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12月5日(水)今日の古代史(居村B木簡・西三条第仮名墨書土器) [お仕事(古代史)]

12月5日(水)  曇り  東京 13.7度 湿度49%(15時)

前夜、21時半頃に倒れるように眠ってしまったので、4時に目が覚める。
歳を取って、このごろは6時間ほど熟睡すれば疲労がほぼ回復するようになった。
若い頃は8時間寝ても寝足りなかったのに比べると大きな変化だ。
人生の残り時間が少なくなると、必要睡眠時間が少なくなるというのは、よくできた仕組みだと思う。

パソコンに向かって、ブログの記事をひとつまとめる。
メールのお返事を2通書く。

朝のニュースで、18世中村勘三郎さんの逝去を知る。
病態を危ぶんではいたものの大ショック(詳細別記)。

6時半、パートナーが起きてきたので、邪魔にならないようにベッドへ。
1時間半ほどうとうと。

8時、再起床。
お風呂に入って身体と髪を洗う。
髪はよくブローして、あんこを入れて頭頂部でまとめる。

朝食は、ダークチェリーパイとコーヒー。
化粧と身支度。
黒地に白で唐草模様のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、焦茶のショートブーツ、黒のトートバッグ。

9時40分、家を出る。
駅前のコンビニで配布資料をコピー。
東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
最初、雑談的に中村勘三郎さんの話。
続いて、神奈川県茅ケ崎市居村B遺跡出土の木簡について。

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県内最大の木簡出土、12月2日初公開/茅ケ崎
9_101529.jpg
文字を解析できるよう赤外線カメラで撮った木簡写真。右が表で左が裏(茅ケ崎市提供)

茅ケ崎市内の遺跡から古代の木簡3点が発掘された。このうち1点は県内で出土した木簡としては最大で、文字数も最多。市は「9世紀ごろの村単位の支配体系や儀式の実態を伝える、情報量の多い貴重な資料」とし、2日に市民文化会館で初公開される。

遺跡は同市本村4丁目にある「居村B遺跡」で、昨年10月から今年3月まで一帯約910平方メートルの調査が行われた。最大の木簡は9点の破片に分かれて出土し、長さ45・8センチ、最大幅7・8センチ、厚さ0・5センチ。

市によると、「貞観」(859~877年)という表記や地域有力者とみられる名前「市田殿」「吉成殿」、「酒」などの文字が記されている。当時の役所「官衙(かんが)」が儀式の際に地域有力者に酒や食料を支給したことを示す食料支給帳簿と考えられるという。

『神奈川新聞』 12月1日(土)14時0分配信
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1212010024/
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表に酒・飯・雑菜などの支給量が個人別に記され、裏にその合計(支給総量)を記した大型の帳簿木簡。

高座郡衙に地元の有力者を集めて、何かの儀礼・祭祀を行い、その後に宴席が設けられたと推定される。
問題は何の儀礼(祭祀)かということ。
時期が8月中旬ということを考えると、やはり収穫期の農耕儀礼だろうか。
養老儀制令代19「春時祭田」条には、春の祭田の時に在地の有力者を集めて「郷飲酒礼」(共同飲食=お振舞い)が行うことが規定されているが、秋にも同様のことをしたのだろうか。

さらに京都市西三条殿跡出土の平仮名墨書土器について。
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最古級の平仮名確認 京都・中京の貴族邸宅跡
20121128234633hiragana.jpg
平仮名の文字が書かれていた土師器の皿(28日、京都市上京区・市考古資料館)

京都市埋蔵文化財研究所は28日、中京区西ノ京の平安時代の貴族藤原良相(よしみ)の邸宅「西三条第(百花亭)」跡で出土した9世紀後半の土器片に、日本最古級とみられる平仮名の文字が書かれているのを確認した、と発表した。文化の中心地だった平安京でのまとまった出土は、平仮名の成立過程の研究に大きな影響を及ぼしそうだという。

土器片は、西三条第の池跡で出土した。土師器(はじき)の皿など約20点に墨で平仮名が記されていた。判読できない文字や欠字も多かったが、「枕草子」に出てくる「ひと(人)にくし」の記述があった。また、「かつらきへ(葛城へ)」や「なかつせ(中つ瀬)」など、神楽歌や日本書紀にみられる表現も記されていた。

同時期の仮名文字は、宮城県の多賀城跡からも出土したが、万葉仮名の影響が残っていた。西三条第の墨書土器は、漢字も交じっていたがほぼ平仮名で、これまでは10世紀後半にしかみられなかった、続き文字の連綿体も確認された。

調査に関わった京都大の西山良平教授(日本古代・中世史)は「文化に造詣の深い良相の西三条第で平仮名の使用が進んでいたことが分かった。平仮名の形成期がさかのぼることになり、今後の研究で平仮名の歴史を変える可能性もある」と話している。

上京区の市考古資料館で、30日から12月16日まで出土品を展示する。

<仮名文字>漢字を基に日本で読みやすく作られた文字。日本語の音を表すために漢字をあてたものが万葉仮名。万葉仮名の草書体が草仮名で、さらに崩して簡略化したのが平仮名。主に女性が用いたため「女手(をんなで)」とも呼ばれ、和歌や文学に好んで使われた。

『京都新聞』2012年11月28日 23時50分
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121128000148
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写真を一見して、かなり驚いた。
9世紀第3四半世紀段階で、これだけ流麗な仮名が書かれているとは、今までイメージしていなかったから。

仮名の成立(何をもって「成立」と言うかが問題なのだが)が9世紀代であることはほぼ間違いない。
905年(延喜5)成立の『古今和歌集』に仮名序があるのだから。
しかし、9世紀にどのような形で仮名が成立していったかは、実物の資料がほとんどなく、わからなかった。

その点、今回の仮名書き墨書は大発見。
仔細に見ると、万葉仮名(漢字)の字形(草体)を残している文字と、現代の平仮名とほぼ同じ字体のものが混在している。
まさに平仮名が成立していく途上を示している。
記事で指摘しているように、数文字を続け書きする「連綿体」がすでに現れているのが、驚きだった。

藤原良相(813~867)は、藤原冬嗣の5男で、清和天皇の摂政になり摂関政治の基を開いた藤原良房(804~872)の弟で、正二位右大臣に至り西三条大臣と称した。
平安京右京三条一坊六町の邸宅は「百花亭」の別名がある名邸で、貞観8年(866)年には清和天皇が花見のため行幸し、文人が「賦百花亭詩」と詩を作っている。

良相は若くして大学に学び、漢籍や詩文に親しみ、また仏教の熱心な信奉者だった。
「百花亭」は当時もっとも先端的なサロンだった思われる。

時間が中途半端になってしまったので、『続日本紀』の講読には入らず、日本語と「字形」の問題について話す。

日本語論として、7~9世紀の日本人が苦労したのは、次の2つだと思う。
(1)漢文をどうやって日本語として読むか。
(2)日本語をどうやって(漢字を使って)表記するか。

(1)は訓点の発達になり、(2)は仮名の成立につながる。

(2)については、仮名が成立していく過程では、まだ字形の統一が行われていない。
したがって、日本語表記の次の課題として仮名の「字体」の統一が問題になるのだが、これはなかなか進まない。
平安~江戸時代はずっと1音=複数字体である。
1音=1字体になるのは、やっと明治時代(学校教育の場での必要性)になってからだ。

たとえば「つ」の表記は、「川」「津」「徒」「都」などの草体が混用されている。
そういう仮名を現代では「変体仮名」と言うが、それは字体統一後の感覚で、統一以前はどれが「正体」どれが「変体」という意識はない。

それと、万葉仮名→平仮名への変化を唐風文化→国風文化ととらえるのも、疑問。
この変化は文化的必然だと思う。

また、漢字=男文字、仮名=女文字という認識も、ジェンダー論的に疑問である。
これも、文字表記の「場」の問題だと思う。

そんな話をする。

12時、終了。

(続く)
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