9月11日(水)『春日権現験記絵』を読む(1巻の第3段:普請場の様子) [お仕事(春日権現験記絵)]
9月11日(水)
絵巻に描かれた(鎌倉時代の)普請場の様子
鎌倉時代後期の延慶2年(1309)頃に描かれた絵巻物『春日権現験記絵』(絵師:高階隆兼)には、竹林殿を建てるための普請場の様子が詳細に描かれている。
また、同じ絵師によるという説が濃厚な『石山寺縁起絵巻』にも、石山寺を建立するための普請場が描かれている。
近江石山寺の創建は奈良時代中期の天平19年(747)とされるが、描かれている様子は鎌倉時代後期のものと考えてよいだろう。
以下、作業の場面ごとに、拡大図を掲載し、合わせて『春日権現験記絵』と『石山寺縁起絵巻』の画風を比較してみたい。
(1) 水準を出す・水糸を張る
↑ 『春日権現験記絵』
長くて浅い水槽は水準器。長さ3尺ほどか。
水面から長さ1尺ほどの竹ひご?を立てて、水糸を張っている。
水糸は2段に張っているようだ(右端)。
子供が曲物から柄杓で水を注いで手伝いをしている。
(2) 礎石を据える
↑ 『春日権現験記絵』
3人係りで礎石を据えて、丸太で突き固めている。
突き棒の先がささくれてめくれているのがリアル。
鋤は先端だけが鉄製、こうしたはめ込め式の鋤は弥生時代からある。
(3) 材に当たりをつける・墨縄を打つ
↑ 『春日権現験記絵』
下の2人はL字形の定規を使って丸太材の小口に竹筆で印をつけている。
右側の男は片目をつぶって、慎重に印をつける位置を決めている。
上では、墨壺から引き出した墨糸を持ち上げて、板材に打とうとしている。
こうした直線の引き方は、昭和40年代くらいまで、大工さんがやっていた。
少なくとも鎌倉時代後期から650年以上同じ技術が使われていたことになる。
ここでも、子供が墨糸の端を押さえて、手伝いをしている。
(4) 材を割る
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『春日権現験記絵』
この時代、丸太を(木の繊維に沿って)縦挽きして製材する鋸はまだ存在しないので、材を縦に分けるには、木槌で鑿(のみ)を線状に連続的に打ち込み割るしかなかった(石の割り方と基本的に同じ)。
その場合、鑿を頭を向うに刃先を手前に傾けて打ち込み、後ずさりしながら作業したようだ。
その方が、木槌の打撃の方向からして合理的だったと思われる。
『石山寺縁起絵巻』の2人と『春日権現験記絵』の左側の男は、後ずさり方式だが、『春日権現験記絵』の右側の男だけが前に進む方式で作業しているのは何故だろう。
ちなみに、下の絵のような縦引き鋸が出現するのは、室町時代になってから思われる。
↑ 葛飾北斎『富嶽三十六景。遠江山中』
(5) 手斧(ちょうな)で削る
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『春日権現験記絵』
割った材は凹凸がかなりあったが、この時代、まだ樫の台木に斜めに刃を差した台鉋は出現していないので、J字形の柄の先に横に刃を付けた手斧(ちょうな)で削って平にしていった。
作業法として、板を立てて削ったようである。
ちなみに、台鉋が出現するのは、室町時代である。
『石山寺縁起絵巻』で手斧作業の工人の近くに立っている藍色の衣の子供が左手に持っているドーナツ状の物に留意。
(6) 槍鉋ではつる
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『春日権現験記絵』
手斧だけでは十分にきれいな板材にならないので、さらに槍鉋ではつって調整していく。
槍鉋は、棒の先に少し角度をつけて槍状両刃をつけたもので、中国にはなく日本特有の工具らしい。
刃の長い部分を使って横に削ぐようにしたり、刃の先端を使って突くように削ったことが見て取れる。
こんな道具で平らになるのかと思うが、熟練した工人が丁寧な仕事をすると、かなりきれいな平面が得られるとのこと。
また、「(7)材を切断する」の『春日権現験記絵』(2つ下の図)では、切断した柱の小口を槍鉋で整えている。
(7) 材を切断する
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『春日権現験記絵』
材を(木の繊維にを断つように)横挽きする鋸は鎌倉時代後期にはすでに存在した。
上の『石山寺縁起絵巻』では、かなり大きな板材を切っている。
子供が材を押さえて手伝っている。
『春日権現験記絵』では整形された小さな材をさらに2つに切っている。
『石山寺縁起絵巻』で分かるように材の端には、材を筏に組んで運漕する際に便利なように穴が開けられていた。
この部分を木鼻(=木端=きばな)といい、不要なので切断する。
(8) 削りくずを片付ける
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『春日権現験記絵』
この作業場には、7人の子供がいる(大人は32人ほど)。
ちゃんと手伝っている子もいれば、遊んでいる子もいる。
遊び→手伝い→見習い労働という子供の労働参加の形態は、古代・中世社会では一般的なものだった。
(江戸時代になると、「奉公」という形での契約労働が増加する)
『石山寺縁起絵巻』の左側では、槍鉋の作業で出た削りくずを子供が集めている。
右側の子供はもっと大きな削りくずをたくさん集めている。
左側の子が「えっ、そんなに集めたの!」と驚いているように見える。
『春日権現験記絵』では、3人の子供たちが集めた木鼻や削りくずをまとめて紐で縛って運んでいる。
これは、単に作業場の片付けの手伝いをしているのではなく、こうした木鼻や削りくずが、おそらくは労賃が支払われないお手伝い子供たちの取り分になっていたのではないかと思われる。
廃材や削りくずは良い燃料になるので、市のようなところに運べば売れて、子供たちの小遣いにはなったはずだ。
そうした推測を助けるのが、(9)道具箱の図だ。
道具箱の脇で2人の子供が戯れているが、左側の子供の脇には削りくずや木鼻がある。
ここは作業の現場ではないから、子供たちが集めてきて確保(仮置き)しているのだろう。
道具箱の右側にあるドーナツ状の物は、(5)の『石山寺縁起絵巻』の絵でで手斧作業の藍色の衣の子供が左手に持っている物と同じではないだろうか。
その用途は確定できないが、おそらく頭上運搬の際に頭と物品の間に置く補助具ではないだろうか?
(9) 道具箱
↑ 『春日権現験記絵』
工人が工具を入れて運ぶ木製の道具箱である。
蓋の裏に3つの桟があり、中央の桟には鋸が挟めて固定できるようになっている。
蓋は紐で縛って固定したようだ。
こうした道具箱は、昭和40年代まで大工さんが使っていた。
(10) 飲食
↑ 『春日権現験記絵』
作業場の一角で飲食が行われれいる。
現実の普請場では、大勢の人が働いているのに、一部の人だけが飲食しているのは考えられない。
他の作業についても言えることだが、『春日権現験記絵』のこの場面は、ある時の作業場の状況を描いたのではなく、作業場におけるいろいろな作業をサンプル的に一画面に並べたもののように思う。
この部分、『続・日本の絵巻』(中央公論社)は、頁の喉に当たっていて画像が悪いので、『絵巻物による常民生活絵引』(平凡社)の参考図も掲げる。
2枚の長い板の上に1列3人合計6人の男たちが並んで飲食し、1人の女が給仕をしている。
男たちの前には四角い盆状の板(折敷)が置かれ、飯椀、汁椀、小皿が置かれている。
前列中央の男は、汁椀を捧げて、立っている人物(剥落で性別不詳)がもつ銚子から酒?を注いでもらっている。
次の順番の前列右端の男は、飲み残した汁を捨てて、酒?を注いでもらうのに備えている。
ただ、鼻を摘まんでいるのはなぜだろう。
後列左端の男は、汁椀を給仕係の女に差し出している。
給仕係の女は、そこに湯気を立てている曲げ物から柄杓で注いでいる。
注がれているのが汁なのか、単なる湯なのかわからない。
給仕係の女は、布を鉢巻状にして髪が下がらないようにし、褶(しゅう)と呼ばれる短い前掛けをして横座りいしてる。
女の背後には、長方形の大きな櫃が2つあり、飲食物はこれに入れて運ばれてきたと思われる。
また、縄で作った台座の上に大きな甕が据えられ、口に巻いた縄で柱に縛り付けられ、しっかり固定されている。
中身は酒か水かわからない。常設されているのだとしたら水瓶だと思われる。
小屋の外、左手からは、鉢をもった乞食(こつじき)の坊主が施しを求めて近づいて来ている。
絵巻に描かれた(鎌倉時代の)普請場の様子
鎌倉時代後期の延慶2年(1309)頃に描かれた絵巻物『春日権現験記絵』(絵師:高階隆兼)には、竹林殿を建てるための普請場の様子が詳細に描かれている。
また、同じ絵師によるという説が濃厚な『石山寺縁起絵巻』にも、石山寺を建立するための普請場が描かれている。
近江石山寺の創建は奈良時代中期の天平19年(747)とされるが、描かれている様子は鎌倉時代後期のものと考えてよいだろう。
以下、作業の場面ごとに、拡大図を掲載し、合わせて『春日権現験記絵』と『石山寺縁起絵巻』の画風を比較してみたい。
(1) 水準を出す・水糸を張る
↑ 『春日権現験記絵』
長くて浅い水槽は水準器。長さ3尺ほどか。
水面から長さ1尺ほどの竹ひご?を立てて、水糸を張っている。
水糸は2段に張っているようだ(右端)。
子供が曲物から柄杓で水を注いで手伝いをしている。
(2) 礎石を据える
↑ 『春日権現験記絵』
3人係りで礎石を据えて、丸太で突き固めている。
突き棒の先がささくれてめくれているのがリアル。
鋤は先端だけが鉄製、こうしたはめ込め式の鋤は弥生時代からある。
(3) 材に当たりをつける・墨縄を打つ
↑ 『春日権現験記絵』
下の2人はL字形の定規を使って丸太材の小口に竹筆で印をつけている。
右側の男は片目をつぶって、慎重に印をつける位置を決めている。
上では、墨壺から引き出した墨糸を持ち上げて、板材に打とうとしている。
こうした直線の引き方は、昭和40年代くらいまで、大工さんがやっていた。
少なくとも鎌倉時代後期から650年以上同じ技術が使われていたことになる。
ここでも、子供が墨糸の端を押さえて、手伝いをしている。
(4) 材を割る
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『春日権現験記絵』
この時代、丸太を(木の繊維に沿って)縦挽きして製材する鋸はまだ存在しないので、材を縦に分けるには、木槌で鑿(のみ)を線状に連続的に打ち込み割るしかなかった(石の割り方と基本的に同じ)。
その場合、鑿を頭を向うに刃先を手前に傾けて打ち込み、後ずさりしながら作業したようだ。
その方が、木槌の打撃の方向からして合理的だったと思われる。
『石山寺縁起絵巻』の2人と『春日権現験記絵』の左側の男は、後ずさり方式だが、『春日権現験記絵』の右側の男だけが前に進む方式で作業しているのは何故だろう。
ちなみに、下の絵のような縦引き鋸が出現するのは、室町時代になってから思われる。
↑ 葛飾北斎『富嶽三十六景。遠江山中』
(5) 手斧(ちょうな)で削る
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『春日権現験記絵』
割った材は凹凸がかなりあったが、この時代、まだ樫の台木に斜めに刃を差した台鉋は出現していないので、J字形の柄の先に横に刃を付けた手斧(ちょうな)で削って平にしていった。
作業法として、板を立てて削ったようである。
ちなみに、台鉋が出現するのは、室町時代である。
『石山寺縁起絵巻』で手斧作業の工人の近くに立っている藍色の衣の子供が左手に持っているドーナツ状の物に留意。
(6) 槍鉋ではつる
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『春日権現験記絵』
手斧だけでは十分にきれいな板材にならないので、さらに槍鉋ではつって調整していく。
槍鉋は、棒の先に少し角度をつけて槍状両刃をつけたもので、中国にはなく日本特有の工具らしい。
刃の長い部分を使って横に削ぐようにしたり、刃の先端を使って突くように削ったことが見て取れる。
こんな道具で平らになるのかと思うが、熟練した工人が丁寧な仕事をすると、かなりきれいな平面が得られるとのこと。
また、「(7)材を切断する」の『春日権現験記絵』(2つ下の図)では、切断した柱の小口を槍鉋で整えている。
(7) 材を切断する
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『春日権現験記絵』
材を(木の繊維にを断つように)横挽きする鋸は鎌倉時代後期にはすでに存在した。
上の『石山寺縁起絵巻』では、かなり大きな板材を切っている。
子供が材を押さえて手伝っている。
『春日権現験記絵』では整形された小さな材をさらに2つに切っている。
『石山寺縁起絵巻』で分かるように材の端には、材を筏に組んで運漕する際に便利なように穴が開けられていた。
この部分を木鼻(=木端=きばな)といい、不要なので切断する。
(8) 削りくずを片付ける
↑ 『石山寺縁起絵巻』
↑ 『春日権現験記絵』
この作業場には、7人の子供がいる(大人は32人ほど)。
ちゃんと手伝っている子もいれば、遊んでいる子もいる。
遊び→手伝い→見習い労働という子供の労働参加の形態は、古代・中世社会では一般的なものだった。
(江戸時代になると、「奉公」という形での契約労働が増加する)
『石山寺縁起絵巻』の左側では、槍鉋の作業で出た削りくずを子供が集めている。
右側の子供はもっと大きな削りくずをたくさん集めている。
左側の子が「えっ、そんなに集めたの!」と驚いているように見える。
『春日権現験記絵』では、3人の子供たちが集めた木鼻や削りくずをまとめて紐で縛って運んでいる。
これは、単に作業場の片付けの手伝いをしているのではなく、こうした木鼻や削りくずが、おそらくは労賃が支払われないお手伝い子供たちの取り分になっていたのではないかと思われる。
廃材や削りくずは良い燃料になるので、市のようなところに運べば売れて、子供たちの小遣いにはなったはずだ。
そうした推測を助けるのが、(9)道具箱の図だ。
道具箱の脇で2人の子供が戯れているが、左側の子供の脇には削りくずや木鼻がある。
ここは作業の現場ではないから、子供たちが集めてきて確保(仮置き)しているのだろう。
道具箱の右側にあるドーナツ状の物は、(5)の『石山寺縁起絵巻』の絵でで手斧作業の藍色の衣の子供が左手に持っている物と同じではないだろうか。
その用途は確定できないが、おそらく頭上運搬の際に頭と物品の間に置く補助具ではないだろうか?
(9) 道具箱
↑ 『春日権現験記絵』
工人が工具を入れて運ぶ木製の道具箱である。
蓋の裏に3つの桟があり、中央の桟には鋸が挟めて固定できるようになっている。
蓋は紐で縛って固定したようだ。
こうした道具箱は、昭和40年代まで大工さんが使っていた。
(10) 飲食
↑ 『春日権現験記絵』
作業場の一角で飲食が行われれいる。
現実の普請場では、大勢の人が働いているのに、一部の人だけが飲食しているのは考えられない。
他の作業についても言えることだが、『春日権現験記絵』のこの場面は、ある時の作業場の状況を描いたのではなく、作業場におけるいろいろな作業をサンプル的に一画面に並べたもののように思う。
この部分、『続・日本の絵巻』(中央公論社)は、頁の喉に当たっていて画像が悪いので、『絵巻物による常民生活絵引』(平凡社)の参考図も掲げる。
2枚の長い板の上に1列3人合計6人の男たちが並んで飲食し、1人の女が給仕をしている。
男たちの前には四角い盆状の板(折敷)が置かれ、飯椀、汁椀、小皿が置かれている。
前列中央の男は、汁椀を捧げて、立っている人物(剥落で性別不詳)がもつ銚子から酒?を注いでもらっている。
次の順番の前列右端の男は、飲み残した汁を捨てて、酒?を注いでもらうのに備えている。
ただ、鼻を摘まんでいるのはなぜだろう。
後列左端の男は、汁椀を給仕係の女に差し出している。
給仕係の女は、そこに湯気を立てている曲げ物から柄杓で注いでいる。
注がれているのが汁なのか、単なる湯なのかわからない。
給仕係の女は、布を鉢巻状にして髪が下がらないようにし、褶(しゅう)と呼ばれる短い前掛けをして横座りいしてる。
女の背後には、長方形の大きな櫃が2つあり、飲食物はこれに入れて運ばれてきたと思われる。
また、縄で作った台座の上に大きな甕が据えられ、口に巻いた縄で柱に縛り付けられ、しっかり固定されている。
中身は酒か水かわからない。常設されているのだとしたら水瓶だと思われる。
小屋の外、左手からは、鉢をもった乞食(こつじき)の坊主が施しを求めて近づいて来ている。
2013-09-12 11:30
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移動にともないいただいたコメントを転記しました。
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藍色の簡易な衣装を着た稚児風?の人物が気になります。
by カナッペ (2013-09-10 18:58)
三橋順子
カナッペさん、いらっしゃいま~せ。
稚児ではなく、ただの子供です。
この時代、子供のお手伝い→見習い労働はごく普通に見られます。
稚児だともっと髪を伸ばしています。
擬似「女の子」なので・・・。
by 三橋順子 (2013-09-10 19:22)
by 三橋順子 (2013-09-12 11:31)