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10月22日(月) 今日の古代史(長岡遷都の理由) [お仕事(古代史)]

10月22日(月)  晴れ  東京  23.1度  湿度60%(15時)

7時過ぎ、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。

化粧と身支度。
今日、初下ろしの黒地に白と紫の花柄のチュニック(長袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンズ(6分)、黒網のストッキング、焦茶のショートブーツ、黒のトートバッグ。

9時前、家を出る。
東急東横線で渋谷に出て、京王井の頭線に乗り換え、9時47分発の急行に乗る。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。

延暦3年(784)の長岡遷都の理由を整理。

A 遷都(平城棄都)の理由
(政治政策的に)
1 政治と仏教の分離(非仏教都城の建設)
(理念的に)
2 (天智系)「新王朝」の都、辛酉革命(即位)、甲子革令(遷都)

B 長岡選地の理由
(政治政策的に)
3 水陸交通の便(琵琶湖―淀川水系の利用)
4 渡来系氏族の勢力圏(百済王氏・秦氏))
(理念的に)
5 北方志向(「天子南面」という理念からより北へ遷都)
6 天智天皇の都(近江大津宮)への志向

私は1と3を重視。

続いて、延暦4年(785)に起こった長岡宮造営の責任者である藤原種継暗殺事件に入る。

まず、種継の家系である藤原式家について。
次いで、種継の官歴について。

長兄藤原広嗣の乱で大打撃を受けながら、光仁天皇、山部皇太子(桓武)擁立の功績で光仁朝には政界第一の勢力を築きながら、世代継承がうまくいかず、第3世代(家祖式部卿宇合の孫の世代)では、現状、種継がほとんど唯一の存在だったこと。

無位無官で若死にした父を持ち不遇だった種継が昇進し始めるのは山部の立太子後であり、即位直前から例を見ないほど急激になること。

山部王と種継は同年(天平9年=737)の生まれで、ともに渡来系の母を持つ(山部は百済系の小氏族和史の娘新笠、種継は渡来系の学者秦朝元の娘)という共通点はあるが、その接点は不明なこと。

12時、終了。

昼食は、南口駅前通りのタイ料理「Khuchai(クゥーチャイ)」へ。

辛い物に飢えていたので久しぶりにグリーンカレーを注文(980円)。
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ん、以前より辛い?と思ったら、女将さんが「少し辛くなってるでしょう」。
ああ、やっぱり。
でも、このくらいが好き。

12時40分、辞去。

例によって駅前の古本屋に引っかかり、昭和30年の性風俗雑誌『あまとりあ』を2冊(2巻12号、3巻3号)購入。

吉祥寺駅12時51分発の京王井の頭線急行で渋谷へ。
東急東横線に乗り換えて学芸大学駅に13時23分に到着。
(続く)
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