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理研 笹井芳樹副センター長が自殺 [事件・事故]

8月5日(火)

小保方晴子研究ユニット・ユニットリーダーを登用した人。
研究者としての基礎的な素養・倫理が欠落した人を積極的に登用し、理研、ひいては日本の先端科学の信頼を大きく損なった点、理研の研究部門を率いるトップとしての責任は免れないが、研究者としては世界的レベルで優秀な方であったのは間違いない。
こういう形で優れた才能が失われるのは、つくづくもったいない。

検証実験の過程で、小保方さんに完全に騙されたことに気づいて絶望したのだろうか?

主要人物から自殺者が出てしまったことで、、平成の「STAP細胞事件」は、明治末期の「千里眼事件」とますます似てきた。
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<理研>笹井芳樹副センター長が研究棟で自殺 現場に遺書

理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(神戸市中央区)の笹井芳樹副センター長が5日朝、センターの近くにある先端医療センター内で首つり自殺を図った。笹井氏はSTAP細胞論文の責任著者の一人。兵庫県警によると、午前11時3分、搬送先の病院で死亡が確認された。遺書が残されていたという。STAP細胞を巡っては、理研が4月以降、論文通り再現できるか検証実験を進めており、8月中に中間報告を出す予定だった。

県警によると、先端医療センターの研究棟の4階と5階の間にある踊り場の手すりにくくりつけたロープのようなもので、首をつっているのが見つかったという。笹井氏は半袖シャツにスラックス姿だった。午前9時ごろに発見され、110番通報があった。

理研が進めている検証実験には論文筆頭著者の小保方晴子氏も参加している。

笹井副センター長は1986年に京都大医学部を卒業。京大教授を経て理研に入り、2013年から現職。胚性幹細胞(ES細胞)研究の第一人者として世界的に有名だった。STAP細胞論文では、責任著者の一人として小保方氏を指導し、今年1月の記者会見に同席。論文が不正と認定された後の4月には東京都内で会見し、指導の不備を謝罪したが、STAP細胞の存在そのものには自信を見せていた。【井上卓也、椋田佳代】

『毎日新聞』2014年08月05日 10:48
http://mainichi.jp/select/news/20140805k0000e040183000c.html

1949年(昭和24)の新宿二丁目「買売春地図」 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

8月4日(月)
戦後の1950年代、「廃娼」(売春撲滅)の立場から数多くの著述を残した評論家神崎清(1904~1979年)の比較的初期のレポート「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月号)に掲載されている1949年(昭和24)の新宿二丁目の地図を紹介する。
地図には、当時「パンパン」と呼ばれた街娼たちが立つ場所が女性の黒いシルエットで示されている。
新宿二丁目付近図(1949年6月) (2).jpg
参考までに、同じエリアの現在の地図(上下=南北反転)を載せておく。
赤く塗った部分は「新宿二丁目赤線」(黙認買売春地区)、青く塗った部分は「青線」(非黙認買売春地区)。
いずれも、エリアは三橋の研究による。
新宿(1万分1)4 (2).jpg
街娼たちが、斜線で示された「赤線」指定地を取り囲むように立っていたことがよくわかる。
また、「赤線」指定地の上(南側)の「青線」地区にも立っていない。
集娼形態の「赤線」「青線」と散娼形態の街娼とは完全に住分けていたことがわかる。
というより、両者は買春男性を奪い合うライバル関係なので、同一エリアに併存することは有り得ない。
さらに子細に見ると、都電の新宿二丁目停留所(〇)から、「赤線」「青線」に兆通する道(現在の「仲通り」西側の南北道路)にも街娼は立っていない。
「赤線」「青線」側が立つのを許さなかったのではないだろうか。
街娼が数多く立っていたのは「赤線」「青線」の東側の「六軒通り(現:仲通り)」と北側の「靖国通り」であることがよくわかる。
さらに、都電が通る「御苑大通り」西側の「要通り」にも立っていた。
「要通り」界隈は、戦前、まだ「御苑大通り」が開通する以前は「赤線」指定エリアと一体で、「新宿遊廓」が在った場所である。
現在は新宿三丁目に編入されているが、当時はまだ新宿二丁目である。
要通りの東側の「東海通り」は、寄席の「末広亭」がある道で現在は「末広通り」呼ばれている。
「東海通り」は戦前から「カフェー街」として知られた場所で、戦災で丸焼けになったが、戦後も「社交喫茶街」として復興している。
このエリアには街娼はいない。
都電が通る「御苑大通り」の右(西)側に小さなブロックが2つ並んでいるが、ここに「新宿三丁目停留所」があった。
その南側の路地(「新宿通り」の一本北側の東西道路)jにも街娼がいたようだ。
「新宿通り」には街娼はたっていなかったようだ。

この地図で興味深いのは、街娼が路上で客を確保した後、連れ込む「パンパン宿」の分布が示されていることだ。
「靖国通り」の北側の番衆町エリア(現:新宿五丁目)に集中し、二丁目「六軒通り(現:仲通り)」の左(東)側、「赤線」指定地の上(南)側の「青線」エリアにも分布していた。

ちなみに、二丁目「六軒通り(現:仲通り)」と「大宗寺横丁」の間のエリアは、この後、1949年6月~1952年の間に、大規模な区画整理がされるので、現在とは街割りがまったく異なっている。
「赤線」業者の事務所である「新宿カフェー協同組合事務所」には、「赤線」の従業婦たちの性病検査所も併設されていたはずだが、現在のどこに相当するのか、はっきりしない。
1947年の航空写真からそれらしい建物を検出して、現在の地図に落とすと、新宿2丁目8番地にある「フタミビル」のあたりと推定される(緑色の★印)
また、現在「仲通り」との交差点に信号がある「花園通り」(「「柳の並木道」)も大規模区画整理の際の敷設で、この時点では開通していない。

ところで、「二丁目」に詳しい方は、現在の「二丁目ゲイタウン」のゲイバー密集地が、旧「赤線」指定エリアにぴったり重なることに気付くと思う(大規模再開発された「ビッグス新宿ビル」は除く)。
その一致度は驚くばかりだ。
それがなぜかということは、来年春に出る論集に掲載される論文に書いたので、しばらく待っていただきたい。
(参考)「赤線」「青線」を塗っていない現代の地図
新宿(1万分1)4.jpg