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盛り場としての赤坂の全盛期―1960年代の性風俗記事から(2)― [性社会史研究(一般)]

5月28日(水)
『実話と手記』(手帖社)昭和41年(1966)1月臨時増刊号(2巻2号)は「観光おんな読本」と題する特集号。

「観光マンモス東京よるの異色地帯マル秘情報」という特集記事では、「ゴールデン赤坂のデラックスお遊び術」、「青い目の美女をとりもつ赤坂“夜の演出者”」など、東京の新興歓楽街である赤坂に焦点を当てたルポを掲載していて興味深い。

赤坂は戦前からの花街(芸者町)だが、高度経済成長が始まる頃から、銀座のクラブの「アフター」(閉店後、客がホステスを連れて出して遊ぶこと)を受ける街として、急速に台頭していく。

1960年代初頭には、パリのブルーボーイ(身体を女性化した男性)の来日公演で有名になった「ゴールデン赤坂」や、「コパカバーナ」、「ニューラテンクォーター」など、大規模で豪華なナイトクラブが次々に建ち、東京オリンピック(1964年)前後に盛り場としての全盛期を迎える(その後、60年代末~70年代が六本木)。

また、近隣に大使館や欧米系企業の東京支社が多く、大使館員・駐在員、それに欧米諸国の航空会社のスチュワーデスなどが遊ぶ国際色豊かな盛り場だった。

さらに、赤坂は、売春防止法完全施行(1958年3月末日)で旧来の色街(「赤線」地区)が没落・逼塞したのに代わって、「白線」(不可視化した売春街)としての機能も持ち、大小のコールガール組織の拠点でもあった。
いわゆる「ブルーボーイ事件」(*)の発端も、赤坂のコールガール組織の摘発で、コールガールの中に女性に「性転換」した男性が混じっていたことがきっかけだった。
売る側は日本人女性、外国人女性、そして女装男娼(しばしば外国人女性に偽装)、買う側も日本人男性、外国人男性と、様々な組み合わせのセックスワークが行われていた街だった。

現在の赤坂は、一ツ木通界隈を中心に、落ち着いた大人の街という印象が強いが、1960年代には、東京の最先端の盛り場&性風俗の最先端というイメージだった。
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↑ 赤坂の高級クラブ「ゴールデン赤坂」(外観)
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↑ 「ゴールデン赤坂」の内部(階段)
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↑ 「ゴールデン赤坂」の内部(階段)
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↑ 「ゴールデン赤坂」の内部(客席と舞台)
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↑ 「ゴールデン赤坂」のパンフレット。
1964年11月、パリ「カルーゼル」の第2回公演の際のもの(モデルはバンビ嬢)。

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↑ 赤坂の高級クラブ「月世界」

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↑ 赤坂の高級クラブ「ニュー・ラテン・クオーター」

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↑ 赤坂の高級ホテル「ホテル・ニュージャパン」(1960年開業)
1982年(昭和57)2月8日の火災は死者34人の大惨事となる。

*「ブルーボーイ事件」
1965年(昭和40)10月、3人の男娼に対して性転換手術を行った青木正雄医師(東京築地の青木病院副院長、慈恵医科大学講師)を、東京地方検察局が優生保護法28条違反で摘発した事件。
1969年2月15日、東京地方裁判所は被告青木正雄医師に優生保護法違反と麻薬取締法違反で有罪判決(懲役2年、執行猶予3年、罰金40万円)を言い渡し、1970年11月11日、東京高等裁判所が被告側の控訴を棄却して有罪が確定。
後に「性転換手術は非合法」という認識の根拠となり、性転換者の存在を潜在化(アンダーグラウンド化)させ、日本の性同一性障害医療に大きな暗い影を投げかけることになった。
詳しくは、三橋順子「性転換の社会史(2) -『性転換』のアンダーグラウンド化と報道、1970~90年代前半を中心に-」 (『戦後日本女装・同性愛研究』 中央大学出版部 2006年3月 P436~471)を参照。

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コメント 4

マミー

ああ、それでカルーセル・マキさんはモロッコに行って手術なさったんですか。赤坂は若い頃たまに行きましたがハングルの看板がいっぱいで、韓国人街のような感じでしたけど。ディスコ(死語)で韓国人のじいさんにナンパされ、がっかりしたことを思い出します。あの頃『ミカド』が化け物屋敷の様な廃屋なってて怖かった。ニュージャパンも、火事の後暫くそのままで、黒こげの窓に板がはってあって夜遅くに前を通るとブキミでした。今は随分変わったんでしょうね。もう行く用事もないけど。
by マミー (2014-05-30 11:42) 

三橋順子

マミーさん、いらっしゃいま~せ。
>それでカルーセル・マキさんはモロッコに行って手術なさったんですか
まあ、そういうことです。
モロッコのDrブローの評判が高かったこともありますが、国内で違法とされた(厳密にいうと違うのですが)ことがはるばる北アフリカまで行った大きな理由でしょう。

最先端の盛り場としての地位は、70年代に六本木に移ります。
80年代の赤坂はもう華やかさはないです。
「ホテル・ニュージャパン」が焼けたのは1982年ですが、それ以前からもう斜陽でしたから
by 三橋順子 (2014-06-01 12:06) 

タイガー

私も昭和43年~47年の4年間夜の銀座でポーターをバイトしてましたが、四谷のマンションに帰る途中ニューラテンの前を車で通りました。
が、同じポーターでも人数も多く、相当チップも入るんだろうなぁと思いながら見てました。ま、今の神さんと地下鉄見附付近のアマンドで食べたカツサンドも美味しかったなぁ…
by タイガー (2016-11-08 20:46) 

三橋順子

タイガーさん、いらっしゃいま~せ。

奥様との思い出をまじえたすてきなコメントありがとうございました。
こういうコメントをいただけると、ブログに記事をアップして良かったと思います。
by 三橋順子 (2016-11-10 13:19) 

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