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5月7日(水)伊勢神宮の話 [お仕事(古代史)]

5月7日(水)  晴れ  東京  21.5度  湿度47%(15時)
8時、起床。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
朝食は、カスタードクリームデニッシュとコーヒー。
粧と身支度。
紺地に紫の大きな花柄のカシュクールのチュニック(6分袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。

10時、家を出る。
P1090523 (2).JPG
庭の鉄仙(クレマチス)がきれい。
もう初夏なのだなぁ。

東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
伊勢神宮の話をする。
伊勢神宮は、皇室(天皇家)の氏神(宗廟)とされているにも関わらず、『日本書紀』や『古事記』などの歴史書には、意外にもあまり出てこない。
『日本書紀』によれば天照大御神は、天孫・邇邇芸命が降臨する際に三種の神器を授け、その一つ八咫鏡(やたのかがみ)は、「天照大御神の神霊を込めた形代とされ、神武天皇以下、代々の天皇に伝えられた。
そして、第10代崇神天皇の世に大和の笠縫(かさぬい)邑に移され、皇女豊鍬入姫(とよすきいりひめ)が祀ることになった。
さらに、『日本書紀』垂仁天皇25年3月条に、「倭姫(やまとひめ)命に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る」とあり、倭姫命が八咫鏡を祀るにふさわしい地を求めて大和の菟田(うだ)の篠幡(ささはた)から近江・美濃をを経て伊勢国に至ったとき、天照大御神の信託を得て、五十鈴川の川上に斎宮を設けて祀ったことが記されている。
一般には、これが天照大御神を祀る伊勢内宮(皇大神宮)の起源説話とされる。
しかし、『日本書紀』の本文は、この宮を「磯宮」とし、「伊勢神宮」の名は記されてない。
また、話の流れからしても、これは八咫鏡の物語と見るべきだろう。

一方、『古事記』には、崇神天皇記と垂仁天皇記に豊鉏入比売命と倭比売命がそれぞれ「伊勢大神宮」を祀ったことが注記されているだけで、本文には記述がない。

さらに、外宮(豊受大神宮)にいたっては、『日本書紀』や『古事記』に記述がなく、平安時代初期の延暦22年(803)にまとめられた『止由気神宮儀式帳』に、雄略天皇の御代に内宮の天照大御神の食膳をつかさどる神(御饌津神)として丹波国(後に分割されて丹後国になる)の比沼真奈井原(まないはら)から招かれたことが記されているのが、いちばん古い。

なぜ、『日本書紀』や『古事記』に伊勢内宮・外宮の起源説話がはっきりした形で記されていないのか、謎である。

伊勢神宮の皇室神化は、壬申の乱(672)のとき、吉野を脱出して東国を目指した大海人皇子が伊勢国朝明郡の迹太(とほ)川(現:四日市市大矢知町)の辺で天照大神を望み拝し(『日本書紀』壬申紀6月丙戌条)、その加護によって近江朝廷に勝利して天武天皇になったことが、きっかけだった可能性が高い。
つまり、伊勢神宮が皇室の宗廟的な特殊な神社になっていくのは、天武天皇~持統天皇代、つまり7世紀第4四半世紀のことだったと思われる。

では、それ以前の伊勢神宮はどんな形だったのか。
それは、『日本書紀』が、天照大御神の形代である八咫鏡を「磯宮」に祀ったとするように、太陽と海への信仰の場、具体的に言えば、海から上る太陽を神として拝す場所だったのではないだろうか。
それは、最初は伊勢の海辺の人たちが祀った地方の(ローカルな)神だったが、やがて大和の大王家の太陽神信仰が重なっていく。
なぜなら大和(飛鳥)から太陽が昇る方向へどんどん歩いていくと、最初に海に出会う場所が伊勢だからだ。
天武天皇の飛鳥浄御原宮の緯度は北緯34度28分で、伊勢内宮の緯度は北緯34度27分。
実際には間に山があって真っ直ぐ東に歩くことはできないが、飛鳥浄御原宮から見て春分・秋分の太陽が昇る方向に伊勢内宮はある。
このことは、やはり偶然ではないように思う。

続いて、天照大御神の性別について。
『日本書紀』では天照大御神が女神であることは疑いようがない。
また現代でも、そのことはよく知られている。
しかし、中世から近世、鎌倉時代から江戸時代の中頃までは、天照大神が男神であるとする説は広く流布していた。
むしろ、天照大御神=男神説の方が中世から近世の「常識」と考えた方がよい。
さらに、中世には蛇身の男神説もあった。
たとえば、鎌倉時代後期の京・醍醐寺の僧。通海が著した『通海参詣記』(1286~88年頃の著述)には「サテモ斎宮ハ皇大神宮ノ后宮ニ准給テ、夜々御カヨヒ有ニ、朝毎ニ蛇(クチナハ)のイロコ(鱗)落侍ヘリナン」という伊勢の神官の言葉が記されている。
私が論文 「強豪力士は女だった!? ―鹿児島県出水市加紫久利神社の石燈籠をめぐる説話から―」 (都留文科大学ジェンダープログラム7周年記念論集『ジェンダー研究で拓く共生社会』 論創社 2013年3月)で扱った、薩摩国二宮・加紫久利神社(主祭神:天照大神)の説話でも、出水川の夢に出てくる天照大神は大蛇を首に巻いた姿だった。
天照大神が女神であると再認識されるのは、江戸時代後期の国学が広まって以降、一般的には明治時代以降のことと思われる。
そんな話をする。
残りの時間、『続日本紀』巻19、天平勝宝6年(754)2月条の講読。
12時、終了。
(続く)

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