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青森県東方沖でM6.1、最大震度5弱 [地震・火山・地質]

8月10日(日)
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8月10日12時43分頃、震源地は青森県東方沖(北緯41.1度、東経142.3度)、
震源の深さは約51km(暫定値)で、地震の規模はM6.1(暫定値)。
発震機構等:西北西-東南東方向に圧力軸を持つ逆断層型 (速報)

青森県七戸町(しちのへまち)で震度5弱を観測
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NHKで緊急地震速報が流れた時、とっさに「まずい!」と思った。
以前、このブログに書いた通り、下北半島~十勝沖は、被害が生じる地震が比較的短い周期で起こるエリアだからだ。
(参照)2013年2月2日「北海道十勝地方でM6.5、北海道東部で震度5強~震度5弱」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2013-02-03-1
幸い発生した地震はM6クラスで、最大震度は5弱止まりだった。
もう1ランク大きかったら、被害がでるところだった。

この地域で起こる被害地震は3タイプある。
(1)太平洋プレートが千島海溝に潜り込む十勝~釧路沖を震源とするM8前後の海溝型巨大地震。
近年では1843年(M7.5~8.0)、1952年(M8.2)、2003年(M8.0)と発生し、その間隔は約60~80年とされている(他のエリアより周期が短い)。
現在は、2003年の発生から11年しか経っていないので、このタイプの巨大地震がすぐに再来する可能性はほとんどない。

(2)十勝沖で発生するM7前後のひとまわり小さい海溝型地震
約17.5年周期。
前回は2008年(M7.1)に発生しているので、まだ6年しか経っていない。

(3)十勝沖から択捉島沖にかけての沈み込むプレート内部で起こるM7~8程度のスラブ内地震(深発地震)
1924年、1978年12月、1993年の3回発生していて、平均約27.3年周期。
1993年の地震(釧路沖地震M7.5)は、釧路で最大震度6を記録し、死者2名が出た。
その時から21年が経過し、平均的な発生周期の27.3年近づきつつある。
北海道東南部で今後注意すべきは、このタイプの地震だろう。

台風11号、10日朝6時過ぎ、高知県安芸市に上陸 [天文・気象・生物]

台風11号の位置
1411-00.jpg
10日
1時 足摺岬南方      960hPa 中心付近の最大風速35m/s 北北東15kn/h
2時 足摺岬東方      960hPa 中心付近の最大風速35m/s 北北東15kn/h
3時 高知市の南南西約70km 960hPa 中心付近の最大風速35m/s 北北東15kn/h
4時 高知市の南約60km 960hPa 中心付近の最大風速35m/s 北北東15kn/h
5時 高知市の南約50km 960hPa 中心付近の最大風速35m/s 北北東15kn/h
6時過ぎ 高知県安芸市付近に上陸
10時すぎ 兵庫県赤穂市付近に再上陸 970hPa 中心付近の最大風速30m/s
 
1~2時、足摺岬の南から東にかすめるように通過して、土佐湾に入る。
速度は上がらず、相変わらず時速15kmの自転車並み。
上陸時刻はさらに遅れ、6~7時頃になりそう。
進路はわずかに東に寄ってきたので、高知県東部(香南市~芸西村~安芸市)に上陸か。
中心気圧はいぜん960hPaのままで、強い勢力を保ったまま上陸しそう。

201408100245-00.jpg
↑ 2時45分のレーダー画像。
すごいことになっている。
やはり、台風の中心の北側に強い雨域をともなっている。
201408100505-00.jpg
↑ 5時05分のレーダー画像。

1949年(昭和24)の新宿駅周辺「買売春地図」 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

8月9日(土)
戦後の1950年代、「廃娼」(売春撲滅)の立場から数多くの著述を残した評論家神崎清(1904~1979年)の比較的初期のレポート「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月号)に掲載されている1949年(昭和24)の新宿駅周辺の地図。
当時「パンパン」と呼ばれた街娼たちが立つ場所が女性の黒いシルエットで、「社交喫茶街」の女給たちが白いシルエットで示されている。
新宿駅前付近図(1949年6月) (2).jpg
参考までに、同じエリアの現在の地図(上下=南北反転)を載せておく。
新宿(1万分1)2 (4).jpg
街娼が立っているのは、新宿駅東口の「聚楽」の前に日本人相手の街娼が60人ほど。
これはなぜか地図に描かれていない。

次に、甲州街道と新宿通りを結ぶ道の南寄り。
日本人相手でおよそ30人ほど。
現在の新宿駅東南口広場の前から、「新宿国際劇場」の前を通り、中央通りと交差して、新宿通りの紀伊国屋書店前の交差点に至る道。
「新宿国際劇場」が入っている「新宿国際会館ビル」が地図にある「ムーランルージュ(新宿座)」の跡地。
いちばん線路沿いの道は、狭い道の両側に露店が立ち並ぶ「和田組マーケット」(約400軒)だったので立っていない。

さらに、新宿駅南口から甲州街道の陸橋を下ってきて、「環状線」(環状5号線=明治通り)に合流する「松竹映画劇場」のあたりにやはり日本人相手の街娼が20人ほど。
「松竹映画劇場」は、現在「大塚家具」になっている「旧:新宿三越南館」の場所にあった。
甲州街道の陸橋の下には、1990年代になっても、怪しいお姐さんが立っていた。

「新宿通り」と「環状線」(明治通り)が交差する「追分交差点」(現:新宿三丁目交差点)から「伊勢丹」前にかけても街娼が立っていたが、これは外国人専門(ヤンキー・パン)で30人ほど。
外国人専門の街娼は新宿駅東口駅前にも10人ほどいた。

合計すると、このエリアの街娼は、日本人向けが110人、外国人向けが40人の計150人となる。
神崎は「実働250人、予備軍を入れると、その倍の500人」と記しているが、ちょっと過大な見積もりか?
(ゴキブリは1匹見たら3匹いる、の論理だろうか?)

日本人向けの街娼たちは客をキャッチしたら、旭町(現:新宿4丁目)にたくさん在った「パンパン宿」に連れ込んだのだろう。
「旭町」(旧:新宿南町)は、戦前から「木賃宿」指定地で東京有数のスラムを形成していた。
戦後は、「ドヤ」(簡易宿泊所)と安価な連れ込み宿が混在する街になる。
外国人向けの街娼は、専用のホテル(ベッド・スタイル)があったと思われる。

これに対して、「ムサシノ(武蔵野)館」から「帝都座」の裏手に至る「社交喫茶街」には街娼はいない。
「中央通り」の1本「新宿通り」寄りの路地は、「三越裏」と通称される戦前からの「カフェー街」で、戦災で丸焼けになったが、1949年6月の段階ですでに「社交喫茶街」として復興していた。
つまり、「社交喫茶街」の女給と街娼は、男性客を誘うという点でライバル関係にあり、はっきり住み分けていたことがわかる。
おそらく、「社交喫茶街」が警察と提携して、街娼を排除していたのだろう。

神崎によると「不景気になやむ女給たちが、三越うらの社交喫茶街から(駅前に)遠征してくるのだが、和田組マーケット前の警備所を境にして、聚楽のへんまで進出してくる女はめったにいな」かったようだ。
やはり暗黙の住み分け(縄張り)協定があったのだろう。

また、神崎は、女給と街娼の鑑別法について、「同じパンをかけてきても」、女給は「お茶をおのみになりませんか」と言い、街娼は「お遊びになりませんか」と言う、と述べている。
「パンをかける」は「誘いをかける」の意味だが、街娼の誘い言葉には「遊ぶ」の本来の用法が残っていて、興味深い。

ただ、この「社交喫茶街」の女給たちが飲み物(お酒)だけを売っていたかというと、それはかなり怪しく、女給が「色」も売っていた可能性も高い。
そうなると、「酒」と「女」の両方を売る「青線」の営業形態になり、このエリア(三越裏)が新宿における最初の「青線」になった可能性がある(この時点で神崎には「青線」という認識はない)。

ちなみに、「帝都座」は、昭和6年(1931)に完成した日活映画の封切り館で、戦災を免れ、1947年に日本最初のストリップショーとされる「名画アルバム」(俗に「額縁ショー」)が演じられた。
現在、「マルイ本店」になっている場所。

「新宿通り」の北側にも、小さな「社交喫茶街」があり女給が客引きをしていた。
都電が入って来ている道は現在の「紀伊国屋書店」の西側の路地に相当する(当時より狭くなっている?)ので、「社交喫茶街」は、現在の「タカキュー」があるブロックにあったはず。
しかし、その右(西)の「有楽街」は、現在の「新宿通り」と「靖国通り」を結ぶ広い道(地下は「新宿サブナード」)を作る際の区画整理事業で姿を消してしまったと思われる(要調査)。

最後に指摘しておきたいのは、この地図も、先に紹介した「新宿二丁目」の地図も、「靖国通り」の北側は地図のエリア外ということ。
(参照)1949年(昭和24)の新宿二丁目「買売春地図」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2014-08-05-1
つまり、1949年6月段階では新宿の「売春危険地帯」を紹介する神崎の視野の外ということで、「靖国通り」の北側に位置する現在の歌舞伎町や「ゴールデン街・花園街」地区は、いまだ「盛り場」化していないことがはっきりわかる。

8月9日(土) 何もしない夏休み(1日目) [日常]

8月9日(土)  曇り   東京  27.8度  湿度76%(15時)
9時、起床。
気温が下がってやっとゆっくり眠れた。
今日からやっと本当の夏休みなので、何もしない。
P1110201 (2).JPG
朝食は、グレープフルーツ・デニッシュとコーヒー。

昼食は、残りご飯と半端野菜を処理するために炒飯を作る。
P1110203 (2).JPG

銘仙図鑑(37)をまとめてアップ
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2014-08-09-4

夕食は、秩父「武蔵屋」の半生蕎麦を茹でる。
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付け合わせは鶏肉と長葱の炒め煮。
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ああ、おいしかった。
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夜中、台風11号の進路フォローをしながら、神崎清「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月号)に掲載されている1949年(昭和24)の新宿駅周辺の地図を現在の地図と比較しながら、街娼と「社交喫茶街」女給との住み分けなどを考察した「1949年(昭和24)の新宿駅周辺「『買売春地図』」をアップ。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2014-08-10-1

就寝、5時。