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9月19日(水) 縄文時代の小豆、塩津港遺跡、孝謙天皇大郡宮 [お仕事(古代史)]

9月19日(水) 曇り  東京 29.1度 湿度75%

8時、起床。

朝食はアップルデニッシュとコーヒー。

シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。

白地に黒の斑模様のチュニック(3分袖)、黒のレギンス(5分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

今日は、暑さが和らいが湿度が高く、私が苦手な気候。
とはいえ、9月も半ば過ぎとしては、まだ気温が高い(平年より+2.7度)。

東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。

まず、考古学の話題を2つ。
京都市西京区大原野の上里遺跡縄文晩期(約2800年前)の小豆が栽培種(にきわめて近い)ことが判明。
緑豆、大豆に続いて小豆も水田稲作に先行する縄文農耕の作物であることが、ほほ確定的になった。

どうやって、食べていたのだろう。やっぱり茹で小豆かな。

ちなみに、縄文農耕の作物として、ほぼ確定的なのは、以下の3類。
(1) イネ(陸稲が主)、ムギ、アワ、キビ、ヒエなどのイネ科の雑穀。
(2) タロイモ(里芋、)ヤムイモ(山芋)などのイモ類。
(3) 緑豆、大豆、小豆などの豆類。
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縄文期の京都でアズキ栽培 上里遺跡出土資料で判明

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上段から野生種、上里遺跡出土のアズキ、宝早生小豆、大納言小豆。出土アズキは野生種より肥大化している(西本豊弘教授提供) 

京都市西京区大原野の上里遺跡から出土した縄文晩期(約2800年前)のアズキが栽培種だったことが、市埋蔵文化財研究所や国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究者によって明らかになった。出土アズキの形状を野生種と比較すると明らかな差が現れ、研究者は「稲作以前の農耕を証明する完全な資料」としている。

市埋文研が2001~09年に実施した発掘調査で、炭化した豆類が約100点出土し、栽培の可能性が指摘されていた。豆類をアズキと確定した後、博物館の西本豊弘教授たちが計測できる形状を保つ10点について、野生種(ヤブツルアズキ)や現在栽培されている「宝早生小豆」「大納言小豆」と比較した。

その結果、全長や幅が野生種と重なる個体もあったが、豆の「へそ」の長さと、へそを中心とした厚みで明確な差が現れ、現在の栽培種に近かった。一般に豆類は栽培化が進むと厚みが増すとされている。また、出土アズキは炭化して縮んでおり、本来はもう少し大きいとみられることもあって「アズキが栽培され、食料として利用されたことは確実」と結論づけた。

全国の縄文遺跡から豆や雑穀類が出土し、栽培の可能性が指摘されている。山梨県の遺跡では07年に、土器に残る大豆の痕跡から、大豆を栽培していた例が確認されている。

縄文時代に詳しい京都大の泉拓良教授(考古学)は「出土した実物で栽培が実証された初の例といえる。縄文人が栽培というアイデアを持って種を選択できる農耕民の素質を持っていたことを示している。今後は、アズキの起源や栽培化のプロセスの解明が課題になる」と話している。

研究結果は動物考古学研究会刊行の学術誌「動物考古学29号」に掲載された。

『京都新聞』2012年07月27日 10時55分
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120727000057
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二つ目は、滋賀県長浜市塩津で、平安時代後期(12世紀中頃)の港湾遺跡が発見されたこと。

琵琶湖の湖上交通は、古墳時代(たぶんもっと以前から)から明治時代前期まで畿内と北陸(敦賀港)を結ぶ物資や人の輸送の重要ルートだった。
塩津は琵琶湖水運の最北の拠点で、その名の通り、越前・若狭も塩が山越えで運び込まれ、琵琶湖を行く舟に積み込まれた港。

実は、平安時代に遡る琵琶湖の港湾遺跡はほとんど出土していない。
これは琵琶湖の水位が関係している(平安時代より現代の方が高い)。

そもそも、古代の港湾遺跡自体がほとんど出土していない。
もう少し、水辺(もしくは水中)の考古学を重視しないと・・・。
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塩津港、初の遺構 平安後期の護岸施設
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矢板で囲まれたのが発掘現場で、その中の右端が当時の岸辺。水面は今より1メートル近く低かった(滋賀県文化財保護協会提供)
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石が敷き詰められた「礫敷」。手前にあるのが水際に施されていた横矢板で、杭も至る所に打たれている(長浜市西浅井町塩津浜) 

滋賀県長浜市西浅井町の塩津港遺跡で、平安後期(12世紀中ごろ)の塩津港の入り口と推測される護岸施設が見つかった、と滋賀県文化財保護協会が12日、発表した。万葉集にも登場し、古代から北陸と京都を結ぶ琵琶湖水運の要衝だった塩津港とみられる遺構が見つかるのは初めて。協会は「繁栄を極めた塩津港の位置、構造、遺物を知り、中世の生産流通を解明する手がかり」と期待している。

調査は、国道8号塩津バイパス建設に伴い5月から約250平方メートルで行われている。地表を約2メートル掘り下げると、当時の琵琶湖を高さ1・5メートルほど埋め立てた大規模な護岸施設の遺構が確認できた。

平たんな部分から琵琶湖に向かって長さ約10メートルほど緩やかに傾斜がある。その水際には湖岸の長さ8メートル、幅2・5メートル、高さ20~30センチにわたって、人の頭ほどの大きさの石を敷き詰めた礫敷(れきじき)が施してあった。突端は杭(くい)が打たれ、横矢板で礫敷を波から守っていた。平たん部分では井戸や越前焼の甕(かめ)2基が見つかり、地下から多量の土師器(はじき)、中国製の磁器、船釘(ふなくぎ)などが出土した。

礫敷は、同時期に造られた鳥羽離宮(京都市)で使われた高度な石敷きの技術を応用しているという。

滋賀県立大の市川秀之教授(日本民俗学)は「河川の護岸で最古とされる徳島県川西遺跡(鎌倉~室町時代)よりさらに古く、土木技術の歴史を知る上で貴重な発見」と話す。

『京都新聞』2012年07月13日 09時04分
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120713000018
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残りの時間、巻17、天平勝宝元年10月紀の講読。

孝謙天皇の大郡宮・薬園宮について解説。
実は、大郡宮(おおごおりのみや)の性格と場所については、若い頃、『歴史読本』(1985年9月号)のコラム「今月の日本史」に書いたことがある。
大郡宮は、平城京の南、羅城門外に置かれた外国使節の慰労(郊労)施設に関係するという推定。
確実な証拠がない推測なので論文にはしなかったが、30数年経った今でも私の説を否定する見解は出ていないと思う。

12時、終了。

(続く)
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