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浜松町のビル建設現場、さらに大量の人骨出土 [世相]

5月27日(水)
今月8日、東京港区・浜松町駅近くのビル工事現場で人骨が出土したことは、以前にも取り上げたが、その後も大量の人骨が続々と出土している。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-05-08-6
まさに『江戸の町は骨だらけ』(鈴木理生著)である。
現場は、西江原藩(岡山県)2万石(後に赤穂藩2万石)の森家(織田信長の小姓で本能寺で討死した森蘭丸の末弟の家系)の屋敷があった場所だが、今回出土した骨は、武家屋敷の土層より深いところから出ているので、森家の敷地になる以前のもの。
江戸切絵図・芝愛宕 (2).jpg
↑ 赤丸のあたりが現場。海沿いで住宅地としてはあまり条件が良くない土地だったことがわかる。

どうやら1600年代初頭、権現様(徳川家康)が江戸に幕府を開いて間もない頃の墓地を当ててしまったようだ。
ビル建設会社にとっては災難だったが、発見された人骨や副葬品は、この時期の江戸の住民の葬送儀礼や形質人類学研究にとって、良い資料になるだろう。

面白いのは「警視庁科学捜査研究所も、事件性の有無を慎重に調べるため、人骨の鑑定を進めている」と記されていること。
刃傷の痕跡とかを調べるのだろうか?
出土した頭蓋骨に刀傷があった場合、殺人事件として捜査するのだろうか?

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都心の建設現場から大量人骨、木棺も…元墓地か
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人骨などが見つかった建設現場。丸く見えるのが木棺(東京都港区提供)

東京都港区内のオフィス街の一角にある建設現場で今月初め、大量の人骨が見つかった。

当初は、事件の可能性もあるとみて警察が出動する騒ぎとなったが、その後も、人骨、動物の骨が次々と発掘され、100基以上の木棺や副葬品も出土した。掘り出された地層の深さから江戸初期以前に埋められた可能性が高いが、詳しい資料はなく、同区教育委員会は、出土品の鑑定を進めている。

 ◆鑑識も急行
今月8日午前9時半頃、港区のJR浜松町駅に近いホテル建設現場で、ショベルカーを操作していた作業員が、土中に黒ずんだ骨があるのを見つけ、「人骨のようなものが出てきた」と110番した。

現場には、地元の愛宕署員だけでなく、殺人事件などで臨場する警視庁鑑識課員も急行。周辺は一時、騒然となった。

この日、出てきたのは2人分の人間の頭蓋骨と人骨や動物の骨など292本。現場一帯は、江戸時代、赤穂藩(兵庫県)の浅野家が江戸城での刃傷にんじょう事件でお家取りつぶしになった後、西江原藩(岡山県)から赤穂藩の藩主となった森家の屋敷があった場所。見つかった骨は当初、森家と関係があるとみられていた。

 ◆墓地の記録なし
しかし、その後も出土は続いた。これまでに見つかった木棺や墓穴は100基以上。円形や方形の木棺は高さ約35~70センチ、幅や直径約35~50センチの大きさで、中には人骨のほか、「三途さんずの川の渡し賃」として使われる「六道銭」や漆のおわんなどが入っていた。木棺の周辺からは陶器のかけらも見つかっており、区教委は「死者を弔う際の副葬品」とみる。

木棺が見つかったのは、深さ約2~3メートルの地層で、森家の屋敷があった地層より深い。区教委は、「森家の屋敷が建つ以前は墓地だった」との見方を強めている。

ただ、現段階で、現場周辺が墓地だという記録はなく、寺があった痕跡も見つかっていない。

1632年頃に刊行された「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永江戸図)で現場一帯は将軍がタカ狩りをする「御お鷹たか場」とされ、1779年頃に刊行された「安永手書江戸大絵図」には森家の屋敷と書かれていた。

 ◆30年前にも
現場周辺では、約30年前にも木棺が大量に発見されている。

現場から西へ約400メートル離れた港区役所周辺は、かつて、徳川家の菩提ぼだい寺、増上寺の境内で、本庁舎の建て替え工事に伴って行われた1984、85年の調査で本庁舎や議会棟の建設現場から計約440基の木棺が見つかった。

区教委は、今回の出土で新たな歴史的事実が判明する可能性もあるとみて、木棺に入っていた副葬品を中心に洗浄や整理を進める方針だ。警視庁科学捜査研究所も、事件性の有無を慎重に調べるため、人骨の鑑定を進めている。

区役所の建て替え工事の調査にも携わった高山優主査は「地図にも残っていない江戸初期以前の時代背景がわかるかもしれない」と話している。(矢野誠、木村雄二)

『読売新聞』2015年05月27日 15時36分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150527-OYT1T50093.html
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コメント 4

スクルー

姐さんコンバンワ。
江戸時代の墓ですか。昔は今と違って治安が悪かったみたいですね。江戸の町人の死因の2割は他殺だったという説を読んだことがあります。殺人嗜癖の浪人も多く、一年間に200人以上を斬殺する浪人もいたとか。
鬼平の急ぎ働きじゃないですけど、押し込み強盗でも一家が鏖殺されたケースは、少ないくないそうです。
奉行所も、下手人が見つからず、でっち上げた者を死罪や島送りにしてお茶を濁し、その所為で狡猾な本物は犯罪を続けられたそうです。
テレビで見るように、最後は侍に斬られて終わりなんて例は、ほとんどなかったんでしょうね。
by スクルー (2015-05-28 22:14) 

三橋順子

スクルーさん、いらっしゃいま〜せ。
江戸の治安については、「抜群に良かった」と持ち上げる人と、「かなり悪かった」と下げる人がいますが、どちらも極端で首を傾げます、
そもそも、何と比較して良い悪いなのか?
同時期の欧米と比較してなのか? あるいは日本の前後の時代と比較してなのか?

欧米はともかく、日本の前後の時期と比べると、中世(鎌倉〜戦国時代)よりははるかに良いでしょう。
明治期と比べると、大差ないか、少し悪いくらいではないでしょうか。
少なくとも、そんなにひどく悪いということはないです。

それと、同じ江戸でも、戦国の気風が残る初期(寛永年間まで、〜1643)と、世情が安定した文化・文政期(1804〜29)とはぜんぜん違います。
中・後期になると、資料もかなり残っているので、おおよその状況はわかるのですが、押し込み強盗で一家惨殺とか、まずないです。
辻斬りも同様で、刀を抜いて人を斬れる度胸と技術もったを武士はもう少ないです。
それは、幕末の動乱期に、旗本・御家人が武力として役にたたなかったことからもわかります。
農民出身など非武士層出身者が多かった新撰組が実際の斬りあいで強かったのも、逆に言えば、本来の武士が弱体化していたからです。
ただ、犯罪捜査の技術は、科学捜査で補強された現在とは比べものにならないくらい低レベルですから、迷宮入りや冤罪も多かったと思います。

by 三橋順子 (2015-05-29 04:14) 

真樹猫ちゃん

この江戸の人骨は怪しい回船問屋が始末した者ではないにょで
せうか。

・・・しかし、この程度の人骨で騒ぐようでは、鎌倉を掘ったり
したら大変ですにゃ・・・。古くは和田合戦、宝治合戦、最大の
激戦はあの元弘三年の賊徒による鎌倉陥落ですにゃ。
その後も鎌倉府の攻防や海を渡って里見氏が攻め込んだり、
幾度も戦場になりみゃした。

この江戸の人骨は怪しい回船問屋が
始末した者ではないにょでせうか。

by 真樹猫ちゃん (2015-05-29 19:42) 

三橋順子

真樹大姉さま、いらっしゃいま~せ。

鎌倉陥落の後、執権殿に味方して討ち死にした骸の額に「阿弥陀」の「阿」の字を書いて供養すべきところ、「祢古」の「祢」の字を書いてしまった尼は、たしか大姉様でしたね。
by 三橋順子 (2015-05-30 09:41) 

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