3月24日(月)桓武朝初期の後宮 [お仕事(古代史)]
3月24日(月) 晴れ 東京 18.5度 湿度23%(15時)
7時、起床。
朝食は、洋なしデニッシュと野菜ジュース
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒地に白で抽象柄のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黄色のニットのポンチョ。
8時50分、家を出る。
東急東横線で渋谷へ。
寝不足で疲労が取れず、身体がだるい。
車中、居眠り。
渋谷駅で京王井の頭線に乗り換え。
9時48分発の急行に乗り、10時08分、吉祥寺駅に到着。
いつもより1本遅い電車だったので、いつもの「ドトール」での休憩はなし。
10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
今回から「後宮の不幸と早良皇太子の怨霊出現」に入る。
まず、なぜ桓武朝において2度の遷都(長岡遷都・平安遷都)が行われたかについて、諸説を解説。
続いて、桓武天皇(737~806)の後宮の構成を説明。
--------------------------------------------
山部親王(桓武)は宝亀4年(773)に皇太子になった時、すでに36歳だったので、当時のライフサイクルからして結婚して子供がいても不思議ではないのに、まったく不明なこと。
これは桓武天皇の前半生の大きな謎(詳しい経歴不明)。
皇太子時代に入宮した女性。
◎ 藤原乙牟漏(760~790) 光仁朝の 内大臣藤原良継(式家)の女。生年については752年説が有力。
延暦2年(783)2月5日無位→正三位、同2月7日夫人、同4月18日皇后。
安殿親王(平城天皇)(774~824) 宝亀5年(774)生 ①
神野親王(嵯峨天皇)(786~842) 延暦5年(786) ④?
高志内親王(789~809) 延暦8年(789) 大伴親王(淳和天皇)妃(贈皇后)
◎ 酒人内親王(754~829) 光仁天皇の皇女、母は皇后井上内親王(聖武天皇の皇女)。
聖武天皇の外孫、山部皇太子にとっては異母妹。即位後、ほどなく妃。
朝原内親王(779~817) 第一皇女、伊勢斎宮、後に異母兄平城天皇の妃。
◎ 藤原吉子(?~807) 山部皇太子の春宮大夫、桓武朝前半期の右大臣藤原是公(南家)の女。
即位後、ほどなく夫人か。
伊予親王(?~807) ② 生年は宝亀11年(780)頃と推定
この他、女嬬の多治比豊継(?~?)に手を付けて、長岡岡成(?~848、延暦6年=787長岡朝臣賜姓)を生ませている。
延暦年間初期に入宮した女性
◎ 藤原旅子(759~788) 山部皇太子擁立の功臣で光仁朝の参議藤原百川(式家)の女。
延暦4年(785)11月24日無位→従三位、5年(786)1月17日夫人。
大伴親王(淳和天皇)(786~840) 延暦5年(786) ⑤?
◎ 多治比真宗(769~813) 桓武朝の参議多治比長野の女。 延暦16年(797)夫人
葛原親王(786-853) ③ 嵯峨天皇の兄、桓武平氏の祖。
佐味親王(793-825) ⑨
賀陽親王(794-871) ⑩
大野親王(798-803) ⑪
因幡内親王(?-824)
安濃内親王(?-841)
◎ 藤原小屎(?~?) 従五位上藤原鷲取(北家)の女、桓武朝初期の左大臣藤原魚名の孫。後に夫人(時期不詳)。
萬多親王(788~830) ⑥
この他、側近の藤原内麻呂(756~812)の妻(藤原真夏・冬嗣の母)で女嬬の百済永継(?~? 飛鳥部奈止麻呂の娘、)に手を付けて、良峯安世(785~840、延暦21年=802良峯朝臣賜姓)を生ませている。
(まとめ)
延暦2年4月時点の後宮は、皇后藤原乙牟漏、妃酒人内親王、夫人藤原吉子の構成か。
そして、延暦5年に藤原旅子が夫人に加わる。
--------------------------------------------
その後、『続日本紀』延暦7年(788)5月辛亥(4日)条夫人藤原旅子の薨去記事を読み、同12月乙未(28日)条の母(贈皇太后)高野新笠の崩御記事に入る。
12時、終了。
(続く)
7時、起床。
朝食は、洋なしデニッシュと野菜ジュース
シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結びシュシュを巻く。
化粧と身支度。
黒地に白で抽象柄のチュニック(長袖)、黒のブーツカットパンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、黄色のニットのポンチョ。
8時50分、家を出る。
東急東横線で渋谷へ。
寝不足で疲労が取れず、身体がだるい。
車中、居眠り。
渋谷駅で京王井の頭線に乗り換え。
9時48分発の急行に乗り、10時08分、吉祥寺駅に到着。
いつもより1本遅い電車だったので、いつもの「ドトール」での休憩はなし。
10時半、産経学園(吉祥寺)で「史料でたどる奈良時代政治史 」の講義。
今回から「後宮の不幸と早良皇太子の怨霊出現」に入る。
まず、なぜ桓武朝において2度の遷都(長岡遷都・平安遷都)が行われたかについて、諸説を解説。
続いて、桓武天皇(737~806)の後宮の構成を説明。
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山部親王(桓武)は宝亀4年(773)に皇太子になった時、すでに36歳だったので、当時のライフサイクルからして結婚して子供がいても不思議ではないのに、まったく不明なこと。
これは桓武天皇の前半生の大きな謎(詳しい経歴不明)。
皇太子時代に入宮した女性。
◎ 藤原乙牟漏(760~790) 光仁朝の 内大臣藤原良継(式家)の女。生年については752年説が有力。
延暦2年(783)2月5日無位→正三位、同2月7日夫人、同4月18日皇后。
安殿親王(平城天皇)(774~824) 宝亀5年(774)生 ①
神野親王(嵯峨天皇)(786~842) 延暦5年(786) ④?
高志内親王(789~809) 延暦8年(789) 大伴親王(淳和天皇)妃(贈皇后)
◎ 酒人内親王(754~829) 光仁天皇の皇女、母は皇后井上内親王(聖武天皇の皇女)。
聖武天皇の外孫、山部皇太子にとっては異母妹。即位後、ほどなく妃。
朝原内親王(779~817) 第一皇女、伊勢斎宮、後に異母兄平城天皇の妃。
◎ 藤原吉子(?~807) 山部皇太子の春宮大夫、桓武朝前半期の右大臣藤原是公(南家)の女。
即位後、ほどなく夫人か。
伊予親王(?~807) ② 生年は宝亀11年(780)頃と推定
この他、女嬬の多治比豊継(?~?)に手を付けて、長岡岡成(?~848、延暦6年=787長岡朝臣賜姓)を生ませている。
延暦年間初期に入宮した女性
◎ 藤原旅子(759~788) 山部皇太子擁立の功臣で光仁朝の参議藤原百川(式家)の女。
延暦4年(785)11月24日無位→従三位、5年(786)1月17日夫人。
大伴親王(淳和天皇)(786~840) 延暦5年(786) ⑤?
◎ 多治比真宗(769~813) 桓武朝の参議多治比長野の女。 延暦16年(797)夫人
葛原親王(786-853) ③ 嵯峨天皇の兄、桓武平氏の祖。
佐味親王(793-825) ⑨
賀陽親王(794-871) ⑩
大野親王(798-803) ⑪
因幡内親王(?-824)
安濃内親王(?-841)
◎ 藤原小屎(?~?) 従五位上藤原鷲取(北家)の女、桓武朝初期の左大臣藤原魚名の孫。後に夫人(時期不詳)。
萬多親王(788~830) ⑥
この他、側近の藤原内麻呂(756~812)の妻(藤原真夏・冬嗣の母)で女嬬の百済永継(?~? 飛鳥部奈止麻呂の娘、)に手を付けて、良峯安世(785~840、延暦21年=802良峯朝臣賜姓)を生ませている。
(まとめ)
延暦2年4月時点の後宮は、皇后藤原乙牟漏、妃酒人内親王、夫人藤原吉子の構成か。
そして、延暦5年に藤原旅子が夫人に加わる。
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その後、『続日本紀』延暦7年(788)5月辛亥(4日)条夫人藤原旅子の薨去記事を読み、同12月乙未(28日)条の母(贈皇太后)高野新笠の崩御記事に入る。
12時、終了。
(続く)
2014-03-25 17:38
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