9月17日(土)「前衛パフォーマンスの古典」 [現代の性(同性愛・L/G/B/T)]
9月17日(土)
13時40分、渋谷の松濤美術館へ。
「パフォーマンス記録映像 ダムタイプ《S/N》」(1994年)の 特別上映を観る。
古橋悌二さんのドラァグ・クイーン姿をたっぷり観られたので満足。
ただし、全体的な感想としては、「前衛パフォーマンスの古典」という感じで、28年後に観るのはかなり辛いものがある。
まず第一に、時代基調が違いすぎる。
同性愛への社会的理解も違うが、それ以上にHIV感染症・AIDSへの認識が違いすぎる。
1994年当時はAIDSはまぎれもなく死病だった。
実際、作品の中でHIV感染者であることを語っている古橋は、翌1995年、AIDSによる敗血症で亡くなっている(35歳)。
そこらへんの深刻さは、現代の観客には伝わらないだろう。
第二に、撮影・画像技術の違い。
1994年にはパソコンはあったものの、画像を十分に処理できる段階には至っていない。
短周期で明滅を繰り返すストロボ光を多用した撮影、目の粗い画面に大きな文字が表示されるモニター。
同時代を生きてきた私は、懐かしさを感じるが、現代の若い人たちには20世紀レトロそのものだろう。
第三に、凝縮度の感覚の違い。
全編1時間20分ほどだが、現代の感覚からすると、反復が多すぎて冗長に感じられる。
3分の2くらいの長さで、十分ではないだろうか。
上映終了後。満員の観客からの拍手が今一つ少なかったのは、それらが原因かもしれない。
古橋悌二より5歳年長の私としては、「1994年には、間違いなく、これが前衛(最先端)だったのですよ」と強調したいが、それもやはり虚しい。
上映後、パフォーマーとして出演していたブブ・ド・ラ・マドレーヌさんが、挨拶と簡単な解説をしてくださった。
ブブさんの笑顔が28年前と変わらないのが救いだった。
帰り道、ふと、古橋悌二さんがご存命だったら、今回の松濤美術館の企画展で、お会いできたかもしれないな、と思う。
才能のある方は早く逝き、鈍才(私)は生き残る。
世の常とはいえ、哀しいな。
13時40分、渋谷の松濤美術館へ。
「パフォーマンス記録映像 ダムタイプ《S/N》」(1994年)の 特別上映を観る。
古橋悌二さんのドラァグ・クイーン姿をたっぷり観られたので満足。
ただし、全体的な感想としては、「前衛パフォーマンスの古典」という感じで、28年後に観るのはかなり辛いものがある。
まず第一に、時代基調が違いすぎる。
同性愛への社会的理解も違うが、それ以上にHIV感染症・AIDSへの認識が違いすぎる。
1994年当時はAIDSはまぎれもなく死病だった。
実際、作品の中でHIV感染者であることを語っている古橋は、翌1995年、AIDSによる敗血症で亡くなっている(35歳)。
そこらへんの深刻さは、現代の観客には伝わらないだろう。
第二に、撮影・画像技術の違い。
1994年にはパソコンはあったものの、画像を十分に処理できる段階には至っていない。
短周期で明滅を繰り返すストロボ光を多用した撮影、目の粗い画面に大きな文字が表示されるモニター。
同時代を生きてきた私は、懐かしさを感じるが、現代の若い人たちには20世紀レトロそのものだろう。
第三に、凝縮度の感覚の違い。
全編1時間20分ほどだが、現代の感覚からすると、反復が多すぎて冗長に感じられる。
3分の2くらいの長さで、十分ではないだろうか。
上映終了後。満員の観客からの拍手が今一つ少なかったのは、それらが原因かもしれない。
古橋悌二より5歳年長の私としては、「1994年には、間違いなく、これが前衛(最先端)だったのですよ」と強調したいが、それもやはり虚しい。
上映後、パフォーマーとして出演していたブブ・ド・ラ・マドレーヌさんが、挨拶と簡単な解説をしてくださった。
ブブさんの笑顔が28年前と変わらないのが救いだった。
帰り道、ふと、古橋悌二さんがご存命だったら、今回の松濤美術館の企画展で、お会いできたかもしれないな、と思う。
才能のある方は早く逝き、鈍才(私)は生き残る。
世の常とはいえ、哀しいな。
2022-09-18 00:00
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