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8月20日(水)今日の古代史(飛鳥・都塚古墳) [お仕事(古代史)]

8月20日(水)  晴れ   東京  34.5度  湿度58%(15時)
暑さで目が覚める。
涼しい部屋に移動して30分ほどクールダウン。
8時30分、起床。
朝食は、ダークチェリーパイとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
濃紺の地に黄色の小菊模様のチュニック(2分袖)、黒のレギンス(3分)、黒のサンダル、大きな籠バッグ。
10時、家を出る。
今日は真夏の日差で暑い!
駅に着くと、汗が噴き出る。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
教室に行ったら、前回に引き続き生徒さんが1人しかいない。
皆さん、ご高齢なので、無理はしない方がいいのは確かだが、これでは講義にならない。
2回続けて、雑談というわけにもいかないので、作ってきた資料を渡して「飛鳥・都塚古墳について」話をする。
都塚に行ったのは、学生時代の飛鳥史跡巡り旅行の時だからもう38年くらい前のこと。
横穴式石室が開口していて、内部に収められた家形石棺の写真を撮った覚えがある。
都塚古墳3.jpg
石室の積み方から6世紀後半の築造という認識。
墳丘はかなり崩れていて方墳とも円墳ともつかない状態、大きさは20mクラス。
飛鳥地方のこの時期の古墳としては、小さくもないが大きくもないという感じで、正直なところそれほど重要な古墳とは思わなかった。

当時はまだ島庄遺跡も発見されてなかったので、石舞台古墳が蘇我馬子(551?~626)の墓という説はあったが、飛鳥盆地東南隅のこの地が蘇我本宗家の拠点という認識は無かったと思う。
その後、島庄遺跡の発掘が進み大型建物群や方形池などが発見され、「嶋大臣」(蘇我馬子)の邸宅跡である可能性が高まり、それに隣接する石舞台古墳が馬子の墓であるという説が有力になった。
都塚古墳1.jpg
都塚古墳2.jpg
都塚古墳4.jpg
今回の発掘で、石舞台古墳の東南400mほどにある都塚古墳が、40×41mの基壇の上に8段?に造成された階段状の大型方墳であることが、ほぼ確定的になった。
そうなると、6世紀後半にこの地にこれだけの規模をもつ墓を造成できるのは、馬子の父で、蘇我氏の権力基盤を築いた大臣(おおおみ)蘇我稲目(~570年)の他にはいない。
墓誌が発見されたわけではないので確定ではないが、まず9割方、間違いないだろう。

注目されるのは高句麗の積石塚との関係。
高句麗好太王(在位:391~413年)の陵とする説が強い将軍塚古墳(中華人民共和国吉林省集安市:5世紀前半)などとの類似性。
高句麗将軍塚古墳 (2).jpg
↑ 一辺31.6m、高さ12.5m、7段の築成。

稲目の父は「高麗(こま)」、祖父は「韓子(からこ)」で、その名から朝鮮半島との関係が強く感じられる。
さらに曽祖父の「満智(まち)」は、百済の権臣木満智との同一人物説がある。
その当否はともかく、稲目は欽明朝に渡来した仏教を受容するなど、国際情勢に通じた人物だったことは間違いなさそう。
稲目が自らの墓に、朝鮮半島の様式を取り入れたとしてもおかしくはない。
12時、終了。

昼食は、久しぶりに自由が丘駅南口の「Butcher's (ブッチャーズ)」で、おろしハンバーグランチ(830円)。
P1110349 (2).JPG

東横線で学芸大学駅に移動して、「仕事部屋」へ。
郵便物の整理と少し調べもの。

東口商店街の「ドトール」で冷たい物を飲みながら、7月18日に平凡社で行った人文地理学者の加藤政洋さん(立命館大学准教授)との対談の原稿に、1時間半ほどかけて目を通す。
う~ん、けっこうあちこち話題が飛んだ対談だったのに、ちゃんとまとまっている。
編集者のAさんの有能さに感服。
(続く)
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コメント 2

カナッペ

この古墳が蘇我氏関連だとすれば、疑問も呈されていた蘇我氏渡来氏族説が定説に格上げされそうですね。
by カナッペ (2014-08-21 17:56) 

三橋順子

カナッペさん、いらっしゃいま~せ。
まあ、文献的な証拠がないので定説化は無理でしょう。
ただし、高句麗文化の影響は、従来よりもずっと比重が高まると思います。

by 三橋順子 (2014-08-26 21:53) 

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