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10月3日(水) 今日の古代史(八幡神の性格) [お仕事(古代史)]

10月3日(水) 曇りのち小雨  東京  22.7度  湿度87%(15時)

8時、起床。
起きようと思ったら、左脚のふくら脛が攣った。
なかなか戻らない、痛さに耐えてなんとか起き出す。

朝食はピーチデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧にかかろうと、椅子に座ったところで、また左脚が攣る。

身支度。
紺地に紫の大きな花柄のカシュクールのチュニック(7分袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

10時少し前、家を出る。
先週から左の坐骨神経痛が出ていて腰が痛い。
長い夏休みで身体がなまっているところに、いきなり2コマ講義を立ってしたので左のお尻から太腿にかけて筋肉痛(左が軸足なので)。
加えて今朝、左のふくら脛がひどく吊って・・・、左側は腰、お尻、太腿、ふくら脛と全部痛い。
歩いていて、ときどきズキッと痛み、駅まで17分程の道が遠く感じる。

東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。

「『続日本紀』巻17、天平勝宝元年11月紀の講読。
まず、「南薬新宮」で行われた孝謙天皇の大嘗祭について。

「南薬園新宮」は奈良県大和郡山市の薬園八幡宮の付近に想定される。
現在の鎮座地ではなく、お旅所になっている旧鎮座地のあたり。

なぜ孝謙天皇が平城宮ではなく、平城京の南郊外のこの地で大嘗祭を行ったのか?理由がわからない。
先帝の崩御による代替わりなら崩御した宮殿での神事を避けることもあったかもしれないが、今回は譲位による代替わり。

聖武天皇から孝謙天皇への継承は、仔細にみると、いろいろ謎がある。
これもそのひとつ。

次いで、宇佐八幡神の入京について。
まず宇佐八幡神の性格について解説。

宇佐八幡は、お稲荷さんと並んで、最も数多い神社である八幡さまの本家で、今では、応神天皇・比売大神・神功皇后(八幡三神))を祭神として、皇室と所縁の深い神(伊勢神宮に次ぐ皇室第二の宗廟)のふりをしている(だから皇族の分れの源氏の氏神になっている)。

しかし、歴史的に見るとかなり「怪しい」神様である。
以下、要点を箇条書きにすると・・・。
(1) 日本神話(『日本書紀』『古事記』)に登場しない。
宇佐地域の豪族宇佐君が奉祭する、ヤマト王権との関わりはほとんどない一地方神だった可能性が高い。

(2) 正史への登場もかなり遅い。
初見は『続日本紀』天平9年(737)4月朔日で「新羅无禮の状」を告げる奉幣に預かっている。
この時、奉幣を受けた西海道の神社は、筑紫住吉社と香椎宮。
次いで、天平9年(737)9月に藤原広嗣が大宰府で反乱した際、征討大将軍の大野東人が八幡神に祈請している。
そして翌13年(741)閏3月24日に「宿祷を賽す」(祈願を適えてくれたお礼)として、秘錦冠一頭、金字最勝王經・法華經各一部、度者(得度許可枠)十人、封戸、馬五疋が朝廷から奉られ、三重塔一區の造営が行われている。
どうも、広嗣の乱が、宇佐八幡宮と朝廷との本格的な縁の始まりらしい。

(3) にもかかわらず、登場後、短期間で皇室の祖先神的性格をもつようになる。
天平13年の記事には「八幡神宮」とあり、すでに皇室の祖先神化が始まっているように思われる。
天平勝宝元年(749)12月の入京後の神階叙位では「(八幡)大神一品、比売神二品」で、品位(親王・内親王の位)が授けられている。
称徳天皇代には皇位継承に口を挟んむようにすらなる(宇佐八幡神託事件)。

(4) 神意を言葉として伝えることは稀な日本の神としては、異例におしゃべり(多弁)な「託宣神」である。
そのことは、宇佐八幡に神様の言葉(託宣)を記した「宇佐八幡託宣集」という本があることからもわかる。
今回の入京でも「我、天神地祇を率ひいさないて、必ず成し奉らむ。事立るに有らず。銅の湯を水と成し、我身を草木土に交へて障ることなくさなむ」
と明確な言葉で盧舍那大仏造営を援助する意思を述べている。
神様がしゃべる、と言っても、実際は巫女に憑いて、その口を借りてしゃべるわけで、シャーマニズムにおける神とシャーマンの形に近い。

(5) 「託宣」、つまり神の言葉を取り次ぐのは女性で地位も高い。
「祝(はふり)」もしくは「禰宜」の大神杜女の位階(外従五位下→従四位下)は、「主神司」の大神田麻呂(従八位下→外従五位下)のそれよりかなり高い。

(6) 早くに神仏習合が行われている。
天平13年の金字最勝王經・法華經奉納と三重塔の造営。
今回の入京で大神杜女が「禰宜尼」と称していること。
こうした神仏習合形態は、他の神社に比べて早いし顕著である。

以上のことから、まとめ。
八幡神は、「素姓」がいたって怪しく、奈良時代中期の聖武天皇代に急速に台頭した新興の神であり、その性格は我が国在来の神とはかなり異なっていること。
そして、シャーマニズムの影響を強く受けていると思われること。
それが、朝鮮半島(おそらく新羅)伝来の北方系シャーマニズムなのか、九州に残存していた南方系のシャーマニズムかはわからないが・・・。
仏教と野習合を考えると、どうも後者のように、私には思える。

12時、終了。
(続く)
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