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4月28日(月)皇太夫人(贈皇太后)高野新笠の崩御関係の記事を読む [お仕事(古代史)]

4月28日(月)  晴れのち曇り  東京  23.2度  湿度42%(15時)
7時、起床。
朝食は、チョコレート・ロールとコーヒー。
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒と白のジラフ柄のロングチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のサンダル、黒のトートバッグ。
9時、家を出る。
東急東横線から東京メトロ副都心線に入って、新宿三丁目駅で下車。
地下道を通って新宿駅東南口に出て、JR中央線に乗り換える。
中央線は10数分の遅れが出ている。
10時20分、吉祥寺駅に到着。

10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
「後宮の不幸と早良皇太子の怨霊出現」の2回目。
『続日本紀』延暦8年(789)12月の桓武天皇の母、皇太夫人(贈皇太后)高野新笠の崩御関係の記事を読む。
(1)なぜ、長岡宮のかなり北方の山に陵墓(大枝山稜)を設定したのか?
新笠の崩御は、長岡京遷都後、最初の皇族(天皇・三后)の死なので、単に新笠の陵墓をどこにするかというだけはなく、長岡京における皇族の葬送地をどこに設定するかに関わる問題。

(2)「高野」の姓の由来は?
称徳天皇(『続日本紀』では「高野天皇」)の「高野山荘」(平城京右京・西大寺の南方)に由来する。
新笠は光仁朝(法規年間)に、おそらくそこに住んでいたと考えられる。

(3)新笠の祖先伝承について。
新笠の出身氏族、和史(やまとのふひと)は、百済の武寧王の子純陀太子の子孫とする(『新撰姓氏録』も同じ)。
武寧王の没年は出土した「墓誌」によれば523年(『日本書紀』も継体17年=523で同じ)、淳陀太子の没年はそれより早く、513年(『日本書紀』継体天皇7年)。
新笠の(国風)諡号「天高知日之子姫命(あまたかしるひのこひめのみこと)」の「日之子」は、百済国の遠祖、都慕王(夫余族の朱蒙と同一人)は河伯(河の神)の女が日の精に感じて生れたことに基づく。

(5)そもそもの謎として、五位官人すら出せない百済渡来の小氏族・和史(やまとのふひと)氏の娘が、天智天皇の孫、施基皇子の子である二世王(孫王)白壁(しらかべ)王(後の光仁天皇)の妻に、どういう出会いでなったのか?
新笠は、能登内親王(天平7年=735生)、山部親王(天平9年=737生、後の桓武天皇)、早良親王(出家して大安寺に入る。後に還俗して立太子)の二男一女をもうけている。
したがって、白壁王(和銅2年=709生)との結婚は天平5年前後と考えれられ、その時、白壁王はまだ無位だったが、二世王なので従四位下直叙の資格(天平9年に従四位下)を持っている。
渡来系の下級官人の娘とは、どう考えても身分違い。
伝記に「容徳淑茂、夙著声誉」と書かれているように抜群の美人だったのか?
12時、終了。

南口のタイ料理「クーチャイ」は、ランチお休みで残念。
古書店に寄る(詳細別記)。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2014-04-29
12時30分発の京王井の頭線急行で渋谷に出る。
昼食はどうしようと・・・?と悩んだ末に、「かつ屋」へ。
P1090266 (2).JPG
前回(1カ月前)はかつ丼を試したので、今回はトンカツ定食(トン汁を「大」に変更で830円)。
う~ん、想像していたよりマシだった。
まあお値段なりに・・・というだが、やっぱり「おばちゃん」には量が多い。
(続く)

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