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大正3年(1914)新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書から [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)]

5月3日(日・祝)

先月、新たに入手した大正3年(1914)の新吉原遊廓の「花魁道中」絵葉書10枚の内から紹介。

大正3年4月に新吉原遊廓で行われた「花魁道中」は、明治44年(1911)4月の「吉原大火」で灰燼に帰した新吉原遊廓が復興を世間に印象づけるために企画された一大イベント。
同年の大正天皇御大典(即位礼)を記念する「東京大正博覧会」(大正3年3月20日開会:東京府主催、主会場:上野公園)に合わせて、明治中期に途切れていた「花魁道中」を復活し、多くの見物人を集めた。
(参照)2015年2月11日「大正復興「新吉原遊廓・花魁道中」絵葉書14枚を落札」
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2015-02-12-2

新吉原のメインストリート「仲の町通り」を「道中」する花魁は、当時の新吉原のビッグ3、角海老楼(京町一丁目)、稲本楼(角町)、大文字楼(江戸町一丁目)が出した。
その人数は、現在、私が確認しているところでは、3楼合わせて21人に及び、かなり大規模なイベントだったことが明らかになってきた。

今回、入手した10枚の内、偶然にも4枚が稲本楼の若妙花魁の写真だった。
今までは道中姿の1枚を所蔵していただけだったので、一気に増えて5枚になった。

新吉原花魁道中(稲本楼・若妙)4(2).jpg
↑ 禿2人を従えた正面写真。
撮影場所は、おそらく稲本楼の庭だろう。
新吉原花魁道中(稲本楼・若妙)3(2).jpg
↑ 同じく斜めの角度から。
新吉原花魁道中(稲本楼・若妙)5(2).jpg
↑ 七分身のアップ。
若妙花魁、当時としてはやや面長だったと思われるが、はっきりした目鼻立ちで、現代でも十分に美人で通用すると思う。
新吉原花魁道中(稲本楼・若妙)1(2).jpg
↑ 花魁道中の様子。
新吉原花魁道中(稲本楼・若妙)2(2).jpg
↑ 道中姿を真後ろから撮影したもので、珍しい。
立兵庫の髪型の後ろがどうなっているかが分かる資料。

こちらは、大文字楼の紫君(しくん)花魁。
紫君花魁は、今まで収蔵がなく、今回、入手できて、「道中」をしたことが確認できる花魁が1人増えた。
大文字楼の楼主の息子で『大正・吉原私記』(青蛙房、1978年)の著者、波木井皓三氏(1904~1992)が幼い日、乳母代わりに可愛がってもらった女性。
新吉原花魁道中(大文字楼・紫君)(2).jpg
↑ 正面写真。やや下膨れの顔だちで、目もやや細め。
名門・大文字楼の「お職」(売上トップ)を張ったのだから、日本の伝統的な美人なのだろうが、現代ではどう評価されるだろうか。
大文字楼・紫君(大正・吉原私記).JPG
↑ 波木井皓三『大正・吉原私記』より

新吉原花魁道中(大文字楼・紫君)2.jpg
↑ 大文字楼・紫君の後姿(落札できなかった)

こちらは、咲き誇る桜並木を進む花魁道中を、かなり高い所(仲の町通り沿いの建物の2階?)からの俯瞰でとらえた写真。
新吉原花魁道中(大文字楼?・不詳)(2).jpg
見物の大群衆、それを整理する仕事師(鳶職)など「花魁道中」イベントの全景がわかり、興味深い。
絵葉書には、どこ楼のなに花魁かの注記はない。
新吉原花魁道中(大文字楼?・不詳)(3).jpg
しかし、画像を拡大すると、花魁に伴う禿の髪飾り(白く山形に見える)が大文字楼の禿であることがわかる(紫君花魁の正面写真の左側の禿)。
また、月代頭の男がいるが、これは大文字楼の「道中」だけにいる客役の人。
つまり、この花魁は大文字楼の誰かということ。

この大正3年(1914)新吉原遊廓「花魁道中」については、すでに2月の「性欲研究会」で「新吉原・大正復興『花魁道中』(序説)―写真資料の収集から―」と題して報告しているが、新収蔵の絵葉書や文献資料を増補して、いずれ研究論文にまとめるつもり。


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