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10月17日(水)今日の古代史(南九州の古墳社会・八幡神入京と東大寺行幸) [お仕事(古代史)]

10月17日(水) 曇りのち雨  東京  23.4度  湿度64%(15時)

7時、起床。
前夜、お風呂に入らずに眠ってしまったので、シャワーを浴びて髪と体を洗う。

朝食はピーチデニッシュとコーヒー。
髪をブローしてにあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。

化粧と身支度。
白地に黒でジラフ模様のロングチュニック(長袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンズ(6分)、黒網のストッキング、焦茶のショートブーツ、黒のトートバッグ。

10時少し前、家を出る。

東急東横線で自由が丘に移動。

10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。

最初に『朝日新聞』10月15日夕刊に掲載されていた「南九州の古墳社会、再考 地下式横穴墓から新視点」という紹介記事についてコメント。

この記事、「隼人は無関係か 階層化進まず平等?」という小見出しで「古墳時代の南九州には、地下式横穴墓(よこあなぼ)というユニークな墓制があった。その独自性から大和政権に抵抗した「隼人(はやと)」の墓ともいわれてきたが、再検討を迫る声が上がっている」というリード。

私は、南九州の地下式横穴墓は、5世紀から6世紀にかけてヤマト王権から「隼人」と呼ばれていた人たちの首長クラスの墓と考えているので、「隼人は無関係か 階層化進まず平等?」という見解がとても意外だった。
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※赤丸が地下式横穴墓。オレンジ▲印が地下式・板石積石棺墓。青★印が地下式横穴墓と地下式板石積石棺墓の折衷墓。
(「熊襲・隼人の時代を語る」鹿児島県歴史資料センター黎明館)

私たちの世代の歴史・考古学研究者は、葬制・墓制を重視する。
それはその社会の階層構造の表れであり、同時にその人たちの死生観の反映だからだ。
つまり、同時代に葬制・墓制が明かに違う集団は、異民族(異人種ではない)と考える。

この時代のヤマト王権の墓制は前方後円墳(とその省略形である円墳・方墳)のようなマウンドを持つ高塚式古墳であり、南九州の地下式横穴墓とは明かに様相を異にし、両者は葬制・墓制という文化を共有しない異民族と考えてきた。

また南九州の社会も、広い範囲を統率するような強力な首長は出現していなくても、それなりの階層化は進み、村を統率する首長は当然、出現していると考えてきた。
北九州で弥生時代前期の村落首長から中期の小国の首長へ発展していく段階の間くらいのイメージだ。

そこらへんのことは、昨年の夏(2011年8月)、現地(鹿児島県指宿市)を旅して認識を確認したつもり。
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↑ 指宿橋牟礼川遺跡(国史跡)の古墳時代(約1500年前)の竪穴住居(復元)と貫頭衣の女性&犬。

ところが、その両方とも違うと言う。

なぜ前方後円墳を受け入れなかったか?という点については、
「前方後円墳を介してのネットワークに価値を見ださなかったということでしょう」とあっさり片付けられてしまった。
そういうものなのか?
私たちの世代は、ヤマト王権の墓制である前方後円墳を受け入れるか入れないかは、ヤマト王権の権威に従うかどうかの、きわめて政治性の高い問題だと思ってきたのだが・・・。

またこの時代の南九州では「冨や権力の集積はみられない。階層分化は進まず、特定の有力者が輩出しなかった」という。

それはいったいどういう社会なのか?
縄文時代的な階層分化のない社会がずっと続いていたという社会なのか?
でも、地下式横穴墓だって、それなりの労働力を必要とし、私には誰でも作れるものには思えない。
甲冑や太刀など武器類の副葬品だってあるではないか?
それは階層分化の証拠ではないのか?

私が第一線の歴史学・考古学を学んだのは15年も前だ。
その後、日本の考古学がどういう方向に進んだのか、まったく勉強不足である。

とはいえ、なんとも釈然としない学説紹介の記事だった。

続いて「『続日本紀』巻17、天平勝宝元年12月紀の講読。

前回に引き続き宇佐八幡神の入京について着目点を説明。

入京後、神前読経(悔過)が行われていること。
ご神体を抱いた禰宜尼大神杜女の輿が紫色で「乗輿」(天皇用)と同じであること。
大神に「一品」、比売神に「二品」と授けられた位階が親王・内親王の品位であること。
東大寺への行幸が、宇佐大神に天皇・上皇・皇太后がつき従うような形で行われていること。

続いて、行幸時の東大寺大仏の状況を説明。
本体の鋳造が終了し、「鋳浚(いさらえ)」=表面の調整に入る直前。
塗金作業はまだだが、取りあえず盧遮那大仏が全身を現した段階。
螺髪(らほつ)の鋳造を開始。
大仏殿の造営もまだ。
行幸にともなう封戸4000戸の施入(数量は問題有り)は、東大寺の寺院財政の基盤を作る上で重要。

さらに、行幸時に左大臣橘諸兄によって宣(の)られた詔の主体について。
「朕」は明らかに聖武太上天皇。
日本令では、太上天皇も「詔勅」を出せるが、この時期の王権のあり方(孝謙天皇の実質性)は再検討が必要か。

12時、終了。
(続く)
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