SSブログ

1949年(昭和24)の新宿二丁目「買売春地図」 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

8月4日(月)
戦後の1950年代、「廃娼」(売春撲滅)の立場から数多くの著述を残した評論家神崎清(1904~1979年)の比較的初期のレポート「新宿の夜景図―売春危険地帯を行く―」(『座談』1949年9月号)に掲載されている1949年(昭和24)の新宿二丁目の地図を紹介する。
地図には、当時「パンパン」と呼ばれた街娼たちが立つ場所が女性の黒いシルエットで示されている。
新宿二丁目付近図(1949年6月) (2).jpg
参考までに、同じエリアの現在の地図(上下=南北反転)を載せておく。
赤く塗った部分は「新宿二丁目赤線」(黙認買売春地区)、青く塗った部分は「青線」(非黙認買売春地区)。
いずれも、エリアは三橋の研究による。
新宿(1万分1)4 (2).jpg
街娼たちが、斜線で示された「赤線」指定地を取り囲むように立っていたことがよくわかる。
また、「赤線」指定地の上(南側)の「青線」地区にも立っていない。
集娼形態の「赤線」「青線」と散娼形態の街娼とは完全に住分けていたことがわかる。
というより、両者は買春男性を奪い合うライバル関係なので、同一エリアに併存することは有り得ない。
さらに子細に見ると、都電の新宿二丁目停留所(〇)から、「赤線」「青線」に兆通する道(現在の「仲通り」西側の南北道路)にも街娼は立っていない。
「赤線」「青線」側が立つのを許さなかったのではないだろうか。
街娼が数多く立っていたのは「赤線」「青線」の東側の「六軒通り(現:仲通り)」と北側の「靖国通り」であることがよくわかる。
さらに、都電が通る「御苑大通り」西側の「要通り」にも立っていた。
「要通り」界隈は、戦前、まだ「御苑大通り」が開通する以前は「赤線」指定エリアと一体で、「新宿遊廓」が在った場所である。
現在は新宿三丁目に編入されているが、当時はまだ新宿二丁目である。
要通りの東側の「東海通り」は、寄席の「末広亭」がある道で現在は「末広通り」呼ばれている。
「東海通り」は戦前から「カフェー街」として知られた場所で、戦災で丸焼けになったが、戦後も「社交喫茶街」として復興している。
このエリアには街娼はいない。
都電が通る「御苑大通り」の右(西)側に小さなブロックが2つ並んでいるが、ここに「新宿三丁目停留所」があった。
その南側の路地(「新宿通り」の一本北側の東西道路)jにも街娼がいたようだ。
「新宿通り」には街娼はたっていなかったようだ。

この地図で興味深いのは、街娼が路上で客を確保した後、連れ込む「パンパン宿」の分布が示されていることだ。
「靖国通り」の北側の番衆町エリア(現:新宿五丁目)に集中し、二丁目「六軒通り(現:仲通り)」の左(東)側、「赤線」指定地の上(南)側の「青線」エリアにも分布していた。

ちなみに、二丁目「六軒通り(現:仲通り)」と「大宗寺横丁」の間のエリアは、この後、1949年6月~1952年の間に、大規模な区画整理がされるので、現在とは街割りがまったく異なっている。
「赤線」業者の事務所である「新宿カフェー協同組合事務所」には、「赤線」の従業婦たちの性病検査所も併設されていたはずだが、現在のどこに相当するのか、はっきりしない。
1947年の航空写真からそれらしい建物を検出して、現在の地図に落とすと、新宿2丁目8番地にある「フタミビル」のあたりと推定される(緑色の★印)
また、現在「仲通り」との交差点に信号がある「花園通り」(「「柳の並木道」)も大規模区画整理の際の敷設で、この時点では開通していない。

ところで、「二丁目」に詳しい方は、現在の「二丁目ゲイタウン」のゲイバー密集地が、旧「赤線」指定エリアにぴったり重なることに気付くと思う(大規模再開発された「ビッグス新宿ビル」は除く)。
その一致度は驚くばかりだ。
それがなぜかということは、来年春に出る論集に掲載される論文に書いたので、しばらく待っていただきたい。
(参考)「赤線」「青線」を塗っていない現代の地図
新宿(1万分1)4.jpg
nice!(0)  コメント(5)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 5

磯田

ゲイタウンと旧赤線の一致の理由、想像もつきません!解答、楽しみにしています!
by 磯田 (2014-08-06 00:42) 

三橋順子

磯田さん、いらっしゃいま~せ。
「赤線」廃止と「ゲイタウン化」の間には10年ほどのタイムラグがあり、今までそれが説明つかなかったのですが、今回は「青線」と比較することで、説明がつけられました。
種明かし(解説)したいけど、我慢します。

by 三橋順子 (2014-08-07 05:00) 

群盲のネトウヨ戦士

旧赤線地帯を挟んだ靖国通りの向かい側(八千代銀行側)はむかしよく昼飯を食いに行った処です。行くと気付くのですが、何やら分譲地のような区画割で摩訶不思議な感じをいだきます。
ネットで調べてみると、箱根土地が新宿園を失敗して後に分譲地として売り払った残滓でした。遊郭の近くなのでどんな人種が購入したのでしょうか?やはり当時ハイカラなサラリーマンが購入したのでしょうか。文化村のような洒落た住宅は一戸も残っていません、戦災であの辺は焼け野原になってしまったのでしょうかね。それとも違う人種に販売したのでしょうか謎です。
by 群盲のネトウヨ戦士 (2014-09-06 17:37) 

三橋順子

群盲のネトウヨ戦士さん、いらっしゃいま~せ。
はい、そうです。あのあたりが「新宿園」の夢の跡です。
分譲後、どんな人があそこに住んでいたのか、ほとんど資料はないようです。
ただ、「目白文士村」のような感じではなかったのではないか?と推測しています。
もっと、一般的な、あまり上ではない中産階級のサラリーマンの住宅地のような気がします。
いずれにしても、5月25日の大空襲で焼け野原ですね。
現在、「新宿園」の名は、町内会の名として残っていて、花園神社のお祭りには、他の町会と並んで「新宿園」の御神輿もでます。

by 三橋順子 (2014-09-08 04:27) 

HH

二丁目のは新千鳥街。千鳥街は今の世界堂の辺りにあったそうですね。
色街のお約束、精をつけて性を出すってことなのか、現在のいきなりステーキの辺りに蛇屋があったそうです。蛇の肝や生き血を供していたとか。随園の並びにもう一軒中華料理屋があってそこでは猿の脳みそが食えたそうです。

まだ伊勢丹の屋上に動物園があって孔雀がギャーギャー鳴きわめいて、メンズ館の辺りに水炊玄海があり、冬場にはカゴを被せた七面鳥が店先にいたとか。
一丁目の公演は太宗寺の池でザリガニが釣れたとも聞きました。


当時の二丁目はパンパンとチンピラばっかりで、オカマが来てから治安が良くなったと地元の人は喜んでいたとか。

これからも面白い研究楽しみにしてます。
by HH (2019-02-04 03:54) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0