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全身疲労で鍼治療 [日常(通院)]

8月25日(月)
(続き)
12時15分、吉祥寺駅南口のタイ料理「Khucha(クーチャイ)」で昼食。
久しぶりにグリーンカレー(980円+税)。
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↑ 右側が蒸した糯米ご飯。左側の筒型容器に入って出てくる。
じっくり(48時間)煮込んであるせいか、舌に辛いというより、身体の中から暑くなるカレー。
疲労蓄積で循環が悪くなっているはずなのに、食べているうちに、じわじわ汗が出てきて、やがて大発汗。
オーナーさんが旧知のお客さんに、グリーン・カレーの説明をしているのが聞こえる。
「そんなに辛くないですよ。僕、辛いの苦手なので。自分が基準で作ってますから」
う~ん、グリーン・カレーだけでなく、他の料理にしても十分に辛いと思うけどなぁ。

吉祥寺駅南口の古書店に寄る。
高橋桂二『物語・女市場』を購入(2800→1000円)。
1982年(昭和57)に「資料風俗双書6」として展望社から復刻されたもの。
原著は1931年(昭和6)に『現代女いちば』の書名で赤炉閣から刊行されて、かなり売れた。
内容は、主に明治時代以降の性風俗のルポで、昭和戦前期の売春・風俗史として貴重。
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ちょっと汚れが目立つが、箱の絵が秀逸。
こういう風俗絵、とくに日本髪を描ける人が今ではほとんどいなくなっている。

吉祥寺での月1の仕事が無くなると、「Khucha(クーチャイ)」とこの古書店に定期的に寄れなくなるのが残念だなぁ。

次の予定は、14時から表参道で鍼治療。
どういうルートで行こう?
まだ、1時間以上余裕があるし・・・・。
総武線鈍行で中野から東京メトロ東西線に入り、九段下駅で同半蔵門線に乗り換えて表参道へ。
時間はかかったが東西線の車中で少し眠れた。
ところが、半蔵門線でもウトウトしていたら、右腕に心地よいサワサワ感じ。
ん?と思って右を見ると、さらさらロングヘアーの女性の髪が風になびいて触っている。
しかも、モデル並みのスタイル抜群の美女。
気になって眠れない、でも心地良い(←髪フェチ)。
こういう場合、どうしたらいいのだろう?
13時30分、表参道駅に到着。
駅構内のフードコートで、アイスコーヒーを飲みながら休憩。
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青山通りを外苑方向に少し歩いて「ポルクス整骨院」へ。
先生がここに移転して4度目の鍼治療。

今日は、ともかく全身がだるい。
旅行の疲労残りと睡眠不足。
それとこの3週間ほど続いている、右腕の張りと痛み。
脹脛も張っているが、これは尾道の坂道を歩き回ったせいで、あまり心配していない。
実際、先生が施術したら、痛かったけどたちまち解れた。
問題は、上半身、とくに肩から腕。
肩甲骨中心に鍼を打ってもらう。
電気をかけて、今日は冷えがないので(← クーチャイのグリーンカレーのせいかも)お灸は無し。
オイルマッサージの途中で、肩関節の矯正。
仰臥の姿勢で右腕を斜め下に延ばす。
さらに側臥で脇の下から胸の側面の筋肉を摘まむように解す。
これが大激痛。
先生が奮闘してくれたお陰で、だいぶ解れて楽になった。
ありがとうございました。
でも痛かった・・・(涙)。
15時10分、辞去。

雲行きが怪しいので、途中、文房具屋とお魚屋さんに寄っただけで、さっさと帰宅。
16時半、帰宅。
2時間ほど熟睡。

夕食の支度。
鰯のお刺身。
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鶏もも肉の照り焼き。
ちょっと焦げてしまって失敗。
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ゴーヤとオクラ、卵の炒めもの。
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アサリのお汁。
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ハードな治療の反動が出たのか、身体が辛いので、今日は早寝。
就寝、23時過ぎ。

8月25日(月)平安京の歴史地理 [お仕事(古代史)]

8月25日(月)   曇りときどき雨   東京   28.9度   湿度62%(15時)
7時20分、起床。
睡眠時間5時間では、旅の疲れは取れず、体調不良。
喉に違和感があるが、声は普通に出るようだ。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結び、シュシュを巻く。
朝食は、マンゴー・デニッシュとコーヒー。
8時、化粧と身支度。
黒地に茶と白の花柄のロングチュニック(3分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、大きな籠バッグ。
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に入り新宿三丁目駅で下車。
地下道を歩き、JR新宿駅東南口に出て、JR中央線に乗り換えて吉祥寺駅へ。
雨の中、産経学園(吉祥寺)へ。

10時30分、「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
最終講「平安遷都への道」の2回目。
前回述べた長岡京の水害問題について、先日の広島の大規模土石流災害と絡めて再説。
つまり、人工的に地形を改変しても、何かあると自然は元の地形に戻りたがるということ。
延暦11年(792)6月22日の大雷雨による溢水氾濫(土石流の可能性もあり)で長岡宮の式部省南門が倒壊するが、そもそも小畑川の谷を埋めて宮に必要な平地を造成していた可能性が高い。
また、同年8月9日の大雨による桂川の大洪水では、長岡京東南部(左京3坊以東、6条以南)はほぼ水没したと思われる。
これらの水害によって、水運に恵まれながら洪水に弱かった長岡京の地形的特質(構造的欠陥)が強く意識され、それがひとつのきっかけになって、桓武天皇の再遷都決断に至ったことは間違いないと思う。

続いて、再遷都先の平安京の地形的特色。
平安京をめぐる地形で、最大の問題は、鴨川の流路、とりわけ賀茂川と高野川の合流点の位置と形状について。
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これが自然のものなのか?人工的に改変された結果なのか?
改変されたものだとしたら、その時期はいつなのか?
まず、地形学的にY字があまりに整い過ぎている。
川が合流する時は、一般的にどちらかが優勢(本流になる)でどちらかが劣勢(支流になる)で、イーブンに合流するということは稀。
つまり、合流の形としては大文字のYではなく、小文字のy(もしくは、その裏返し)になる。

さらに、平安京の都市設計として・・・。
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双ヶ岡から東に1800丈(10里)、船岡山から東に900丈(5里)の位置に最初から合流点があったというのは、いくらなんでも都合が良すぎる。
丘や山は動かせないから、その位置に川の合流点を設定して移したと考えるのが合理的。
その際、流路を変更したのは賀茂川だと思う。
おそら南の方向に流下してしたのを南東方向に遷して、設定された高野川との合流点に持って行ったのではないだろうか。

また、川(水)は低い方に流れるのが自然の理。
平安京北東部は北白川の扇状地で傾斜は北東が高く南西に低い。
つまり合流して流れを真南に変える鴨川の現状の流路はかなり不自然。
等高線に従えば、北東から南西に流れる高野川の延長上に流れるのが自然。

ところで、ネットを探していたら、こんな地図が見つかった。
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 「京都の水辺の歴史的変遷と都市防災に関する研究」(京都大学防災研究所年報 第47号)

平安京造営以前の流路の推定図。
高野川の延長上に平安京左京を北北東から南南西に流れる流路が2本ある。
おそらくこれが高野川の旧流路だろう。
また、京域の北を南流して京域に入ったあたりから南西に流れる流路がある。
これが賀茂川の旧流路ではないだろうか。
この旧流路は東三条院の泉や神泉苑の池の湧水など伏流として残っていて、現在も井戸水に恵まれていると聞く。

どうも、平安遷都決定後に、高野川との合流点の設定、賀茂川の付け替え、(高野川と賀茂川が合流した)鴨川の京域の東側を真南に流れる流路の設定という工事が行われたのではないだろうか。
これはかなりの大土木工事だが、それなくしては平安京の設定は不可能であり、現在に至る「鴨川のY字の不思議」は解決できないと思う。

では、その大土木工事を発想したのは誰だろうか?
私は造宮大夫和気清麻呂だと思う。
清麻呂は『日本後紀』延暦18年(799)2月乙未(21日)条の薨伝に「贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造和気朝臣清麻呂薨ず。(中略)長岡の新都、十載を経て未だ功成らず、費、勝げて計るべからず。清麻呂潜に奏し、上(桓武天皇)をして遊猟に託し葛野の地を相せしむ。更にして上、都を遷す。(下略)」と見えるように、平安京への再遷都を桓武天皇に進言した人である。
民政に手腕を発揮した有能な実務官僚であり、また摂津大夫の官にあった延暦4年(785)に、難波の神崎川と淀川を直結させる工事を行い長岡京方面への物流路を整え、さらに延暦7年(788)には上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうとする(のべ23万人を投じたが失敗)など、土木的発想を持った人だった。
平安京の造営については、当該時期の正史『日本後紀』が欠失していて史料が乏しく、詳しい事情が解らないのが残念だ。

そんな話をする。
長い間(20年)、続けてきたこの講座もいよいよ残り1回。
なんとか大団円となりそうだ。
12時05分、終了。
(続く)