明)新宿の焼跡闇市の全盛期を迎える。

しかし、これらの露店は、ほとんどすべてが道路や私有地の不法占拠だった。
世の中が落ち着き始め、警察力が機能を回復すると、不法占拠の露店への風当たりは強くなる。
昭和24年(1949)の秋には、GHQから露店取払い命令が出る。
期限は昭和25年(1950)3月末日までだった。

多くの露店業者は、駅から少し離れた場所を確保し、店舗兼住居の長屋を建てて集団移転した。
その内、現在までほぼそのまま残っているのが歌舞伎町1丁目(花園神社裏)のゴールデン街・花園街である。
平成11年(1999)の火事で店舗は建て替えられたが、西口の「思い出横丁(しゅんべん横丁)も当時の地割と雰囲気を残している。

しかし、中には露店取り払いに抵抗する業者もいた。
露店を改装し車を付けて移動式にして、「これは露店ではない、屋台である」と主張し、元の場所に居座ろうとする。
警察が立ちのきを命じると、ゴロゴロと移動するが、しばらくすると元の場所に戻って来る。
仕方なく屋台取り締まりの条例が作られ、警察が屋台も取り締まらざるえなくなった。

新宿の屋台には、そんな歴史がある。
この赤い屋台のおじさんは1971年頃から営業を始めているので、焼跡闇市の生き残りというわけではないが、また一つ、新宿の街の生き証人が消えることになる。
ちょっと寂しい。

歌舞伎町でお手伝いホステスをしていた頃、新宿駅から店への出勤の途中で、下の記事の写真のような戸締り?した屋台を引く露天商の人とよく擦れ違った。
屋台は営業する場所と置いておく場所は、ほとんどの場合違う。
夜の8時くらいになると、歌舞伎町の奥の方にある置き場から繁華な通りの営業場所へ引いて行く。
つまり、あちらも出勤、私も出勤というわけ。

屋台の営業時間は、記事にもあるように、だいたい夜9時頃から夜中の1時か2時までだったと思う。
間違いなく終電の後までやっていたが、夜通しでの営業ではなかった。

区役所通りの屋台は、歩道をできるだけ塞がないように、ぎりぎり車道側に寄せて営業していた。
よく覚えているのは、新宿区役所の向かい側にいつも出ていた磯辺焼き(小さな餅を焼いてお醤油をつけて海苔を巻いたもの)の屋台。

ある冬の夜、男性客が「なんか腹が減ったなぁ、悪いけどこれで磯辺焼き買ってきてよ」と、私に1000円を3枚渡した。
私がいた「ジュネ」は、頼まないのにけっこう食べ物が出てくる店なのだが、きっと彼が磯辺焼きが食べたかったのだと思う。
一人で食べるわけにもいかないので、店にいるスタッフと客(計10数人)を数えて1人2枚と考えたのだろう。
私は、店を出て100mほどのところの磯辺焼きの露店に行き、顔見知りのおじさんに「3000円分くださいな」と注文。
当時(1997年頃)磯辺焼きは1つ100円だった。
ただ、30枚の磯辺焼きは露店の小さな鉄板では一度に焼けない。
ストックされていたものを合わせても2回かかる。
時間にして15~20分。
コートは羽織ってはきていたが、焼き上がるのを待つ間、ミニワンピースの裾から入ってくる寒気で、すっかり身体が冷えてしまった。
「はい、お待ち、おまけしておいたからね」
おじさんから包を受け取る。
胸に抱えた包の暖かさをうれしく思いながら、急いで店に戻る。
「遅くなって、ごめんなさ~い」
注文主の男性客の前で包を開くと、おまけが5枚も付いていた。

アルジェリアと「カスバの女」 [日常(思い出)]

1月18日(金)
アルジェリア東部の天然ガス関連施設で起こったイスラム過激派の武装勢力による襲撃事件で、人質にされた日本人17人(「日揮」の社員)の安否がいまだに確認できない。
(19日0時段階で、7人無事、10人安否不明)。
なんとか全員生存・救出されて欲しいが、アルジェリア政府軍の鎮圧も過激なので楽観できない状況。

ところで、この事件についてのネット世界の反応で意外だったのは、アルジェリアという国の場所をイメージできない人がけっこういること。

私のような世代は、アルジェリアの名前を名曲「カスバの女」の「ここは地の果てアルジェリヤ」で、子供時代(1960年代)に覚えた。

「カスバの女」は、作詞:大高ひさお、作曲:久我山明で、1955年(昭和30)の作品。 
最初に唄ったのは大蔵省に勤務しながらクラッシック音楽を学んだ女性歌手エト邦枝さん(1916~87年)。
しかし、あまりヒットせず、広く知られるようになったのは1967年(昭和42)に緑川アコ(1947年~)がカバーしてから。
以後、沢たまき、青江三奈、ちあきなおみらなど、ハスキー(セクシー)ボイスの女性歌手が唄っている。
その背景には、1960年代のベトナム戦争の激化と、反戦運動の高まりがあったと思われる。
12歳の私が覚えたのも、緑川アコのヴァージョン。
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(歌詞)
涙じゃないのよ浮気な雨に ちょっぴりこの頬濡らしただけさ
ここは地の果てアルジェリヤ どうせカスバの夜に咲く
酒場の女のうす情け

歌ってあげましょわたしでよけりゃ セーヌのたそがれ瞼の都
花はマロニエシャンゼリゼ 赤い風車の踊り子の
いまさらかえらぬ身の上を

貴方もわたしも買われた命 恋してみたとて一夜の火花
明日はチェニスかモロッコか 泣いて手をふるうしろ影
外人部隊の白い服

歌の背景は「アルジェリア独立戦争」(1954~62年)。
フランスからの独立を求める「アルジェリアの民族解放戦線(FNL)」が、首都アルジェの旧市街カスバなどを拠点に激しいゲリラ闘争を行った。
それに対して、植民地の権益に固執するフランスは「外人部隊」(傭兵部隊)を送りこみ、なんとか独立闘争を鎮圧しようとした。

歌詞から判るように「カスバの女」は、花のパリからアルジェのカスバに流れて来たフランス人女性(元、シャンゼリゼ界隈の踊り子)と「外人部隊」兵士(男)の悲恋を唄ったもの。
華やかだった若い時代のパリでの暮らしを懐かしみながら、今また結ばれぬ傭兵との恋に泣く落魄の身をなげく女の歌。

かって(1995~99年)の私のような盛りを過ぎたホステスが暗いレトロな酒場で唄うと雰囲気ぴったりなので、お客さんに受ける。
よく年配のお客さんから「順子、『カスバの女』唄ってくれ」とリクエストされた。

ちなみに、アフリカ大陸北岸(地中海沿岸)には、東からエジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコが並んでいる。
アルジェリアは、その中で面積最大の国(スーダンが分割したのでアフリカ最大、世界でも第10位)。
南部は広大なサハラ砂漠で、モーリタニア、マリ、ニジェールなどのサハラ諸国と接している。
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「カスバの女」の歌詞には、ちゃんと「明日はチェニス(正しくはチュニス)かモロッコ」と隣国の名前も出て来るので、地理の勉強になる。
アルジェリア、チュニス(チュニジアの首都)、モロッコの場所を地図帳で確認した子供時代の私は「ねえ、アルジェリアが『地の果て』だったら、その先のモロッコはなんなの?」と母親に質問したことがある。
確か母親は「地の果てがずっと続いているのよ」とわかったようなわからないような返事をしたように記憶する。

チュニジア、アルジェリア、モロッコなど北西アフリカの国を「マグレブ」(Maghreb)諸国と呼ぶ。
アラビア語で「日が没すること」の意味。
いつか、マグレブを旅行して大西洋に沈む夕日を見てみたい。

雪の成人式 [日常(思い出)]

1月14日(月・祝)

今日、成人式の人はかわいそうだ。
とりわけ、振袖で晴れ着のお嬢さんたち。
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東京で雪の成人式は、いつ以来だろう?
1998年の成人の日(1月15日)は明け方から降り出した雪で、東京は積雪18cm(東京では史上8位)の大雪にだった。
私はその前夜(14日)、店(新宿歌舞伎町「ジュネ」)に出ていた。
明け方5時に店が終わった後、ゴールデン街で働いている友人が「相談がある」と言うので、その店に寄った。
その時は、まだチラチラ降っていただけだった。

彼女の相談は「独立、新規出店」で、いろいろ話し込んでいる間に本降りになり、話を終えて店を出たら(6時半頃)、靖国通りはもう真っ白だった。
ほんとうに見る間に積っていく。
疲れていたのでタクシーで帰ろうと思ったのだが、まったく走ってなくて焦った記憶がある。
なんとか明治通りで車を拾えて、運転手さんがスリップに気を付けながらの慎重な運転で目黒の家に帰った。

仮眠して11時頃に起きたら、20cmほども積もっていた。
東急東横線学芸大学駅に行く途中、大振袖に礼装用草履のお嬢さんが雪の中で進退きわまっていた。
かわいそうなので積雪に濡れた振袖を袖巻きにしてやって、褄を取るのを教えて、雪の少ない所まで手を引いて誘導してやったことがある。

今年も同じような光景が繰り返されるのだろうな。

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