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4月30日(水)大伴古麻呂の「争座事件」 [お仕事(古代史)]

4月30日(水)  雨  東京  17.5度  湿度90%(15時)
6時、起床。
昨夜は倒れるように眠ってしまったので、講義の準備ができていない。
2時間ほど作業して、今日の講義レジュメをまとめる。
朝食は、カスタードクリームデニッシュとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。
9時、化粧と身支度。
多色使いの花柄のチュニック(長袖)、裾にラインストーンが入った黒のレギンス(6分)、黒網のストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。
朱色と黒の有松絞りのショールを手提げ袋に入れる。
幸い雨は小止みで、傘を差したり畳んだり。
東急東横線で自由が丘駅に移動。
10時半、産経学園(自由丘)で「『続日本紀』と古代史」の講義。
『続日本紀』巻19、天平勝宝6年(754)正月条の講読。

天平勝宝の遣唐副使、大伴古麻呂の「争座事件」について。
【場所】 唐 長安城 蓬莱宮(大明宮)含元殿
8世紀の東アジア.jpg
唐長安城1 (2).jpg
長安城大明宮.gif
長安城含元殿.jpg
長安城含元殿2.jpg
 
【時】 唐 玄宗 天宝12歳(753)正月元日(日本 孝謙天皇 天平勝宝5年)
【状況】 朝賀の儀 外国使節が着席する際、日本の遣唐副使大伴古麻呂が席次にクレーム。
(当初の席次)
         玄宗皇帝
   西            東
吐蕃(チベット)  ①  新羅
日本        ②  大食(アッバース朝サラセン)

【古麻呂の主張】
「古より今に至るまで、長い間、日本に朝貢している新羅が、東の第1席で、日本がそれより下の西第2席というのは理屈に合わずおかしい」
「古より」は、『日本書紀』に見える神功皇后の「三韓征討」(伝承)以来。
「今に至るまで」は、天平勝宝4年(752)に、新羅の王子金泰簾、貢調使金暄ら700余人が来日したこと指す。

【唐側の対応】
会場担当の宦官・正三品監門衛将軍呉懐実(宝?)が、古麻呂の姿勢が強硬なことを見て、新羅と日本の席次を入れ替える対応。 
(変更後の席次)        
         玄宗皇帝
   西            東
吐蕃(チベット)  ①  日本
新羅        ②  大食(アッバース朝サラセン)

【なぜ古麻呂の主張が通ったのか?】
朝賀の儀式は、正月元日の朝、宮殿の正殿に出御した皇帝を、正殿の南庭に序列順に並んだ大臣以下百官人と朝貢してきた外国使節が拝賀する、国内的には万民に君臨し天下を統治する皇帝の権威を、対外的には中華帝国の皇帝を頂点とする国際秩序を再確認するための舞台と国家最重要の儀式で、トラブルや遅滞は許されない。
本来、朝貢国同士の関係は、唐王朝は与り知らぬこと。
新羅にしてみると、日本に朝貢した事実を指摘されると、唐から「二重朝貢」で信義違反に問われかねず、引き下がった?

【そもそもの疑問】
東アジア諸国は、唐皇帝から官職を与えられ(冊封)、そのランクによって明確に序列化されていた(吐蕃、新羅)。
日本は「冊封」を受けない「不臣の蕃客」という立場をとっていた。
となると、本来、序列化できないはず。
明確な序列がないから、席次変更が可能だった?

【事件の信憑性】
虚構とする説(山尾幸久)もある。
唐側の史料には、朝賀の儀式があったことは記されているが、席次については触れていない。
思託(鑑真和上に従って来日)の『延暦僧録』(延暦7年=788年)に席次争いの記事があるが、思託がその場に居たわけでなく、後からの伝聞を記したわけで、傍証にならない。

12時、終了。
(続く)
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