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「買売春」史の前提 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

1月13日(土)

昨夜(12日)の講義では、はじめに「買売春史の困難」という話をした。

まず、何をもって「買売春」とするか?という定義から。
「買売春」を
「性的サービス」と「財物」との交換行為
と定義した。

しかし、次に「性的サービス」トは何か?、「財物」とは何かということになる。
「性的サービス」の範囲は広い。
膣性交が含まれることはほとんど異論はないと思うが、肛門性交や口唇性交は含まれるのか、「手こき」はどうなのか?
あるいは、性的サービスの行為主体は女性限定なのか、それとも男性が行為主体の場合も含むのか?
ちゃんと考えると、けっこう大変だ。

「財物」も、一般的には貨幣だが、貨幣制度の成立以前はどうなのか? 
布や米でもよいのか?

さらに、一妻多夫制の社会で、1人の女性のところに複数の男性が食料を持ってやって来て、性行為をしているとしたら、売春との境界は、どうなるのか?

まあ、厳密にいろいろ考えると話ができないので、緩く定義して先に進みましょうと言って、スタートした。

実は、駄目な研究者は、こういう定義問題を平然とすっ飛ばす。
「売春の定義? 男が女性を買うことよ」
で済ましてしまう。
これでは、学問は進歩しないということ。

「買売春」史の前提として、もう1つ話をしたのは、日本における「遊び」の意味。
子ども同士ならろもかく、大人同志で「遊びましょう」と言った場合、そこには性的な意味が込められている。

それは、日本の「遊び」が、共同飲食サービス・芸能・性的サービスの三位一体であり、基本的に不分離だから。

そして、その源流は「神遊び」にある。
神との共食、神への芸能奉納。神の「妻」との性行為(聖婚=神と「妻」をシェア)が「神遊び」であり、そこから「神」が抜けた(存在が希薄化した)のが「遊び」。

ここで、なかなか理解してもらえないのが「聖婚」。
神と「妻」をシェアすることで、神がもつ聖性が伝播するという考え方。

そうした行為は、神殿で行われる。
つまり「神殿売春」。
「神殿売春」は、ユダヤ教では強く忌避されているが、多くの宗教で行われていた。

日本の場合も、少なくとも中世までは巫女と遊女は、かなり重なる存在だった。
この話、現代の神社の巫女が穢れを知らない処女で、性的なものから遠い存在として認識されているので、なかなか理解してもらえない。

ということで、古代・中世の日本においては、性的サービスだけが独立して行われるケースはほとんどなかったと思われる。
だからといって性的サービスがおこなわれていないわけではない。

つまり、性的サービスだけを切り離して「買売春」の成立を論じても意味がない、ということになる。

例えば、『万葉集』に登場する「遊行女婦(うかれめ・あそび)」は、貴人の宴席に侍して(共同飲食)、歌を詠み舞う(芸能)女性だが、宴席が終わった途端に「さよなら」と帰ってしまうかといえば、それはまずあり得ないだろう。

『万葉集』にはっきりとは記されていないが、その後、「性的サービス」が行われる機会があったと考えるべきだ思う。

それが「遊び」だからだ。

それが「遊び」だからだ。

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