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新宿最古参の屋台(たこ焼き屋)が終業 [日常(思い出)]

4月25日(木)
新宿最古参の屋台(たこ焼き屋)が姿を消した。
この赤い屋台、何度も見たことがあるし、とても人情味がある良い記事なので記録しておく。
IMG_20130426_0001.jpg
昭和20年(1945)5月25日のアメリカ軍による山の手大空襲で、新宿一帯は焼け野原になった。
そして、8月15日の敗戦。
そのわずか3日後の18日、、戦前から新宿に根を張り露店商を仕切っていた「関東尾津組」というテキ屋の親分尾津喜之助(1898~1977)が、軍需産業の下請け業者などに向けて製品の「適正価格で大量引き受け」の広告を都内の主要新聞に出す。
尾津は続々と集まってくる物資と商品をもとに、「光は新宿より」というスローガンを掲げて、新宿駅東口に露店を並べた「尾津マーケット」を開く。
これが新宿における焼跡闇市の始まりで、敗戦からわずか5日後の8月20日のことだった。

それを皮切りに、東口の「高野」や「中村屋」の裏手には尾津組の「竜宮マート」が、東口から南口にかけては和田組マーケットが、そして西口には安田組の「民衆市場」が軒を連ね、露店の数は3000軒以上(正確には不明)新宿の焼跡闇市の全盛期を迎える。

しかし、これらの露店は、ほとんどすべてが道路や私有地の不法占拠だった。
世の中が落ち着き始め、警察力が機能を回復すると、不法占拠の露店への風当たりは強くなる。
昭和24年(1949)の秋には、GHQから露店取払い命令が出る。
期限は昭和25年(1950)3月末日までだった。

多くの露店業者は、駅から少し離れた場所を確保し、店舗兼住居の長屋を建てて集団移転した。
その内、現在までほぼそのまま残っているのが歌舞伎町1丁目(花園神社裏)のゴールデン街・花園街である。
平成11年(1999)の火事で店舗は建て替えられたが、西口の「思い出横丁(しゅんべん横丁)も当時の地割と雰囲気を残している。

しかし、中には露店取り払いに抵抗する業者もいた。
露店を改装し車を付けて移動式にして、「これは露店ではない、屋台である」と主張し、元の場所に居座ろうとする。
警察が立ちのきを命じると、ゴロゴロと移動するが、しばらくすると元の場所に戻って来る。
仕方なく屋台取り締まりの条例が作られ、警察が屋台も取り締まらざるえなくなった。

新宿の屋台には、そんな歴史がある。
この赤い屋台のおじさんは1971年頃から営業を始めているので、焼跡闇市の生き残りというわけではないが、また一つ、新宿の街の生き証人が消えることになる。
ちょっと寂しい。

歌舞伎町でお手伝いホステスをしていた頃、新宿駅から店への出勤の途中で、下の記事の写真のような戸締り?した屋台を引く露天商の人とよく擦れ違った。
屋台は営業する場所と置いておく場所は、ほとんどの場合違う。
夜の8時くらいになると、歌舞伎町の奥の方にある置き場から繁華な通りの営業場所へ引いて行く。
つまり、あちらも出勤、私も出勤というわけ。

屋台の営業時間は、記事にもあるように、だいたい夜9時頃から夜中の1時か2時までだったと思う。
間違いなく終電の後までやっていたが、夜通しでの営業ではなかった。

区役所通りの屋台は、歩道をできるだけ塞がないように、ぎりぎり車道側に寄せて営業していた。
よく覚えているのは、新宿区役所の向かい側にいつも出ていた磯辺焼き(小さな餅を焼いてお醤油をつけて海苔を巻いたもの)の屋台。

ある冬の夜、男性客が「なんか腹が減ったなぁ、悪いけどこれで磯辺焼き買ってきてよ」と、私に1000円を3枚渡した。
私がいた「ジュネ」は、頼まないのにけっこう食べ物が出てくる店なのだが、きっと彼が磯辺焼きが食べたかったのだと思う。
一人で食べるわけにもいかないので、店にいるスタッフと客(計10数人)を数えて1人2枚と考えたのだろう。
私は、店を出て100mほどのところの磯辺焼きの露店に行き、顔見知りのおじさんに「3000円分くださいな」と注文。
当時(1997年頃)磯辺焼きは1つ100円だった。
ただ、30枚の磯辺焼きは露店の小さな鉄板では一度に焼けない。
ストックされていたものを合わせても2回かかる。
時間にして15~20分。
コートは羽織ってはきていたが、焼き上がるのを待つ間、ミニワンピースの裾から入ってくる寒気で、すっかり身体が冷えてしまった。
「はい、お待ち、おまけしておいたからね」
おじさんから包を受け取る。
胸に抱えた包の暖かさをうれしく思いながら、急いで店に戻る。
「遅くなって、ごめんなさ~い」
注文主の男性客の前で包を開くと、おまけが5枚も付いていた。

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YUKO

新聞記事も、順子さんの記事も、いいなぁ。と思いながら読みました。
両方とも、一生懸命が報われるとは限らない職業。でも、その職業で得た物は他では変えられないものなのよね。
by YUKO (2013-04-26 23:41) 

三橋順子

YUKO さん、いらっしゃいま~せ。
ありがとう。消えゆく屋台に愛惜を感じるような感覚を共有できる人ってもう少ないのかなと思います。
私は、歌舞伎町ホステス時代にそういう感性を持てるようになったこと、大きな財産だと思っています。
by 三橋順子 (2013-04-28 09:50) 

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