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9月26日(土)泉屋博古館 分館 特別展「きものモダニズム」 [着物]

9月26日(土)  曇り  東京  24.4度  湿度77%(15時)

今日から始まった「泉屋博古館 分館」(六本木アークヒルズ)の特別展「きものモダニズム」へ。
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長野県の「須坂クラッシック美術館」収蔵の銘仙100点を前後期に分けて展示。
同館の名品がずらりと並び、展示室はとても華やか。
同美術館の外谷育美学芸員の解説をうかがった後、ご挨拶して少しだけお話。
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↑ 前期展示の白地孔雀羽模様銘仙(昭和初期・伊勢崎・併用絣)

大衆衣料だった銘仙が、東京都心の美術館で大規模に展示されるのは初めてのことで、まさに画期的。
「銘仙の里」に生まれ育った銘仙好きとしては、やっとこういう時代になったのだ、と感慨深かった。

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↑ 着物は黒地に深緑の大矢羽模様の伊勢崎銘仙。
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↑ こっちの方が、矢羽の大きさがわかるかな。

【論文】『着物趣味』の成立(現代風俗学研究』15号 2014年3月) [着物]

8月11日(火)
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一般社団法人現代風俗研究会・東京の会の研究誌『現代風俗学研究』15号「趣味の風俗」(2014年3月 ISSN2188-482X)に掲載した論文「『着物趣味』の成立」のカラー画像入り全文をアップしました。
http://zoku-tasogare-2.blog.so-net.ne.jp/2015-08-11

日常衣料だった「着物」が非日常化し、さらに「趣味化」していく過程を、和装文化の展開を踏まえて、まとめてみた論文です。
欲張った内容なので不十分な点は多々あるとおもいますが、自分が考える和装文化の衰退と「着物趣味」の成立の流れを、まとめることができたと思っています。

ご興味がお有りの方に読んでいただけたら、うれしいです。

お端折り済の浴衣 [着物]

8月4日(火)
帰宅した家猫さんが、溝の口の「丸井」で「おはしょり(お端折り)がもう出来上がっている浴衣を見たにゃ」と言う。
「それは子供の浴衣じゃないの?」と尋ねると、
「違うにゃ、大人の人が着ていたにゃ」と言う。
調べてみたら、あった。
http://www.kimonomachi.co.jp/fs/kimonomachi/037117
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↑ 腰ひもがお端折りの上にきている。
普通の着付けでは、腰ひもはお端折りの下に隠れる。

「おはしょり加工」とか、「かろやか仕立て」とか、なぜか「鎌倉仕立て」と言うらしい。

女物の着物の「お端折り」は、もともとは長く引きずる裾を歩きやすくするために、たくし上げて腰紐で止めたものだ。
裾を引かない着方が一般化してからは、直線裁ちの着物を曲線的な女性の身体に着付ける際の調整部分であり、着崩れを直す工夫のひとつとしての機能をもっている。
それを最初から縫い付けて固定してしまったら、そうした機能が働かず、早い話、着崩れやすくなる。

でも、着物=前開きのロングワンピースという洋装感覚の人にとっては、お端折りは、まったく余分な邪魔なものだろう。
なんだか嘆息がでてしまった。

デザイン史学研究会第13回シンポジウム報告「和装のモダンガールはいなかったのか?―モダン・ファッションとしての銘仙―」 [着物]

7月11日(土)

デザイン史学研究会第13回シンポジウム
      「スーツと着物―日本のモダン・ファッション再考」
                        2015年7月11日:京都女子大学

 和装のモダンガールはいなかったのか?
    ―モダン・ファッションとしての銘仙―

     三橋 順子(明治大学非常勤講師:着物文化論・性社会文化史)

1 「和装のモダンガールはいなかったのですか?」

2004年9月、東京「ウィメンズプラザ」で開催された「シンポジウム アジアのモダンガール」に出席したとき、「和装のモダンガールはいなかったのですか?」と質問した。
その瞬間、会場の温度が3度くらい下がったような気がした。
報告者からは「いる」とも「いない」とも返答はなかった(ほとんど無視)。
私は、そんなにとんでもないことを言ってしまったのだろうか?
そんな質問をしたのは、次の写真が頭にあったからだ。
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 昭和7年(1932)の東京銀座4丁目交差点
(石川光陽『昭和の東京 ―あのころの街と風俗―』朝日新聞社、1987年)
「帝都東京」のもっとも華やいだ時代、老若男女、和装・洋装の人たちが行き交う。
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注目してほしいのは、洋装と銘仙の振袖の仲の良さそうな二人連れの若い女性。
右側の洋装の女性はモダンガールで、左側の銘仙の振袖の女性は「旧弊な」あるいは「伝統的な」女性なのだろうか?
私にはそうは思えない。
2人とも昭和7年の東京銀座を闊歩する近代的(モダン)な女性だと思う。

2 昭和戦前期(1926~1936)の着物
・ モダンガールの洋装に目を奪われがちだが、大衆絹織物(銘仙・お召)の大流行期であり、日本の和装文化の全盛期。
・ 大正14年(1925)の東京銀座には、洋装の女性は1%しかいなかった。
・ その後、徐々に増えたかもしれないが、和装が圧倒的に主流。
・ 和装の女性の内訳は、銘仙が50.5%と半数を占め圧倒的、お召、錦紗など先染の織物を合わせると、68.6%と3分の2を超える。
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(今和次郎「東京銀座街風俗記録」『婦人公論』1925年7月号)

・ 少なくとも、昭和12年(1937)以前を「モノクロームの昭和」とイメージするのは間違いで、「多彩・多色の昭和」とイメージすべき。
・ 「多彩・多色の昭和」を演出したのが銘仙。
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3 銘仙とは
(1)先染・平織の絹織物
・ 糸の段階で染めた(先染)絹糸を経糸と緯糸の直交組織(平織)で織り上げた絹織物
・ 江戸時代には「目千」「太織(ふとり)」などと表記
・ 玉繭などから取った節糸を天然染料で染めた堅牢な自家生産品
・ 養蚕地帯(生糸産地)である北関東の風土から生まれた織物
   明治21年(1888)、「伊勢崎太織」→「伊勢崎銘仙」
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(2)最初の大衆向け絹織物製品
・ 明治末期~大正時代前期(1910年代)に、工場生産化
・ 人工染料で経糸に着色、絹紡糸を緯糸に使い、力織機で織りあげる
・ 大幅な省力化によるコストダウン、工場による大量生産・大量流通
・ それまで経済的に絹織物を着られなかった(木綿を着ていた)階層にも普及

(3)銘仙の種類
① 縞銘仙  ② 絣(かすり)銘仙  ③ 模様銘仙(解し織り)

(4)大流行の6つの要素
① 人工染料  ② 力織機  ③ 新技術  ④ 新柄  ⑤ 流行の演出  ⑥ 新たな着用層

① 人工(化学)染料
・ 染色効率の飛躍的向上
・ 多彩で鮮やかな(強い)色味
② 力織機
・ 工場生産 → 生産効率の大幅な向上
・ 大量生産品 → コストの低下
③ 新技術「解し織り(ほぐしおり)」
・ 明治42年(1909)、伊勢崎で「解し織り」技法開発
・ 「解し織り」 ---- 経糸をざっくりと仮織りしてから型染め捺染し、
織機にかけて、仮糸を解しながら、緯糸を入れる
・ 「解し織り」の導入により、多彩な色柄を細かく織り出すことが可能に
④ 新柄 華麗・豊富な色柄
・ 伝統的意匠のリニューアル
・ ヨーロッパ美術界の先端的デザイン(アール・ヌーボー、アール・デコ)の導入
秩父でも、上野の美術学校(現:東京芸術大学)の卒業生・学生などに基本デザインを依頼 
・ 最新デザインを直交組織の織物で表現する職人技

伝統的意匠のリニューアル          
銘仙30-1 (2).jpg銘仙1-1 (2).jpg
(左)麻の葉 (右)折鶴

アール・ヌーボー系の銘仙
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(左)チューリップ (右)薔薇と円紋
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 芥子と蝶

アール・デコ系の銘仙
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 赤地にリボン
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 赤・黒・白の稲妻
銘仙41-1(復刻足利・松葉)1 (2).jpg銘仙40-1 (2).jpg
 (左)松葉  (右)ドッドを切り裂く赤

⑤ 流行の演出
・ 大正末期~昭和初期、デパートが 都市大衆消費文化の目玉商品として、産地と提携した展示会などで「流行」を積極的に演出
 [銀座] 松坂屋(1924) 松屋(1925)  三越(1930)
 [新宿] 三越(1929) 伊勢丹(1933)
「色は濃めに 柄は横段、格子風 生地も変化ある新物 夏物の流行」
  (『読売新聞』1928年5月4日 朝刊 婦人欄)
「新流行の夏銘仙は モダンも純日本風もだめ 平凡でづぬけた柄」
  (『読売新聞』1929年5月21日 朝刊 婦人欄)
「この秋・流行の王座を飾るもの 銘仙オンパレード?模様は平面から立体へ 色は渋好みになりました」
  (『読売新聞』1931年9月16日 朝刊 婦人欄)

⑥ 新たな着用層  都市中産階層の成長
・ (都市中産階層なら)1シーズン1着が可能な値段
   昭和8年(1933)秩父産の「模様銘仙 5円80銭~6円50銭」
   当時の6円は、現代の21000~24000円ほど

4 ふたたび問う「和装のモダンガールはいなかったのか」
・ モダンガールと同じ時期に、銘仙を着た娘たちがいた。
・ 銘仙は、明治期までの着物とは、デザイン的にも、販売戦略的にもまったく異なる「モダン着物」(化学染料+力織機+新柄+流行演出)だった。
・ 人数的には、「モダンガール」より銘仙を着た「モダン着物娘」の方が圧倒的多数だった。
・ 化学染料、力織機を用いた大量生産によるコストダウン、流行の演出による大量販売という方式は、現代のファッション販売戦略の先駆けであり、源流である。
・ 「モダン着物(銘仙)」と 「モダン着物娘」の存在を無視して日本近代デザイン史・ファッション史を語るのはまったくの誤り。
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和装のモダンガール?(撮影:堀野正雄 1933年)

日本近代ファッション史の誤ったイメージ
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和装、洋装の2つの流れが接続され、和装が洋装にとって代わられたイメージが作り出される。
その結果、洋装化以降の和装の歴史が抹殺される。

日本近代ファッション史の実際
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和装、洋装の2つの流れが併存して、相互に影響していたのが実際。
「モダン着物娘」と「モダンガール」は同時併存。

【参考文献】
岡信孝コレクション『華やかな美―大正の着物モード―』(須坂クラシック美術館、1996年)
別冊太陽『銘仙 ―大正・昭和のおしゃれ着―』(平凡社、2004年)
日本きもの文化美術館『ハイカラさんのおしゃれじょうず ―銘仙きもの 多彩な世界―』  
(日本きもの文化美術館、2010年)
三橋順子「艶やかなる銘仙」
(『KIMONO道』2号、祥伝社、2002年。後に『KIMONO姫』2号、2003年、祥伝社、に拡大再掲)
三橋順子「銘仙とその時代」
(『ハイカラさんのおしゃれじょうず ―銘仙きもの 多彩な世界―』日本きもの文化美術館、2010年)
三橋順子「『着物趣味』の成立」(『現代風俗学研究』15号 現代風俗研究会 東京の会 2014年)
三橋順子「『原色の街』の原色の女」(『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社 2015年)

【着装モデル&コレクション提供】 YUKO、にしやん、sakura

ボストン美術館の和服試着イベント、「人種差別だ」と抗議され中止に [着物]

7月10日(金)

なぜ「和服の試着イベント」が、なぜ「人種差別」「帝国主義」になるのか、さっぱり解らない。
いったい、どういう人が抗議してるのだろう?
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↑ 和服の試着イベントの様子。
打掛の再現は、まずまずよくできていると思う。
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↑ モデルをスケッチする人たち。モデルの脇に抗議する人が立っている。
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↑ 抗議している人たちは容貌からアジア系の女性に見える。

エミコヤマさんという在米の日本人論客の方がTwitterで、
「簡単に説明しきれるものではないけれど、まずは『自分にはわからないけれど、アメリカにいるアジア人にとっては切実な問題なのだ』と理解してください。その上で、どうしても理解したければ「文化的盗用」あたりから自分で調べてください」
と述べている。
なぜ、アメリカ人が和服を着て、モネの「ラ・ジャポネーズ」のコスプレをすることが「文化的盗用」になるのか、さっぱりわからない。
アメリカで日本の民族衣装を着ることに、そんなに反発・批判があるのだろうか?
だったら、私もうアメリカには行けないなぁ(行く予定もないけど)。

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ボストン美術館所蔵のクロード・モネの「ラ・ジャポネーズ」は、風景画家と知られるモネとしては珍しい人物画の大作。
日本の衣装をまとったモネ夫人カミーユをモデルにした作品で、1876年春の「第2回印象派展」に出品された。

着物文化論の立場からすると、描かれた着物は典型的な花魁の打掛で、模様のほとんどは刺繍で縫い取り。
絵柄の人物の部分には厚く綿を入れて模様が浮き出させ立体感をつけている。
おそらく幕末~明治初期のもので、開国後、比較的早い時期の流出品だと思われる。
ポースも、花魁の「見栄を切る」姿に近い(反りが甘いが)。

背景の団扇を使った壁面装飾は、花街・色街では今でもよく見られるやり方。
全体として、当時(1860~70年代?)の日本の花街の習俗を再現し(モデル以外)、それを写実的に描写した作品だと思う。

この時代の花魁の打掛の実物は、国内ではほとんど遺ってなく、「日本きもの文化美術館」の収蔵品など、おそらく10点以下だと思う。
その点でも、モネの「ラ・ジャポネーズ」は貴重な資料になる。

花魁打掛(日本きもの文化美術館)).jpg
↑ 「日本きもの文化美術館」所蔵の松に鳳凰の柄の打掛。
鳳凰の首のところで花魁の頭が来る。
京・島原遊廓の太夫(最上級の花魁)が着用したもの。
江戸末期~明治初期のものと思われる。

全体として、当時(1860~70年代?)の日本の花街の習俗を再現し(モデル以外)、それを写実的に描写した作品だと思う。

【追記(15時)】
もうちょっと、考えてみた。
たしかに、植民地帝国主義の時代の欧米人がアジアの習俗を見る目は、蔑視・差別的で、文化誤解に満ちている。
日本の着物に対するイメージにも相当な誤解があるし、歌劇「マダムバタフライ」の舞台など、ちょっとその着方はひどいなぁと思うこともしばしばある。

しかし、モネの「ラ・ジャポネーズ」のようなジャポニズムの作品は、文化誤解をはらみつつも、極東の島国の、未知の、そして西欧の美的価値観とは異なる文化に接した驚きであり、芸術家的な好奇と憧憬が基本にあると思う。

だから、そのことを知っている多くの日本人は「う~んちょっと違うんだけどなぁ」と思いながらも、抗議して中止させるという行動に出る人は稀だろう。
「こうした方が本当に近くなりますよ」くらいのことは言いたくなるが。

ただ、在米のアジア系の人たちの中には、植民地帝国主義の時代のオリエンタリズムやジャポニズム作品をコスプレという形で現代に再現することに強い憤りをもつ人がいるということが、今回の「事件」でよくわかった。

着物を愛し、民族衣装としてのプライドを持っている日本人の1人として、アメリカの人たちが和装文化に触れる機会が奪われるのは、とても哀しいことだが、アメリカはそもそも民族衣装を尊重する文化に乏しい国だし、仕方がない一面もあると思う。

【追記(18時)】
いろいろ情報を集めてみたところ、どうも、オリエンタリズムに基づいて描かれた白人女性が着物を着ている絵の前で、現代の白人が着物を着るイベントを美術館が主催したことが、帝国主義的な白人による他文化の搾取(文化的盗用)を想起させ、再生産するものだ、というのが抗議している人たちの主張のようだ。
ただ、それはあくまで建前で、やはり「日本叩き」の一環なのではないか?という疑いがぬぐえない。

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ボストン美術館の和服試着イベント、「人種差別だ」と抗議され中止に―中国メディア

米紙ボストン・グローブは7日、ボストン美術館で催されていた「和服の試着イベント」が「人種差別だ」と抗議に遭い、中止になったと報じた。8日付で環球網が伝えた。

イベントは、和服を着た来場者が、印象派を代表するフランスの画家、モネの作品「ラ・ジャポネーズ」の前で写真を撮ることができるというもの。和服の細やかな刺繍や生地の感触に触れてもらい、来場者との「相互体験」を図るという趣旨だったが、美術館側は7日に声明を出し、「一部来場者の気分を害してしまった」と謝罪した。

「人種差別」「帝国主義」などと書かれたプラカードを掲げた市民らが同美術館内で抗議した。そのため、現在は毎週水曜日の晩に和服を展示するのみで、試着はできないようになっている。イベントは同美術館の巡回展「ルッキング・イースト(Looking East)」の一環で、試着用に用意された和服は日本での開催の際に、NHKが作品の和服をイメージして作ったものだという。
(編集翻訳 小豆沢紀子)
「FOCUS-ASIA.COM」2015年 7月9日(木)17時32分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150709-00000037-xinhua-cn

「和装のモダンガールはいなかったのか? ―モダン・ファッションとしての銘仙―」のPP資料とレジュメが完成 [着物]

7月5日(日)
来週土曜日(11日)、京都女子大学で開催される「デザイン史学研究会第13回シンポジウム :スーツと着物―日本のモダン・ファッション再考」での報告 「和装のモダンガールはいなかったのか? ―モダン・ファッションとしての銘仙―」のパワーポイント資料とレジュメが完成。

パワポのスライドは52枚、レジュメは画像をたくさん入れてA4版6枚。

報告時間は30分なので、スライド1枚30秒ペースで話さないといけない。
まあ、得意の「その場しのぎ」でなんとかなるだろう。
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(まとめ) ーふたたび問う「和装のモダンガールはいなかったのか」ー
・モダンガールと同じ時期に、銘仙を着た娘たちがいた。
・銘仙は、明治期までの着物とは、デザイン的にも、販売戦略的にもまったく異なる「モダン着物」(化学染料+力織機+新柄+流行演出)だった。
・人数的には、「モダンガール」より銘仙を着た「モダン着物娘」の方が圧倒的多数だった。
・化学染料、力織機を用いた大量生産によるコストダウン、流行の演出による大量販売という方式は、現代のファッション販売戦略の先駆けであり、源流である。
・「モダン着物(銘仙)」と 「モダン着物娘」の存在を無視して日本近代デザイン史・ファッション史を語るのはまったくの誤り。

「和装のモダンガールはいなかったのか? ―モダン・ファッションとしての銘仙―」のパワーポイント資料を作る [着物]

7月3日(金)

来週土曜日(11日)、京都女子大学で開催される「デザイン史学研究会第13回シンポジウム :スーツと着物―日本のモダン・ファッション再考」での報告 「和装のモダンガールはいなかったのか? ―モダン・ファッションとしての銘仙―」のパワーポイント資料を作る。

夜中、頑張って、なんとか形になったが、スライドが多すぎる。
持ち時間はが30分しかないのに47枚・・・。

簡単に結論を言うと、画像のような色柄の着物を着てる人って、江戸時代にはもちろん、明治時代にも絶対にいない。
110610 (2).jpg銘仙41-5(復刻足利・松葉・061103)  (2).jpg
この手の「モダン着物」(化学染料+力織機+モダンデザイン)を着た人が現れるのは、1920年代以降。
1920~1930年代、「モダンガール」が出現した時代には「モダン着物娘」がたくさんいた。
しかも、人数的には「モダン着物娘」の方がずっと多い。

その革新性・画期性・近代性を無視して、伝統的な着物と同じ物と見なして、日本近代デザイン史・ファッション史を語るのは大間違いということ。

日本近代ファッション史の理解 [着物]

6月15日(月)

今日は、美容院(カラーリング)に行く予定だったが、体調がイマイチなので、家でぼつぼつ仕事。

7月11日(京都女子大)のデザイン史学研究会第13回シンポジウム 「スーツと着物―日本のモダン・ファッション再考」の報告「 和装のモダンガールはいなかったのか? ―モダン・ファッションとしての銘仙―」に取り掛かる。

まず、日本近代ファッション史の理解について。
和装、洋装の2つの流れが併存してきたのが実際であることは、誰でもわかることだと思う。
比較的早くに和装から洋装への転換が進んだ男性に対し、女性の洋装化の進度は緩やかだった。
女性の日常生活着が(高齢者を除いて)ほぼ洋装メインになったのは、東京においては、高度経済成長期の1960年代半ばと考えていい。
逆に言えば、それまでは和装の流れがずっと続いていたし、現在でも、かなり細い流れになったが続いている。

なのに、日本近代ファッション史では、しばしば、和装と洋装の流れが接続され、和装が洋装にとって代わられたイメージが語られる。
そして、和装から洋装への転換の画期として1920年代の「モダンガール」の出現が語られる。
もっと極端な場合、1880年代の「鹿鳴館」の洋装から日本近代ファッション史が語られるパターンもある。
日本近代ファッション史が洋装化の歴史として語られ、その結果、洋装化以降の和装の歴史(近代和装史)が抹殺されてしまう。

ところが、1925年(大正15)の銀座における調査では、女性の衣服は、和装99%に対して洋装はわずか1%だった(今和次郎『考現学入門』)。
時代が下るにつれて洋装が増加したと思うが、それでも1920~30年代の東京の女性ファッションは、圧倒的に和装主流だった。

女性の和装を細かく見ると、銘仙55.5%、木綿16%、お召12%…で、絹織物(銘仙+お召+錦紗)の比率は68.5%となる。
この時代が、銘仙を中心とする大衆絹織物の全盛期であったことが、数字的にもはっきり出ている。

まず、前提としてこの話をして、その後に、銘仙のモダン・ファッション的性格を語ることになる。
問題は、与えられた時間が30分しかないということ。
どの画像を見せたら、効果的なプレゼンになるか、材料が多すぎて悩む。
やっぱり、こんなところかな・・・。
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銘仙26-5(2).jpg銘仙6-6.jpg

5月5日(火・祝)「わーと日本橋」へ [着物]

5月5日(火・祝)  晴れ  東京  22.4度  湿度32%(15時)

今日は、野猫さんのお供で「三井ホール」で開催中(10日まで)の和のアート展「わーと日本橋」へ。 
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↑ マスコットガールの「ふじ子」ちゃん
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↑ 入口の竹を加工した照明。なかなか幻想的。
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↑ 私は山路に咲く鈴蘭を織り出した足利銘仙(きものACT)

会場には200体の着物コーディネート作品が並ぶ。
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↑ 「あっ、いいなぁ」と思うと、アンティーク。
  黒地に紅百合と紫陽花の柄の小振袖。

10年前に比べると、昨今の「和ブーム」で着物を取り巻く状況は少し良くなっているのは感じる。
皆さん、頑張っているのはよくわかるのだが、いま一つ、突き抜けていない感じがする。

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↑  現代物で「なかなか素敵」と思った「京都丸紅」さんの作品群。
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↑  (5枚目)おや、1体だけ首がある作品が・・・。

(続く)

銘仙の技術革新「解し織り」技法の説明 [着物]

3月6日(金)
明治後期に発明され銘仙の織製技術を大きく革新した「解し織り」技法の説明する。
「解し織り」技法については、明治40年頃フランスから群馬県の伊勢崎に伝わったとする説があるが、1908年(明治41)に秩父の坂本宗太郎が「解捺染」の特許を取得している。
(製品以外の画像は「秩父銘仙館」で撮影)

【工程1】仮織り
整経機で整えた経糸を、加藤式仮織機にかけて、荒く仮緯糸を通して固定する。
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仮緯糸で固定された経糸。
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図にすると、こんな感じ。
部分的に仮緯糸を密にして止め糸にする。
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【工程2】捺染
仮緯糸で固定した経糸の上に、型紙入れた型枠を乗せて捺染する。
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色ごとに型紙を代えるので、5色使う場合は最低でも型紙5枚を使う。
その際、型紙の位置がずれないように注意する(対角線に2カ所「当たり(位置決めの印)」がある。

【工程3】解し織り
捺染した後、乾燥した経糸を、本織の織機にかける。
P1190980 (2).jpg
織手は、仮緯糸を解しながら、本緯糸を通していく。
あまり早く解すと模様がずれやすい。
解しが遅れると、仮緯糸が邪魔になり、本緯糸が通らなくなる。
綜絖(そうこう=緯 糸を通す杼道をつくるために経糸を運動させる器具)の向こう側「手が届く範囲に来たら解す」とのこと。
解した仮緯糸は、織機の下にあるゴミ箱に入れる。
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↑ 本織の半自動織機。昭和初期までの主力。
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↑ 織り上がり。本緯糸(ここでは白糸)が入った部分は文様が白っぽく見える。

【解し織りの製品】
アールヌーボー風1.jpg模様銘仙.jpg
こうした複雑な模様が、ほとんどずれなく(少しはずれるが)織り上げることができる。