ドラマに出てきた歌 [テレビ批評(光る君へ)]
9月22日(日)
「光る君へ」第36回『待ち望まれた日』
今回、出てきた歌。
出典はいずれも『紫式部日記』。
めづらしき 光さしそふ さかづきは
もちながらこそ 千代(ちよ)もめぐらめ(紫式部)
【訳】(皇子誕生という)素晴らしい(希望の)光が加わった(宴の)盃は、(人々が順番に捧げ)持ち続け、満月のように欠けずに、千年もめぐるだろう。
「さかづき」は「盃」と「栄月」の、「もち」は「持ち」と「望(月)」の掛詞。
かなり技巧的な賀歌。
いかにいかが 数(かぞ)へやるべき 八千歳(やちとせ)の
あまり久しき 君が御代(みよ)をば(紫式部)
【訳】若宮誕生から五十日のお祝いに、どのように遙かまで数えるのが良いのでしょう。何千年もあまりに長く続くはずの若宮のご治世を。
第1句、字余りの破調だが、どのようにの意味の「いかが」と「五十(いか)賀」を掛けている。
あしたづの 齢(よはひ)しあらば 君が代の
千歳(ちとせ)の数も かぞへとりてむ(藤原道長)
【訳】(私に)鶴のような(千年の)寿命があるならば、若宮の御世の千年の数も、数えられるだろう。
道長の返歌は、とても素直(技巧なし)。
「光る君へ」第36回『待ち望まれた日』
今回、出てきた歌。
出典はいずれも『紫式部日記』。
めづらしき 光さしそふ さかづきは
もちながらこそ 千代(ちよ)もめぐらめ(紫式部)
【訳】(皇子誕生という)素晴らしい(希望の)光が加わった(宴の)盃は、(人々が順番に捧げ)持ち続け、満月のように欠けずに、千年もめぐるだろう。
「さかづき」は「盃」と「栄月」の、「もち」は「持ち」と「望(月)」の掛詞。
かなり技巧的な賀歌。
いかにいかが 数(かぞ)へやるべき 八千歳(やちとせ)の
あまり久しき 君が御代(みよ)をば(紫式部)
【訳】若宮誕生から五十日のお祝いに、どのように遙かまで数えるのが良いのでしょう。何千年もあまりに長く続くはずの若宮のご治世を。
第1句、字余りの破調だが、どのようにの意味の「いかが」と「五十(いか)賀」を掛けている。
あしたづの 齢(よはひ)しあらば 君が代の
千歳(ちとせ)の数も かぞへとりてむ(藤原道長)
【訳】(私に)鶴のような(千年の)寿命があるならば、若宮の御世の千年の数も、数えられるだろう。
道長の返歌は、とても素直(技巧なし)。
『紫式部日記』の実写化 [テレビ批評(光る君へ)]
とうとうバレた~ぁ! [テレビ批評(光る君へ)]
和泉式部という歌人 [テレビ批評(光る君へ)]
9月15日(日)
捨て果てんと 思ふさへこそ かなしけれ
君に馴れにし 我が身と思へば (和泉式部)
(世を捨てて尼になってしまおうと思うことまでが悲しい。亡き君に馴れ親しんだ我が身と思うので)
恋人の敦道親王と死別した頃、尼になろと思って詠んだ歌。
この歌を詠む場面が、「光る君へ」に出てきた。
和泉式部は、感情がそのまま口から歌として溢れ出すような天性の歌人。
技巧的な同時代の歌人たち(藤原公任や紫式部など)とはかなり異質。
私は、万葉時代の額田王、近代の与謝野晶子と並ぶ、天才女性歌人だと思っている。
捨て果てんと 思ふさへこそ かなしけれ
君に馴れにし 我が身と思へば (和泉式部)
(世を捨てて尼になってしまおうと思うことまでが悲しい。亡き君に馴れ親しんだ我が身と思うので)
恋人の敦道親王と死別した頃、尼になろと思って詠んだ歌。
この歌を詠む場面が、「光る君へ」に出てきた。
和泉式部は、感情がそのまま口から歌として溢れ出すような天性の歌人。
技巧的な同時代の歌人たち(藤原公任や紫式部など)とはかなり異質。
私は、万葉時代の額田王、近代の与謝野晶子と並ぶ、天才女性歌人だと思っている。
「和泉式部日記」誕生 [テレビ批評(光る君へ)]
思い出の扇 [テレビ批評(光る君へ)]
バレる? [テレビ批評(光る君へ)]
『源氏物語』誕生 [テレビ批評(光る君へ)]
8月18日(日)
「光る君へ」第31回「月の下で」
ドラマもいつしか寛弘元年(1004)。
自宅の庭を歩きながら、道長から依頼された「物語」の構想を練るまひろ。
空から色とりどりの紙が降ってくるイメージ。
まさに天啓。
そして、「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に・・・」、ついに『源氏物語』誕生。
やはり左大臣・藤原道長がスポンサー兼編集者的役割。
最初の読者は一条天皇。
「光る君へ」第31回「月の下で」
ドラマもいつしか寛弘元年(1004)。
自宅の庭を歩きながら、道長から依頼された「物語」の構想を練るまひろ。
空から色とりどりの紙が降ってくるイメージ。
まさに天啓。
そして、「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に・・・」、ついに『源氏物語』誕生。
やはり左大臣・藤原道長がスポンサー兼編集者的役割。
最初の読者は一条天皇。
紫式部の女房名と出仕時期 [テレビ批評(光る君へ)]
6月30日(日)
「光る君へ」(第26回)「いけにえの姫」
ドラマの設定はともかく、紫式部の前歴はほとんど不明で、発出仕の時期も諸説ある。
そこで、注目すべきはた「式部」という女房名。
当時の慣例として女房名は、父や夫の官職からつける。
式部の場合、父・藤原為時の官職(式部大丞)に由来すると思われる。
とすれば、永延元年(987年)の源倫子・藤原道長の結婚に際し、倫子付きの女房として出仕していた可能性がある。
ちなみに、倫子と式部は、ともに右大臣・藤原定方を曾祖父とする遠縁。
出仕が、為時の越前守就任(長徳元年=995)以後なら、女房名は「越前」になるはずだからだ。
さらに、現代、通説になっている(『紫式部日記』に記されている)寛弘2年(1006)が初出仕だとすれば、女房名は夫・藤原宣孝の最終官歴・山城守にちなんで「山城」になるはずだが、そうではない。
(先に同じ名の女房がいれば別)。
私は、永延元年(987年)頃、出仕説を支持している。
「光る君へ」(第26回)「いけにえの姫」
ドラマの設定はともかく、紫式部の前歴はほとんど不明で、発出仕の時期も諸説ある。
そこで、注目すべきはた「式部」という女房名。
当時の慣例として女房名は、父や夫の官職からつける。
式部の場合、父・藤原為時の官職(式部大丞)に由来すると思われる。
とすれば、永延元年(987年)の源倫子・藤原道長の結婚に際し、倫子付きの女房として出仕していた可能性がある。
ちなみに、倫子と式部は、ともに右大臣・藤原定方を曾祖父とする遠縁。
出仕が、為時の越前守就任(長徳元年=995)以後なら、女房名は「越前」になるはずだからだ。
さらに、現代、通説になっている(『紫式部日記』に記されている)寛弘2年(1006)が初出仕だとすれば、女房名は夫・藤原宣孝の最終官歴・山城守にちなんで「山城」になるはずだが、そうではない。
(先に同じ名の女房がいれば別)。
私は、永延元年(987年)頃、出仕説を支持している。