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新宿駅東口にあった、おでん屋「五十鈴」について [性社会史研究(一般)]

8月12日(火)
Face Bookでつながっている作家の館淳一さんが、新宿二丁目の「居酒屋ひとみ」の話に関連して、こんなコメントをくださった。
「学生時代、フジテレビで番宣のアルバイトしていた時は、新宿駅東口の『五十鈴』というお店が朝までやってて、やはり業界人ご用達でした。」
「『五十鈴』は儚げな熟女さんがカウンターの中にいるので有名な店でした。(笑)」

館先生は1943年生まれだから「学生時代」というのは1960年代前半のことだろう。
ということは、私が関心がある新宿の「線後」(赤線廃止後≒1958年3月~1960年代半ば)の話だ。
そこで、調べてみた。

ネットで検索すると、遠藤哲夫さんという方の「ザ大衆食つまみぐい」というブログの「70年代新宿『五十鈴』ほか、ふがふが」という記事がヒットした。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2005/09/70_9b39.html
「五十鈴」の常連だった作家の椎名誠さんの『かつをぶしの時代なのだ』(集英社文庫)が引用されていて、「五十鈴(いすず)」がおでん屋さんであること、「うなぎの寝床」のような細長い店であること、「頭に手ぬぐいを姉さんかぶりに被(かぶ)って、まっ白なカッポーギを着た小学校の給食係みたいなおばさんが五、六人、なぜかいつもすこし悲しそうな顔をしてオデンを煮てい」たことなどがわかる。
そのおばさんたちを「戦争未亡人」と呼んでいたことなどがわかった。
ブログ主の遠藤さんも1970年代に「五十鈴」に出入りしていて、店名を呼ばず「うなぎの寝床」で通用していたこと、おばさんたちを「戦争未亡人」と呼んでいたことなどを記した上で、その場所を「新宿東口というより、中央口のイチバン南口寄りの出口を出て、そのまま南口へ向かう通りの左側、2、3軒目のビルの一階」としている。

これで見当がついた。
そこで、さっそく地図を見ていくと、1962年の住宅地図に「五十鈴」が見つかった。
P1110234 (4).JPG
東口といっても、かなり甲州街道寄りで、現在の感覚では東南口。
甲州街道下の「御大典記念碑」を囲むようにあった「桜新道」の飲み屋街(私が「準青線」として調べているのだが、よくわからない)のすぐ北側。

隣が「日本晴」という飲み屋。
ん、待てよ、「日本晴」という店、記憶にあるぞ・・・。
そこで、以前から集めている新宿駅東南口付近の画像を調べると、あったあった。
新宿駅東南口6(日本晴).jpg
二村高史(ふたむらたかし)さんという方の「二邑亭駄菓子(にゆうていだがし)のよろず話」というブログの「東京 -昭和の記憶-」というコーナーの中にある「新宿駅南口~東口」という記事に載っている写真(1988年10月に撮影)。
地図と合わせると、写真の「日本晴」の左隣の看板が見えない(出ていない)店が「五十鈴」ということになるのだが・・・。
う~ん、遠藤さんが言う「ビルの一階」とはイメージが違うなぁ、
それと、店の形が「うなぎの寝床」というほどの感じではない。

そうした疑問は少し置いて・・・。
この建物には「共立運送 新宿支店」と記されていて、少なくとも1962年の少し前にはその1階に「日本晴」と「五十鈴」が並んでいたことは間違いない。
1963、1965、1967、1970年の住宅地図には、この「共立運送 新宿支店」の名が記されている。
新宿南口御大典広場(1967)3 .JPG
↑ 1967年の住宅地図。新宿駅甲州街道陸橋下にあった「昭和御大典記念碑」の周辺。
下(南)の広い道が甲州街道の陸橋。
左端に半分見える白い部分が新宿駅南口の駅舎。
陸橋から下る階段とスロープ(坂道)、「記念碑」囲むように立地する飲み屋街(「桜新道」)。
その北側に「共立運送 新宿支店」(赤囲み)があり、「日本晴」と記されている。

気になるのは、1967年の「共立運送 新宿支店」の注記には「日本晴」とだけあって「五十鈴」の名が見えないことだ。
そこで、遠藤哲夫さんのブログの「日本晴」についての部分を読むと、こんなことが書いてある。
「(日本晴は)ほんの数十メートルはなれた五十鈴と、まったく客層がちがい、そもそも、場外馬券売場や旭町のドヤ街には、こちらが近いわけで、新宿低層労働者的フンイキの濃度が増すのだった。」

遠藤さんが行った1970年代の「五十鈴」は、「日本晴」の隣ではなく、数10mほど北寄りだった。
いくら酔っぱらっていても、そこらへんは間違えないだろう。
つまり、「五十鈴」は、ある時期に「共立運送 新宿支店」の1階(「日本晴」の隣)から、北に数10mほどの所にあるビルの1階に移転したことになる。

これで、前述の疑問は解けたが、移転がいつ頃だったのか、何というビルかがわからない。
あのエリア(線路のすぐ東側)にはビルは数軒しかないはずだが・・・。

そもそも、館先生が通った「五十鈴」は、移転前、移転後、どちらの「五十鈴」なのだろう?
「うなぎの寝床」だったら、移転後ということになるが・・・。

1962年頃に「五十鈴」が入っていた「共立運送 新宿支店」があったエリアは、1994年の東南口広場の設置までに立ち退きになったはず。
現在地に比定すると、東南口広場の敷地の北端で「GAP」が入っている「Flags」ビルに掛かるあたりになる。
新宿駅東南口(2014)2 (2).jpg
↑ 1962年前後の「五十鈴」があった場所
新宿駅東南口(2014)1  (2).jpg
その後「五十鈴」が移転したビルはこのあたり。
左側遠景の横長ビルが東口駅ビルの「MY CITY」。
手前の「GAP」が入っている「Flags」ビル(旧「五十鈴」の場所)との間には、現在、ビルは3棟しかない。
北(MY CITY寄り)から「安与ビル」「新宿NOWAビル」「マルハン新宿店」のビル。

ここまで調べがついた後、「五十鈴」について記されたブログをもうひとつ見つけた。
わたなべゆうこさんという方の「人生は60から」というブログの「昨日の最終地は新宿」という記事(2007年9月22日記)。
http://tiaratiara.exblog.jp/7477369?_s=32dcad39bcec9126b2638d9350709eca
この方も若い頃「五十鈴」に出入りされていたようで、「ウナギのねどこみたいに奥に長ーい店で、カウンター席のみ。面白いのは、細くて長ーい調理スペースをはさんで反対側にもカウンター席があるんだけど、その調理スペースじたい狭い、カウンターのテーブルも狭い、ので、反対側のカウンターのお客さんとの距離がやたら近い」「席のうしろも人一人がやっと通れるくらいの狭さ。で、カウンターの中にいるのは、まっしろの割烹着を着たおばさん、おばあさんたち」と思い出を語っている。
場所については「東口の駅ビル「MY CITY」のはずれをちょっと歩いた左側の1階」と述べている。
これも年代的に見て、移転後の「五十鈴」だろう。

どうやら、「五十鈴」は、私よりちょっと上の世代の人たちに、ずいぶん愛されたお店だったようだ。
近年、こうした思い出話的に、かっての「飲み屋文化」の掘り起しが進んでいるように思う。
お酒があまり飲めない私にとっては縁がなかった世界なのだが、こんな感じで、歴史地理学的な検証のお手伝いくらいはできる。
そして、そうした作業の積み重ねが、私の研究フィールドである戦後の新宿の再現イメージをより豊かなものにしてくれる。

【追加】 新宿駅南口、甲州街道陸橋下「御大典記念碑広場」
新宿駅東南口5.jpg
↑ 甲州街道の陸橋から下る階段とスロープ(坂道)、「記念碑」(この写真の左外にある)を囲むように立地する飲み屋街(「桜新道」)が写っている。
新宿駅東南口8.jpg
↑ 「昭和御大典記念碑」

8月11日(月)何もしない夏休み(3日目) [日常]

8月11日(月)  曇り   東京  32.9度  湿度59%(15時)

9時頃、暑さで目が覚め、いつものように涼しい部屋に移動。
次に目が覚めたら、13時だった。

朝食(もう昼過ぎだけど)は、カスタードクリーム・デニッシュとコーヒー。
今日も夏休みなので、何もしない。

ちょっと思いついて、ブログに記事を書く。
「『一夫無妻多子』願望の実践」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2014-08-11-2

昨夜、調べたことをまとめておく。
「新宿二丁目『サロンひとみ』について」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2014-08-12

遅い昼食は、素麺を茹でる。
140811-1.JPG
付け合わせは、天麩羅の残り。
140811-2.JPG

夕方まで、いろいろネットで調べもの。
それなりに成果有り。

夕食は、牛肉のソース炒めを作る。
140811-3.JPG
それと、山盛りの生野菜。
140811-4 (2).JPG

夜中、新宿駅東口にあった「五十鈴」という店(おでん屋)について調べる。
その他、戦後~1960年代の新宿について、いろいろデータや画像を収集。
和田組マーケット(1949)1.jpg
↑ 敗戦後、新宿駅東口から南口にかけての線路際道路にできた「和田組マーケット」。
いわゆる「焼跡闇市」のイメージと違い、少なくとも外観はかなり整っている。
屋根さえあれば、アーケード街と言ってもいいくらい。
横書き看板が、戦前流の右書き(「雀孔白」)と戦後流の左書き(「遊戯場」)が混在している所が、いかにも敗戦直後を思わせる。

就寝、5時。

新宿二丁目「サロンひとみ」について [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

8月11日(月)
先日、「1949年、新宿「赤線」の経済」というメモをまとめた際に、新宿「赤線」の様相を示すものとして、下の画像をアップした。
「赤線」新宿4「ひとみ」(1953) (2).jpg
↑ 1953年頃の新宿二丁目「赤線」。
都電通り(現:御苑大通り)に面していた「サロン ひとみ」という店。

この「サロン ひとみ」は1962年の住宅地図に載っている。
新宿2丁目地図(1962) (8).jpg
御苑大通りから仲通り方面に入る道(現:花園通り)の南側角に「サロンひとみ」と「ひとみ寿司」が見える(赤塗の部分)。
「赤線」指定エリアの南西隅だが、御苑大通りに面した角店という立地上の有利があった。
現在の住所では「新宿区新宿2丁目12-8」。
1963年の住宅地図には「サロンひとみ」の部分が「天麩羅ひとみ」に変わり、「天麩羅ひとみ」+「ひとみ寿司」の形になっている。
跡地は「アーバンプレム新宿」という新しいビルになっていて、「a.flat」というアジアン家具のお店などが入っている。
「アーバンプレム新宿」ビル1.jpg
ところが、作家の館淳一さんからFace Bookの方に、以前、新宿二丁目にあった「ひとみ」という居酒屋によく行った、それと関係があるだろうか?というお尋ねをいただいた。
同時に、2006年に閉店した「割烹居酒屋ひとみ」の写真の所在も教えていただいた。
居酒屋「ひとみ」.jpg
http://misebiraki.exblog.jp/4701736/
この写真と、上の「アーバンプレム新宿」ビルの写真を比較すると、まずビルの形がとてもよく似ている。
さらに、画像を拡大して子細に見ると、左側のレンガ色のビルの看板が同じで、同一場所であることがわかった。
つまり、「赤線」時代の「サロンひとみ」→赤線廃止後(1962年頃)「サロンひとみ」+「ひとみ寿司」→(1965年頃)「天麩羅ひとみ」+[ひとみ寿司」→2006年まで営業していた「割烹居酒屋ひとみ」という形で、同一場所で「ひとみ」という屋号を使い続けながら変遷したことが確定できた。
居酒屋「ひとみ」2.jpg
残念ながら、私のシマは御苑大通り西側の三丁目「末広亭ブロック」で、東側の二丁目「ゲイタウン」にはめったに足を運ぶことがなく、ちょっと場違いな居酒屋があったことを覚えているだけで、「居酒屋ひとみ」には入ったことがない。
「赤線」の流れを引く店と知っていたら、飲みに行ったのにと思うと残念だが、その頃には無知だったのだから仕方がない。